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――3――


 恐ろしかった。


 闇の中で、黒く凝った大きな獣が、わたしのすぐ傍にいた。

 食べられるのか、それとも殺されるのか。


 気づくのが遅かったから、もう、ナイフを取ることさえできなかった。


 だから、もう半分諦めていたのかもしれない。これでやっと楽になれる、やっと兄様に迷惑をかけずにすむ、と。

 わたしが死ねば、兄様はどんな顔をするのだろう。


 兄様のお顔。

 せめて、最後に、目にしておきたかった。


 きっと叶わないだろうけれど、願わずにはいられなかった。


「――に」


 声を出せば、兄様は駆けつけてくださるのだろうか。

 きっと今宵も、外に出ていらっしゃる。


 それでも、呼んだのならば、ここに馳せ戻ってきてくださるだろうと、そんな気がして。


「兄、様」


 震えながら、たった一言を搾りだした。

 すると――

「――ォ、オ、オ、オ、オ、オ、オ、オ……!」

 獣は、叫び声を上げて、わたしの上から飛び退いた。


 叫んで、部屋のあちこちにぶつかりながら、外へと出て行った。

 長く尾を引く、遠吠えのような叫び声だった。

 哀切ささえ感じられた。


 いまのは、いったい何だったのか。

 わからないけれど、どうやら助かったらしい。


 恐怖から解放されたせいか、それとも恐怖が限界を超えたのか、わたしは滑落するように眠ってしまい。


 翌日に目が覚めると、兄様は、戻ってきていなかった。


「……兄様?」

 部屋にもいない。小屋の外にも、いない。

「兄様……!」

 どれほど大声で呼んでみても、返事は、なかった。


 まさか、昨夜の獣に襲われてしまったのか。それとも、わたしを置いて、本当にどこかに行ってしまったのか。

 兄様は、いなくなってしまわれた。

 それはつまり、わたしはたったひとりで、この小屋の中で暮らしてゆかなければならないということ。


 ひとりだと料理もままならず、洗濯や掃除さえろくにこなせないというのに。まともに食べられるのはパンぐらいで、あとはわたしの部屋と居間を右往左往するばかり。


 外に出てしまえば、きちんと帰ってこられる保障さえないのだから、こうするしかなかった。このままでは、ひと月さえも生きることはできない。

 けれども――不思議と、悲しみはなかった。


 怒ることも、笑うこともなかった。

 胸の真ん中にぽっかりと風穴が空いてしまったかのように、どこまでも虚ろだった。


 兄様がいなくなれば、わたしは死にたがるだろうと思っていたのに。その気力さえ、いまは沸いてこなかった。心が体から抜け落ちて、いつもと同じ生活を繰り返すだけのお人形になってしまったかのよう。

 陽が落ちて、完全な真っ暗闇になれば、普段どおりに自室に行き、ベッドに潜る。

 そうして、まぶたの裏を見つめていると、兄様がひょっこりと帰ってくるのではないか――と、そんな気がするのだった。


 だから、

 ――りん、

 と控えめな鈴の音が聞こえたとき、わたしは、やっぱり、と思わずにはいられなかった。


 兄様が帰ってきた。

 わたしを見捨ててはいなかった。

 急な用事か何かで、ここを離れていただけ。

 明日からは、また兄様と暮らすことができる。


 自然と、ほほが緩んだ。

 忍び足でこの部屋にやってくる兄様を、さてどうやって驚かそうかと考えていると。


「……くはっ」

 扉の向こうで、兄様のものではない笑い声が上がった。


 誰?

 盗賊?

 それとも、まさか教団の人?


 身が硬直してしまい、動くことができない。

 そんな中、ゆっくりと、焦らすように開かれてゆくちょうつがいの音。


 そして、男の声。


「ご機嫌麗しゅう、王女サマ」

 野犬のごとき獰猛さを秘めた、濁声だった。


「……誰です」

「おれは……いいや、おれが誰かなんて、もうどうでもいい。どうでもいいんだ、もう、どうでもいい。人間かどうかもわからなくなっちまった。は、は」


 起伏のない声音だった。それにもかかわらず、言葉の内容は狂気を感じさせる。


「どういう意味です」


 言いながら、わたしは枕もとのナイフに手を伸ばす。夜中だ、相手にも見えていないはずだった。何やら正気を失ったかのような雰囲気、襲い掛かってきたらためらわないつもりだ。


「どういうって、そのままの意味だ。おまえの兄と関わったのが運のつきだったか……ああ、ああ、あああああああ、おれまでノイズになっちまったんだよぉぉぉぉお」

「……何ですって?」


 ノイズになったということよりも、この得体の知れない男が兄様を知っていることに、わたしは気をとられた。


「兄様は、兄様はどこなのです?」

「ここか、そこか、上か、下か、さあ、どこだろうなぁぁ。くはっ、は、はははは。そんなこと、どうでも、いい、いいんだよ。おれはな、確かめにきたんだ。うん、そう。確かめにきたんだよ。ノイズはな、実はな、ぜんぜん怖くねぇんだって。大丈夫なんだよ。はは、ははは」


 どうやら、自分がノイズになってしまったという事実のために、心を病んでしまったらしい。でも、兄様と関わったから、とはどういう理屈なのか。

 ノイズが病気のように伝染することなんてありえない。こじつけて、ここまでやってきたに違いない。


 きっと、兄様とわたしのことを知る町の人間なのだろう。

 どちらにしても――厄介なことになってしまった。


「なあ、王女サマよ。おま、おまえ、おまえノイズと一緒に生活しているんだろう、なあ? でも、ほら、平気だろう? 怖くないだろう? 生きていられるだろう?」

「…………」

 そう、町の人々には、わたしは病人であると嘘をついているのだった。

「ああ、そういえば、ノイズになったら恐ろしいから、すぐに教団に言いつけなきゃいけないんだって、パパが言ってたんだ。はは、ははは。でも、ほら、平気だ。おまえも、おまえの兄、兄上も平気だし、おれも平気だ。危なくないだろう、ぜんぜん? な? なあ?」

「……そうです、平気です」


 下手に刺激してはいけない。とにかくこの男を安心させなければ。


「ですから、落ち着いてください。あなたもわたしも、危なくなんてありませんよ」

「うふ、ふふふふふふふ……嘘だろう! この大嘘つきめ!」


 突如、男がわめいた。


「おれは知っているぞ……先代が言っていた、おまえの兄のノイズはとてつもなく恐ろしいと! 危険だと!」


 歩み寄ってくる。糾弾するように、大仰に足音を立てながら。


「おれを騙そうって魂胆か? 危険じゃないと言い張って、隙を見ておれを殺そうというんだろう? なあ、おれがノイズだからよぉ、なあ!」


 目前まで、男の声が迫ってきた。


 わたしはたまらず、ナイフを突き出そうとした。


 できない。

 腕が、動かない。


 くもの糸が蝶を絡めとるように、細い何かがわたしの腕に絡みついているようだった。これが、この男のノイズなのか。


「ああ、おまえの兄は危険だ。だがな、おれは危険じゃねぇんだ。危険じゃあ、ないんですよぉ。わかりますかねぇ? わかるかぁ、なあ? ああ、ああ、嫌だ。嫌だなあ、教団に言いつけるのは、だめだ、嫌だ。あそこは怖いんだ。教団の人間は、まるで人間じゃない。ノイズよりも恐ろしい。だから、おれは、捕まるわけにはいかないんだよ。それで、どうやったら捕まらないか、考えてみたんだ。おれは危険なノイズじゃない。危険なおまえの兄を捕まえれば、きっと教団もそのことをわかってくれる。そう考えたんだ。ふっははは、利口だろう、ええ? おれは、なあ、利口だろう? なあああ?」


 もはや、支離滅裂だった。わたしが何と言おうとも、この男の狂った歯車を直すことはできそうにない。それほど、彼はノイズを、それ以上に『教団』を恐れている。


 妙に冷たくて細いものが、わたしの顔に触れた。それは果たして、男の指だったのだろうか。虫の脚を連想させる奇怪な感触だった。


 吐息がかかるほど近い位置に、男の顔がある。腐った果実のような、胃をひっくり返しかねないひどいにおいが鼻をつく。


「気がついたら、なんだか、口の中がおかしいんだ。歯が、ぜんぶ抜け落ちちまってる。そのかわりに、妙な、とげとげしたものが、ほっぺたの内側から、こう、にゅうっと生えてきていたんだ。これもノイズなのかぁ? おまえ、ノイズと暮らしているんだ。詳しいんだろう。教えてくれよぅ」

「…………離れ、なさい」

「あ、牙かぁ、これ。そうか。なるほどな、牙だ。なんだかよくわからないが……無性に、噛み付きたく、なってきたなぁ」

「…………!」


 ぎちりぎちり、と甲虫が顎を噛み鳴らすかのような硬い音が、わたしに迫ってくる――




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