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――6――


 最近、兄様の様子がおかしい。

 数週間ほど前だろうか、町に食料を買い足しに行ったあたりから、おかしくなった。


 夜、わたしが寝静まったあたりを見計らって、小屋を出てゆく。それは前と同じなのだけれども、このごろは夜が明けるころになってから帰ってくることが多くなった。その回数も、ずいぶんと増えたように思う。

 いったい何をしているのか、訊ねても答えは「出てはいないさ」の一点張り。


 そんなわけがない。


 確かに、夜、部屋に兄様はいない。

 けれども、深いことを詮索することはできなかった。


 これまで、いつだって兄様はわたしのために動いてくださった。わたしがきちんと生活できるように、何だってしてくださった。

 多少なりともわたしの行いを制限することはあったけれど、それだってわたしの安全を考えてのこと。


 兄様は、わたしにとても尽くしてくださった――

 だから、今回のことも、きっとわたしにとって悪いことでないはず。わたしが兄様を信じないでどうするというのだろう。

 そんな思いで、今日も夜を迎えていた。


 暗闇の中、しじまが満ちる部屋で、わたしは王宮での出来事を、日記をめくるように思い返していた。

 王宮にいたころの兄様は、いまと比べて物腰が柔らかかった。

 勉強が大好きで、歴史やノイズに関わることについては特に熱心だった。「ぼくがいつか、発症した人たちにとっても幸せな世界をつくるんだ」というのが口癖。

 何かがあるとすぐに泣いていたわたしを、いつもやさしく励ましてくれたのも兄様だった。


 わたしたちが発症して、ノイズとなって、王宮を追われてから――兄様は変わられた。


 危険だから、という理由で命を奪われそうになったことよりも、信頼していた父上や母上、それから王宮の人々に裏切られたことが、何よりも深く心を抉ったのだろう。

 その怒りは、わからないわけではなかった。


 わたしも、はじめは彼らを恨んでいた。

 いまになって思う、あの対応は正しかったのだと。


 わたしは、本当は生きていてはいけない。

 あのとき、死ぬべきだった。


 それでも、いま、こうして生きている。

 兄様が生きろと言ってくださったから。

 実際に、死ぬのが怖かったということもある。

 けれども、わたしは、兄様のために生きようと思った。


 放浪を続けて、山奥のこの小屋を見つけて、ふたりで暮らし始めた当初は本当に辛かった。

 何もかもが手探りで、日常的な行いすべてが学習の積み重ねだった。

 そうして暮らしてゆくうちに、こんな世界も悪くはないと思うようになっていった。兄様とふたりで、誰も傷つけることなく、穏やかに暮らしてゆける。

 そんなやさしい世界が、少しずつ好きになっていったのだ。


 でも、もし、兄様がこの世界を嫌ったままなら――

 いけない。

 また、こんな考えを。


 今日までわたしの世話をして下さった兄様に失礼ですのに。

 早く夢の世界に落ちていって、嫌なわたしから逃れよう。

 夢といえば、夢の中の兄様は、いつだって昔の温厚な兄様だった――


 そうして。

 まどろんで、ゆるやかな坂を下るように、夢うつつの境目をさまよって――


 冷や水をかけられたように目が覚めた。

 何かが、いる。


 姿が見えるわけじゃない。

 しかし、部屋の隅で、何かがうずくまっているような気配がある。

 夜の静寂そのものが凝って、闇のかたちをとったかのような、不穏な気配だった。

 人なのか、それとも獣なのか。


 兄様を呼ぼうとした。

 いや、できない。

 外に出ていったきり、まだ帰ってきていない。


 それに、もし大声を出せば、襲い掛ってくるかもしれない。

 息を殺して、ただじっとするほかなかった。


 部屋の隅で凝り固まった闇も、息をひそめている。わたしの様子をうかがっているのだろうか。

 兄様、早く帰ってきてください――

 ひたすらに祈りながら、固まっていた。

 棚にあるナイフを取ろうかとも思ったけれど、音を立ててしまえばそれでおしまい。獣であったらひとたまりもないし、人であったとしても、男の人に力で勝てる見込みはない。


 わたしは、あらゆるものに恐れられるノイズだというのに、おかしな話だった。

 でも笑えない。笑いごとじゃない。

 このまま一夜が明ければどうなってしまうのか――


 そうして震えていると、次第に、気配が薄れていった。時間の流れと共に、夜気に溶け出してゆくかのように、それは感じられなくなっていった。

 もしかして、夢だったのだろうか。というより、いまも夢を見ているのだろうか。


 結局、気配の正体が何だったのかわからないまま。

 わたしは、今度こそ本当の夢に落ちていった。



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