Verklärte Nacht/Arnold Shoenberg
続・イタリア紀行(Verklärte Nacht/Arnold Shoenberg)
マスクの下には顔がある。だが今はその顔も隠れ、匿名性が理性を麻痺させ狂気を加速させる。ほおっといてあげればいいのに、そんなのあえて言及する必要なんて無いじゃないか、集団と匿名性は無限の顔をひっぺがしていたずらに快楽の暴徒に人を変容させる。マルクーゼもホルクハイマーもアドルノもかかってこいやぁー!えーこらー!と蝶野のモノマネをするブラックビスケッツの南原清隆、進化心理学的リヴァイアサンはアウシュビッツにも731にもここ光が丘にもいる。業者のリーダーが首を横に振った。不躾に少女にふなっしーは返された。酢飯疑獄に仏あり。ただ汚れたスケベ椅子に似た浴槽の椅子と黄ばんだ洗面器ですら回収しなければならないのは心の痛みを通り越してその重箱の隅をつついてばかりいる研究者の論文にも似た徹底さにははたと呆れた。また肉体的疲労と精神的疲労とで唾液中のコルチゾールとαアミラーゼと、クロモグラニンが増加していたからか、後半の終わりにはもう何があっても感覚が麻痺したのか、可哀想だという感覚も消えるには消えていた。いや、適切ではない。消えてはいなかった、ただ可哀想に慣れてしまったのだ、と言った方が情動の適切な描写であろう。ぼくの大脳辺縁系を流れる血液中の酸化ヘモグロビンの量が減少し、またrTMSを用いたオフライン実験のようにぼくの情動部位の情報伝達を司るシナプス前細胞のシナプス小胞も枯渇してしまった。もうぼくの頭には早く帰りたいとする一心のみが、早く帰って熱い風呂に入って、キンキンに冷えたビールを飲むことしか頭になかった。自分が何より一番、他者を労る心の余裕は二の次。他者を哀れむはまた音楽と同じく聴覚のチーズケーキにしがない。人が人を喰う。人を喰う職業はまっぴら御免だが、喰わねば社会は回らないし。特定の個人だけに法の適用を免れる法もない。情状酌量もまた法的措置に則らねばその法務官が失職する。保身、保身、保身、世界の半分はバファリンと保身でできている。保身のチンポマン、と東京大学物語作中、吉野は語るが彼は真理を淡々と突く。すべてが各個人の保身で世界は回る。責任逃れの終始一貫でことなきを得て我慢量としての給与をもらって今日も家に帰る。それはぼくも同じ穴の不思議の海のナディア狢だ。日々を精一杯生きる人間に他人に干渉する暇はない。とはいえ、日々こき使われている人間には毒吐くスレがある。たいして賢くもない阿呆が阿呆をののしり、一時の暗黒の清涼剤を得る。精神疲労で溜まった心の黒々とした得たいの知れないものをいかにして昇華するかでその人間の価値が測られる。ダークマターを人にぶつけるか、はたまた共感を呼ぶ芸術で昇華するか、ドストエフスキーの地下室の手記も特定の個人に向ければ価値は減ずる。それをマスに拡散した時に、また特定の個人に絞らない時に、またしぼったとしてもそれはネルーの世界史のように愛を持ってぶつけた時に人間の価値は最高に高まる。