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――8――



 王宮を追われて、山奥の湖畔のほとりにある小屋で暮らし始めてから、三年が過ぎ去った。

 かつての生活に戻りたいと思うことがないわけではない。それでも、過去の煌びやかな頃を懐かしむだけで、いまのわたしには十分だった。


 慎ましやかな生活だって、悪くない。


「……昨日は、すまなかった」

 朝食の席で、兄様はぽつりとそう零した。


「昨日、ですか?」

 わたしはシチューを運ぶスプーンを止めた。

 兄様のつくった朝食。すこし濃い目の、不器用だけれどもやさしい味。


「あんな言い方をするべきじゃなかった。許してくれ」

「そんな……わたしは気にしておりません」

「少し、気が動転していたんだ」

「なぜです?」

「ナイフを隠し持っているとは知らなかった」

「あ、あれは、その……」

「わかっている、護身用だろう」

「ごめんなさい、兄様のものなのに勝手に持ち出してしまって……」

「いや、いい。あれはおまえにやる。だが、手荒な真似はなるべく控えるように。何かあったら、すぐにおれを呼ぶんだ」

「はい、頼りにしています」


 そう返すと、兄様は「ふん」と小さく鼻を鳴らした。笑ったのだろうか。まさか照れているのだろうか。それとも怒ったのだろうか。


 少なくとも、悪い意味でないことは、食事が終わった後にわかった。


「最近、暖かくなってきたな」

「ええ」

「この前、町まで下りるときに気が付いたんだが」

「はい、なんでしょう?」

「この近くに、花が多く咲いている場所があった」

「まあ!」

「見かけたときは半分ほどが咲いていたんだ、そろそろ満開になっている頃だろう」

「それは素敵ですね」

「どうだ」

「どうだ、とは?」

「行ってみないか」

「いいのですか……!」

「ああ」


 普段ならば、兄様はちょっとのことでは外出を許してくれないというのに。昨日のお返しのつもりなのかもしれない。

 心浮き立つのは久しぶりだった。


 兄様に手を引かれて、わたしは小屋を出た。

 日の光が心地いい。まだ肌寒さは残っているものの、それを包み込んでくれるような陽の暖かさだった。もっと標高の低い町や帝都のあたりは、もうすっかり夏の気候なのだろう。


 道中、兄様に「足元の段差、気をつけろ」「枝に髪を引っかけるなよ」とエスコートされながら、しばらく歩き。


「着いたぞ」

「ここが……」


 ゆるゆると風が吹いて、やわらかな花の香が漂っている。

 深呼吸をすると、とろけるような甘い空気が胸いっぱいに満たされる。


 一面の、花畑。


「すごい……なんというお花でしょうか?」

「さあ……黄色い花弁、小さなギザギザの葉に、蜂蜜によく似た香り……王宮で読んだ本には書いてなかったな。この土地特有の植物かもしれない」

「ねえ、兄様」

「なんだ」

「とても綺麗でしょう?」

「花のことか?」

「兄様の瞳に映る世界です」

「…………」

「世界は醜くなんかありません」

「……おれには、そうは思えない。おまえはやさしすぎるんだ」

「わたしが?」

「ああ」


 兄様は間を置いてから、「おれは忘れていない」と呟くように言った。


「三年前、おれたちは殺されかけた。決して裏切ることのないだろうと思っていた人々に」

「……はい」

「おれは信じていたんだ、王宮の人間を。帝都の民衆を。彼らも同じように、おれを、おれたちを信じていると思っていた」

「わたしも、そうです」

「だが、裏切られた。あっけなく。おれたちが発症したとわかった途端に、手のひらを返して殺そうとしてきたんだ」

「はい」

「おれは、彼らを許せない。二度と帝都に、王宮に戻ろうとも思わない」

「はい」

「本当ならば、おれもおまえも、こんな場所で生活するはずじゃなかったんだ。それなのに――」

「兄様は」と、わたしは遮って言う。「恨んでいらっしゃるのですか、彼らを」

「……そうだ」

「復讐をしたいと、思っていらっしゃるのですか」

「…………」

「彼らの判断は、間違っていませんでした」

「受け入れるというのか、殺されかけた事実を」

「いいえ。けれど、彼らの思いもわかるのです。彼らは恐れていた。あのまま王宮にとどまれば、彼らの生活にも、また大きな影響が出ていたことでしょう」

「…………」

「誰が善で、誰が悪だとか、そういう話ではありません」

「……それが、やさしすぎるというんだ」

「それでは、兄様はどうされたいのです?」

「おれ、は――」

「わたしは、いまの生活で満足しています。むしろ、王宮での暮らしよりも自由気ままでいいくらい。兄様は、嫌ですか?」

「…………」


 兄様は、押し黙ったままだった。


 ――こんな質問は、卑怯だ。

 聞かなければよかった。


 わたしは、御託を並べながらも、つまるところは兄様の反応を知りたかっただけ。いまの生活が嫌いか。わたしと離れて暮らしたいか。わたしは、またわたしのために問いかけてしまっている。


 そんな意地の悪さが露わになってしまう前に、わたしは「ごめんなさい」と口走っていた。


「兄様は、いつもわたしのために尽くしてくださいますのに」

「……気にするな」


 兄様はそう言うけれど、後悔の念は消えない。

 せっかくここまで連れてきてくれた兄様の気遣いを反故にしてしまった。わたしは、わたしが嫌い。


 そう――兄様がいなければ、わたしは生きることをやめてしまうのかもしれない。

 だからこそ、兄様の心の内を知りたがっている。


 それは、安心するために?

 それとも、この世界と決別するきっかけを得るため?

 わからない。

 わからないけれど。


 わたしは、卑怯な女だ。

 兄様、本当に醜いのは、世界じゃない。


 あなたの妹なのです。



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