三百二十一・その少女の想いを、誰も知らない
少女が自我を持ったのは、遥か高みで音を聞いた時だった。
グランドピアノという名前は後から聞いたが、当時はとても悲しいような、切ないような、会えない誰かを思った音に、凄く哀しいと思った事を覚えている。
一人の女性が、偶に来て引くだけのグランドピアノ。
大樹の麓に一つだけ置かれていて、その女性だけがピアノを弾く。
他の誰も、そのピアノを弾く事は無く、涙を流した女性だけが、しばらく弾いて去って行く。
なんだかかわいそうだと思った。
会いたい人に会えなくなるのは胸が締め付けられるのだと知った。
そして少女は、成熟した。
ぽとりと落ちて世界に産まれる。
産声など上げる事もなく、産まれ落ちたその瞬間から自分が何者であるかを理解させられた。
自分は女神アルセの端末体。
ある程度の思考回路は持ちながら、その全ての経験と思いをアルセに届けるだけの世界維持のための端末体だった。
その事に何かを思う事は無い。
ただ、産まれてからその状態だからそれが普通だと思うだけだ。
ゆえに、少女は自分もただ、世界に満ちる端末体の一人として世界の情報を得ればいい、そう思っていた。
しかし、選ばれたのだ。
少女には名が与えられ、本体が大切に思う人間達と行動する事になった。
正直驚きの連続で、楽しいと思う事も多かった。
自分の目的は、名前も知らない男の護衛。人知れず無邪気に過ごしながら彼を守る事。
それが自分の使命となった。
異世界に強制転移される時も、咄嗟に彼の傍に居られるように自分も巻き込まれた。
そしたら本体との繋がりが消え去った。
初めての消失に何が起こったか分からなくて、凄くさびしくて辛かった。
グランドピアノを弾いていた女性の想いがその時理解出来てしまい、胸が張り裂けてしんでしまいそうだった。
けど、バグってしまった男性が、女性が、そしてグーレイが、彼女を異世界でも楽しく冒険させてくれたのだ。
この世界に来てからは楽しかった。
そんな思いでしかなかった。
けど、冒険の裏で、絶えず聞こえた。
この世界の植物たちは、世界が長くないと知っていたのだ。
助けて、まだ死にたくない。世界が終わってしまう。
そこいら中の森で囁かれていた言葉。
少女が似た存在だったからこそ届いてしまった悲痛な叫び。
それは、くしくも少女が思っていた不安と一緒だった。
本体と繋がりを失った自分は消えてしまわないかとても不安で、この世界も、同じように不安を感じていた。
そして、その解決法も、本体がこの世界が何処にあるか捜索を終え、少女を見付けたことで繋がり直されたことで見付かった。
本体は既に、世界を救う方法を知っていたのだ。
ただ、それはあまりにも、世界と繋がりの無い少女にとっては辛いものだった。
大切な人と別れなければならない。
誰かとの繋がりを自ら絶たねばならない。
もう、冒険には出られない。
少女は無数の声に気付きながらも無視する事に決めた。
自分を犠牲にする必要などないと思ったから。
皆ともっと世界中を旅したいと思ったから。
けど、準備だけは進めていた。
何かに衝き動かされるように、来るべき時の為に。
珍しい植物を取り入れ、魔物を味方にし、少しずつ、少しずつ。
きっとわかっていたのだろう。
他の誰にも出来ないと。
自分にしか出来ないのだと。
皆を見て来て、気付いてしまったのだ。
この世界に生きる人々も、あの世界で生きている人々も、皆同じ、なにも知らないまま滅びるなんて酷過ぎると。
惜しいと思ってしまったから。助けたいと思ってしまったから。
見えて来た目的地に、後ろ髪が引かれる。
もっと冒険していたい。楽しい日々を過ごしたい。
保護者の彼に甘やかされて、保護者の彼女に抱きしめられて。
最初に出会った彼女とも、もっと一緒にいたかった。
自分が選ばれなかったと嘆き悲しみ、何か出来る事をと何度も縋りついて来た時には決意が鈍りそうになった。
だからこそ、選んだのだ。
そんな彼女が、パッキーが住む世界を守る事を。
この世界を終わらせないために。
リエラを助ける事はきっとできなくなるけれど、そこはずっと夢で見せてたあの人に任せよう。
既に、結末は教えてあるのだ。
この先に何が待つかは伝えてあるのだ。
どうなろうとも、自分はもう、彼らを助けられない。
ただ、在るだけの存在となる。
一度だけ、振り返る。
誰もいない庭が、少しだけ滲んで見えた。
横合いから、くねくねとした人型が心配そうに覗き込んでくる。
うん、大丈夫。ちゃんとさよならは言えたから。
あとは、よろしくね?
三人の従者に笑顔で伝える。
言葉は話せなくて「お」という鳴き声になったけど、それでも彼らには届いただろう。
残った三人に見送られ、少女は一人、花でできたサークルへと歩み寄る。
さぁ、進化を始めよう。
終わりの始まりを行おう。
たとえ離れ離れになろうとも、自分が一緒に旅した事実は彼らが知っているのだから。
思い出だけは、少女と共に、常にある。
霊鳥はその大樹の上に。
栗鼠はその大樹の傍に。
虫、いや、邪龍は……大樹の根の元に。
その大樹は世界に根付く世界の柱。
滅びかけた世界に、二本目となる世界樹が産声を上げたのだった――