コトノハ2 ~言葉とコトハ~
★
「コトハじゃん」
春の夜。呼ばれて振り返ると高背の男がいた。
小さな公園に至る樹木に囲まれた散歩道を、こちらに歩み寄ってくる。
煉瓦で縁取られた道の脇にぽつんと立った細い外灯。照らされた短い茶髪、鼻筋の通ったその顔は見知った者だった。女性の様に大きな瞳を真ん丸に開けてこちらを見ている。
「何してんの?」
「みっちゃん」
「夜遅いし、センパイ心配しない?」
「パパなら昨夜ここで見送ったよ」
言って夜空を見上げる。「ふぅん」と男はコトハの隣まで足を運ぶと、
「突っ立ってないで、後ろのベンチに座ればいいのに」
長い脚を折り曲げてその場にしゃがみ、コトハの視線を辿って空を仰ぐ。
「見送ったって、例の、アルカちゃんのとこ?」
「そう」
「残念。実はそろそろかなと思って様子見にコトハん家寄ろうと思ってこの公園通ったんだ。一足遅かったかぁ」
溜息交じりに吐き出された声。見ると男は両膝の上に置いた腕の隙間に頭を埋めている。
「哀しい?」
「そりゃあもう。センパイにはいろいろ世話になったからね」
「みっちゃんは不思議だね。悲しい色が混じってない、むしろ楽しい音を出すよね」
訊くと、後頭部をがしがしと掻きながら笑う。
「んー、そういう訓練したからね」
「くんれん?」
「学習。……勉強?」
「学校で?」
「センパイんとこで」
頭頂部のつんつんした毛束を乱した男が僅かに顔を上げると、コトハを横目で見た。
「センパイの絵本、貰ったんでしょ? そこら辺りの話、描いてなかった?」
「まだ全部視てないよ。パパの絵本、分厚いんだもの」
「そりゃあ、そうだ。センパイは俺っち以上に濃厚な人生送ってたもんなぁ」
「みっちゃんの絵本も分厚いの?」
「そりゃあ、もう」
コトハが僅かに眉根を寄せる。ふふんと鼻を鳴らして男は膝の上で腕を組んだ。
「安易にこの俺っちと契約するからよ」
腕に顎を乗せて正面に立っていた桜を眺める。
「あんい?」
「簡単にって事」
「けいやく?」
「コトハが言う、約束の事」
「簡単じゃないよ。約束する相手はちゃんと選んでるよ」
「へぇ、コトハのお眼鏡に叶ったんだ俺っち」
「パパ推薦だった」
「なんじゃそら」
「みっちゃんはすごい曲者だけど、すごい悪い子じゃないよって」
「びみょー」
「ええと、多分パパなりに褒めてたんだと思う」
雲に隠れていた月が顔を出した。仄かな光に照らされて舞う桜が男の顔にかかる。
「パパ楽しそうだったもの。約束した日にみっちゃんの事話してた時」
コトハのフォローに男の整った横顔が、ほんの少しだけ、歪んだように見えた。
「わかってるよ」
★
人気のない公園を並んで歩く。
「そういや、コトハ契約娘じゃん? センパイの事、いつまでパパって呼ぶつもり?」
隣を歩く男が僅かに身をかがめると横目でこちらを見る。歩調を合わせているのか、コトハは普段のペースでゆったりと歩を進めながら答えた。
「明日まで」
「それもセンパイのお願い?」
「体が無くなるまではわたしはパパの娘なの」
「明日葬儀なんか」目を細めて思案顔の男。
「どうしたの?」
「ん、いや。お互い組織脱退してるからそういう情報って本当入ってこないんだよね。特にセンパイは秘密主義者だったから」
「ひみつしゅぎしゃ?」
首を傾げて見上げられた男、うーんと唸ってコトハに向き直った。
「コトハみたいなもんかな」
コトハも足を止める。
「わたし、みっちゃんに秘密持ってないよ」
「俺っちが契約しないと話してくれなかったろ?」
言われて、きょとんと目を見開く。
「アルカとの約束は守らないと駄目。わたし強制送還されちゃうもの」
「アルカちゃん最優先って訳。自分よりも?」
「アルカがわたしの願いをきいてくれたから。わたしもアルカの願いをきかなきゃ」
「律儀ね、コトハも」
「リチギ?」と首を傾げるコトハの鼻先を指ではじく男。
「マジメって事」
面白くなさそうに言って、男は再び歩き出した。
「みっちゃんも真面目だと思う……」
普通の子供じゃない自分を自宅に送り届ける辺り、特に。鼻をさすり唇を尖らせながらコトハも後を追う。
「しっかし。コトハがセンパイっ娘でいるのも明日までか。ちょっち残念かも」
真意を問いたげにその表情を窺うコトハ。
「まだ視てない所視れば分かると思うけどコトハ、本当にそっくりなんだよ。センパイの娘っちに」
「パパも言ってた。瓜二つだって」
「顔も背格好も声も力も。歳も同じくらいだったもんな。八歳。あの娘、コトハの前世かも」
「そうかも」
即答のコトハに目を僅かに見開く男。
「知ってたの?」
「アルカが言ってた。現世に降りて一人で不安になっても泣くなって。わたしと強い縁で結ばれた人がすぐにわたしを見つけてくれるからって」
「それがセンパイだったと。へぇ。じゃあコトハって本当に言葉ちゃんだったんだ。センパイ、気づいててワザと願ったのかな。死ぬまでの間自分の娘になってくれって」
「わたしは知らない」
「コトハも霊力強いだろ? 絵本視たら思い出すんじゃ?」
「知らないと思う。前世の精神は魂に記録されるだけのものだし、わたしは一つ前の前世しか覚えてない」
「そっか。まぁ、それでいいのかもね。全部持ってるとパンクしちゃうんだろうし。お嬢みたいに」
「お嬢って?」
散歩道の終わりに出た。
暗い住宅街の細い道路の前で立ち止まる男。
「俺っちの大事~な人」
すっかり闇に慣れた視界で、眉間に皺を寄せ胸に手を当てた男が仰々しく宣言する。
隣に来て立ち止まったコトハが男の前にまわりこんだ。
「会ってみたい」
目を輝かせて見上げる。
「いいけど。でも、会ったらコトハ驚くかもよ」
「そうなの?」
「んー。これは俺っちの勘だから確証はないけど、多分」
「楽しみ。いつ会える?」
「んー、どうかな。まぁ。現世に居る時点でコトハは縁を結んでるんだろうから、放っといてもいつかどっかで会うのかもしんないし」
「ほら行こう」と、コトハの背に片手を添える男。コトハは返事の代わりに笑顔で男を見上げる。
「楽しみ」
★
その日はよく晴れた空だった。
普段着ているジャンパースカートから、自宅に用意されていた黒のワンピースに着替えたコトハは火葬場に来ていた。
パパだったモノが空へ昇っていくのを会場の外に立って黙って眺めていた。
ふと、気配を感じて振り返る。
「美人じゃん」
黒いスーツを着た男がへらへらといつもの調子で歩み寄ってきた。
「みっちゃん」
「それ、センパイが用意したの?」
「約束した日に買ってくれた。今日はこれ着るようにって。みっちゃんも?」
尋ねると窮屈そうに首のネクタイを緩めながら苦笑した。
「これは俺っちの。皺々だけどな。昨日コトハと別れた後クロゼットの奥から引っ張り出してきた。センパイと、今度はちゃんとお別れする為にさ」
「パパはここにはいないよ」
コトハの言葉に男は僅かな間思案する。
「魂の話?」
訊かれてコトハは頷く。
「一昨日原初の海に還ってるもの。パパの精神を魂に上書きし終えてから送ったから、生命のスープには混じらずに直接アルカの島に行けたと思う。だから哀しいことはないよ」
コトハの言葉に、男は静かに微笑んで言う。
「肉体もね。魂と同じくらい大事なんだよ。人にとっては」
「そうなんだ」
頷くと、空に昇る煙を遠い目で眺める男。
「言葉ちゃんともね。丁度この場所でお別れしたんだ。センパイと一緒にね」
「絵本で視た」
「センパイもね、俺っちやコトハみたいに魂とか感知出来る人だったんだけどね。大の男がぼろぼろだったっしょ」
「そうだね」
「そういうもんよ。よっぽど堪えたのか、その後すぐセンパイ組織脱退しちまったからなぁ」
「哀しいお話だね」
「そうね。でも悲しいっていうより、虚しい、かな」
「むなしい?」
コトハに視線を戻す男。
「大事~な人がいなくなるとね。心の中に穴が開いたみたいな感じがしてずしーっと重たくなるんだ。そういうのを、虚しいっていうの。コトハも感じない?」
訊かれてコトハは小さな胸に両の手のひらを当てる。
「感じる」
「だよな」
苦笑する男。
「どうしよう。気づいたら心がすごく重くなってきた。とっても苦しい。わたしまた病気になったの? ずっと、このままなの?」
「だいじょぶ。心の穴はその内思い出が修理してくれる」
不安に焦るコトハとは対照的に男は淡々と、落ち着いた表情で答える。
「思い出だけじゃ足りなかったら?」
「足りるよ。穴の深さと思い出の濃さは同じだから。それに、これからもいろんな出会いや出来事が次から次に心に入ってくるから、知らない間に穴は隅に追いやられて小さくなってしまうんだ」
「それは、なんだか寂しいね」
「修理しちゃったら穴は目立たなくなってしまうしね。でも、瘡蓋みたいになってるだけだから、ふとした瞬間に疼くんだ。忘れんなって」
「ずっと痛いの?」
「あぁ。でも、段々慣れてくる。痕も完全にとはいかないまでも、その内きれいに優しくなるよ」
「そうなんだ」
ほっと、息を吐き胸を撫で下ろすと、
「なんてね。これ、センパイの受け売りなんだけど」
「ウケウリ?」
「てめぇでそう、言ってやがったのになぁ」
男はなんだか悲しそうな目の色を誤魔化すように笑って、コトハの腰まである黒髪を撫ではじめた。
「笑える。てめぇの記憶消してくれとか俺に頼むか普通。そんなんだから…………」
小さく吐いた言葉が拾えなくて、訊き返そうと思った矢先、骨ばった手の平で頭をわしわしと撫でられる。
「みっちゃん?」
頭上の手を、両手で持ち上げてどかし、男を見上げると、
「しっかしお互いえらく濃密な人生だったけどさ、死に別れた娘に再会出来てしかも見送ってもらえたなんて、最後の最後ですげぇ救われたじゃんセンパイ」
別れの言葉を空に放った男は、清々しい笑顔を浮かべていた。
その様子を眺めて、コトハはもう一度空を仰いだ。
寂しいくらいに穏やかで、どうしようもなく果てしない、青だった。
「さようなら。ヒロミツ」
死は、ある日訪れて誰かのどんなに大事な人でも無慈悲に攫って行く。
温かさも空気も想いも、みんなみんな空を逝く。儚く溶けて、無くなってしまう。
何もかも残しておきたいのに、留められずに、虚しくなる。
けれど。
とめどない悲しみに隠れて、確かに何か、残るモノがある。
★
「コトハはこれからどうするの?」
「どうするって?」
「どこで寝るのって事」
「昨日の公園」
「まだ寒いし。なんなら家くれば?」
「みっちゃん家?」
「マンション部屋余ってるし。俺っち稼ぎいいから女の子一人増えた所でヨユー。それにお嬢にも会えるよ。隣に住んでるから」
「会いたい」
「なら決まりな」
「約束はしないでいいの?」
「約束って、契約の事か。 転写の契約は既にしてるし……んー、『縁が結び付けた』でいいんじゃないの? っていうかさ、大事~な人が増えるのは人生においてイイ事っしょ」
「いいことだね」
「それに俺っちもコトハの旅がどうなるのか見たいしさ」
「気になる?」
「なるさ。早く願い叶えて、アルカちゃんのとこに還れるといいな、コトハ」
「そだね。ありがとうみっちゃん」
「どーいたしまして。んじゃ」
スーツをすっかり着崩してしまった男が、すっと手を伸ばす。
「これからよろしくおねがいします」
ぺこりと頭を下げて黒い服の少女はその手をとった。
「契約成立ってな」
ぶんぶん繋いだ手を振って笑う男。
コトハは常にへらへら笑う男が、しかし一度も心からの笑顔を自分に見せていない事に気づいていた。
「みっちゃん。みっちゃんの願い事は決まった?」
「んーコトハと契約してからずっと考えてるんだけどさ。俺っち大抵の望みは自分で叶られるもんだから。やっぱり神頼みする程のモノは持ち合わせてないんだよなぁ」
「ゆっくり考えればいいと思うよ。みっちゃん死ぬの、まだまだ先だし」
「そりゃあよかった」
「うん、わたしもよかった」