44・カーテンコール 後編
太陽が東と真上の中間辺りに漂う、朝のギラソール。
学園が休日であろうと、街の住人には仕事がある。むしろ、学生たちが街に溢れる日こそ稼ぎ時になる店の方が多いと言えるだろう。
露天でホットドックを売っている体格の良い中年の男へと、赤毛の少年がテーブル越しに硬貨を差し出した。
「おっす」
「よぉ、レオ。これから仕事か?」
炭火であぶった肉汁の滴るソーセージを新鮮なレタスと一緒にパンの切れ目へと投入しながら、男は黒の半袖に紺の長ズボン姿のレオへと問い掛ける。
「応よ! 最近はあの村との往復ばっかしてたから、久々に移動しなくて済むぜ」
「運がなかったってだけなのに、律儀だよなぁ――ほれっ、おまけだ」
「ありがとよ!」
常連のレオへの贔屓としてトッピングの野菜とソースを多めに乗せたパンを受け取り、少年は大通りを中央の結界塔の方角へと走り抜けていく。
大口を開け、熱々のホットドックの三分の一ほどを一気に噛み千切り、肉と、野菜と、パンと、ソースのうま味が渾然一体となった至高の一品を租借する。
「んー……やっぱ、朝はあそこの出来立てが一番だな」
指先に付いたソースを舌で舐め取りながら、レオは笑みを作って美食家のような評価を下す。
食道楽の気があるレオは、入学当初から稼いだ金で街中の屋台や飲食店を回りそれぞれの味を確かめて回っていた。
普段の態度から味は二の次でとにかく量のある料理を好みそうな彼だが、その舌は中々に侮れず確かなものを持っている。
「美味い店はレオに聞け」、は付き合いの長いシロエやディー以外でも知り合った学生の間では常識となりつつあった。
そんな彼が向かう先は、東西南北で切り分けられた街の西――王国の中心に近いこの街へと流れて来た様々な物資を加工する職人たちの工業地区だ。
「お、レオじゃん。お疲れー」
「おうっ」
「これから仕事か? 頑張れよっ」
「お前らもなっ」
道行く同学年だろう人間の男女と、すれ違いざまに挨拶を交わす。
出土した古代兵器の暴走という形で街の住人に知れ渡った村での一件以来、そこに居合わせた学生たちはちょっとした有名人になっていた。
社交性のあるレオや拒絶の意思を明確に出来るディーとは違い、気弱で流され易いシロエには再びシルヴィアが護衛に就いたほどだ。
特にシロエは、人工精霊という世間では非常に珍しい存在と契約を結んだ事もあり、他の者よりも注目度が高い。
「しっかし、また面倒事にならなきゃ良いがなぁ」
頼りになるが頼りない幼馴染を思い浮かべて苦笑しながら、最後に残ったパンの欠片を口の中へと放り込む。
「ま、なるようになるか――よっ、ほっとっ!」
近道をしようと、レオは足に筋力と心力を込め立ち並ぶ街頭の一本の頂点まで跳び上がると、続いてその上にある家屋の屋根へと跳躍する。
「こらぁっ、レオ君! 街の中での心技使用は、非常時以外は控えなきゃダメでしょー!」
「はいよぉ!」
警備委員の服を着たリスの獣人らしき大きな尻尾を持つ女子から見咎められるが、レオは返事だけは元気良く返してそのまま次の屋根へと移って行く。
街は変わらず活気に満ち、喧騒は止まる事なく溢れ続ける。そんな騒がしい音を下に、赤毛の少年は仕事場を目指して空を跳ぶ。
今日もまた、新しい一日が始まろうとしていた。
◇
同じ頃、研究塔の入り口では学園の講師であるネージュ・エクレールがやって来たシロエに対して目礼を送っていた。
「突然の呼び出しに応じて頂き、ありがとうございます」
射抜くような鋭い両目の手前にある銀縁の眼鏡に片手を添え、抑揚のない声で少年を労う。
「いえ、ボクの方は特に用事もなかったですから」
シロエの人差し指には、今までなかった真鍮の指輪がはめられている。その装飾として込められた蒼玉こそ、あの時の巨人より飛び出して来た人工精霊の核だ。
人工精霊の肉体を維持するには、契約者の魔力が必要になる。今はシロエの負担を抑える為に、ラキにはこの状態で休眠状態に入って貰っていた。
至極どうでも良い蛇足だが、研究塔に常駐するヴァネッサを警戒したシルヴィアが呼ばれてもいないのに同行しようとする事を先読みし、ネージュに頼まれたディーが説得と足止めを行っていたりする。
教師の側も、知り合った生徒をしっかりと良く見ているのだ。
「えと、ラキ――人工精霊に関する事だと聞いて来たんですけど」
「細かな説明は、歩きながら説明する事にしましょう。こちらへ」
一般の入り口である木製の扉を開き、ネージュはシロエを招き入れた。向かう先は、「関係者以外立ち入り禁止」の札が貼られた通路の先にある地下への階段だ。
「今回、貴方をお呼びしたのは学園長とヴァネッサ教諭の意向になります。どうやらあのお二人は、随分と貴方の資質を買っているようです」
「そ、そんな……ボクなんて、まだまだ全然ダメですよ」
何時もの通り、過大な評価に申し訳なさそうな顔で謙遜を返すシロエ。
等間隔で壁へと取り付けられた魔力の光が灯るランプの明りを頼りに、二人は薄暗い螺旋の階段を下って行く。
「私としても、これが貴方や彼女にとっての契機の一つになればと考えています。強制ではありませんが、可能であれば時々で構いませんのでこちらに訪ねてあげて下さい」
「訪ねる? 誰かと会うんですか?」
そんな会話を続け二階分ほどの距離を移動すると、その最後に扉の一面に複雑な模様の刻まれた重厚な金属製のドアが姿を現す。
魔道を齧った者ならば理解出来るその模様は、内と外を隔てる為の強力な封印だった。
「どうか、彼女たちを恐がらないであげて下さい」
答えず、そして答えを聞かないまま、ネージュはその扉を開く。金属の擦れる硬質な音と共に、ゆっくりと中にある空間をシロエの眼前に晒していく。
「――ヤァ」
最初に聞こえたのは、ざらざらとした砂でも含んでいるかのような奇妙な掠れ声だった。
キィッ、キィッ、っと車椅子の車輪が回る音と共に、部屋の奥に居た者が暗闇から姿を現す。
「済まないネ、こんな暗い場所に招いてしまっテ――強い光のある場所だト、どうにも「この子」が怯えてしまってネ」
腰まで伸びるだろう長い白髪に、日の光を忘れた白い肌。短めの白衣を着た、一目で不健康だと解かる酷くやつれた人間の少女の両手足の部分には、肉体の代わりにとある物質で埋め尽くされていた。
それは「砂」だ。より正確には、「砂金」。
彼女の肘から先、膝から先からは肉体が失われ、その全てを輝く砂の模造品によって代用されているのだ。
そして、少女のあるべき両目もまた同じく――
見れば、部屋の白い地面には通った車輪の跡が残るほどの大量の砂金がそこらじゅうにばら撒かれている。
「資材調達型人工精霊。URIE――タイプR――略式名称、ウリエーラ。それが、彼女の契約した精霊の名です。契約者である彼女の名は、セラフィー」
「初めましテ、同胞くン」
「は、初めましてっ。ボク、シロエって言います」
前後からの紹介を受け、シロエが慌てた様子で大きく頭を下げる。
少女の容姿に怯えるでも恐れるでもなく、ただ自然体の態度で接するシロエへと金色の砂で出来たセラフィーの義眼が細められる。
「ふム、聞き及んだ性格から想定していた反応と若干違うネ――いヤ、だからこそカ」
「?」
「どうやら君ハ、本当に聡い子のようダ」
シロエにとっては、手足の欠損した人物と古くからの知り合いだという事が冷静さの一因だった。
そして、シロエは理解しているのだ。誰であれ、その惨たらしいまでの容姿に同情を覚えるだろう儚げな少女は、自らの意思によって今の姿へと成り果てた事をむしろ誇ってさえいるのだと。
「そしテ、話の通り優しい子でもあるようだネ……」
小さく呟いた少女の金の手が触れぬまま、車椅子の車輪が砂を含んで回転する。地面に溢れる砂金たちの正体は、彼女の契約した人工精霊の手足だったのだ。
「まずは茶を出そウ――見ての通り少し砂っぽい室内だガ、ゆっくりしていってくれたまエ」
「はいっ」
セラフィーの申し出に、シロエは素直に頷く。断る理由はなく、むしろ人工精霊との付き合いが自分よりも長い先達からの話が聞ける事を喜んでいるほどだ。
「それでは、私はこれで。面会時間を過ぎるようでしたら、またお迎えに参上します」
「済まないネ、ネージュ女史。我侭を聞いて貰っテ」
「構いませんよ。むしろ、この程度の願いさえ今までなかった事が異常なのだと理解して下さい」
「相変わらズ、手厳しい事ダ」
「性分ですので」
立ち去っていくネージュを、半身を失った少女はくつくつと皮肉と自嘲を込めた笑みで見送った。
「精霊同士の顔合わせハ、また後日としておこウ。まずハ、二人だけのお茶会ダ」
「はい。あ、手伝います」
「ふフッ、ありがとウ」
この日、シロエとセラフィーには新しい友が出来た。共に人工精霊という特殊な存在と契約を果たした、境遇を同じくする友が。
そして、それはシロエに初めてレオやディーへの内緒が生まれた日でもあった。
ネージュの希望通り、シロエはこの場所へと時折訪れるようになる。学者然とした態度を取るセラフィーもまた、代わり映えのしない地下生活に退屈していたようでそんなシロエを快く招き入れた。
二人の邂逅とその積み重ねにそれなりの意味が生まれるのは、もう少しだけ先の話になるだろう。
今はまだ、二人の関係は茶飲み友達から始まったばかりだった。
◇
「くそっ、ディーエンめ。シロエが今、研究塔の何処に居るのか解からんではないかっ」
「お疲れ様っす」
「大変だったみたいですね」
食堂の奥の端という最もひとの視線を避けられる場所で、拳でテーブルを叩くシルヴィアを向かいの席に座るデジーとユアンが苦笑交じりに労う。
三人の前には、スクランブルエッグとレタスのサラダにとうもろこしのスープと白パンという、同じメニューのモーニングセットが置かれている。
結局、口ではディーに勝てず強引に突破を試みたシルヴィアだったが、研究塔の上から下までくまなく探してもあの小さな鍛冶師の目撃情報すら得る事は出来なかった。
怒り心頭で蒼の魔道士に詰問しに戻れば、彼もまたすでに逃げた後だったというわけだ。
「まずは食うぞ。食事を疎かにしては、思考も行動も鈍る」
「了解っす」
「ですね」
レタスにフォークを突き刺すシルヴィアに同意し、デジーとユアンもまた白パンをスープに軽く浸したりベーコンの混じった卵を掬ったりして口へと運んでいく。
「そういえば――」
「うん?」
「どうしたっす?」
食事の途中、ユアンの口から何気ない話題の一つが振られる。
「この前シズクさんから聞きましたが、シロエ君たちがしている食事前の習慣は羅国の風習だったんですね」
「そうなのか?」
「えぇ。何故かシロエ君たち本人も知らなかったようで、結局ご一緒していたシズクさんが教えてくれました。どうも、シロエ君たちが暮らしていた孤児院の神父様が教えていたらしいですね」
「聖職者なのに、他教の風習を日常化させてるんっすか。珍しいっすね」
シロエ達の住む大陸には、勢力として大別した場合三つの宗教が存在する。
人間を中心とした国家で主に広まっている、唯一絶対の神を崇め、天地創造の最後に生み出されたとされる人間こそが完成した神の使徒であると定めたカナン教。
獣人やエルフ、または人間の中でも自然との共存を求めて生活する者たちが信じる精霊信仰。
カナン教に押されて下火となり始めたものの、今尚痩せた土地の多い大陸の北部で根強く信仰されている戦への練磨と闘争の果てに三柱の女神への信仰を見出すバーテス教。
大陸の中心部にあるアリスレイ王国で「教会」と言えば、それはカナン教の教会であると考えるのが普通だった。
「確かに、シロエたちの暮らしていた教会がカナンの洗礼を授けられた神父によって運営されているのならば――少し不思議に感じるな」
敵対とまでは言わないが、カナンの教えは他教に否定的だ。大陸から離れた島国伝来の習慣を認める事は、聖職者によっては背信にも近い行為とみなされる場合もある。
「試しにシロエ君に書いて貰ったっすけど、象徴は確かにカナンの聖杯だったっすね」
カナンの象徴は、聖杯を模すT字に守護と抱擁を示す大小二つの円環を重ねた紋章だ。もしや宗教が違うのかと思いきや、やはりシロエたちの暮らしていた場所はカナン教の教会で間違いないらしい。
「シャルルは、シロエたちは洗礼を受けた事がないらしいと言っていた。眉唾な話だと聞き流していたが――」
辿り着きつつある不穏な事実に、シルヴィアが眉を寄せて低く呻く。
カナン教が盛況になった理由の一つは、その儀式や行事が人々の生活に深く根ざしているからだ。
冠婚葬祭を始めとし、赤子の命名や一部の怪我人や病人などの治療、更には孤児の受け入れや職を失った者たちの斡旋なども請け負っている。
村や町など、一つの集落に教会が建てられれば大小に関わらずその恩恵を授かる者が生まれ、その輪が次第に広がり生活になくてはならない一部となっていくのだ。
そして、祝福や洗礼はそんな行事の都度行われる日常的な儀式の一つなので、シロエの発言は普通に考えてまずあり得ない。
「つまり、洗礼をしない――仕方を知らないという事でしょうか?」
「無許可、運営……」
「「「……」」」
証言や状況証拠などを総合すると、そういう事になる。勿論、かの宗教にとってそれは問答無用で捕らえられ建物を破壊されても文句は言えないほどの重罪だ。
「――今日のスクランブルエッグは、何時もより美味いな」
「そうっすね。質の良いベーコンでも仕入れ出来たんっすかねぇ」
「レタスも新鮮ですよ。良い歯応えです」
どうやらシルヴィアたちは、今までの会話をなかった事にすると決めたらしい。実際のところどうかは解からないが、この問題を深く掘り下げるのは色々な意味で危険だろう。
無理に突き詰めて、それこそ知ってはならな真実が顔を出せばどうなるか――禁断の箱の開け方は、知らない方が幸せなのだ。
「最近、調子はどうだ? 二人とも」
「晴れて進級試験は合格出来ましたし、今はシロエ君と一緒に考案した携帯調理用の魔具の試作品を、夏季休暇までに完成させるのが目標ですね」
「こっちもボチボチっすねぇ。最近じゃあ上手い儲け話もそんなに転がってないっすし、広く浅くで商売させて貰ってるっす」
やや強引な舵取りで話題を当たり障りのないものに移し、特に実のある内容でもない会話を始める三人。
「夏季休暇、か。さて、帰省はどうするかな」
「オイラはどのみち、中間報告とかで一度実家の商会に戻る必要があるっすからねぇ。うぅ、今からもう胃が痛いっす……」
「学生の身でありながら、もう商家の一員として扱われているんですね。流石です」
「いやいや。オイラなんて、商会の認知度を広める為だけに席を置いてる下っ端っすよ」
変化がないように見えて、日々は確実に進んでいる。
行き着く先など解かりはしないその道は、それでもどこかの出口か別の入り口へと続いているのだ。
「私もそろそろ――見つけねばならんか」
霹靂の騎士が、その胸に渦巻く自問への答えに辿り着く日も――もしかすると近いのかもしれない。
◇
演習場の森を背にした、校舎の裏側。
人気もないのによくよく縁のあるその場所には、受け取った手紙の通りフレサが律儀に一人で訪れていた。
「呼び立ててすまない。人目にある場所では、何かと話題になってしまうだろうからね」
待っていたのは、武芸大会において彼女の命を危険に晒すほどの多大な迷惑に巻き込んだ張本人であるクリスだ。
「それで、えと、ご用件はなんでしょうか?」
「まずはこれを」
僅かに怯えるフレサへとクリスが背後から出したのは、黄色のリボンでラッピングがされた長方形の木箱だった。
「あ、あの、え?」
「ティーセットだよ。それほど高価な品物ではないから、安心してくれたまえ」
「は、はぁ」
困惑する獣人の少女へと、押し付けるようにして木箱を渡す。
「どうして、こんな物を私に?」
「謝罪の品だと思ってくれたまえ。武芸大会では、僕たちのせいで君に大変な迷惑を掛けてしまった――本当に、申し訳ない」
「え?」
貴族の嫡子が、平民へと頭を下げる。本来ならあり得ない――あってはならないその行為に、謝罪された側である少女は何が起こっているのかまったく理解出来ていなかった。
そして、しばらく呆然としたままじっくり時間を掛けて事態を把握したフレサは、ようやく両手を前に出して慌て始める。
「あ、あのっ、そのっ、頭を上げて下さいっ」
「許して貰おうなどと、おこがましい事を思ってはいない。ただ、僕が心から反省している事だけは君に伝えておきたかったんだ」
「ゆ、許しますっ、許しますからっ。お願いですから頭を上げて下さいぃっ」
獣人の少女は、涙目になりながらなんとかその謝罪を止めさせようと訴える。罵倒や糾弾を覚悟していたクリスにとっては、フレサの反応の方が謎でしかない。
「君は、あんな事態に巻き込んだ僕が憎くはないのかい?」
「いえ。そんな事は、思った事もありませんよ」
顔を上げたクリスの問いに、フレサは少しだけ困り顔でそんな答えを返す。
五体満足で救出されたとはいえ、彼女はあの時本当に死ぬかもしれない状況に置かれていた。普通に考えれば、そんな理不尽な仕打ちを受けた相手に怒りや憎しみを覚えるのが当然であり、彼女の口から許しの言葉が出る方がどうかしているとしか思えない。
「(あぁ、そうか……)」
その時、フレサの顔を見ていたクリスの頭へと唐突にその答えが落ちて来た。
彼女にとっては、自分がもう終わってしまった出来事の登場人物として扱われているのだと。
彼らの行ったあれほどの非道すら、彼女にはもうすでに道ですれ違った程度の記憶でしか残されていないのだと。
これほどになるまで、この娘は一体どれだけの悪意に晒されて来たのだろう。
そうなってしまうまで、この娘は一体どれだけの長い間心を閉ざし続けて来たのだろう。
貴族として生を受け何不自由のない生活を送って来た銀の魔道士にとって、それは想像すら及ばないほどの遠い世界だった。
クリスの理解したその事実は、幾千万の言葉で傷付けられるよりもなお強く彼を打ちのめす。許される事の辛さを、彼は身を持って味わわされていた。
「僕は、本当に滑稽だな……」
今更ながらに、ライバルとして認めてくれたあの蒼の魔道士が「許さない」と語った本当の意味を知った少年の口から、弱々しい自嘲が漏れる。
彼は、あの時からもうすでに察していたのだ。フレサがクリスを許す事を――罰も咎も何一つ与えてはくれず、謝罪さえ受け入れられないままただ許されてしまう事を。
「え?」
「あぁ、気にしないでくれたまえ。ただの独り言だよ」
勿論、フレサにはなんの悪気もないのは明白だ。最初から最後まで、クリストファーという少年が道化だったというだけの話。
「(まぁ、これぐらいの余興は許して貰えるだろう――)レディ、手を」
「は、はいっ」
言われるままに疑いもせず応じる少女の無防備さに苦笑しながら、貴族の少年はその場で膝を付き差し出された右手の甲へと優しく口付けを落とす。
「……へ?」
「今一度の心からの謝罪と、愚かな僕を許すその寛大な御心への感謝を」
またもや完全に停止したフレサへと、クリスは構わず気障な言い回しで誠意を示す。
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
「それではね」
顔を真っ赤にして爆発する少女を放置して、悪戯の成功したクリスは微笑を浮かべてその場を後にする。
曲がり角の先で壁に背を預けて待っていたのは、二人の会合をお膳立てしたディーだった。
「――これで、全部おしまいだ。世話を掛けたね」
「別に良いよ。一応、フレサにとっても君からの謝罪はそれなりに意味があったと思うから」
「そう言って貰えると、少しだけ救われる思いだよ」
まさか、謝罪した相手が自分の悪逆非道をまるで印象に残していなかったという虚しさに、クリスは深い溜息と共に肩を落とす。
「彼女の反応を見て、僕は改めて自分が無知である事を思い知らされたよ。酷い言い草に聞こえるだろうけれど、この学園に来て良かった」
「それはなによりだね」
学園とは、知識だけを学ぶ場ではない。出会いは経験となり、会話が衝突や繋がりを生み、そして心を育んでいく。
良し、悪しに関わらず。
アルベールとクリスは嫉妬によって変わり、クリスだけがそこから更に心を改めた。
それは、ディーたちにとっては良い変化だったのかもしれないが、以前からクリスと付き合いのあった者たちからすれば悪い変化と見られるかもしれない。
結局のところ、どちらであっても得るものと失うものがあり正しい答えなどありはしないのだ。それを決めるのは、変化を拒絶し、また受け入れた彼ら自身に他ならない。
「僕で力になれる事があれば、遠慮なく相談してくれたまえ。特に、フレサ君に関しての問題であれば可能な限りの便宜をはかると約束しよう――もっとも、そんな事態にはならない方が良いのだけれどね」
ディーに向けるクリスの表情は、それなりに晴れやかなものだった。
「大貴族の次期当主が、軽々しくそんな約束をして良いの?」
「あぁ。今後の快適な学園生活の為に、精々僕の名と立場を利用してくれたまえ」
それは、彼なりにディーたちへの信頼を表す為の意思表示でもあるのだろう。
或いは、どんな形であれ罰して貰える対象を作ろうという自己満足の贖罪か。本人がそれを自覚している時点で、それもまた虚しい一人芝居にしかならない。
あっさりと答え、右手の指を二本だけ立てて額の横で軽く振る挨拶をしたクリスは、そのままディーの横を通り過ぎて校庭の方向へと立ち去って行く。
「どうやらフレサは、随分と罪作りな娘みたいだね」
「あう、あうあう~」
呟くディーが視線を校舎裏へと送れば、そこには未だ混乱から抜けきれない彼女が先程と同じ姿勢で固まったまま良く解からない声を上げている。
一つの問題が解決したとして、それで物事の全てが断ち切られるわけではない。繋がり、回り、絡まって、それは次の物語を開く鍵の一つへと変化していく。
春に蒔かれた種たちが芽吹き、やがて木となり花となる。名もなき小さな村から巣立った者たちと、それに関わる者たちとの出会いの季節が終わりを告げる。
続いてやって来るのは、成長と変化の季節。
青々と茂る若葉たちの過ごす大陸に、燦然と照り輝く太陽の情熱に釣られ冷たい月と星々でさえもその光を増す熱い夏が訪れようとしていた。
フレサは割とオチ担当(笑)
さて。ようやく物語の駒もある程度揃いまして、この章は終了ですね。
次回はオールスター的な幕間にするか、それともさっさと次章に突入してしまうか……悩みどころです。




