28・そして、山猫は血を啜(すす)る
「はぁっ、はぁっ、はぁっ――ぐっ」
腕を伸ばした姿勢のまま、何度か荒い呼吸を繰り返したレオは、腰砕けになるような落ち方で膝を付いた。
大量の血を失った直後に、極限の集中力を要求されたのだ。意識が落ちなかったのが、ただの幸運でしかない事は、本人自身が一番理解していた。
「動けよくそがっ、まだ終わっちゃいねぇだろうが……っ」
顔を歪めたレオの口から、自分の不甲斐無い身体に対する、無意味な悪態が幾つも漏れ出る。
自分の決闘は勝利に終わったが、決勝戦自体は続いているのだ。仲間たちが今も戦っているというのに、これでは助けに向かう事も出来ない。
「無理に動けば、傷口が開くでござるぞ?」
「っ!?」
歯噛みするレオに向かって、その拳を顔面に食らって地面を転がり、仰向けの体勢で倒れていたはずのヤカタが、突然ゆっくりと上半身を持ち上げ、驚く彼を見ながら制止を掛けた。
「紙一重で避けたとはいえ、傷は深かろう。今しばらくは、安静にしておいた方が良いでござるよ」
左側の頬を、見事に大きく腫れ上がらせながら、黒髪の剣士は平然と変わらぬ笑みを作ってのける。
「効いてねぇのかよ……」
「いやいや、十分な威力でござったよ。これは、こちらで言う心技の一つでござってな、気を散らせる事で痛覚を薄めているのでござるよ」
「そいつぁ、何とも便利そうだな」
脂汗の滲む顔で軽口を言いながらも、レオは内心焦りを浮かべていた。
身動きの取れないほどの重症である自分に比べ、目の前の傭兵は顔を一発殴られただけの軽傷だ。
しかも、ヤカタの言葉通り彼が痛みを無くす術を持つならば、それすらも余り意味を成さない。
今、もう一度戦闘を仕掛けられれば、勝てる要素は限りなく低かった。
「己の限りを尽くして負けた以上、野暮はせぬよ」
そんなレオの心境に答えるように、ヤカタは苦笑しながら左手を軽く振っていた。
「実を言うと、先の一閃を放って筋を痛めたのか、右腕が一向に動かせんのでござる。このまま意地を張って片腕一本で勝負を続けても、お互い泥沼になるのは目に見えているでござるからなぁ」
左手で右肩を軽く叩きながら、ヤカタは困り顔だ。その表情や声は自然体であり、嘘を吐いているようには見えない。
「敗北はすれども、拙者らの役目は時間稼ぎにござる。クリストファー殿の勝負に決着が着くまでお主を足止め出来たなら、それで依頼達成でござるよ」
言いたい事だけ言い終えると、ヤカタは再び大地に寝転がり、それきり何も言わなくなった。
再び気絶した訳ではない。単に体力を回復する為にと、無駄な動きを止めただけだ。
「……ちっ」
負けた相手に心配され、更には助言までされるとは。これでは、どちらが勝者か解らない。
余裕を持った態度のヤカタを前に、苦い顔でうずくまる自分の姿を想像し、レオは小さく舌打ちするしかなかった。
◇
狂乱に沸く観客たちの中で、立ち見席で一年生の決勝戦を眺めている、警備委員のレニオラとアイリーン。
本日、彼女たちは非番の身であり、比較的ラフな恰好をしている二人の目には、決着の付いた岩場の画面が映っていた。
「――黒髪の子が使ってた武具、「鮮血武具」だったらしいわよ」
ピンク色のハンチング帽に、スカート部分に白のフリルが付いた、群青のワンピースを着たアイリーンが、周囲から流れて来た話題を隣に立つレニオラへと振った。
「だろうな。それぐらいでなけりゃ、いきなり剣速が上がった説明が付かねぇ」
黒色で、襟に獣毛を付けた厚手のジャケットを、胸元近くまで開いて地肌を晒す野性味溢れる上半身に、同じ色をしたなめし革のズボンを足に通した彼女が、事も無げに答える。
「白昼堂々と、アタシらの前であんなもん振り回すたぁ、随分肝が据わってるじゃねぇか」
「「鮮血武具」なんて厄種を器用に扱えちゃう子に、それに真正面から挑んで勝っちゃう子かぁ。今期の一年生は、色々とぶっとんでるわねぇ」
存在そのものが灰色である危険物を前に、犬歯をむき出しにして獰猛さを見せるレニオラとは違い、左手で右腕の肘を支え、立ったまま頬杖を付くアイリーンの感想には、感嘆と呆れが半々に含まれていた。
「あの手甲、使い手である赤髪の為にかなり精密な調整がされてるな。でなきゃ、今頃アイツの腕は手甲ごと綺麗に真っ二つだったろうよ」
「……一体どんな変人よ。そんな凄いもの、貴族でもない名無しの一年生にポンッと渡しちゃうなんて」
強制的に付いて来る、「呪い」という極めて劣悪な短所を抜きにすれば、「鮮血武具」は破格の破壊力を誇る武具だ。
そんなものと正面から打ち合い、挙句に打ち勝ってしまう武具となれば、それは世間で活躍を耳にする有名人たちが所持しているような、最上級の業物に近いと言っているに等しい。
アイリーンの言葉通り、一介の平民が手に入れられる武具の範疇としては、酷く不自然な代物であると言えるだろう。
「で、どっちか誘うの?」
警備委員は仕事の役柄、学園内でも特に戦闘能力の高い者が勤める必要があり、毎年人手不足に悩まされていた。
将来性のある一年生に、早い内から勧誘を掛けるのは、何処の部署でも行われている。試合を見る限り、剣士二人の実力は申し分ないだろう。
「誘うなら黒髪だな。赤い方は、規律や規則に大人しく従う性質じゃねぇだろう。入れても問題しか起こさねぇよ」
「流石、同類は同類を見分けるのね」
試合での動きを見ただけで、その性質を見抜いた獣人の少女を、アイリーンが横目で見上げながら茶化す。
「うるせぇよ」
同じく、規則違反など日常茶飯事なレニオラは、前を向いたまま小さく鼻を鳴らした。
「あ、そう言えば、一年生から上がってきた噂なんだけどね。一年生の優勝候補チームの武具全部を、一人の「スミス」の生徒が作成したんですって」
会話の流れで噂話を思い出したのか、唐突に話題を切り変えるアイリーン。
「ひょっとしたら、あの子たちの事かもしれないわね。レニオラは、何か知ってる?」
「……さぁな」
レニオラは、その回答に珍しくも僅かな逡巡を見せた。
獣人として、五感の優れるレニオラの耳は、赤毛の少年が切られる直前、観客席から出た叫び声を捉えていた。
聞き覚えのある、幼さの残った少年の声音は、大会初日に出会ったシロエとかいう「スミス」の一年生のものだったはずだ。
声のした方向に目を向けても、人垣が多過ぎて見えはしないが、特徴を覚えた声を聞き間違えるとも思えない。
赤毛の少年に向けられた言葉だったので、彼はシロエに近しい人間なのだろう。
アイリーンの噂話と繋げると、あの小さな少年が、「鮮血武具」を打ち破った手甲を含む、チーム全員の武具を担当した可能性があるという事だ。
たった一度の短い邂逅。しかも、少々不思議な出会いだったとはいえ、別に鍛冶師としての腕前を披露された訳でもない。
あの少年なら、或いは――確証も無いおぼろげな思考ながら、レニオラは不思議とそれを否定する気にはなれなかった。
「なによぉ、その訳知り顔は。知ってるなら吐きなさいよ、この筋肉お化けっ」
目聡くレニオラの変化に気付いたアイリーンが、彼女の横腹の服を乱暴に引っ張る。
「ったく……」
自分の考えを語れば、またある事ない事を吹聴されるに決まっている。わざわざこの面倒な女に、その手の話題を提供してやる気は更々なかった。
「ねーぇー、ねーってばー」
「うるさいんだよ! 黙って試合見てろ! このバカ!」
しつこいアイリーンを、何時も通り片手で引き剥がしつつ、レニオラのうんざりした怒鳴り声が、大議堂の一角に響いた。
◇
「――シッ」
「……っ!」
メルセの弓より放たれた四条の矢が、「トクナガ」の振り上げた右腕へと当たり、反動によって大きく後ろへと弾く。
「はあぁぁぁっ!」
牽制による援護を受け、シルヴィアの剣が無防備となった怪物の左腕を、一刀の元に両断した。
「……っ!」
剣を斜めに振り切ったシルヴィアの背後から、今度は「キセナガ」の豪腕が唸る。
「ふっ!」
突き出された、巨体に見合う大きな拳を、真横に跳躍して回避するシルヴィア。
「……『雷――』」
「やらせないわよ!」
時折、攻防の合間を縫ってシズクが放とうとする魔法を、メルセが札を射抜く事で中断させる。
メルセの矢は、そのまま彼女の身体も射抜こうとするが、しかし帽子から生える「足」の防壁に邪魔され、その身には届かない。
繰り返されるメルセの妨害も、完璧ではない。手の空いた怪物たちが、腕や身体を使って飛来する矢を受け止める事で、数度に一度はシズクの魔法を許してしまっていた。
そして、彼女はその一度を決して逃さない。黒髪の魔道士が放つ魔法は、確実にシルヴィアを追い詰め、最後には怪物の拳がその身体を捉えるのだ。
「……『雷針』」
「くっ」
「……っ!」
「づぅっ!」
二体の怪物に挟まれていたシルヴィアが、シズクの放った雷の矢を回避した直後を狙って、「トクナガ」の残った右腕が、彼女の胴を薙ぎ払らった。
「――あああぁっ!」
左の細腕を軋ませながら、直撃だけは何とか避けたシルヴィアが、獣に近い叫び声を上げて剣を振り上げる。
半ば自棄に近い斬撃によって発生した風刃は、「トクナガ」の頭部を見事に断ち割った。
「シルヴィア!――ぐぅっ」
相討ちによって、吹き飛ばされて来たシルヴィアの身体を、メルセが抱きかかえるようにして受け止める。かなりの加速故に、その衝撃も相当なものだ。
「――あぁもぅっ! 何べん同じ事繰り返したら理解するのよ! バカ正直に正面から挑み続けたって、勝ち目が無いのは目に見えてるって言ってるじゃない!」
大した策も無く、無闇な突撃を止めないシルヴィアの行動に、メルセは心配よりも怒りが勝り、額には井桁がありありと張り付いていた。
何度も相討ちに持ち込んでいるとはいえ、「トクナガ」も「キセナガ」も、所詮シズクの呪文一つで甦る、彼女に召喚されたただの人形に過ぎない。
当然の如く、シルヴィアは既にあちこちに傷を負った満身創痍の有り様であり、対する「トクナガ」は既に黒髪の術士により、再び五体満足の状態で一から召喚され始めている。
三対二という、完全に不利な状況である上に、攻撃の要であるシルヴィアが猪突猛進を止めない限り、戦況は悪化していく一方だった。
「く、くくっ」
怒鳴られているというのに、シルヴィアは何処か嬉色を含んだ声で、小さく喉を鳴らしている。
「ディーエンが、お前に名前を呼ばれたと喜んでいたが……成程、確かにこれは嬉しいな」
「……っ!?」
場違いともいえるシルヴィアの言葉に、自分の無意識の言動を自覚したメルセの頬が、羞恥によって一瞬で赤くなる。
「バ、バカッ! そんな事を何で今――っ!」
「今のような時でなければ、お前は私を呼んでくれないのだ。だったら、今言うしかあるまい?」
「ふ、ふんっ」
抱えられたままの状態で、額から血を流しながら笑うシルヴィアの顔を見て、メルセは二の句を告げられず、慌てた様子でそっぽを向いてしまう。
「……貴女たちは、女色の人?」
そんな、二人の場違いなやりとりを遠くから無言で眺めていたシズクが、何処か身を引いた様子で質問した。変化に乏しいその表情は、どこか恐ろしいものを見るような目をしている。
「違うわよ! んなわけないでしょ!」
「生憎、今の所同姓との恋愛には興味が無いな」
シズクの質問に、メルセは全力で怒鳴り返す事で否定し、シルヴィアは至極真面目な表情で返答を返した。
「……そう」
納得したのか、していないのか。笠を摘んで顔を隠しながら、小さく頷くシズク。
「……霊符切れを待っているなら、無駄」
早々に怪物を復活させながら、シルヴィアの意図を読んだシズクが、話題を変えてぼそりと呟いた。
「……本来、高位の術に使用する霊符は金食い虫。転移の符などは、一枚使えば今回の依頼料に赤字が出るほど、とても高価な素材が必要になる」
「そんなものを、随分気軽に使ったものだな」
シズクの説明に、当然の疑問をぶつけるシルヴィア。彼女の言葉に嘘が無いのなら、レオたちを転移させた一枚だけで、もう赤字は確定という事になる。
「……今回の依頼主は、実に太っ腹。大会が終わるまでに作成した霊符の代金は、全て立て替えてくれると証文まで書いて貰った」
恐らく、そこに証文を納めているのだろう。表情の変化は無いが、シズクは何処か嬉しそうな声音で腹に巻かれた帯を叩き、次いで袖口から新たな札を取り出す。
「……だから、この試合が始まるまで、可能な限りの霊符を作って来た」
「……デジーと気が合いそうな少女だな」
証文まであっては、その支払いから逃げる事は不可能だろう。シズクの努力如何によって金額は変わるだろうが、彼女の説明を聞く限り、それが並大抵の額でない事は、想像に難くない。
シルヴィアは、呆れ半分で眉を下げながら、目の前に立つ強かな少女に苦笑した。
「……そろそろ、幕引き」
二体の怪物に守られながら、シズクの両手から札が浮く。
「出来るものならな」
メルセの腕から立ち上がり、シルヴィアが構えを取る。披露や怪我を無視し、真っ直ぐに黒の魔道士へと刃を突き付けた。
「……『霧幻夢想』」
彼女の掲げた二枚の札から、爆発するように大量の霧が周囲に溢れ出す。
発生した濃霧霧は、瞬く間に周辺を覆い隠し、シズクたちの姿を白煙の先へと眩ませる。
このまま霧が広がったとして、視界を塞がれた場合、相手の位置が解らないのはどちらも同じ――ではない。
彼女の召喚した二体の怪物は、札によって既に目隠しをされた状態でありながら、シルヴィアたちを正確に補足している。つまり、彼らは視覚以外の方法で敵を知覚出来るのだ。
「シルヴィア!」
「解っている! はあぁっ!」
メルセに呼ばれるまでもなく、シルヴィアもその危険性を理解し、魔力を込めた「ゲイレルル」から、竜巻状の烈風を放った。
「何!?」
しかし、シズクの生み出した霧は、吹き荒れる強風を前に一切の揺らぎさえなく、二人をあっさりと包み込む。
実像ではない、夢幻の虚映。イヌイの霊符術士、シズクの得意分野を知らないシルヴィアたちに動揺が走る。
傍に居る相方の姿すら、おぼろげになってしまった濃霧の中から、二角の怪物がメルセに向かって躍り出た。
霧で隠されていた分、その接近を許してしまったメルセは、「キセナガ」の突進に反応が遅れてしまう。
「くっ!」
矢を番える間もなく、自分より遥かに巨大な化け物からの体当たりを前に、メルセは咄嗟に真上へと跳ぶ事で、その攻撃を凌いだ。
「え――?」
だが、次ぎの瞬間メルセが見た光景は、彼女の眼前まで跳躍したもう一体の怪物――「トクナガ」が、弓なりとなった体制で拳を振り上げている場面だった。
何の事は無い。シズクの狙いは、最初からメルセ一人だったのだ。
今まで、無鉄砲な突撃を繰り返すシルヴィア一人にだけ襲い掛かり、メルセには目もくれなかった事が、彼女を完全に油断させた。
「……っ!」
「ぎぅっ!」
振り下ろされた化け物の拳が、腕を交差させたメルセの防御ごと、彼女を斜め前へと叩き落とす。
「メルセティア!」
「……行かせない――『氷風陣』」
「くそっ! 邪魔をするなっ!」
霧で掠れた向こう側から、シルヴィアたちの争う声と剣戟の音が鳴っている。時折聞こえる大地を揺らす音と振動は、「トクナガ」のものだろうか。
絶え間無く続く音たちが、近付く気配は無い。
「ぐ……ぅ……」
大木に、背中から強かに打ち付けられたメルセは、意識を途切れさせながら、二角の巨人「キセナガ」がゆっくりとした歩みで近付いて来る様を、何処か他人事のように見つめていた。
「……『雷針』、『水槍』、『氷刃』」
「ち……っ! メルセティア! 今行く! 持ち堪えてくれ!」
自分の行動を邪魔する者が居なくなり、勢いを取り戻したシズクは、シルヴィアに向けて次々と魔法を浴びせ掛け、彼女がメルセに近付く事を許さない。
「う……」
遠くで、シルヴィアが視界を失いながらも奮闘している中で、「キセナガ」は、その姿が霧によって掠れないほど、メルセのすぐ傍まで歩み寄っていた。
「……ったく……半分以上無理やり参加させられたアタシが……ぐっ……何で、こんな目にあわなきゃならないのよ」
拳を振り上げていくその光景を、虚ろな目で亡羊と眺めながら、メルセの口から漏れたのは、そんな悪態だった。
「……あの子もあの子よ……こっちがこれだけ酷い目あってるっていうのに……ちょっと不幸だからって悲劇のヒロインぶって……っ」
言いながら、自分の言葉で更に苛立ちを加速させていくメルセ。
あの獣人の少女に、初めて会った時から感じていたこの想いは、同族嫌悪に近い感情なのだと、メルセは自覚していた。
特別な生まれというだけで送られて来る、嫉妬や疑心、嫌悪や侮蔑といった下らない視線。知りもしない他人同士が勝手に語る、適当な流言、中傷。
そんな、周囲からの様々な反応に対し、フレサはその全てを諦めて心を閉ざし、メルセは牙を剥き出しにして拒絶した。二人の違いは、ただそれだけでしかない。
抵抗もせず、俯いてただ過ぎ去るのを待ちたい気持ちは、メルセにも良く解った。同族に虐めら続けた自分の幼少を辿れば、それは当然の逃避だとすら思えるからだ。
きっと、フレサも自分も、赤髪のバカに絡まれたあの時から、人生を狂わされた。
そして、孤独を良しとしいたはずの自分自身ですら、彼らの甘さにほだされてしまい、フレサを見捨てようとは思えなくなってしまっている。
彼女を助け出す場には、全員が揃っている事が絶対条件だ。この試合で、誰か一人でも脱落してしまえば、あの優しくも愚かな獣人の少女は、勝手に己を強く責めたて、また一人の殻に閉じこもってしまうだろう。
それでは駄目なのだ。彼女を再び輪の中に引き摺り込むには、例え如何なる手段を用いたとしても、自分たちが倒れる事は許されない。
見下ろす左手には、自分自身の血に混じり、先程受け止めたシルヴィアの血が大量に付着していた。
それを見つめるメルセの思いは、ただ一つ――「おいしそう」だ。
彼女は、その赤い液体を見て溢れ出た、口内の唾を嚥下する。
周辺を囲う、一寸先すらも見通せなくなった濃霧。きっと、監視用の使い魔たちでも、こちらの映像を届ける事は困難だろう。
だが、絶対ではない。自分のひた隠しにして来たこの秘密を、こんな下らない場面で晒すなど、軽率な行動にもほどがある。
万が一発覚すれば、自分は学園での居場所を完全に失うだろう。シルヴィアたちは楽観的に捉えているが、これは庇ってどうこうなる程度の問題ではない。
だが――それでも――
「……ホントにっ、どいつもこいつも――バカばっかりよっ!」
怒っているのか、諦めているのか。
自分でも理解出来ないまま声を荒げ、メルセは鮮血の付いた手の平を顔に近付けると、舌を伸ばして大きくベロリと舐め上げた。
吸血鬼とは、その名の通り他者の血を吸う事で力を得る、死霊に属する種族である。
吸血した相手を、下僕である食屍鬼に変化させする術を持ち、更にそれらに集めさせた血を吸う事で、際限無く力を増大させていくという、厄介どころの話しではない、敵対種族の中でも特に危険な存在だ。
メルセは、レオたちに一つ嘘を吐いていた。
彼女に流れる吸血鬼の血は、けっして薄くも弱くもない。クロとしての性質をほとんどを放棄していた為に、その能力も弱点もエルフの血に抑え込まれ、緩和された状態で生活出来ていただけなのだ。
彼女が、他人の血を口に含む行為は、内に眠る生物の天敵たる化け物の本性を、覚醒させる意味合いを持つ。
他者の生き血を糧として、メルセティア・ムーンライトの身体に宿る、月下の闇が甦る。
およそ、人体の奏でる類ではない轟音が響き、「キセナガ」が対面の大木まで弾き飛ばされた。
「……「キセナガ」っ」
試合の中で、初めてシズクの声に動揺が混じる。
その声を聞くメルセの身体は、明らかな変貌を遂げていた。
真紅染まった両の瞳に、長く伸びた犬歯と爪。肌の色は更に白さを増し、さながら死人の如き血色をしている。
黄金一色だった髪には、僅かに黒色が混じり合い、黄昏時の空のようにも見えた。
「……貴女は、何?」
「化け物の混じったエルフよ。あの子にはバレてるだろうから、内緒にして貰ってたけど……結局意味が無かったわね」
姿は見えないながら、溢れ出る瘴気を感じ取ったのか、畏怖の込められたシズクの質問に、メルセは何時もと変わらない軽口で答えながら、平然と弓を引く。
吸血鬼化した事によって、その感度を跳ね上げたメルセの五感は、視覚以外の全てをもって、彼女に霧の先の光景を把握させていた。
「……ここまで来ると、あの子も大概化け物よね」
化け物の巨体すら、ものともしない剛力で弦が伸びる。しかし、握る持ち手も、引き絞られた弦も、軋む音一つさえ立てはしない。
別人に近い変化を起こしたというのに、武具は当然の如く担い手を受け止めていた。
番えている矢は二本。捕獲用などという生易しいものではなく、殺傷力と破壊力に特化させた、矢尻に馬鹿げた大きさの金属塊が取り付けられている、完全な異形だ。
並みの腕力では、静止させる事さえ困難だろう歪な矢の照準を定めた後、躊躇無く引き手を放す。
起き上がろうとしていた「キセナガ」と、シルヴィアの足止めを行っていた「トクナガ」に目掛け、今までのものとは一線を画す速度で飛来した矢は、肉の弾ける不快な音を伴って、化け物たちの頭部を半分近く抉り飛ばした。
「……矢張り、貴女たちは――っ!?」
「おおぉぉぉぉぉぉっ!」
何かを語ろうとしたシズクの言葉を、シルヴィアの怒声と風の轟音が掻き消した。
続いて響くのは、二つの物体が衝突する大きな音と、大木の幹に衝撃が走り、こずえが揺れ動く細かく長いざわめき。
一拍を置いて、徐々に霧が明けていく。
それとほぼ同時に、メルセの肉体も元の姿へと戻り始めていた。吸血した量も少なかったので、効果が一瞬だけで済んだ事に、密かに安堵するメルセ。
そんな彼女の視界に、頭の笠を半壊させ、大木に身体をめり込ませた、シズクの姿が現れてきた。
傍に立つシルヴィアは、霧の中での攻防で更に出血量が増しており、今にも倒れそうなほどだ。
「……げほっ……どうして……こちらの位置が……」
笠の防御によるものか、シズクの腹に大穴は開いておらず、衣服の損壊も然程酷くない。だが、ダメージ自体を抑えるまでには至っておらず、咳と共に口から漏れ出た血は、異国の服に掛かって地面へと流れた。
「声と勘だ」
シズクからの、霞む視線を受け止めながら、シルヴィアが迷いも無くきっぱりと言い切った。
「……矢張り……貴女たちは……強い……」
シルヴィアの、理屈を無視した理不尽な説明に、シズクは言葉をとぎらせながら称賛を送った。実際、たったそれだけを頼りに自分の攻撃を直撃させるのだから、それはもうただ褒めるしかない。
「……でも……時間は稼いだ……依頼……たっせ……い……」
敗北しながらも、見事に己の使命をまっとうし切った、異国の傭兵の意識が遂に落ちた。
「何とかなったか――づっ……さぁ、早く平野に戻るぞ」
「待ちなさいよ。アンタ、どう見てももうボロボロじゃない」
剣を収め、疼く傷口に顔をしかめたシルヴィアが、すぐさま歩き出そうとするのを、メルセが近付きながら声を掛けて引き止める。
「少し休んで行かないと、足手纏いになるわよ」
「心配は無用だ――くっ」
「――ったく、無理しないの」
気丈に答え、再び歩みを再開した矢先、シルヴィアの足から力が抜け落ち、倒れそうになるのをメルセが後ろから受け止めた。
口ではどれだけ強がっていても、矢張りシルヴィアの追った傷は深い。
「まずは止血が先よ。ほら、座りなさい」
強引に座らせながら、メルセは矢筒の底を取り外す。するとそこから、包帯や傷薬などの簡易的な治療道具が地面にこぼれ落ちた。
「むぅ……」
何処か渋々といった態度で、メルセの治療を受けるシルヴィア。
「……聞かないの?」
しかめ面をした彼女の頭に、真っ白な包帯を巻き付けながら、メルセがポツリと呟いた。
「何をだ」
「……アタシの事」
シズクの生み出した怪物二体を仕留めたのは、メルセの弓だった。
何故、最初からそうしなかったのか。どうして、あの時だけ実力以上の力が発揮されたのか。
メルセの秘密を知らないシルヴィアにとっては、当然の疑問が幾つも浮かんでいるはずだ。
「必要無い」
「……どうして」
だが、シルヴィアは瞳を閉じて静かに、しかし揺らぎ無く答える。
「必要無いからだ。もし、本当に私たちを友と思える時が来たならば、その時に教えてくれ」
「……っ」
愚直なまでに真っ直ぐな言葉。友情という名の酷く曖昧な、しかし絶対的な信用を感じ、メルセの頬がどうしようもなく染まっていく。
本当に、どいつもこいつもお人好しが酷すぎる。思い悩んでいる自分が、まるでバカではないか。
「……くさっ」
悪態にもならない、照れ隠しの台詞を吐きながら、メルセは誤魔化すようにシルヴィアの治療に集中する。
彼女の口元が、本人の自覚無く歪んでいる事は、瞳を閉じたままの騎士には知る由も無かった。




