学生編 03
「お疲れ様」
副会長が生徒会室のドアを開けた瞬間、労いの言葉が飛んでくる。
企業ではタッチパネル式の自動ドアが当然となりつつある現状でも、学校のドアは手で開けるのがこの国の風習だ。ガラガラというレトロな音が、空調とカメラ設備の整った建造物にはいささか不釣合いだが、それこそが学校というイメージを形作っている。
「あぁ、うん。そっちはもう終わってたのか」
「みんな頑張ってくれたからね」
窓際に座って外を眺める彼――宮口高校生徒会長はそう言って少しだけ笑った。あまり感情を表に出さない彼が明確な笑顔を見せるだけでも余程のことだ。レアアイテムくらいの価値はある。
「嬉しそうだな、響士郎」
「そう見えるか?」
「あぁ、見える」
副会長は楽しそうに笑いながら、自分をこの生徒会に引き込んだ幼馴染み――岡山響士郎にそう告げる。この有能な友人は彼にとって唯一と言っても差し支えない自慢だった。彼の有しているささやかな長所など、岡山響士郎の友人というたった一つのステータスの前には霞むだろう。
成績優秀、品行方正、スポーツ万能、多少感情表現に乏しいところはあるが、それがかえって甘いマスクを際立たせているという印象もある。そんな完璧超人が、お向かいさんに住んでいるというだけで友人になっているのだ。副会長としては実に美味しい偶然である。
ただ最近は、絶好の比較物として彼が存在してしまっていることに少々の苦悩は抱えている。美味しい果実ばかり食べていれば苦い薬も必要になる。それもまた自明の理であろう。
「まぁ、有終の美は飾れたかな。それは良かったよ」
「有終の美って、大袈裟だな」
後片付けもほぼ終わり、文化祭は終了の時を迎えている。生徒会の仕事も山場を越えて、後は引き継ぎを待つのみといったところだ。そういう意味では、響士郎の言葉もまんざら大袈裟なものではない。
だが、学生生活がまだ半年近く残っていることも事実なワケで、何もこの文化祭で全てが終わるのではないだろうと、副会長が思うのも無理のない話ではある。
「そういえば、聞いたよ」
「聞いたって何を?」
「家庭科部と剣道部から、生徒会に感謝の言葉が届いている」
「あぁ、そのことか」
副会長は照れたような顔で後ろ頭を掻きながら、近くの椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「行列をもてあます家庭科部と、どうにかして客を獲得したい剣道部、結構揉めてたらしいじゃないか。どうやって解決したんだい?」
「ここで話せと?」
「ぜひ聞きたいね」
重ねて記すが、響士郎は極めて優秀な人物である。この出来事を既に知っている時点で、その詳細も把握しているのは間違いなかった。そういう男なのだ。
しかしそれを直接話せと言う。サドである。
「まぁいいけどさ。大したことはしてないぞ」
こうなった響士郎は聞き出すまで諦めてくれない。古い付き合いから学んだ習性である。
「簡単な話だよ。剣道部の展示教室に行列を引き込んだんだ。社会科教室の外側をこう、コの字を描くようにさ。幸い、剣道部の展示は壁に沿ってのものだったから、大きく動かすことなく引き入れられたんだよ。順路的には逆だったから、順番は少しだけ動かしたけどね」
「剣道部としては万々歳だな。本来なら訪れるハズのない人数が自動的に入ってくれるんだから。家庭科部としてのメリットは?」
「メリットって言われても困るけど、行列の管理は剣道部の人達にやってもらったんだ。だから、そっちに人を割かなくても良くなったとは思う」
対策を終えてすぐに別のトラブルに呼ばれた副会長は、この事態の顛末を見てはいない。ただ、焼きたてパン屋の評判が良いということだけは、風の噂に聞いていた程度だ。
「家庭科部からの言葉を聞く限り、剣道部の展示は良い退屈しのぎになったそうだよ。良好なアイデアだと、わざわざ誉めてくれるお客さんもいたそうだ」
「へぇ、それは良かった」
「これは君の功績だな」
「そんなことないだろ。剣道部の展示が面白かったのは彼らの功績だ。その言葉、剣道部にも伝わるといいな」
「そうだな。そうしよう」
響士郎は嬉しそうに目を細める。まるで大事に育ててきたアサガオが綺麗な花を咲かせたかのような、そんな顔だ。
この顛末自体は非凡なものではない。聞いてみれば当たり前のことをしたに過ぎない。互いにとってより良い結論を模索すれば、自然にこの結論に誰もが達していただろう。だが、この結論に誰もが到達できていたとは、少なくとも響士郎は思わない。
「あぁそうだ」
ふと思い出したように、響士郎は副会長に向き直る。
「イツカ、明日はちゃんと一日空けてあるな?」
「あぁ、うん。大丈夫だ」
日曜日に行われる文化祭の翌日が休校になるのは地球時代からのお約束である。そしてその日、14月4日は副会長――高月イツカの誕生日でもあった。
「明日は朝から迎えに行くから、準備しておけよ」
「この歳で誕生日ってのもなぁ。盛大に祝ってくれるのは嬉しくないワケじゃないけど、ワザワザ朝から出かけるって、さすがに大袈裟すぎなんじゃないか?」
ショートケーキの一つでもあれば満足と思っていたイツカとしては、気恥ずかしさの方が先に立つ。
「何を言うか。これで晴れて15歳になる。特別な日だ」
「まぁ、エロコンテンツは公式に見られるようになるか」
「そんな余裕があればいいけどな」
「どういう意味だ?」
小首を傾げるイツカを見て、響士郎が小さく笑う。こんなに楽しそうな幼馴染みを見るのは久しぶりだった。それだけに文化祭の成功が嬉しいのだろうと、イツカには思える。
「さてと、今日はこれからどうするんだ? 後祭イベントを企画している部活も少なくないし、軽く打ち上げでもするか?」
「あぁ、それなんだけど――」
言いかけたイツカの言葉が小うるさいメールの着信音に遮られる。何度変更しても元に戻される妹からのアラームだ。
「うるさいなぁ。響士郎、ちょっとメール見るから待ってて」
眉根を寄せつつ右手を持ち上げ、人差し指で顔の前の空中をトントンと二回叩く。するとそこに横長のホワイトボードが瞬時に表示され、メールの着信を示すアイコンが跳ねていた。そのアイコンをまばたきでクリックして内容を表示させる。
「リンちゃん、何だって?」
「あぁ、えっと……早く帰ってこいっていう催促だ。何か、パーティの準備してるらしい。お前といいアイツといい、何だって今年はこんなに張り切っているんだ?」
「だから言っているだろ。特別なんだよ」
「ふーん、そんなもんかね。というか、よく妹からだってわかったな?」
「イツカが悪態つきながらメールを開く相手に、他に心当たりがなかったからね」
「なるほど」
言われてみると確かにそうだと、イツカは大きく頷いた。
「で、今日はどうする?」
「悪いけど帰るよ。昼間は結局相手できなかったし、あんまり怒らせると後が怖いからな」
「そうか」
口では何だかんだ言いつつも、イツカが家族思いであることを響士郎は知っている。
「響士郎はどうする? 一緒に帰るか?」
「いや、ちょっと後際イベントを回ってみるよ。まぁ大した問題は起こらないと思うけどな」
「そっか。悪いな、後片付けを押し付けるみたいで」
「気にするな。家族サービス、ちゃんとしてやれよ」
「いや、サービスされる側なんだけど」
「ほら、帰った帰った」
まるで追い出すように、イツカの背中を押す。苦笑いを浮かべながら手を挙げる幼馴染みの笑顔は、強引に座らせた副会長の椅子には柔らかすぎるように見えた。
響士郎は一人残された生徒会室の窓際に戻ると、沈み行く赤い輝きに身を委ねながら校庭を駆ける人影を目で追う。その瞳は、まるで縁日の帰り際のような、どこか淋しげな光を宿しているようにも見えた。
「今日で終わり、明日が始まり」
小さな呟きは、赤く染まる生徒会室の片隅に解けて落ちた。