――7――
この世界は、壊れつつあるらしい。
始まりはいつだったのか、原因は何だったのか、それさえも定かではない。
最古の記録は、およそ五〇〇年前にさかのぼる。
王宮の文献に、このような一文があった。
――天空より降りし七つ星、自然の法規を超克せり――
詳しいことはわからないが、世界の異変がそれほど昔から始まっていたということは確かなようだ。
人はそれを、ノイズと呼ぶ。
突発的に、様々な変化が身体を襲うのだ。
あるものは手から炎を自在に放ち、またあるものは、鳥のように空を舞う翼を得たという。
その症状は十人十色、年齢や性別を問わず、無作為にノイズは発症する。そして発症してしまえば、もう元の人間に戻ることはできない。
人々は、ノイズを恐れた。
常識では理解できない未知のものを忌避するのは、人間である前に生物にとって自然のことであろう。
生物が心の底から安心できるのは、そばにいる存在が自分と同じ種族であるときだけだ。群れを成すとは、外敵から身を守るためであり、精神的な安心を得るための行為だ。
だが、ノイズは違う。もはや同じ人間ではない。
何しろ、どのような歪みをもつのかわからないのだ。
文献によれば、触れるものをことごとく塩に変えてしまうノイズがいたという。また、いくら心の臓を貫こうとも、たちまち蘇ってしまう猛獣のようなノイズもいたのだとか。
そうした常軌を逸するわけのわからない存在が身近にいることを、人は、人々は、決して許さなかった。
一時期は、発症したノイズを保護しようと働きかけたものたちもいるらしい。だが、あまりに強大な力と邪悪な心をもったノイズたちのために、人々は地上からノイズを廃絶しようと目論むようになっていった。
そうして出来上がったのが、今日の人類再生のための『教団』だという。ノイズがいるという報告を受ければ、どこからともなく駆けつけて処理する、得体の知れないものたち。恐怖が、そのような対ノイズ集団を産み出したのだ。
さらに、ノイズ廃滅の理由はもうひとつある。
発症したものは、生殖能力を失う。
これはすなわち、生物の理から外れることを意味していた。
世界の枠組みにとって、まさに異質なものども。
忌み嫌い、雑草を刈り取るように、人々はノイズを排除しようと争った。
だが、いまだに完全な駆除には成功していない。
そもそも――発症の原因がわからないのだから、根本的に無理な話ではないだろうか。
王宮でノイズについて学んだとき、おれが感じたのはその疑問だった。
たとえば病気のように、生きた細かな粒――旧世界の文献によればウィルスという名の粒だという――が体の中に入り込むのとは違う。ノイズは、身体そのものが別のものに置き換わるのだ。
何の前触れもなく地面が大きく揺れたり、思わぬところに雷が落ちるのと同じように、ノイズは無作為に発症する。
ゆえに、根絶というのはノイズへの対処として間違ったものではないのか、と疑問に思い続けていた。
ああそうだ、確かにそうかもしれない、といまでも思う。
とくに危険でないようなノイズは、事実として存在するのだ。そのようなノイズたちの命まで分別なく奪うというのは、明らかに誤ったやりかただ。
だが、それは一部のノイズの話であって――
おれのようなノイズは、生きていてはならない。
発症したときに、おれは思い知った。人々がノイズを根絶やしにしようとする理由がわかった。
おれは、危険だ。
死ぬべきなのだ。
しかし、あいつは違う。
妹は、おれとは、違う。
そのことが、ノイズでないものにはわからないのだ。おれと妹を一緒くたにして、共にこの世界から弾き出そうとした。
その怒りは、いまでも心の内側でくすぶり続けている。
王宮、ひいては帝都のすべての民から追われるように逃げ惑い、放浪すること半年にして、この地にたどり着いた。
ようやく見つけた安寧の場所。
荒廃していた帝都の風景とは違い、ここには自然が満ちていた。
しかし、もっとも驚いたのは、おれと同じような考えをもつ人間がいたことだ。
この辺りを統治する領主は老いていたが、聡明だった。
発症してノイズとなったおれたちを受け入れてくれた。
それは、領主の幼い孫娘がノイズとなり、やがて死んでいったという無念があったためだろう。
人の心が読めてしまうだけの、何の害もないノイズだったという。
そういう所以があり、領主は、おれたちが山奥の小屋に住まうことを承諾してくれた。その上『教団』へ密告することもなかった。
おれたちは、慎ましやかな生活を手にしたのだ。
――そのはずだった。
領主は、半年前に、流行り病で逝った。
いま、この土地を牛耳るのは、彼の弟の息子――すなわち甥である。
「これはこれは王子サマ。いいや、元王子サマか」
薄気味の悪い笑顔、下種なだみ声、魂胆の見え透いたまなざし。
新たな領主は、いつもの最悪な風貌でおれを出迎えてくれた。
「先に申し付けてくだされば、それなりの饗応を準備いたしたのですがなぁ」
「必要ない」
「そう遠慮なされるな。それとも、落ちぶれた王族のご身分であっても、下賎な民のもてなし程度ではご不満でしょうかな? くはっはははは」
「…………」
その容姿は、どちらかといえば山賊だ。無駄に図体がでかく筋骨隆々として、傲慢な性格がそのまま身体にあらわれているかのようだった。
だが、知能の面からすれば鶏にも劣るほど愚昧な男だ、ひとりで領主の地位を得られたはずがない。
手引きをしたのは、その後ろに控えている小男だろう。
「して、本日はどのようなご用件ですかな?」
そう言って、小男はゴマをするような目で見上げてくる。領主を思うがままに操って美味い汁を吸っているのはこいつだ。
「いつものだ。食料と、それから塩と砂糖が欲しい」
「左様でございますか。それでは、しばしお待ちを」
小男は頭を下げて、墓場から蘇った死人のような顔に笑みを浮かべると、門の中へ入ってゆく。
前の領主が死んでから、おれが町へ立ち入ることは禁止された。町の住人からの視線は、以前も友好的であったというわけではないが、このように拒絶されることはなかった。
ゆえに、いまでは生活に必要なものを買い足すときでさえも、こうして町の外で待たなければならないというわけだ。
出迎えは、邪悪さが人間の形に固まったかのような領主と、それを陰で操る小男、そしてもうひとり――領主の後ろで申し訳なさそうに肩をすくめるばかりの青年。
歳の頃は二〇を過ぎたあたりだろうか、おれよりも若干上であるようだ。人のよさそうな柔和な顔立ちを怪訝にゆがめて、いつもただ黙って領主に付き従っている。
彼は、前領主の孫だ。彼の父、つまり前領主の息子はすでに他界しており、本来ならば、この青年が次の領主になるはずだった。
だが、この有様だ。何かの弱みを握られているのだろうか、阿呆面した領主に付き従わざるを得ない立場にあるらしい。
彼が領主になっていれば、この待遇も多少はよいものになっていたのだろう。だが、彼に恨み言を吐いても仕方がないし、そのつもりもない。
おれは、ノイズだ。ノイズは世界から忌み嫌われる。
これが常態、正常な扱いなのだ。
「それはそうと、しばらくぶりですな、王子サマ」
領主は顎に手を当てて、値踏みするような視線を投げかけてくる。
「お変わりないようで安心いたしましたぞ」
「ああ」
「山の上はまだ寒うございましょう。できることならば、この町の近くで暮らしていただきたいのですがねぇ、なにぶん、民草があなたがたを恐れてしまっておりますのでなぁ」
「ふん」
「いやはや、わたくしめも心苦しいばかりでございますが、これも民衆を思ってのことゆえ、ご寛恕なされよ」
「…………」
「ふはっははは、さすが王子サマは……いや、元王子サマは寛容であられる」
ひとしきりけらけらと笑ったあと、領主はふと真顔に戻ったかと思うと、小さく舌打ちをした。おれの反応が薄かったせいだろう。こういう馬鹿の言葉にはまともに付き合うべきでない。
檻の中の虎をからかっているつもりなのだろう。低俗な趣味だ。
それから斜め上に視線を飛ばした領主は、何かを唐突に思い出したかのように下種な笑みを取り戻すと、
「それはそうと、妹君――王女サマのご容態は?」
ああ、そう来ると思っていたさ。おまえのような性根の腐りきった男の行動など、1と1を足すよりもわかりやすい。
だからこそ――おれは、歯噛みするしかできなかった。
「……おまえには関係ない」
そう吐き捨てるので精一杯だ。
「おやおや、悲しいことを申されるな。先代の領主の遺言でしてね、あなたがたを手厚く援助せよ、と。妹君に何かあっては、地獄の――いやいや、天国の先代に顔向けができませぬゆえ」
「何も、問題は、ない」
不出来な子供――というよりは、言葉の通じない異民族を諭すように、ゆっくりと台詞を吐き出す。
妹がノイズであることは、前領主にも伏せていた。
代わりに、病に侵されていると虚偽を吹き込んである。
「おまえの関知するところではない。おれの、おれたちの問題だ。干渉するな」
「そうは言われましてもな。あなたは、そう、ノイズなのでして」
「だからなんだ」
「わかりませんかな。あなたのノイズがどのようなものなのか存じませんが……いつ大きな変異を起こすことやら。妹君の御心も、安らかではありますまい」
「…………」
「まあ、われわれとしては、町ひとつを飲み込む爆弾を抱えて眠るようなものでしてなぁ。旧世界の遺産の、なんと言いましたか……ああそうだ、ミサイルとかいうあれですぞ。抱いて眠るにしては、少々心地の悪いもので――」
「きさま――」
我知らず、一歩踏み出していた。
黒々とした情動が、肺腑の内側でうごめいている。
皮膚を突き破って、外へ流れ出ようとしている。
この男は、ダメだ。何もわかっていない。
潰してしまおう。
手が伸びる――領主の首へ。
領主が、弾かれたように飛びのいた。
同時に、青年が領主をかばうように、両手を広げて前に進み出る。
青年と目が合った――淡い紫色の澄んだ瞳が、咎めるような視線を送ってくる。そして、青年は小さく首を振った。挑発に乗ってはならない――と。
おれは、手を止めた。
止めようと強く意図しなければ、止まらなかっただろう。
右手の甲が、わずかに黒く変色していた。甲虫か何かのような、硬質なてらてらとした光が手の甲にあらわれていた。
ノイズだ。
おれの、ノイズだった。
「――っ」
右手を引っ込めて、左手で包み隠す。
震えている。
腕が。脚が。
怒りのせいではない、恐怖のためだった。
こんなこと、いままでになかったというのに。
感情に流されて、危うくノイズの力を振るうところだった。
「は、はっははは……ははははは」
領主は腹を抱え、狂ったように笑い出した。
「おい、いまの顔を見たか? まるで獣だったじゃあないか! 卑しい、惨めな、飢えた獣だ! なあ、おまえも見ただろう、なあ!」
まくし立てられた青年は、ためらいがちに「……ええ」と首肯した。
「これが本性だ、ノイズの本当の姿だ。ああ恐ろしい、やはり先代は狂っておられた! こんなけだもの、守りとおす必要なぞどこにあろうか!」
「伯父上、お言葉ですが……」
「なんだ、おまえはこいつの肩をもつというのか?」
「いえ、決してそういうわけでは……」
青年は、いま一度おれの瞳を見た。
どうか無礼を許して欲しい、という苦渋の眼差しだった。
「ですが、彼らを教団に密告、あるいはこの地から放逐するようなことがあれば、彼らの隠しもつ財産は手に入りますまい」
「そんなもの、あとから探せばよかろう」
「できぬように策を講じておられるはず。そうでしょう、王子様」
おれは青年から目を逸らして言う。
「……そうだとしても、教えるつもりはない」
王宮から持ち出した宝物があることは確かだった。金銭も、町で生活する庶民の財産に比べれば莫大なほどの量を確保してある。
それを根こそぎ奪い取ろうとする領主に、青年はブラフを仕掛けているのだ。もちろん盗られぬよう隠してはいるが、彼の言うような策などというものはない。
この場を丸く治めるための、虚言だった。
なにしろ、ノイズが罠を張っているというのだから、ただの人間のそれよりも恐怖の度合いは高い。
「……ふん、木っ端のために余計な被害を出すわけにもいかんか」
領主はしたり顔でつぶやくと、居丈高に宣言する。
「だが、もしわが領土の民に害をなすようなことがあれば、いくら王子……いや、元王子サマとて看過できませぬぞ」
自ら煽っておきながら、この言葉だった。鶏頭にもほどがある。
まったくもって愚かしい。
損得勘定のできない馬鹿も、ここまで極まるとすがすがしいくらいだ。
だが――その痴愚にさえ従わざるを得ないおれは、いったいどこまで哀れな生き物か。
ああ、いっそのこと、この馬鹿を葬ることができればどれほど快感だろうか。
すべてを投げ打って、憤激と憐憫から湧き上がる黒くおぞましい情動に身をゆだねれば、どれほど心地よいことだろう。
そのようなことは、下らない考えだ。
そうなってしまえば、おれはまさに人間としての、人間だったころの尊厳さえも失ってしまう。
ただ本能のままに暴れ回る犬畜生と変わらない存在に成り果てる。
そんなものは、生き地獄だ。
妹のためにも、許されない。
あれを守ることができるのは、おれだけだ。
「お待たせいたしました……おや、いかがなされたかな」
大袋を担いできた小男が、場の剣呑な空気に眉をひそめた。
「猛犬に躾をしておいたまでのことだ。おまえが気にすることではないぞ」
その領主の言葉に、小男はあからさまに怪訝な顔をして、「またか、この暴れ馬めが」とささやいた。領主へと向けた言葉のようだ。
誰にも聞こえないようにささやいたつもりだろうが、おれの耳にはしっかりと届いていた。
「ん、何か言ったか」と領主。
「い、いいえ。ところで王子様、少々申し上げにくいのですが、今年はどうも不作でございまして。加えて、訪れる商隊の数も減り、物価が高くなってしまったのでございます」
「構わない」
どうせ何を言おうとも、おれたちに決定権はないのだから。
「まことに申し訳ありませんが、此度は四五〇セーレほどいただきとうございます」
「ああ」
前回と比べ、およそ二倍の値段だった。
嘘か真か、どちから問うても答えはしまい。
領主と違い、この小男は樹木に群がる羽虫たちのように、じわりじわりと甘い蜜を吸う。領主に比べれば利口なやり口だった。
おれを利用しようと企むところは領主と同じで癪だが、阿呆な問答するよりも精神的にはよっぽど健全だ。
生きるためには、従わなければならない。
世界に跪かなければ、生きられない。
なんと醜い世界だろう。




