初仕事編 05
昼間はみっちりと講義、夕食を終えて風呂に入ったら悩みながら寝るだけ、そんな生活は時間の感覚を加速させる。気付けば志麻華の指定した期日は明日に迫っていた。そしてもちろん、イツカにはまだ回答が見えていない。
明確に正しい解答がないことは、もう知っている。
しかし、頭の中でいくらシミュレーションを走らせてみたところで、納得できるような『より良い解答』とやらを見つけることはできなかった。もはや、公開しようとしまいと大差ないんじゃないかとすら思えてくる。
ただ、そういった思考建築を何度も繰り返す内に、彼は一つの疑問にぶつかっていた。
「おーい、音差――じゃなくて志麻華いるかー?」
雑なノックをしながら志麻華の私室のドアに呼びかける。
「どうぞ。鍵は開いてるから」
「じゃあ遠慮なく」
今時珍しくも思えるドアレバーを握って九十度回し、ゆっくりと押し開くと、音もなく滑らかに室内の風景が広がっていく。妙に暗いのが気になるものの、間取りはイツカの部屋と変わらないワンルームタイプのアパート構造になっているようだ。どうにも彼の中の志麻華像はお嬢様で定着している為か、てっきり彼の質素な部屋とは比べ物にならない豪華な装飾品で溢れていると思っていたので、いささか拍子抜けである。
「こんな時間に何のご用? ひょっとして夜這い?」
「そんな気力も意志もないっての」
「この程度のスケジュールで疲弊してどうするの。公務が始まったらもっと大変になるのに」
「そうなったらそうなった時に考えるよ」
「そう」
頷く彼女は座ったベッドから一歩も動こうとはせず、壁にあると思しき大型モニターを眺めている。指向性スピーカーにしても全く音が聞こえないことを疑問に思いながら少し回りこんでみると、そこには満天の星空が表示されていた。
「へぇ、こりゃ凄い」
その鮮やかな光の帯がどこの銀河を拡大したものなのかはわからなかったが、それでも感嘆の溜め息を漏らすには十分な迫力だった。
「なるほど、妙に暗いと思ったら星を見ていたからか」
「この時間は大体ね。日課みたいなものかも」
「そうなのか。てっきり大きな天体望遠鏡持ち込んでるんだろうって思ってたよ。この辺りはあまり周囲も明るくないし、星を見るにはいいんじゃないか?」
「どうかな。都心のビル郡の明かりは馬鹿にならないし、持てるくらいの光学望遠鏡だと厳しいかもね」
「ちなみにコレはどこからの映像なんだ? どっかの観測所とかか?」
「いいえ、都心にあるウチの――音差の持ちビルの屋上に設置したモノからの映像よ。かなり補正がかかってるから、リアルな映像とは言えないけどね。でも綺麗でしょ?」
「そうだな。確かに綺麗だ。熱中するのもわかる」
イツカの素直な感想に志麻華は微かな笑みを一瞬だけ浮かべ、それを隠すように表情を改めた。
「で、何しに来たの? 夜這いじゃないのは信じるとして、星を見に来たワケでもないんでしょう?」
「あぁ、うん、ちょっと話そうと思ってさ」
「それはひょっとして、明日の正解を探りに来たってこと?」
志麻華の視線が僅かに冷気を纏い、アイスピックのように飛んでくる。
「違うよ。正解があるなら、是非とも教えて欲しいところだけどね」
アイスピックをヒラリと避けて、イツカは笑顔で言い放つ。その様子を見て、志麻華も表情を和らげた。
「じゃあ、何が聞きたいの?」
「考えていてさ、思ったんだよ。公開するかしないかなんて、結局のところ倫理観と覚悟の在り方によって結論なんて幾らでも作れるんだってさ」
「そうね」
「でも、公開を求めるってことは、志麻華の中ではもうそっちの方が良いと決まってるってことだろ?」
「それはどうかしら」
「まぁ仮にそうだとしてさ、そういう結論に達したのには何か理由があるハズだよな。確固たる信念とか、頼りにしてる思想とか、貫きたい座右の銘とかさ。そういうのがあったから、志麻華の言葉には迷いがなかったんだと思う」
「……それで?」
それまでモニターへ向いていた顔が、初めてイツカへと向けられる。
「だから、どうしてお前がそんな提案をしようと思ったのかなーって考えたらさ」
「考えたら?」
「お前のこと、よく知らないことに気付いた」
志麻華が吹き出す。
「何それ」
普段は見せない笑顔を晒して志麻華は笑う。いつもどこか不機嫌というか、周囲に対して弱みを見せないようにと気丈に振舞っている彼女が、今は歳相応――というより見た目相応に子供っぽい。
「笑うなよ。結構真剣に悩んだ結果なんだから」
「期限は明日なんだよ。その前の晩になってその質問って、テスト前日の一夜漬けになって教科書作った会社に質問の意図を電話するみたいじゃない」
「そんなに変かな。大事なことだと思うんだけど」
頭を掻くイツカの表情は少し困っているようにも見えるが、思いがけず素の志麻華を見られたことを喜んでいるようでもある。
「まぁ、お兄様らしいとは思うかな」
「そのお兄様ってのやめてくれよ」
「あら、事実じゃない」
「せめてお兄ちゃんとかに……」
「その方が恥ずかしいでしょ」
「そうか? いつも妹には――あ、リンにはそう呼ばれてたから」
「妹さんとは、仲良かったんでしょ?」
「うん、まぁ喧嘩もしたけど」
「喧嘩をした上で関係を維持できるのは仲の良い証拠だと思う」
言いつつ視線を星空へと戻す。
「そうだなー。怒ったりイラッとしたりすることはあったけど、嫌ったり憎んだりってことはなかったと思う。何だかんだ言って懐いてくれてたからな。うっとうしいって思うことは何度もあったけど。そういえば、志麻華には兄弟っていなかったのか?」
「いなかったと思うよ。いたとしても隠し子だろうし」
「何だよ、そりゃ」
「ウチはお兄様のところとは違って、お世辞にも円満な家庭ってワケじゃなかったから」
「ひょっとして、両親と仲が悪かったとか?」
「別に嫌いってワケじゃないの。人並み程度の家族ではあったから心配していただかなくて結構よ」
おずおずとした遠慮がちな口ぶりを、志麻華は鼻で笑うような軽口で切り返す。それは強がりというよりも、諦めに似た乾いた感情に見えた。
「あ、でもジャーラとは何だか姉妹みたいだよな」
「言っとくけど、生まれた月も中身も私が『姉』だからね」
「いや、別にどっちが妹とか思ったことないけど」
ちなみに身長と胸は完敗である。清々しいほどに。
「……まぁ、家族より長い時間を一緒に過ごしていることは間違いないかな。小さい頃から付き纏って、追い払っても追い払っても追いかけてくるんだもの。嫌でも一緒にいることになるから」
「ジャーラもよく根を上げなかったな……」
「あの子、こうだと思ったら絶対に諦めないから。頑固っていうか、あれは雛鳥の刷り込みに近いかもね」
そのくらいでなければ、恐らく志麻華の隣に居続けることは出来なかったであろうということは、イツカにもわかる。まして志麻華の境遇は彼女が生まれた後に激変しているのだ。それは恐らく、ジャーラにしてみれば予想外の出来事だったことだろう。それでも今、二人は上川離宮で同じ屋根の下に居る。
「話せばキリがないけど、私への執着はハッキリ言って不自然だったのよね。アレがあったからこそ、自分の生まれを素直に受け入れられたってのはあるかな」
「例えばどんなことがあったんだ?」
「そんなの聞いてどうするの?」
「別にどうもしないけど、ちょっと聞いてみたいし、それに――」
イツカは楽しそうに笑う。
「ジャーラのことになると、饒舌になってくれそうだったからさ」
相手のことを知るには直接言葉を交わすのが一番だとイツカは思っている。そして、より多くの言葉を交わす為には、楽しい話題でなければならない。
「まぁ、話すエピソードに困ることはないけど、期限の前日に話すような内容じゃないと思うよ?」
「そんなことないよ。どの言葉一つ取ったって、お前の一部分なんだから」
「……前々から思ってたけどさ、お兄様って臭い台詞好きだよね。この星達より君の方が綺麗だよとか言っちゃうタイプだよね」
「いや、言わねーし!」
時計の針は夜半を回る。
二人の会話は静かに、しかし楽しく続いていく。
イツカが自分のベッドに戻った時、東の空が紺から群青へと変わり始めていた。