初公務編 04
新鮮な驚きと慣れない公務に疲弊して迎える朝は、いつにも増して重く感じられる。イツカは大きく伸びをして強引に目を覚ますと、執務室の窓から朝靄に包まれた上川離宮の庭を眺める。
ホッと息を吐く間もなく、背後でドアが開いて足音が入ってきた。
「おはようございます、殿下」
「おはよう、響士郎。ジャーラはともかく、珍しく志麻華の姿が見えないけど?」
「二人は別件で既に出かけています。彼女達にも彼女達なりの役割があるのです。殿下が無二の存在であるように」
「ふーん、ここでお客さんの相手をしたり書類整理をするだけじゃないんだな」
「当然です。殿下にも午後から出かけていただきますから、そのつもりでいてください」
「外出とか、何だか久しぶりな気がするな」
私用の買い物ですらシオンなどノヴァータに頼んでいる彼にとって、周囲の景色が変わること自体が久方ぶりのようにも感じられる。
「浮かれるのも結構ですが、仮にも一国を代表する皇太子なのです。身だしなみには気を使っていただきますよ」
「え、この格好じゃまずい?」
一応スーツを身に纏っている彼にとっては、これでも十分に堅苦しいつもりではある。本来であれば高校生の彼はまだ、スーツを着ているというよりも着られているように見えた。
「スーツはそのままで構いません。ですが、せめて髪にブラシを入れて歯磨きくらいはしていただきます」
「お前はお母さんかっ」
「正直、私事にまで口を挟みたくはないというのが本音ですが」
つまり、言われる前に自分でやれということだ。
「へいへい、気をつけますよ」
「特に殿下の場合は『いつも』見られているワケですから、余計に気を配っていただいた方がよろしいかと。まぁ、あまりに取り繕いすぎてもボロが出た時にギャップが激しくなりすぎますから、疲れない程度にしていただいた方がいいでしょうが」
「……つまり、気にせず普段通りでいいと?」
「せめて寝癖は直してから部屋を出てください。そうでないと、変な二つ名がどんどん増えていくことになりかねません」
「メンドクサイが、まぁそのくらいならいいか。というか、増えるって何だよ。僕はお前と違って『氷の貴公子』とか『鉄のイケメン』なんて呼ばれたことないぞ」
「何ですか、その恥ずかしい二つ名は」
さも心外とばかりに響士郎は頭を振る。
「いいじゃないか、誉め言葉なんだから。ちなみに志麻華は『背伸び幼女』って呼ばれてたな」
「……彼女がこの場面を偶然見ていないといいのですが」
「あ、そっか。公開されてるんだっけ、これ」
私生活、すなわちイツカの自室以外での公務時間の行動は、連続認証による追跡が途切れない限り、カメラの映像もマイクの音声も補正を抜けて後に公開される。補正にかかる時間差は5分程度であり、全ての神華国民は5分前の皇太子の行動を垣間見ることが可能となっていた。
基本的な公務の内容と経過は文書なりスチルなりで今までも公開されてきたものの、こんな風に日常を晒した皇太子や国皇は存在しない。
「さすがに忘れてはいませんか。有名な掲示板サイトでは『ガラス張り皇太子』とか『露出系殿下』などと呼ばれていますよ」
「何だよ、それ。変な趣味の人みたいじゃないか」
「まぁ、言いえて妙だとは思いましたが」
新しい皇太子の公示は、いつの世でもそれなりの話題にはなる。しかし慌しい世の中の流れを堰き止めるほど、一人一人の生活に干渉できるほどの話題になるのは、そう簡単な話ではない。そういう意味において今の状態は、少々面倒な問題を抱えてはいるものの、無関心のまま流されるよりは幾分マシであろうと、少なくとも響士郎は考えていた。
「話題になるだけ、ヨシとするべきでしょう」
「そういうもんかな。でもさ……」
口にすべきかどうか少しだけ悩んでから、イツカは改めて続ける。
「支持率の上がり下がりって、どのくらい重要なことなんだ?」
「……それは、とても難しい質問ですね」
そう口にする響士郎が僅かに眉根を寄せる。
「おいおい、お前がそんな困った顔をするの、久しぶりに見たぞ」
ノヴァータ以上に無表情な響士郎の眉根が動くのは、かなり大変なことである。困った度数を仮に数値で表すとしたら、十段階で七か八といったところだ。
「既にご存知の通り、現国皇陛下の皇太子時代はかなり低迷していました。二十パーセント台というのは、国皇であれば確実に危険域です。場合によっては弾劾、罷免もあり得る数値と思っていただいて結構です」
「どのくらいあればいいもんなんだ?」
「数値だけを見るなら、三分の二の不支持、すなわち三十パーセント台前半が境界線となります。それ以下の状態が続くと弾劾の対象となり、国民投票によって国皇の交代や退位が行われることになります」
「え、じゃあ二十パーセント台ってもうアウトじゃないか」
「そうなりますね」
「でも、国皇は今、ちゃんと国皇だろ?」
「はい、理由は大きく二つあります」
姿勢を正し、響士郎は改めて口を開く。
「一つは皇太子時代には猶予期間が長い、というものです。支持率は国皇と同様に毎週更新されますが、その審査は月に一度の国皇と違い一年に一度とされています。故に挽回がしやすいということになります。また、慣例として皇太子時代には見守る傾向が強く、文句は出ても退位を迫るようなことはありません。事実、現国皇もあの数値で退位を迫られるような事態には一度も陥りませんでした。評価する側もそれがわかっていますから、辛口の採点をする傾向が強く、支持率が低めに出るというのも大きな特徴ですね」
「へぇ」
「そしてもう一つ、こちらはあまり大きな声で言うべきことではないと思うのですが、対抗馬が現国皇以上に頼りなかったというのが原因です。頼りないというより、あの演説を行ったあの方以上にやる気がなかった、という方が正しいかもしれませんが」
「あれよりやる気ないって……」
さすがに唖然とする。
彼とて、いきなり放り込まれた環境に戸惑うばかりで自分の意思が明確に固まっていたのかと問われたら疑問符が湧くところだ。それでも、例外の志麻華ほどではないにしても、周囲の期待位には応えようと思ったからこそ、公示の言葉が出たのである。
しかし逆に考えてみれば、そういったものが曖昧なまま、やる気のない人間ばかりが集って無理矢理公示を行ったりすれば、あんな悪乗りになるのだろうかと、イツカは漠然と思った。
「やめたくとも、周囲がなかなかやめさせてくれなかった、という事情もあったのかもしれません」
「うーん、あのさ――」
ふと思いついて、イツカは首を傾げながら質問を紡ぐ。
「もしもの話なんだけど、僕と志麻華、二人共が皇太子を続けられない状況になったらどうなるの?」
支持率によるものはもちろんだが、不慮の事故によって退位せざるを得ない状況というのも簡単に想像できる。彼の場合は志麻華という優秀なバックアップがいるものの、現国皇に何かがあって退位することになった時、そのバックアップの人間が志麻華のように有能であるとは限らない。というより、今の話を聞く限りにおいては、とても国民の信任を受けられる人物には思えなかった。
他に選ぶ相手がいないのなら、拒絶する権利がないのと大差はない。
「もちろん、そんなことにならないよう努力をするというのが大前提はありますが――」
硬い口調でそう前置きしてから、響士郎は口元を緩める。
「そうご心配なさらずとも結構ですよ。単に国皇が空位になるだけのことです。国皇がいなければ国が成り立たないワケではありません。最初の国皇がそうであったように、また若者の中からランダムに選ばれて国皇を担うことになります」
「え、そんなんでいいの?」
「以前にも申し上げましたが、国皇とは国民の代表です。国民の為に存在する国民ではない者、それが国皇です。極端に言えば、誰がそれを担ったところで構わないのですよ。皆の生活に支障が出ない限りは」
「うん、それは……そうかもな」
それは大切な仕事だ。しかし、決して特別な仕事ではない。
誰かの幸せのために誰かが頑張る、ただそれだけのことだ。
「ですから殿下」
響士郎は恭しく頭を垂れる。
「失敗を恐れることのなきよう」
「あぁ、うん、わかったよ」
「少しくらい失敗してくれた方が、監視動画的にも賑わって面白いので」
「絶対に失敗なんかしてやらないからなっ!」
吹き抜ける風は冷たくなってきたが、上川離宮はまだまだ穏やかだった。