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神華  作者: 栖坂月
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暴露編 02

 殿下の朝は早い。

 着替えて部屋を出る時に指紋と静脈の認証で連続認証を通し、公務が始まる。公開動画の録画が始まるのもここからだ。実際にはここから朝食やら何やらと、仕事を始めるまでにはしばらくの猶予があるのだが、元々会社のような厳密な勤務時間のない役職である。公務と一言に言っても明確に区分するのは難しい。

 極端な話、殿下が起きて動いている時は、ほぼ全てが皇太子としての活動だ。

 しかしそれではプライベートな時間が持てないし、皇太子とはいえ一人の人間である。隠しておきたい私事もある。そこで私室にいる時間帯、つまり部屋に戻ってから翌朝認証を通して部屋を出るまでの間は録画されない仕様になっている。それでも、一日の三分の二は公開されていることになる。

 まさしくガラス張りの人生だ。

「殿下、おはようございます!」

 イツカが部屋から出るなり駆け寄って挨拶したのはたんぽぽだった。

「お、おう、おはよ」

 いきなり不意をつかれたこともあって半歩身を引いた殿下であったが、ここ数日のどことなく元気のない様子から打って変わった明るい挨拶に自然と笑顔になる。

「朝から元気だな」

「はいっ」

 そのまま二人並んで食堂へと至る。

 イツカの日課は、ほぼ固まってきた。部屋を出たらまずは朝食だ。メニューはトーストを中心とした洋食系で、献立はシオンが決めている。イツカは今のところ、その内容に意見したことはない。高月家でも朝食はトーストだったし、それ以前に大きなこだわりもなかったからだ。

 ただし、目玉焼きには醤油、これは外せない。

「殿下は目玉焼きにはお醤油でしたよね?」

「あ、うん、ありがと」

 両手で丁寧に持っている醤油差を受け取ろうと右手を伸ばすが、たんぽぽが渡してくれる気配はない。

「たんぽぽ?」

「私がおかけします」

「え? あー、うん、じゃあ頼むよ」

 朝一番から殿下のお役に立ててご満悦のたんぽぽは、意気揚々と醤油差を傾け――かけて止まった。

 どのくらいかけるべきなのか、わからないのだ。

 熟練者と初心者の認識に最も大きな齟齬を生じるのは『適量』である。経験を積めば簡単にわかるものが、まるで異星人の口パクだけで翻訳しろと言われているような気分になる。今の彼女は、ヒタヒタになるレベルから一滴まで、とんでもない量の選択肢が頭の中をかけめぐっている。

 しかし、そこは高性能。約二秒で自分なりの答えを見つけると、即座に実行に移した。

 だばぁー。

 目玉焼きは黒くなった。

「どうぞ!」

「ありが……とう」

 一瞬笑顔が引きつったものの、イツカは何とか堪えた。

 醤油は多めにかけるべし、彼女は一つ賢くなった。

 食事が終わると今度はトイレだ。トイレ自体は各々の自室にも設置されているものの、イツカはいつも食堂から最も近いトイレに篭る。ここは広くてゆったりしているのだ。今日一日のことを考えながらゆっくりと用を足す、それが一日のリズムを刻むのである。

 ちなみに当然の話ではあるが、トイレに監視カメラはない。以前は防犯の観点から設置された時代もあったが、そのカメラ映像がネット上に流出する事件が起きて以降は撤去されるようになったのだ。サイバーポリスとクラッカーのいたちごっこが終わらないのは現在に至っても変わることはなく、ネットワークに存在する情報は物理的に遮断されない限りはどこかの誰かが見ていると思うべきというのが常識だった。

 ただ、それだと一つだけ困ったことがある。

 連続認証が途切れることだ。

 一度途切れた連続認証が自動的に復帰することはない。必ず任意の個人認証を通す必要がある。そのためトイレの洗面台や浴室の脱衣所には簡素な網膜認証や顔認証の装置が設置されていることが多い。この上川離宮でも、同様の仕様が採用されていた。

 つまり、風呂やトイレに篭っている間は国民の目を気にする必要がないということだ。

 そして例の皇太子ミサイル事件然り、こういう時ほど珍しいことが起きるものらしい。

 ノックされたのである。

「えっと、入ってますよー」

 この上川離宮にいる人間は四人だけ。公共のトイレは男女に分かれているので、彼以外に男性用トイレを使用する可能性があるのは響士郎しかいない。しかし響士郎が、ワザワザこの時間にこのトイレを使用することはまず考えられない。

「ひょっとして何か用か?」

 もしかしたら響士郎が緊急の要件でも持ってきたのかと思い、そう聞いてみる。

「いえ、用というほどのことはないのですが」

「その声、たんぽぽか?」

 ノヴァータはもちろん用など足さない。

「紙は足りていますか? 何か不都合はありますでしょうか?」

「いや、紙もあるし不都合はないけど」

 いきなり何でこんなことを言い出すんだろうと不思議に思いながらも、イツカは正直に答える。

「何でしたらお尻をお拭きしましょうか?」

「いやいいですっ!」

 イツカはこの瞬間から、何かがおかしいと思い始めた。


 お昼は蕎麦だった。七味がたっぷりサービスされていた。

 食後の散歩は常にストーカーされていた。

 午後のティータイムには手作りのクリーチャー(後にお菓子と判明)が出てきた。ちなみにお約束とばかりに一度お茶をぶちまけている。

 夕食の唐揚げにレモンがたっぷりかかっていた。

 夜食と称して鉛の塊が出てきた。おにぎりだった。

 風呂に入ったら背中を流しに入ってきた。手には亀の子タワシを持っていた。

 そして現在、一通りの公務も終わったイツカの自室に、二人の男と二人のノヴァータが頭を寄せている。

「まぁ、とりあえず事情はわかったよ」

 たんぽぽから犯行動機を聞いたイツカは、少しだけ安堵したように肩を落とした。

「誠に、申し訳、ありません」

 シオンが改めて丁寧に頭を下げる。

「別にシオンのせいじゃないだろ。というか、悪いことをしたワケじゃないし」

「そうです。そうなんです!」

 たんぽぽが上目遣いに一同を見ながら身の潔白を主張する。

 ちなみに彼女は正座をさせられている。自然に正座ができるノヴァータというのは実は珍しい。普通のノヴァータ、例えばシオンであるなら、膝の関節を一時的に外すような格好で座ることは可能だが、それは正座ではなく足を折り畳んで正座のように見せているだけだ。

 しかし今の彼女からは、高性能の香りが全く漂ってこない。

「とりあえず、嫌がらせではないと判明して良かったですね、殿下」

「うん、まぁ……いや別に嫌がらせだって思ってたワケじゃなくてだな」

 響士郎の弁に慌てて弁解するイツカの様子に、一同が和む。

「ともかく良かったじゃないですか。夢が一つ叶いましたね」

「夢って、何の話だ?」

「女性にストーキングされるのが夢だったのでは?」

「いつそんなこと言ったよ!」

「恨みを持ってつけ狙うのと、好意を持ってつけ回すのとでは、全く意味が違いますからね」

「話聞けよ、おい!」

 今が公務の時間でなく、ここが執務室でなかったことを、イツカは神に感謝した。現状ですら心外な二つ名を貰って辟易しているのだ。この上こんなところが公開されたりしたら、どんな風に呼ばれるのかわかったものではない。

 そもそも、今日のこれらが嫌がらせではなく彼に対する好意や責務からの行動であることくらいは、さすがに気付いていた。昼間は我慢したのも、公務時間中に追求してたんぽぽが悪く見られることを避けようとしたからである。

「とにかく、たんぽぽ」

 シオンが教育係として口を開く。

「はい」

「貴方が、すべきことは、無闇に、殿下を、補佐することでは、ありません」

「でも――」

「貴方は、私を、どう思いますか?」

 この質問はたんぽぽにとって意外なものだったのだろう。彼女はしばし考えてから、首を大きく傾けた。

「……えーと、偉大な先輩?」

「偉大では、ありませんが、今の私は、貴方ほど、失敗することは、ありません」

「私ほどっていうか、シオンさんが失敗したところなんて見たことありません」

 たんぽぽから見るシオンはいつだって優雅で、丁寧な仕事と行き届いた気配りを完遂するメイド型ノヴァータの鏡だった。見よう見真似でそれを模倣することは、性能から考えれば可能だが、できるというだけでは意味がないのだ。今現在、それを毎日実際にこなしているシオンと、それができずに右往左往しているたんぽぽの間には、性能差では埋まらない大きな溝が口を開けている。

 その事実を今日、イツカのためと思いつつ色々と頑張ってみて、たんぽぽは改めて実感した。今の彼女では、まだ役には立てそうもない。人間の行動に合わせて何かをするというのは、想定していた以上に多くの可能性の考察と、実務的な経験が必要になるものだ。

「私だって、今でも、失敗はします。でも、何より、必要なのは、できないことを、しないことです」

「できないことを、しない?」

「自分に、できることを、見極めなさい。貴方は、きっと、私より、たくさんのことが、できる、ハズです」

 陶器のようなシオンの表情に相変わらず大きな変化はない。

 しかしイツカには、彼女がより人に近いたんぽぽを、あるいは人そのものを羨んでいるように見えた。

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