初公務編 08
公布からの一ヶ月は、ただただ慌しかった。
来客と雑務に追われ、自分のプライベートな時間を持つなど以ての外で、朝に立てた公務のスケジュールが昼には大幅な変更を余儀なくされることも珍しくはなかった。そのせいか、イツカは最近生きている気すらしない。
皇太子として生かされている、そんな印象だ。
他人のために何かをすることを苦痛に思っていない彼でも、さすがにそんな毎日が続けばへこたれもする。
「旅に出たい」
執務室のデスクにかじりついて、ペンペンと判子をついていたイツカが、突然手を止めたかと思えばそんなことを口にした。
ほんの一ヶ月前までは、判子一つ押すのにも神経を使って疲弊していた彼も、さすがに一ヶ月も経つと要領を掴んで仕事をこなすようになってきていた。そしてもちろん、その事実は業務に差し障りのない余計なおしゃべりを誘発することになる。
「なぁ響士郎、旅に出たい」
「無理です」
叩き落した。
「わかった。小旅行でもいい。日帰りでも我慢する」
「つい二週間ほど前に加冠の儀で皇居に行ったばかりじゃないですか」
「皇居とか庭だろ。もっとこう外出的な何かがいい」
「その一週間くらい前には国会議事堂にも行ってます」
「そういう社会科見学的なことじゃなくてさ、もっとこう……癒しとかリフレッシュとか、そういうのがいいんだよっ。というか、三週間も前の外出で満足できるか!」
「旅行というのは、たまにするからこそ価値があると思いますが。毎日誕生日をしていたらありがたみが薄れるばかりか早く歳を取りますよ」
そりゃそうだ。
「話がちげーよ。いいか響士郎、人間ってのは起きて食べて動いて寝るものなんだ。ちゃんと動いて生活しなきゃ、いずれ病気になるものなんだ」
「殿下、世の中には外に出たくても出られない方々や、自ら率先して自宅に篭る方々もたくさん存在するのです。ほんの二週間ばかり自宅の敷地から一歩も外へ出ていないからといって、大袈裟なことを言わないでください。自宅警備員の方々に申し訳ないとは思わないんですか。ホラ、みんな見てますよ?」
時刻は午前十時、真っ当な社会人であれば働いている時間帯である。かつての資本家賛美の社会構造に比べれば幾分は労働者にとって優しくなったとはいえ、この神華も日本と同様に労働を美徳とする風潮が強い。ニートへの風当たりが強いのは今も昔も変わりはなかった。
なので、社会から抑圧されている、と思っている方々が主に見ている動画のコメント欄は、自動的に荒れることになるのだが、それを彼らが知る由はない。
「好きで出ないのと出たいけど出れないのとは違うだろ。俺は出たいの。この部屋から、離宮から離れて自由を満喫したいの」
「庭の散歩で我慢してください。あれほど広い庭、普通のご家庭では絶対に満喫できませんよ?」
「さすがに飽きたよ。まぁ、いい庭だとは思うけどさ」
溜め息が重い。
イツカは元々それほどアクティブな趣味の持ち主というワケではない。室内での娯楽も相応に楽しんでいるし、アウトドアでしか楽しめないような趣味を後生大事に抱えてもいない。それでも、この閉塞感に耐えられないほどにはストレスが溜まっているのは間違いなかった。
つまるところ、今の彼にとって必要なのは自由や解放ではなく、変化なのだ。
「では、休み時間を使って買い物にでもでかけたらいかがですか?」
「昼休みに? 出かけるだけの時間があるかな?」
一時間では、食事を含めると余裕がない。この上川離宮から出るだけでも5分くらいは必要なのだ。行き帰りを考慮に入れると、のんびりしていられる時間はないに等しい。最寄のコンビニで夜食を見繕う程度が限度だろう。
「仕事を片付けていただければ、十分単位で公務の時間をずらしていただいても構いませんよ。一般的な就業と違い、殿下の公務は時間に縛られているワケではありません。キチンと終わらせていただければ、それで結構です」
まだまだ未熟な点が多く、とても簡単に片付くレベルとは言えないものの、始めたばかりの頃に比べれば格段に効率は上がっている。少なくとも、その日の内に片付けなければならない案件くらいは、何とかこなせるようになっていた。
響士郎とて、別にイツカを縛り付けて喜んでいるワケではないのだ。
「そっか、それなら少しくらいのんびり……いや、買い物はやっぱ無理か」
「どうしてです? 買いたい物がないとか?」
「いや、なくはないけど、先立つものがない」
つまり金がない。
現在の皇太子の持ち金、実に3520円。
今のご時勢では、お菓子とジュースを買ったらおしまいという額である。
「あぁ、それなら――」
「お待ちかねのお給料ですよー!」
精佳の間のドアが勢い良く開かれ、ジャーラのいつにも増して元気な声に響士郎の言葉が遮られる。
「給料だとっ?」
判子を放り出してイツカは立ち上がった。
「給料というのは正しい表現ではありませんけどね。殿下は雇われているワケではありませんので」
響士郎が冷めた口調で釘を刺す。
「そんな細かいことはいいっ。金だな。金が貰えるんだな。そうなんだなっ!」
「殿下、怖い」
ジャーラも怯える豹変ぶりである。
「ごめん。ちょっと興奮した。ところで、幾ら貰えるんだ?」
「えっと、言っていいの?」
「何を躊躇う必要があるんだっ」
「何をって……」
言い淀みつつチラリとカメラへ視線を飛ばしてから、ジャーラは許可を窺うように響士郎へと顔を向ける。
「本人が良いと言っているのですから構わないのでは?」
「そっか。ならいいか」
「はよ、はよ教えてくれ」
「えっとね、10万と300円だったかな」
「10万! マジか!」
「あー、うん、色々と経費がかかって最初はこんな額に――」
「よっしゃ、こいつぁ嬉しいぜ!」
皇太子の所持金、10万飛んで3820円。
一気に増えて大歓喜のイツカである。
一方、喜んでいる彼を見る二人の表情は、いささか微妙なものである。自分の掘った落とし穴に今にも落ちそうなんだけど教えてあげた方がいいかなー、という顔だ。
ちなみに新卒の初任給は平均して200万程度が相場である。これでも、一時期の好況期に比べれば下がった方だ。
「えっと、殿下は初めてのお給料で何か買うの?」
「宅配ピザが食べたい」
ジャーラの微妙に逸らされた話題に、イツカは速攻で返す。迷いはない。
「殿下、買い物に行くのでは?」
「いや、いいんだ。あの日から、今度金が入ったら絶対に『フライトピザ』を食べるんだって決めてたから」
「あの日というのは、ひょっとして?」
「国会議事堂に行った、あの日だよ。議事堂にも届けてくれるんだから、ここにも届けてくれるんだよな?」
「いえ、離宮の敷地内は飛行禁止区域ですので、門の外で受け取ることになります」
「やっぱりかー。まぁいいや。とにかく食べる。ピザ食べる!」
一人盛り上がる皇太子に、響士郎は小さな溜め息を吐いた。
「どういうこと?」
事情が飲み込めないジャーラが、響士郎に顔を向けて小首を傾げる。
「あぁ、議事堂に挨拶に出向いた帰りに、議事堂から飛び立つフライトピザのホバーを見かけましてね。それがよほど印象的だったのだと思います。まぁ、議事堂内には食堂もありますから、宅配ピザのイメージはありませんからね」
宅配ピザという文化も地球から継承されたものの一つだが、その形は大きく変わってはいない。フライトピザは比較的新しく参入した企業で、小型ホバーによる空輸サービスを売りにしている。迅速かつ広範囲を網羅するというメリットがある一方、飛行許可やパイロットの維持など、難しい問題を抱えている企業でもあった。
現在、主に広告塔やパトロールとして無人のホバーが街中を浮遊することは珍しくはなかったが、宅配や輸送は陸輸が標準である。そういう点において『フライトピザ』は、それなりに先鋭的な企業でもあると言える。
「響士郎、ピザの注文は僕がするからな!」
妙に浮かれるイツカを見ながら、変化の必要性をヒシヒシと感じる二人であった。