――4――
明らかに、身体がおかしい。
あの領主との一件以来、ノイズがより強く濃く顕れるようになった。
これまでは意志の力でノイズの発現を抑えることができたというのに、それさえもままならなくなり始めている。
肉体の内側から、自分ではないもうひとりの存在が、骨肉を食い破って這い出てくるような感覚。それが、治まらないのだ。
食欲や睡眠、排泄といった生理的な欲求と似ている。
すべてのノイズがそうだというわけではない。おれが、たまたまこうした欲求を湧き上がらせる種類のノイズであるだけのことだ。
だから、これまでは多くとも週に一度、夜に妹が寝静まった頃合を見計らって外に赴き、森の中でその欲望を発散していた。
破壊的な衝動、何もかもを叩き潰して引き千切りたいという情念を解消するために。
木々を傷つけ、鳥の頭をくびり、植物を根こそぎ抜き取ってゆく。そうして「気晴らし」をすることで、意識に反してノイズが発現することを抑えこんでいた。
しかし、ここのところ、その頻度が多くなってきている。
ほとんど毎晩のように、おれは森へ往き、動植物を鏖殺するはめになっていた。
そうしなければ、ノイズの抑制が効かなくなり――最悪、妹を襲うことになってしまう。
夜間に妹をひとりにするのは気が引けたが、腹を空かせた熊が小屋に入ってくるようなことはない。
すでに三頭、熊を狩ったことがある。
そのせいだろうか、あたりの動物は、みな本能的におれを恐れている。
鳥でさえも、小屋に近づくことはなくなった。
ゆえに、動物の姿を求めて遠くまで行かなければならない夜も増えてきた。
断末魔が聴きたい。
血の滴る音が聴きたい。
骨の割れる音が聴きたい。
細胞のひとつひとつ、その結びつきが断ち切られてゆく音を聴きたい。
月明かりに照らされた死肉を視たい。
死に瀕した鳥獣の虚ろな双眸を視たい。
口から、肌から、どくどくと流れ出る鮮やかな血を視たい。
有だったものが無に、イチだったものがゼロになる瞬間を、視てみたい。
ああ、おれは、なんて、なんて醜悪な生き物なんだろう。
いや、もはや生き物という括りには収まりきらないのかもしれなかった。生み出すのではない、ただ壊そうとするおれの衝動を、果たして命あるものの行いとみなしてよいものか。
すぐにでも死ぬべきなのだ。
このまま生きていれば、いずれ、ノイズを制御できなくなるだろう。
だが、おれが死ねば、あいつは、妹は生きてゆけない。
おれは――どうすればいい。
「――――ア、ァァ――――」
月光を照り返す小さなせせらぎを見下ろして、そこに映るあさましい己の姿をあざ笑う。
いや、笑おうとしたのだが、うまく音にならなかった。
水面に叩きつけた手のひらは、黒く変形していた。皮膚が裏返って、甲虫のような得体の知れないものが現れているのだった。
顔も、似たような有様だ。まだ辛うじて自分だとわかるほどの面影は残っていた。それがなくなってしまうのも、時間の問題だろう。
なぜこのように、ノイズの力が増進してしまったのか――
領主の言葉に、われを忘れそうになってしまったあのときか。たかだか阿呆の一言二言で、ノイズが左右されるとは思えない。
原因はわからない。
わからないが、問題はそんなことではなかった。
これからどうすればいいのか。考えるべきは、その一点だ。
いまでは、たったひとりの家族となってしまった妹のために、おれは何をするべきなのか。
妹の、ために。
妹、の。
「――――妹――――?」
水の流れに映った、怪物のような男が首をかしげる。
妹とは、誰のことだったか?
おれに、妹など、いただろうか?
「――――おれ――――?」
おれとは、誰だ?
この不気味な顔をしているのは、いったい誰なのだ?
――駄目だ、正気を保て。
両肩の肉を思い切りえぐる。熱が走るとともに血肉が弾ける。
手のひらを濡らしたのは、月の淡い光でもよくわかる、黒い血液だった。
「――フッ、フッ――フゥッ――」
肺を夜気で満たすと、意識が戻ってきた。
しっかりしろ。こんなところで人でも獣でもないけだものに成り果ててたまるか。
裂けた肩口の傷が、瞬く間に塞がってゆく。
おれは、おれだ。ノイズなどに支配されるものか。
「フゥッ、フゥッ――ウ、ウ、ウゥゥ――」
顔に爪を立てて、眼球や鼻梁を引き裂こうとも、新しい組織は次から次へと産まれ、再生してゆく。
おそらく、もう心臓を槍で貫かれようとも、死にはすまい。
発症したあのとき、三年前のあのときに殺されていれば、こうまで重篤な変貌は起きなかっただろう。
これまでの時は、すべて、妹のためにあった。
もし、発症したのがおれだけであったら、ここまで生き抜こうと思いはしなかったはずだ。
おれたちは、ほとんど同時に発症してノイズとなった。
発症した妹に、剣を向けた王宮の近衛兵たち。その姿に、おれは発作的に踊りかかっていた。そのときに、おれは自分自身もまたノイズとなったことを知ったのだ。
「――――ウ、ァ――――」
あのときの絶望に染まった妹の顔を、決して忘れはしない。自らがノイズとなり、さらに慕う兄も発症したことを知ったときの、あの悲壮に染まりあがった顔を。
妹は、しかし、王宮での泣き虫だったころに比べ、むしろ強くたくましくなったように思う。絶望を乗り越えて、新たな生き方を見出したがために得た強さだった。
それでいい。
あいつは、それでいい。
「――ア、ア、アァァ――」
このまま、おれがいなくなっても生きてゆけるような、そんなしたたかさを、あいつならばきっと。
「オ、オ、オ」
くすんだブロンドの長い髪。王宮を出たときから、ずっと伸ばし続けている髪。そろそろ切ってやったほうがいいかもしれない。だが、おれは不器用だ。うまく切ってやれる自信がない。おれがいなくなったときのために、自分で切らせるべきだろう。
「――――ォ――――」
薄紅の唇は、熟れる寸前の果実のようなみずみずしさと初々しさがある。ただ、山奥のせいか、すぐに乾燥してしまうのは見ていられない。確か、近くに群生する花の蜜に、乾燥を防ぐはたらきがあった。その使い方も、教えておこう。
「――――――――」
伏せられた睫毛こそ、人の目を惹く魅力を秘めている。何せ、ほのかに蒼い輝きを帯びているのだ、神秘的な、雪の精とでも言うべき美しさをたたえて――
「――――――――――――――――ァ?」
愕然とした。
目の前に、妹の顔がある。
目を閉じて、横を向いて、寝具の中で凍ったように眠っている妹の顔が、ある。
なぜ、ここにいる?
なぜ、おれは、小屋の中に戻っている?
「――――――エ、ァ――――――」
妹に覆いかぶさるように、ベッドに乗り上げて獣のごとく這いつくばっているこの姿は、なんだ?
おれは、何のつもりで、ここに。
まさか、いままでも何度もこうやって。
ノイズが発現して、意識を奪われて、こうやって妹の元へ?
冗談ではない。
冗談ではない。
冗談じゃ、ない。
体はまだ黒いままだ。黒く醜怪なノイズのままだ。意識的に戻ろうと思っても、戻らない。いつまでも黒いままだった。
とにかく、ここから出なければ。再び意識までどす黒い闇の中に染まってしまう前に、外へ。
ベッドから降りようとすると、わずかに、軋んだ。
妹が息を呑んだ。
起きていたのか。
よく目を凝らすと、肩がかすかに震えていた。
枕元には、ナイフがあった。
「――に」
妹の唇が開いて、悲鳴ともため息ともつかない小さな声が、その隙間からこぼれ出た。
「兄、様」
ああ。
ああ、ああ。ああああ。
わかっていたのだ。
妹は、もう、わかっていたのだ。
だから、おれは。
おれは、もう。
ここには、いられない。
ここにいては、ならなかったのだ。




