三十八話・その悪意が牙を向こうとしていることを、彼しか知らない
「おい、ピピロ、少し話がある。トイレ行く振りして部屋から出て来い」
宿の部屋に向かおうとしていたピピロに、矢田が小声で話しかけてきた。
まだ、何かあるのか? いや、おそらく彼はピピロ自身に出て行くように告げるのだろう。
彼が喚いても皆が庇う、ならばピピロ自身にチームから抜ける切っ掛けを与えよう、そう思っているだろうことはピピロにも理解できてしまっていた。
しかし、彼女自身も自分に自信はなく、足手まといなのは理解できている。
そもそも、召喚前からして足手まといだったのだ。
悔しいけれど、彼女は所詮兵士見習い。
雪山歩行訓練で迷子になって生き倒れた。そんな足手まといな自分が別世界に来たところで英雄になれる訳がなかったのである。
「わかりました」
だから、彼の言葉を受け入れようと話を聞く事を頷く。
俯いたまま答えたので、彼女は気付きもしなかった。
矢田の顔が醜悪な笑みを浮かべた事を……
皆が部屋に入って行く。
それを見届け、今の会話を聞いていた彼は絶望的な気分で佇んでいた。
自分がチームから追い出されるだろうことは分かっていた。
でも、でも、さすがにこれは……
止めねば、私が、止めなければ……
この世界に自分がやってきた意味。それはもしかして、このためなのでは、とさえ思えた。
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皆でゆったりと落ち着いて少し経った頃、ピピロはトイレに行きます、と伝えて部屋を出る。
すでに廊下で待っていた矢田が彼女に気付いて顔を向けることでこっちについて来いと指図する。
背を向けて歩きだした矢田の後ろをとぼとぼと歩くピピロ。
彼らが宿の外に出るのを見送って、彼もまた、二人を追って外へと向かっていった。
宿の裏にやってきた矢田が振り返る。
びくっと震えたピピロも一定距離を保って立ち止まった。
見付かりそうになった彼も慌ててもの影に隠れる。
「あの、話って、なんですか?」
「おう、理解できてると思うが、俺が幾らお前が役に立たねぇっつったって、優しい優しい英雄共はお前さんをパーティーに入れたままにするだろうからな。俺が言っとかねぇとまじぃと思ったんだよ」
「僕に、パーティーから抜けろって、言うんですか?」
「わかってんじゃねーか。お前だって理解できてるだろ? 今回は確かに運良く間に合った。でも間に合わなけりゃどうなってた? あのデブのフォローがなかったら、お前はベアクロー受けて死んでただろ」
「……はい」
悔しいが、それが事実だ。
ピピロはあの時、完全に無防備だった。
跳ね上げられた瞬間に杙家を連れて逃げるか、突き飛ばして庇うかすればまだ多少は役に立てただろうが、被害者二号にしか成れていなかったのだ。
「お前は盾職だ。タンク役だ。斬星どもが言うにゃ、敵のヘイトってのを稼いで味方への攻撃全てを自分で引き受ける英雄らしいじゃねぇか。お前、できるか?」
無理だ。
「無理だろ? 一人も守れてねぇもんな。だからよ。お前からリックマンのおっさんたちに言って来い、自分は役不足なのでここで別れますってよ?」
「それは……」
ピピロはその場に佇み、拳を握る。
悔しい、役立たずでしかない自分が、とても……
なんとか、なんとか彼らの役に立てないだろうか?
「まぁ、どうしても付いてきたいっつーならよ、俺のモノになれや」
「……え?」
唇をかみしめ自分のみじめさに震えていたピピロは、弾かれるように前を向く。
そこには、真剣な顔の矢田など居なかった。
肉欲を隠そうともしない悪人が、嗤っていた。
「俺の奴隷に成れよ。そうすりゃ俺がお前を鍛えてやる。これでもチームに所属して戦闘してたんだ。闘い方も何でも教えてやる。皆の役に立たせてやるっつってんだ」
「ほ、ホントに……?」
「その代わりに、お前は俺に体を差し出せ。簡単だろ? ただ抱かれるだけで強く成れるんだからよぉ?」
「そ、それは……」
皆の役に立てる。
それはまさに悪魔の誘惑だった。
戸惑う彼女に矢田がゆっくりと近づく。
「俺もなぁ、無理矢理襲おうってんじゃーねぇんだ。これはビジネスだ。ギブアンドテイクってやつだ。分かるだろ? 何もできねぇテメェーをわざわざ使えるように鍛えてやるってんだ。ならその報酬を貰わねェとな? ほら、こっちに来な? 今、ここで、前払いと行こうじゃねぇか」
「え? い、今……」
選択肢に時間を与えない。
悪意が彼女に牙を剥いていた。
しかし、彼女には逃れる術などない。
自らを自責で縛っている彼女には、受け入れるしかできないのだ。
そんな状況を物影で見ながら、彼もまた葛藤していた。
自分だけで来た事を今更ながら後悔している。
頭を抱え、出ていくべきか、否、出ていくべきだ。出ていくべきなのだ、彼女を助けられるのは今、自分しかいないのだから。
男、尾道克己50歳。
サラリーマンとして、ブラック企業の社畜として日々を過ごしていた彼には、脅威に対して抗うという術をなくしていた。
ゆえに、助けようにも全身が震えて助けになどいけなかった。
彼の毒牙にいたいけな少女が掛かってしまう。
だが、無理だ。
「すまないピピロ君、私では……」
―― それでいいの? ――
不意に、女性の声が聞こえた気がした。
咎められるような少女の声。自己嫌悪を促して来るような問い質す声。
―― 本当に? 私が知ってる唯野さんなら、きっと自分が叩かれたとしても、助けに行くよ? 同じサラリーマンで、ブラック企業に勤めてたのに? ――
唯……野?
その名を聞いた瞬間、何かがフラッシュバックした。
会社を無断欠席した同じ社畜仲間。
ああ、そうだ。あの人も私と同じ目をしていた。
日々に疲れ摩耗して、もう人生が終わっていた社畜仲間。
しばらく無断欠席をしたあと、生まれ変わったかのように顔付きが変わっていた彼は、課長に辞表を叩きつけて辞めていった。
ああ、彼は、変わったのか。私はまだ変わっていないと言うのに?
変われるのか? 私も?
―― さぁ、立ち上がって、企業戦士 ――
何故か聞こえる少女の声。
それは何故だろう? 凄く、凄く力が湧いてくるような力づけてくれる声。
私は……私は……ッ――――




