22・籠の猫
――可愛いね。触っても噛み付いたりしない?
輪郭の霞む誰かの笑顔を見ながら、ぼんやりとこれが夢だと解ってしまう。
――アンタも災難ね。静かな所が好きそうなのに、こんな騒がしい連中に引きずり込まれるなんて。
私はそれを、ただ遠くから眺めているだけ。
――改めてよろしく。レオが随分と迷惑を掛けたみたいで、ごめんね。
私には、近付く勇気も資格も無いから。
――話は聞いている。また何かあれば、私たちが力になろう。遠慮なく相談してくれ。
ほんの少しの間だったけど、皆が温かくしてくれた。
――なぁ、お前。オレの仲間にならねぇか?
でも、あの場所から逃げたのは、私。
失くすのが恐くて、あの人たちを信じられなくて――先に逃げ出したのは、私。
◇
「ん……」
閉じられた窓から光が差込み、彼女はゆっくりと覚醒する。
学園のものよりも上質なベッドに、見上げた先にあるのは、真新しい白の天井。
この数日、フレサが寝泊りさせられているのは、街の一角に造られたクリストファーの家元、ディーアマント家の別邸だった。
「……うにゅ」
眠気に逆らいながら何とか身体を起こし、厚手の寝巻き姿を晒しながら、身に宿る獣と同じ仕草で目を擦る。
その手を下ろす途中で、あの空き教室に訪れた時からずっと装着させらている、小さな金属の首輪に指先を当てた。
その首輪の名前は、「服従の輪」。魔力と心力を封じる魔具で、魔具と契約した者が念じれば、首輪から電撃を流す事も可能な、他者を隷属させる事を目的とした道具だ。
学園のあるアリスレイ王国では、作成を禁じられているこの魔具は、時折奴隷制度の残っている他国から流れては、表裏を問わず高値で取引されている。
シロエから受け取った杖を、アルベールへと引き渡したあの空き教室で、彼女はクリストファーからこの首輪を手渡され、命じられるままに自分の首へと装着した。
アルベールは大層笑っていたが、クリストファーだけが一人、複雑な表情でこちらを見ていたのを覚えている。
家畜や愛玩動物染みた扱いをされ、その恐ろしい効果を聞かされても、彼女に悲しみは無かった。それを悲しいと思えるほど、もう彼女の心に強さは残されていない。
諦めて、受け入れる。流れに逆らわない事が、彼女が編み出した唯一の逃避だった。
精霊術士は、程度の差はあれど魔力によって「向こう側」を知覚しているので、それを失っている今の彼女は、ウンブラを感じる事が出来なくなっていた。
幼い頃からずっと一緒だった、あの漆黒の精霊は、傍には居ない。
「……起きた?」
「ひっ!?」
物思いに耽る余り、他人の気配に全く気付かなかったフレサは、突然声を掛けられて悲鳴を上げてしまう。
扉の前に立つ小柄な女の子――シズクが、彼女の叫びにほんの少しだけ眉を寄せていた。
「……その反応は、割と傷付く」
フレサの肩程度の、小さな背。腰まで真っ直ぐに伸びた、何時も濡れてるように見える艶のある黒髪と、感情を伺えない黒色の瞳。
今は、この辺りでも普通のシャツとズボンを着ているが、フレサが一度だけ見た彼女の母国の衣装に袖を通したその姿は、まるでその国の姫と言われても信じてしまいそうになるほどの、美しくも可愛らしい少女だった。
「ご、ごご、ごめんなさいっ」
「……その反応も、矢張り傷付く」
少し間を置いた後に喋る、独特な話し方をするシズクに対し、フレサは慌てた様子で謝った。
頭を下げる彼女は、黒髪の少女がそんな反応を見て、僅かに悲しそうな表情をしている事に気付かない。
謝り方が足りなかったのか、どもったのがいけなかったのか、などと更に怯えを見せるフレサに、シズクは何も言わないまま、振り返って廊下に繋がる扉を開けた。
「……起きたら着替えて。朝ご飯は、もう出来てる」
「は、はいっ――あわ、うぷっ」
立ち去ろうとするシズクに追いすがろうと、布団から出ようとしたフレサは、慌て過ぎて下半身が上手く抜けられず、体勢を崩して顔から床に落ちてしまう。
「……慌てなくても、朝ご飯は逃げない」
「あうぅ」
恥ずかしい場面を見られ、顔を真っ赤にするフレサを、シズクが呆れた様子で見下ろしていた。
着替えを済ませ、部屋の外で待機していたシズクと合流したフレサは、長い廊下を歩いて客間までの道を進んでいく。
廊下の途中で、シズクと同じ故郷の品である、紺色に染められた、袖口の広い異国の服と、スカートのような幅広のズボンに身を包んだ黒髪黒目の少年――ヤカタと出会った。
「おはようでござる。シズク、フレサ殿」
「……おはよう、兄様」
「お、おはようございます」
眉間から、右目を通る形で一本の刀傷が入り、一見強面に見える顔だが、その表情は温和そのものだった。
レオたちの持つものに比べ、半分以下の幅をした、刀身の反った二つの長剣を腰に下げ、両袖の中に腕を通して二人の隣を歩く姿は、不思議と貫禄を感じさせる。
「いやぁ、この屋敷は広々としていて、まこと見事にござるなぁ。拙者などは、歩いていて何度迷いそうになった事か」
「あ、その……」
ヤカタから和やかに話し掛けられるが、間に挟まれる形となったフレサは、顔を俯かせてまともに答えられそうにない。
「……兄様、恐がってる」
「おっと、これは失敬」
シズクから非難の視線を浴び、ヤカタは気を悪くした様子も無く、すぐさまフレサとの距離を離した。
シズクは兄と呼んでいるが、同郷というだけで血の繋がりは無く、二人はフレサと同じ学園の一年生だ。
彼らは、武芸大会にチーム員として参加する事と、フレサに対する監視と護衛の役目として、クリストファーに期間限定の私兵として雇われていた。
今のフレサは、必要以上の外出や単独行動の類が許されておらず、必ずどちらか一人が付き添っての行動を義務付けられていた。
黒髪の二人は、フレサの境遇には思う所があるようで、最初の内から今のように、何かと彼女を気に掛けて接していた。
「フレサ殿が起きたならば、早速朝餉とするでござる。朝は一日の基本でござるからな」
「は、はい」
めげずに声を掛けて来るヤカタに、何とか頷くフレサ。
やがて客間に到着した三人が席に着くと、屋敷の使用人が料理の載った食器を運び、テーブルへと置いていく。
中央に置かれた白パンと、三人にそれぞれの前の皿には幾枚かのハムとサラダ、その隣にじゃがいものスープ。デザートとしてリンゴの蜂蜜漬けという、貴族にしては質素な食事だ。
「いただきます」
「……いただきます」
「い、いただきます」
シズクとヤカタは両手を合わせ、フレサは手を組む形で祈りと挨拶を捧げ、食事を開始する。
「……兄様、行儀が悪い」
「う゛……面目無い」
皿の端に盛られた一枚のハムを、手掴みで食べようとしていた姿を咎められ、ヤカタはばつが悪そうに頬を掻いた。
「このふぉーくやないふとやらは、どうにも使い辛いのでござるよ」
二つの食器を持ち上げ、困った表情で弁明するヤカタ。遠い異国から来たという黒髪の剣士は、器用に食器を使いこなすシズクとは違い、こちらの文化に余り馴染めていない様子だった。
「あ、あの、切り分けましょうか?」
「おぉ、かたじけない」
おずおずと申し出るフレサに、ヤカタは喜色を浮かべて皿を渡した。
「うんしょ、うんしょ」
「いやはや、フレサ殿には良妻の素質があるでござるなぁ」
「ふえぇっ!?」
一生懸命、食べ易いサイズに朝食を切り分ける姿を褒められ、驚きながら顔を染めるフレサ。
「……兄様は、彼女のような女性が好み?」
「うん? 今のはただ、一般論を言っただけでござるよ。拙者から見て、シズクも十分魅力的だと思うでござ――うぉっ!?」
ちらりと視線を向けて来るシズクに、ヤカタが軽い調子で答えると、彼女から高速で空の皿が投げ付けられた。
「あ、危ないでござろう……っ」
貴族の屋敷の品は、高が食器であれ幾らするか解らない。ヤカタは顔に当たる直前で、冷や汗を掻きながら何とか皿を受け止めていた。
「……兄様の、ばか」
何事も無かったかのように、表情も変えずに食事を続けるシズクの口からこぼれた言葉が、フレサの耳に伝わってきた。
「あ、あの……良かったら、シズクちゃんがやりますか?」
「……そこまでの配慮は、しなくて良い」
ある程度事情を察し、役目を譲ろうとするフレサに、シズクは呆れた半眼を向けながら辞退した。
◇
屋敷の中では、割と自由な行動を許されてはいるフレサだが、出来る事は少ない。
書庫に入るのは気後れしてしまうし、室内で出来る遊びをシズクたちと一緒にするのは、なんだか恥ずかしくて頼めない。
外出も出来ず、やれる事もする事も無い彼女は、結果として物凄く暇だった。
暇を持て余したフレサは、逆にシズクやヤカタに付いて周る形で、時間を潰していた。
壁に寄り掛かって座るフレサの前で、腰に挿した二本の長剣の内、一本が引き抜かれる。この大陸で、広く一般的に使われている剣よりずっと細く、片方しか刃の無い不思議な形をした刀剣。
そんな剣をだらりと片手で下げ、ダンスや室内訓練の時に使われる、大部屋の中央へと移動したヤカタが、剣の錬武を開始した。
「ふぅー、はっ! せいっ!」
立ち止まったまま剣を振るっていたシルヴィアとは違い、ヤカタは常に足を動かしながら、まるで踊るようにステップを繰り返して、縦横無尽に移動しながら、流れのままに剣を閃かせる。
「ふわー」
反転し、走り、跳躍する。ここには居ない大勢の相手と戦う彼の姿が、見ているだけでフレサの脳裏に浮かび上がって来ていた。
「……楽しい?」
「はい、とっても凄いです」
隣に腰掛け、同じように見物していたシズクの質問に、大きく頷くフレサ。
シロエと同じく、運動に関する才能の無いフレサは、俊敏に動き回るヤカタに対し、憧れに近い眼差しを向けていた。
「……何故、貴女は抵抗しない?」
「え?」
「……貴女にとっては理不尽であるはずのこの状況で、逃げようともせず、抗おうともしていない――何故?」
視線は前に向けたままで、不意にシズクがそんな疑問を口にした。
シズクたちの監視は、それほど厳重に行われてはいなかった。着替えなどの時は席を外し、寝る場所も別だ。
魔法や心技を封じられていても、本気で逃走を図ろうとしたならば、逃げ切れるかどうかは別にして、出来ない事は無いはずなのだ。
「私は……駄目だから」
少しの間逡巡した後、フレサが口を開いた。寂しいような、諦めたような、そんな響きだった。
「……何が?」
「何もかもが、です」
軽く俯きながら、誰にも聞こえないほどの小さな声で、彼女はそう答える。
そして、フレサは自分の過去を静かに語り始めた。
「――集落に居た時も、何をやっても上手に出来なくて、ずっと虐められてました。両親からも、見えないものが見える何て言う、気味の悪い子供だって」
故郷の集落で思い出すのは、暗がりで黒いもやと話す自分を、誰もが忌避し、石を投げつけられる記憶だった。
精霊術は、行使出来る術者の数が少ない為、田舎や小さな集落などでその才能を発現させた者は、周りから理解されない場合が多い。
「ある時、集落にやって来た旅人の魔道士さんが、私の見えている景色が「向こう側」だと教えてくれて、話し相手だったウンブラとの、正式な契約も手伝ってくれたんです。私の力が精霊術だって解ると、突然皆の態度が変わりました。「凄いね」「立派だね」って」
森や草原などに集落を形成するエルフや獣人は、恩恵を受ける自然の結晶たる精霊を、信仰の対象としている場合が多い。
つまり、フレサの故郷の者たちにとって、自分たちの崇めている存在と交信出来る彼女は、聖人や巫女など、徳の高い人物に近い扱いへと変わったのだ。
「両親は、そんな私に期待して、この学園に入学させてくれました。でも……ここでもやっぱり、私は落ち零れで……」
居場所が変わり、彼女を取り巻く環境は元に戻ってしまった。否、元から何も変わってなどいない。
何故なら、態度を変えた集落の人々が見ていたのは、決して彼女では無く、それに付随した、「精霊術士」という肩書きだけだったのだから。
「私はきっと、何も望んじゃいけないんだと思っていました。耳を隠して、目を閉じて、口を塞いで……そうしてずっと、生きていくんだと」
彼女は諦観していた。己を取り巻く全ての物事に。流されるままに動かされ、嵐が過ぎ去るのを待つかのように肩を縮めた今の姿は、帰る場所を失い、鳴く事さえも諦めた、か弱い子猫にしか見えなかった。
「……重症」
「……ですね」
重い告白を、たった一言で片付けるシズクに、フレサもまた、自嘲気味に同意する。
フレサ自身、抜け出す術を知らないだけで、それが決して幸せに繋がる道ではないと、頭では理解しているのだ。
「……今は違う?」
「はい。今は――今は、シロエ君たちに謝りたいです。あんなに優しくしてくれたのに、私は何一つお返し出来なくて――その上、こんなに迷惑まで掛けて」
最初は、何時ものようにただ流された結果だった。だが、それでも彼らとの時間は、フレサにとって生まれて初めてと言えるほどの、温かい団欒を感じる事が出来た。
「謝って、それでもし許して貰えるなら、またお友達になって欲しいって、私からお願いしたいです」
今までずっと孤独だったフレサには、それすらもまともに出来るかどうか解らない。だからこそ、自分の意思で彼らと向き合う事が、最初の一歩なのだと思えていた。
「でも、そうですよね。私は、助けを待つだけじゃなくて、行動しても良いんですよね」
受身ばかりの人生だった為か、自分から動く事を失念していたフレサの瞳に、徐々に力が戻っていく。
湧き上がる衝動を感じ、ただ受け取って、言われるがままに動いていた自分に、まだこんな気持ちが残っていたのかと、不思議な驚きを覚える。
「シズクちゃん。私、逃げても良いですか?」
「……駄目」
「駄目ですか?」
「……駄目」
「そうですか……」
期待に満ちた目で見つめても、シズクの返答は無情だった。流石に無理と解っていて、それでも行動を起こす勇気は無い。
「だったら、シロエ君たちに伝言くらいはしたいです。それはお願い出来ませんか?」
「……雇い主の不利になる行動を許す訳にはいかない。それ以前に、大会中は原則として、他の組同士の故意的接触を禁止している」
「あぅ……」
再び提案を切り捨てられ、耳を垂らして落ち込んだ後、フレサは直ぐに立ち直ると、名案だとばかりに軽く両手を叩く。
「じゃあじゃあ、他の人に頼むとかどうですか?」
「……誰に?」
「えと、えっと……あうぅ」
現在のフレサが接触出来るのは、シズクとヤカタ、そして屋敷の使用人たちとクリストファーぐらいだ。
その中で、頼みを聞いてくれそうな相手が、誰一人として居ないという事実に打ちのめされ、遂に撃沈してしまうフレサ。
「――そろそろ時間でござるな。ん? 一体どうしたでござるか? フレサ殿」
「うぅ……」
軽く汗を流し終えたヤカタが、剣を収めて振り向いた先には、出したやる気の行き場を失ったフレサが、膝を抱えて涙目で蹲っていた。
「シズク?」
「……心配無い。自己嫌悪に陥ってるだけ」
問い掛けたヤカタに、シズクは処置無しと静かに首を振った。
試合が近付く中、レオたちのチームと当たる決勝戦以外に出番の無いフレサと、その護衛としてシズクが残り、唯一試合に参加するヤカタだけが出掛ける形となった。
ヤカタを見送る前に、シズクがフレサに対し、他者に見られても良いよう偽装を施す。
フレサの前に立ったシズクは、両手を素早く動かして、幾つもの印を胸元で組み上げる。
連続する印が術式となって、シズクたちの故郷の魔法、「霊符術」を完成させた。
「……『変化』」
誓言と共にフレサの額に札が貼られる。だが、彼女自身に効果のほどは理解出来なかった。
この魔法は幻覚を映す術であり、他人が見なければ効果は無いのだ。
「……見え辛いだろうけど、貼り付けた札は剥がないで」
「はい」
昨日も言われた忠告を素直に頷き、三人で玄関ホールへと移動する。
しばらく歩き、目的の場所へと到着すると、そこには二人の人影が、親しげに話をしていた。
「彼らの様子はどうだい?」
片方は、この屋敷の正当な住人である銀髪の魔道士、クリストファーだ。右肘に左手を添え、前髪を指で弄りながら薄笑いを浮かべている。
「やっぱり、キチンとした目標が出来たのが大きいっすね。第二回戦も、あっさり勝利してるっす」
「トーナメント表を操作してまで作り上げた舞台だ。そうでなければ困るよ」
そして、クリストファーの相手をしているもう片方の人物にも、フレサは見覚えがあった。
赤茶けた頭髪に、頭に巻いた薄緑の頭巾。糸目に近い細い目で笑うその人物は、シロエたちと共に居たはずの少年、デジー・フォーユニバスに間違いなかった。
「デジー、君……?」
「来たか」
思わず呟いてしまった声を聞き取られ、クリストファーがフレサたちの方を見やる。彼は軽くフレサに視線を向けた後、デジーを置いたまま外へと向けて歩き出した。
「先に行っているよ」
「承知」
ヤカタは軽く頭を下げ、雇い主の出立を見送る。
「デジー君、どうして……?」
クリストファーが居なくなったホールで、フレサは掠れた声を出しながら、無意識的にデジーへ近付いていく。
「おや、どちらさんっすか?」
デジーは最初、シズクの魔法が機能していた為に、彼女が誰だか解っていない様子だった。
「んん?――ひょっとして、貴女はフレサさんなんっすか?」
だが、流石は目利きの効く商人と言うべきか、彼女の仕草と声だけで、正しい回答を導き出す。
「見事な魔法っすねぇ、どっから見ても別人にしか見えないっす」
「デジー君っ」
何時もと変わらない笑顔のまま、つぶさに観察しながら感心するデジーに、フレサが声を荒げたのは無理からぬ事だった。
しかし、そんなフレサの態度にも、デジーは何処吹く風で肩を竦めるだけだ。
「オイラは商売人っすからね。お客様の居る場所に、オイラが居るのは当たり前の事っす。情報も立派な商品なんっすよ?」
「で、でも……」
「別に、シロエ君たちだけがオイラのお客様じゃないんっす。誰を相手に商売をするかは、オイラ自身が決める事っすよ。まぁ、クリストファーさんたちを相手に商売してるのは、今の所シロエ君たちには内緒っすけどね」
「そんな……っ」
事情の知らないフレサから見ても、クリストファーたちとシロエたちが敵対している事ぐらいは解る。シロエたちに黙って、両者の間で商売をするという事は、彼らに対しての裏切りに近い行為なのではないだろうか。
「利に敏く、益に賢くあれ。オイラの商人としての矜持っす。オイラは金を貰って商売し、最後により稼げる相手の下に付くだけっすよ」
「……」
いっそ清々しいほどに言い切った細目の少年に、間違っているという気持ちと同じくらい、自分を貫ける事を羨ましいと感じてしまい、フレサは何も言えなくなってしまう。
俯いてしまったフレサの頭越しに、ヤカタたちと視線を合わせた後、再びフレサへ目を向けるデジー。
「まぁ、どっちが勝ってもフレサさんは解放されると思うっすから、今の内に貴族のお屋敷生活を堪能しておくと良いっすよ」
お気楽な台詞を残し、デジーもまた、屋敷の出口へと向かって歩き出す。
「それでは、ごきげんようっす」
「あ……」
振り向かないまま、片手を上げて立ち去って行くデジー。彼を引き止めようとして、掛ける言葉が思い浮かばず、フレサの伸ばされた手が虚しく宙を泳ぐ。
「――拙者も行くとしよう。フレサ殿の守護を頼むでござるぞ、シズク」
「……行ってらっしゃい。兄様、ご武運を」
「うむ」
話に加わらなかったヤカタも、シズクとの別れの挨拶を済ませ、後を追うように屋敷を出た。
一度の多くの事が起こり、どうして良いか解らない感情の渦が、フレサの胸の中で淀んでいく。
誰も彼もが、自分の思惑で動いている。その全てに悪意がある訳ではなく、ただお互いの譲れない部分が、結果として暴力や策謀の争いへと向かっていくのだ。
レオの言った「ぬるま湯」の意味が、今の彼女には心が痛むほど理解出来た。
「……大丈夫?」
「……はい」
気遣いの視線をくれるシズクに頷き、促されるように屋敷の奥へと戻っていく。
様々な想いが頭を巡るが、それらは鏡面を滑るように浮かんでは消え、上手く言葉に表す事すら難しい。
「あ――」
そんな中、廊下の途中で不意に重大な事を思い出し、フレサは声を出して立ち止まった。
「伝言、デジー君に頼めば良かったのに……」
来た道を振り向き、思わず口を出たその呟きは、あらゆる意味で手遅れの言葉だった。
そんな彼女の首に巻かれた金属の輪に、はめた当初は無かったほんの僅かな亀裂が入っている事に、気付いた者は誰一人としていない。




