初仕事編 04
皇太子であると判明して学校に行かなくなり、とりあえず授業を受ける必要がなくなったことを喜ばしいと思う反面少しばかり淋しいと思ったイツカだったが、そんな自分を翌日にはぶん殴りたいと思うことになる。
確かにカリキュラムの内容は違う。だが机にかじりついている時間は、学校の比ではなかった。生徒会の活動時間を合わせても歯が立たない。朝から晩まで、とにかく講義が続いた。
その大半は法的解釈を含めた社会倫理と、主に政治的な背景を根底とする神華の歴史に充てられている。数学や科学的な講義はほとんどなく、膨大な知識をとりあえず聴かされるという授業内容だ。
端的に言って、面白い面白くない以前に退屈で疲れるというのがイツカの正直な感想だった。
だから、という側面もあるのだろう。休憩時間になるとイツカは積極的に庭園へと足を運ぶようになっていた。上川離宮の庭園はノヴァータ達によって管理されており、その様子は設計された当時からほとんど変わっていない。サッカーグラウンドの十倍近い広さがあり、散歩するには丁度良い。起伏もあって木々や草花を観賞するポイントもあり、そう簡単には飽きのこない造りにもなっている。歴代の皇太子も、この庭を散策することで日頃の公務のストレスを発散したことは間違いない。
イツカも例に漏れず、かつての父や祖父の足跡を、そうとは知らずに辿っていた。
とはいえ、一人で歩くというのも存外に退屈なものである。三日も続けると少しくらいの刺激は欲しくなるというものだ。まして、普段は外で見かけない人物を目撃したら、声をかけない道理はない。
「響士郎じゃないか。どうしたんだ、こんなとこで?」
昼食を終えた昼下がり、降り注ぐような陽光の中を歩いていたイツカは、幼馴染みの顔を見つけるなり近づいた。
「殿下こそ、こんな離宮の端まで何のご用ですか?」
「いや、色々と散歩コースを試しているだけだけど」
ここの設計をした人間は余程ここでの仕事が退屈だと思っていたのか、散歩コースは両手に余るほど用意されている。ちなみに現在イツカが歩いているのは『ちょっと明後日を見てくるコース』だ。
「なるほど、そうでしたか。授業がつまらないので脱出の算段でもしているのかと思いました」
「いや、そんなこと考えてないしっ」
「ちなみにですが、そこかしこに歴代の殿下達によって築かれた外への抜け道があるそうです」
「へぇ……」
「やっぱり逃げますか?」
「ないない」
後でこっそり探しておこうと思ったことは内緒である。
「ところで殿下、例の問題の答えは見つかりそうですか?」
「……まぁ、考えてはいるよ」
講義に耳を傾けている以外の時間は、大抵例の問題――お手元金のことが頭の中をチラついている。一週間後に返事を聞くと言われてから既に三日、そもそも公開するということがどんな影響を与えるのかすら判断しきれていない。それは一見、情報公開の原則からすれば良いことのようにも思えるが、公開されてこなかったことにも一定の理由があるように思えてならなかった。
というより、貰った小遣いの使い道を全て公開しろと言われたら、彼でなくとも断ることが当然のように思うので、プライバシー保護の名目から却下することが正しいようにも思える。ただ、その程度のことは志麻華とて重々承知していることは想像に難くないワケで。
つまり、正解の姿が全く見えないのだ。
「楽しい解答を期待しております」
「正しい解答じゃないのな」
そう返してイツカは気付く。この問題に絶対正しい解答など存在しないのだということに。
「で、響士郎は何してんだ?」
タキシードに身を包んだ完全執事スタイルのパートナーは、珍しいことにタブレット端末を携帯していた。この時代、端末を持ち歩くという習慣は滅びつつある。街中で生活する分には網膜照射式ディスプレイだけで事足りるからだ。二十年ほど前、まだイツカが生まれていなかった頃には、限られた特定の場所でしか使えなかった為に個人が何かしらの端末を持ち歩くことが常識であったものの、彼の世代ではフリーハンドフリーポケットが主流である。その世代ストライクの響士郎が端末を、それもかさばるタブレットを持ち歩いているのは、イツカの目には奇異に映る。
例えるなら、携帯電話全盛の時代にテレホンカードを使って電話をするようなものだ。
「カメラのチェックです。セキュリティの関係上必要ですし、どんな場所なのか実際に見ておく必要もありましたしね」
「昼休みでも仕事してんのか、お前は」
「仕事というか、ちょっとした雑務ですよ。散歩がてらという点では殿下の気分転換と大差ありません」
「まぁ、お前が働き者なのは昔からだから、今更とやかく言うつもりはないけどさ。でもまた、何だってタブレットなんて持ってるんだよ。ここってボード使えないの?」
言いながら右の人差し指で顔の前の空間を叩くが反応はない。いつもなら、少なくとも建物の中だったならウェルカムボードが眼前に開くハズだった。つまりここには、網膜照射を行う設備がないということになる。
「ありゃ、ダメなのか」
「ここが建設されたのは八十年前のことです。拡張や改修は度々行われていますが、限られた予算の中で全てを最新に保つことはできません。むしろカメラが全域をカバーしているだけでも御の字でしょう」
現在でも、郊外の田舎では携帯端末を日常的に使っている者も少なくない。それ以外だと登山など、設備の整った都市部以外で活動をする場合には携帯端末が活躍している。幸いにも神華ではほぼ全域が無線送電可能エリアとなっているので、軽量コンパクトなタイプで事足りるが、これが設備の不十分な開拓惑星になると充電が必要になってくるので更なる苦労が圧し掛かることになる。
神華、というより碧玉の発達は地球とほぼ遜色ないレベルなので、文明の恩恵に関しては迅速な方だ。
「カメラだけあってもなぁ。それってやっぱり侵入者対策ってこと?」
「それもありますが、連続認証維持という側面の方が大きいですね」
「連続認証?」
「殿下、一般常識ですよ?」
「いやえっと、何となくはわかるよ。認証の継続とか、そういう話だろ」
「まぁ、連続認証が公的認証として確立したのは二十年前くらいですから、今の世代の若者達が細かな理屈を知らないのも無理はないのかもしれません」
「おっさんの発言だな、それ」
相変わらずの無表情でありながら、眉毛がピクリと動く。
「十五を迎えて大人の一歩近づいた殿下には、是非とも連続認証について知っていただかなければなりません」
「いや、いいよ。講義だけでも頭が一杯なんだし」
「いいえ、大切なことです。殿下の命はもう、殿下お一人のものではないのですから」
「そう言われてもなぁ……」
イツカにはまだ、そんな大それた自覚も覚悟もない。
「とりあえず知っておいて損はありません。というより、自らの身を守る為にも知っておいてください」
「……わかった。そこまで言うなら」
渋々ながらイツカは頷いた。
「連続認証システムというのは、複合認証システムをベースにした個人特定システムです。指紋や網膜、静脈や声紋、顔や骨格といった認証システムは知っていますよね?」
「まぁさすがにわかるよ。全部やったことはないけど、ドアには指紋認証がついてたよな?」
「はい、そこで行われた個人特定を、カメラを使って追跡し、その個人の認証を維持し続けるというのが連続認証システムの根幹になります。例えば、殿下の指紋や声紋を、どこかの誰かが複製したとします」
「え、そんなことできんの?」
「ちょっとした技術と設備があれば、認証を誤魔化す程度の芸当は素人にも可能です。しかしながらこの犯人が、そのデータを使って殿下の情報を盗もうとしても、簡単には取り出せません」
「どうして?」
「連続認証が、より上位の認証として認められているからです。つまり、当の本人が居ない場所で認証だけ通そうとしても上手くはいかないのです。本人がそこに居る、というデータが揃うことで、我々は当たり前のように便利なオンラインサービスをどこでも好きな時に利用することができるのですよ」
「なるほど。裏でそんな面倒な認証をやってたのか。こっちとしては空中をトントン叩いているだけだから、凄く簡単なのにな」
「サービスは利用する側には簡潔に、悪用する側には複雑にというのが基本ですからね。しかしもちろん、そういった複雑なシステムを維持するには相応の手間と準備が必要になります。
「そっか。だからカメラってワケか」
この技術が確立し始めた半世紀前には、プライバシー保護の名目から個人の位置情報を追跡し続けるシステムに対する批判も大きかった。現在では文句をつけるどころか、家の中にもカメラを設置して常に認証を維持し続ける者も少なくない。認証が維持されない、すなわちカメラのない場所の方が、何かやましいことがあるのではと警戒されるくらいだ。
「この敷地内であれば大抵は問題ありませんが、中には茂った葉によって隠されてしまい、認証に不備がある箇所もあります。見つかれば修正はしていきますが、時期によって植物の状態も景色も変わります。ですから、殿下は常にカメラの位置を気にしながら行動していただけると助かりますね」
「芸能人みたいだな、まるで」
「人に見られることが仕事という意味では、大きく外れるものではありませんよ。もちろん、抱えている責任の大きさは比較になりませんが」
「……そっか。あの講義を聞くことが仕事なんじゃないんだよな」
今更のように思い出して、イツカは盛大な溜め息を吐く。
「そういうワケなので、逃げる時には出来る限り都市部へ向かうか、さもなくばお渡ししてある携帯端末を持参した上でお逃げください。探す手間が省けますので」
「何で簡単に見つかるように逃げにゃならんのだ」
「当たり前じゃないですか」
仕返しのつもりがあるのか、響士郎は不自然にニコリと微笑む。
「子供の家出なんて、見つけてもらうためのものなんですから」
「はいはい、お前に比べたら遥かに子供っぽくて悪かったね」
そう言って、不機嫌な顔でイツカはその場を後にする。
だがその足取りは、少し前までは当たり前だった辛辣な言葉のドッジボールを久しぶりにできたような気がして、彼自身も驚くほどに軽かった。
ちなみに双方の投げたボールは、どちらも顔面セーフである。