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その彼の名を誰も知らない  作者: 龍華ぷろじぇくと
第三話 その家族を守る英雄がいることを彼らは知らなかった
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AE(アナザー・エピソード)・その男が変わったのを彼女は知りたくなかった

 唯野静代は呆然と見つめていた。

 光を越えるような速度でギョージ王子に突っ込み、光り輝く男の姿。

 全身を煌めかせ突撃した男はギョージ王子を頭突きで倒し、勢い余って地面に転がる。

 双方動かなくなり、彼の娘が涙を煌めかせながら観客席から走る。


 決闘場への階段を飛び降り、父親の元へと駆けよった彼女は膝の上に父の頭を乗せて涙を流して叫び出す。

 気が付けば、息子も既に彼の元へと辿り着き、心配そうに見守っていた。

 シコフミによる勝利宣言。

 そこではっと我に返る。


 思わず被りを振る。

 不覚にも、思ってしまった。

 全身を輝かせ、娘のために戦った夫の姿に、本当に、不覚だ。

 あんなビールっ腹で膨れたバーコードハゲの男が……格好良いだなんて。


「少し、風に当って来ます」


 ハリッテ王子に断って、静代は一人闘技場を後にする。

 自分の感情が上手く表現できない。

 どうでもいい存在の筈だった。汚くて、臭くて、金を貢いでくれるだけの夫という奴隷のはずだった。


 なのに、なぜ?

 脳裏を掠めたのは、自分が初めて告白された時のこと。

 あの時は、本当にあの男を格好良いと思っていた。この人とならば一生添い遂げられると、幸せに成れると思っていた。

 違ったはずだ。結婚後は苦労しかなかったはずだ。幻滅しかなかったはずだ。

 疲れて、当り散らして、喧嘩して、土下座されて、情けない姿ばかり見せられて。もう、見限ったはずなのだ。


 渡り廊下の一角で柱にもたれて空を見上げる。

 中庭から見える空は、とても綺麗に澄んでいた。

 羨ましい。自分の心の汚濁と交換してほしいくらいだ。


 どれ程その場にいただろうか。

 気持ちが落ち着いて来たと部屋に向った静代は、いつものようにハリッテ王子の私室へと向かった。 時間が立っているのですでに闘技場からは戻っているはず。

 この気持ちを若いハリッテ王子に抱きつくことで癒そう。そう思ったのだ。

 ドアに手を掛けたところで、止まった。


「ハリッテ、あの女どうするつもりなの?」


「静代のことか? どうも何も、アレを引き込もうと言ったのはシコナだろう。私としてはあまり抱き付きたくも無いのだが、お前がどうしても引き入れたいと言うから……」


「そうだけど。なんか嫌なのよ。あいつ本気で側室狙ってるみたいだし。そろそろ現実教えてやった方が良いんじゃない? 娘の方もギョージ王子と繋がりが消えたみたいだし。勇者を使ってジューリョ王子の死を調べるのは意味がない気がするわ。セキトリ王子も来てしまったし、このままだとあなたが王になるのは遠のくわよ」


「分かっているさ。その為に静代を引きこんでるんだ。もう少し泳がして役立って貰おう」


 手を、引っ込める。

 本当に、自分は何をしているんだろう。何を、していたのだろう。

 若い男に優しくされたからと舞い上がって、本当に、何がしたかったのだろう。

 不倫? そんなことをするつもりなどないし、したくも無い。

 かといってあの男とこれ以上家族を続けるのは、続ける……のは……


 ―― 貴女が好きです。一緒にいてください ――


 やめろ。脳内で叫ぶな。

 イラつく静代は頭を乱暴に掻く。

 脳内からあの男の告白が離れてくれない。

 何年前のことなのだ。あの恰好良かった男が中年ハゲ親父になったのは見て来た筈だ。


 夢見た結婚生活は既に終わったのだ。

 これからは中年離婚をして、子供たちと暮らすのだ。三人で幸せな……幸せな……

 そんな妄想など、出てすら来なかった。

 娘も息子も、なぜかもう、自分には着いて来ない。そんな確信があった。


 あの男はなぜ私をイラつかせる? 何度裏切ってくれれば気が済む?

 私は、嫌なのよ。もう、一緒に居るのが辛いの。あの人の草臥れた顔を見るのが……

 だけど、なぜ? あの人はあの姿になったはずなのに、これ程胸が締め付けられるの? 罪悪感が湧きあがって来るの? まるで、まるであの人を裏切っているのが私だとでも言うように……


「静代……」


 不意に、声が聞こえた。

 ドアの前で俯いていた静代は肩をピクリと振るわせる。

 その声は、知っていた。知らないはずがなかった。


 顔を上げ、ゆっくりと振り向く。

 先程まで殴られていたにしては顔がでこぼこしていない、しかし、よく知るビールっ腹にバーコードハゲ、うだつの上がらない自分の夫、唯野忠志だ。

 顔を見て、思う。やはり彼の雰囲気が違う。今までの草臥れた姿じゃない。背筋が伸び、自信を身に付け、決意に満ちた顔をしている。


「何、かしら……」


 生唾を飲み、静代は告げる。

 もう、終わりにしよう。向こうが告げるか、告げないならば私から。

 家族ごっこはもう、終わりだ。終わらせるのだ。この異世界の地で。


「今まで、私は家族のためにと身を粉にして働いて来た。そのつもりだった……」


 知っている。彼が家族のために、家族を第一に考えて常に動いていたのは知っている。


「お前に苦労を掛け続けた」


 そうだ。苦労を掛けられた。ずっと、我慢した。だからもう、いいでしょう?

 家族を止めても、いいでしょう? あなたにずっと尽くして来たのだから……尽くして?

 それは本当? 自分は本当に、彼に尽くしていただろうか?


「娘と息子を産んでくれて、ありがとう。育ててくれて、ありがとう。お前と過ごしたこの日々は、どういう結果であれ、私にとってはこの上ない幸福だった」


 嘘だ。沙織が生まれしばらくするまでだ。あなたの会社が変わった頃までだ。それ以降、あなたは幸福じゃなかったはずだ。

 言いたい言葉は沢山あった。罵声だって浴びせたかった。なのに……


「この世界に来て、家族と離れて、ずっと問い続けた。自分の何が悪かったのか」


 ああ、やめて。聞きたくない。ソレ以上先の言葉を告げないで。私はもう、決断したの。あなたと離れると。だから、私が告げるの。一方的に、そして項垂れるあなたに本当の見切りを付けて、新たなる恋に生きるのよ、恋に……誰と?


 ハリッテ王子の本心を聞いてしまった以上、彼との恋などないに等しい。この年で離婚して、たった一人残されて、この先どうすると言うのか? 何も考えず、家族の団欒だけを過ごしていた自分に、何が出来ると言うのか?


 忠志が決意を持って静代を見る。

 言うな。その先の言葉を言わないで。

 決定的な言葉を、私に吐かないで。


 気が付けば、静代は忠志を押し飛ばし、逃げるように走り去っていた。

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