初仕事編 08
まだ三週間あるさという余裕の笑みが、まだ二週間あるさという楽観の笑みへと変わってから三日、講義と公務に追われる毎日の中で、明日のことさえ満足に考えられないままに一日という時間を浪費するしかないイツカは、焦り始めていた。
「現国皇の通した法案の確認が、まだ半分も終わっていないようですが?」
精佳の間で仕事をしているのはイツカだけではない。パートナーである響士郎も、基本的にはここを拠点にしていた。イツカのことに気を配りながらも、表示したボード上に並べた幾つかの資料に目を通している。
彼の有能さはイツカばかりでなく、彼に関わった全ての人間が認めるところだ。響士郎がリーダーの座に納まり、イツカがその補佐に回る。何をするにもそれが基本的なスタイルだった。それが今、どこをどう間違ったのか、日陰に居るべきだと思っているイツカが国の矢面に立たされようとしている。
正直なところ、重すぎる荷物であるようにイツカ自身は思っていた。
「読んでも読んでも終わらないよ、これ」
イツカのスケジュールは、大きく二つに分かれている。午前中の講義と午後の公務だ。午前中の講義は相変わらず続いている。午後が公務に充てられているので時間こそ短くなってはいるが、その密度には変化がない。ただ、イツカ自身が慣れてきたこともあって、いくらかストレスは軽減しているようだ。
一方の公務は一週間前――つまり志麻華の課題を越えてから始められたもので、イツカにとっては初めての仕事らしい仕事だった。とはいえ、付け焼刃の知識だけで現行の法案や告知などにいきなり対処するのは難しい、というより無謀なので、まずは先代――すなわち現国皇がどのような仕事をしてきたのかをデータから読み取るという作業を行っている。これもまた皇太子の通るべき道の一つだ。
「ただ文字を目で追うだけでは困ります。その意味を考え、自らの判断に役立ててもらわねば意味がありません」
「一つ一つ考えてたら寝る時間もなくなるっての」
「流しても構わない案件が判断できるようになれば、寝る時間くらいは確保できるようになります」
「それが簡単にわかるなら苦労してないってば」
文句を口にしつつも、読むことからは離れようとしない。
今イツカが読んでいるのは、日に何件も持ち込まれる願いや思い、時には欲とか嫌悪に基づいた生活の道しるべが、二十年以上も積み重なったものである。内容は千差万別、取るに足らないとしか思えないような古臭い習慣を規制する法案の修正や撤廃、新しい想像から生まれた新しい犯罪に対する法律の制定、一般人の彼から見ると当たり前としか思えない規制の強化に緩和などそんなことまで決めていたのかと感心するような内容のオンパレードだ。
見る者が見れば、時勢と人々の生活から反映された当時の人々の思いが、そのデータの端々に浮かび上がってくることだろう。無論、今のイツカには単なる文字と数字の羅列にしか映らない。時折眠気を誘う魔法の呪文に見えることがある程度だ。
「このペースでは、皇室関連の式典の記録までは届かなそうですね」
「絶対無理っ。というか、こっちの記録だって公示前になんか終わらないから!」
二十年を三週間で頭に入れろというのは、種を蒔いた直後に一週間分の水をかけるようなものである。花が咲くどころか腐りそうだ。
「では、とりあえず少し休憩にしましょうか」
「何だよ、いきなり」
「前任者の仕事を見てご自分の仕事を憶えていただくことはもちろん有意義なことですが、物事には優先順位というものがございます」
何かを見透かされたような気がして、自然とイツカの表情が曇る。
「何が言いたいんだ?」
「休憩しましょうと申し上げております」
そう言いつつ響士郎が立ち上がった瞬間にドアがノックされ、応じるように開かれた先にカートを押すシオンが立っていた。
「随分と用意がいいな……」
「少し前に手配しておきましたので」
雨が降ったので傘を差しましたとでも言っているような口ぶりだが、業務外のメールを打っている素振りがなかったということはもちろん、この会話の流れをいつどの段階で読んでいたのかがイツカには全くわからない。
とはいえ、せっかく用意してくれたお茶を無碍に断る気にもなれず、陶器の僅かに触れ合う甲高い囁きを聞きながら、湯気と共に広がる紅茶の香りを楽しみに待つことにする。響士郎の手の平の上で踊らされるのは少しばかり不満だったが、イツカもディスプレイを消してティータイムを楽しむことにした。
「どうぞ」
「ありがと」
シオンの少し硬い、しかし自然な笑顔に感謝の言葉を返すと、透けるように白い白磁のティーカップを受け取る。琥珀の湖面から絹のような湯気が立ち上り、鼻腔に温もりを感じた瞬間に肩の力が抜ける。
一口啜ると、自然と溜め息が漏れた。
「それで、所信の草案は固まりましたか?」
「……お前、わかってて聞いてるだろ」
せっかくのリラックスタイムを害されて、イツカは渋い表情を幼馴染みの鉄面皮へと向けた。真剣な話も冗談も、響士郎が表情を表に出すことは極めて稀だ。そういう意味では、シオンの方が表情豊かだと思える。例えそれが作られたものであっても、感情が目に見えるだけマシというものだ。
「ひょっとして、なのですが――」
受け取った紅茶を立ったまま口にしつつ、響士郎は続ける。
「皇太子として相応しい自分を描こうとしていませんか?」
「えっと……そもそもそういうものじゃないのか? どういう皇太子、というかいずれ国皇になるのかとか、そういうことを話すべきなんだろ?」
「理想を描くのは悪いことではありません。それが高すぎる目標であったとしても、それに向かって努力をする限りは有意義なものです。ですが殿下――」
紅茶を自分の机に置き、改めて正対する。
「貴方は、いかなる時も殿下なのです」
「え?」
イツカは首を傾げる。
「賢王も愚王も王という意味ではどちらも同じものだ、ということです。殿下は『皇太子』という地位を特別なものと思っているかもしれませんが、そうではありません。それは社会的に与えられた役割の違いでしかないのです」
「えーと、もう少しわかりやすく……」
困り顔のイツカに苦笑しつつ、響士郎は続ける。
「殿下は『兄』ですよね?」
「あ、うん」
リンにとっても、実感はないが志麻華にとっても、彼は兄という立場だ。
「理想の兄になろうという心意気自体は悪いものではありません。しかしどのような兄であっても、殿下が兄という事実が変わることはないでしょう?」
「まぁ、そうだな」
「兄であるために必要なことなんて、ありますか?」
「……なるほど、何となく言いたいことはわかったよ」
兄は、弟や妹が生まれた瞬間に『成る』ものだ。皇太子という地位も、彼が生まれた時点で決まっていたことに過ぎない。
「例え仲が悪くて喧嘩をしても、どちらのケーキが大きいか小さいかで下らない言い争いをしても、兄がちょっとした興味から妹の少女マンガをこっそり読み耽って『キモい』と罵られても、兄であるという事実に変わりはないのです」
「別にいいだろ。面白かったんだよ、実際」
「仮に重度のロリコンでも、妹の下着を夜な夜な漁るシスコンの変態でも、喧嘩した際に罵られてちょっと喜ぶドMでも、等しく兄であることは間違いないのです」
「変なこと言うなっ。あ、違うよ。そんなことしてないから!」
慌ててシオンに弁解しているイツカは結構な小心者である。
「ともかく、これでおわかりいただけたでしょう」
「途中でむしろわからなくなったよ……」
「肩肘を張ることはない、ということです。国民が殿下の所信に望んでいるのは国家の理想などではありません。殿下という人間の人となりや器そのものなのです。付け焼刃のメッキなど、すぐに剥がれ落ちてしまいます。殿下に必要なのは他人の望む理想ではなく、ご自身を認めてもらうための覚悟と勇気、でしょうかね」
「覚悟と勇気、ね」
頷いて、窓へと視線を移す。
自らの実力を自負している響士郎と違い、イツカには他人に誇れるような自分自身など存在していない。いつだって心の底では、響士郎や志麻華のようになれたらと思っていた。
凡人という自覚が人一倍強い彼にとって、覚悟や勇気という言葉は決して軽くない。
「どうしても草案に目処が立たないようでしたら、国皇の皇太子時代の映像をご用意いたしますが?」
「……いや、やめとく」
少しだけ考えて、イツカは断った。
直接会った時は『あんな』だった国皇だが、彼の中での国皇は有能でソツのない人物というものだ。その真似をしたところで、彼が同等の評価を得られるとは彼自身も思っていない。
「そうですか。色々な意味で賢明な判断かと」
「色々な?」
「ともかく、あと十日ほどです。懸命に考えて導き出された殿下の答えがどのようなものでも、我々は全力で支持いたします。その点はご安心を」
「あぁ、ありがとう」
その素直な感謝の言葉に、響士郎は小さな希望の光を見たような気がした。