2・日常
村からほどなく離れた平地で、二つの影があった。
重なり、離れ、時折風切り音と硬質な木片のぶつかる軽快な音を立てながら、互いに止まる事なく目まぐるしく動き続けている。
「はぁっ! せい!」
上から下に、その後跳ね上げるように斜め右へと振るわれた木剣が軽々と相手の剣で受け流される。そして、反撃として繰り出された左からしなる強烈な蹴りを彼は咄嗟に右腕を盾にして受け止めた。
「ぐぅっ!」
「ふっ」
重く軋む衝撃に歯を食いしばりながらなんとか耐えきったかと思うと、対戦相手は即座に左足を引くと同時に軸足を回転させ容赦なく追撃の前蹴りを放ってきた。
「ぐぁっ!」
両腕を交差させ追加の蹴撃もぎりぎりで凌いだものの、流石に両足の踏ん張りが効かず後ろへと大きく吹き飛ばされ砂煙を巻き上げて離れた位置で静止する。
「今の反応はまぁまぁだったな、レオ」
上げていた足を戻しながら、抑揚のない声で告げる黒衣の男、ファウスト。聖職者の着る神父服に改良を加えた、動き易い服装をした黒髪黒目の男性だ。
目つきは鋭く、しかしどこか茫洋としつつも胡乱な雰囲気故に若くも老いても見える不思議な風貌をしている。
彼は、この村にある教会兼孤児院の長だ。
対するのは、つんつんと跳ねた赤髪に橙色の瞳をした何処か犬を彷彿とさせる腕白そうな少年、レオン。
褒められた事に気を良くし、赤毛の少年は木剣を構え直して口角を吊り上げると師に対して軽口を飛ばし始めた。
「へっへぇ~。オレだってな、何時までもやられっぱなしじゃないんだぜぇ?」
八重歯を覗かせ、得意満面の顔で手に持つ木剣をファウストへと突き付けるレオン。
「今日こそ一発入れてやるから覚悟しろってんだ、師匠!」
切っ先を向けられたファウストは、元気の有り余った口上に溜息一つを返した後ゆっくりと正面に右手をかざす。
「調子に乗るのは変わらんか……『水操球』」
「ちょっ、魔法は卑怯だろ!?」
魔法の発動と共に師の周囲に出現した手の平程度の水球七つを見て驚き、レオンは堪らず抗議の声を上げる。
「戦闘に不測はつきものだ。これから戦っている相手が魔法を使った時、ずっと同じ台詞を吐くつもりか?――行け」
「ちっ」
問答無用で放たれた水球に舌打ちしながらも、レオンは直進してくる連弾に対し素早く水平に走り出す。
「そら、追うぞ」
「くそったれぇ!」
嗜虐性の欠片もない事務的な口調で、水球を操るファウスト。
性質が水という事で殺傷力は高くないのだが、その理不尽なまでの威力を身を持って知っているレオンは脅威と数に押されて逃走を余儀なくされてしまう。
「師匠のバカー! アホー!」
「馬鹿も阿呆も、お前の事だろう」
水球の速度は、雨粒よりもなお速い。しかし、少年の走る速度はそれと同等でありながら師と掛け合いをする余裕さえ持ち合わせていた。
「こうなりゃいっそ――うぉあっ!?」
このまま無為に体力を消費するのは下策と判断し、踵を返して水球を操る術者に向かおうとレオンの視線に映ったのは、何時の間に動いたのかその術者であるファウスト本人が眼前まで迫り手にした木剣を真上から振り下ろそうとする瞬間だった。
「ぬがっ!」
回避不可能だったその一撃を咄嗟に自分の剣で防いでしまった事で、彼の運命が決定する。
「――いだだだだだだっ!?」
当然の如く足が止まり、背後から迫っていた水球に次々と背を打たれるレオン。正面からファウストの剣を受け止めているせいで、避ける事さえ許されず全弾の直撃を食らう破目になる。
「ぶべらっ!」
ダメ押しとばかりに、二人の僅かな隙間を利用して振り上げられたファウストの蹴りが少年のあごへと無情に突き刺さった。レオンは成す術もなく縦回転で宙を舞い、高々と空へ昇っていく。
「ぐべっ」
最後には肺から搾り出すようなうめき声を上げ、無残な弟子は受身も取れずにうつ伏せ状態で地面に落ちる。
「~~っ」
「背後から攻撃を受けた動揺で、心力の練りが甘くなったな。戦闘の最中に集中を乱せば、待っているのは死だと教えたはずだ」
前後から滅多打ちにされ、ずぶ濡れ状態で言葉も出せずに悶え苦しむ愛弟子に、彼の師は怒るでも慰めるでもなく淡々と指導を行う。
この世界には二つの力が存在する。一つが魔力、もう一つが心力だ。
魔力とは「魔」――この世あらざる次元を指した混沌であり、式を用いて術として消費する事で先程ファウストの放ったような「魔法」という世界の法則を歪めた事象を引き起こす事が出来る。
心力は「心」――全ての命持つ者が放つ生命の奔流であり、高める事で自身の肉体の能力を強化したり、その延長線上にある武具や道具を通して物体の強度や一部の効果を増大させる「心技」が可能となる。
種族によって大小の差異はあるものの、この二つの力は例え羽虫であろうとこの世界に存在するありとあらゆる生物に例外なく内包されている。
レオンの魔道士としての適正は、限りなく低かった。その為、彼が魔道士に勝つには心力により身体能力を高め、魔法を避けるか、耐えるか、叩き落として術者に近づかなければならない。
勿論、そんな事は師であるファウストも承知しているので、彼の魔法は常に弟子の成長と実力に合わせたぎりぎりのものが放たれる。この場でのぎりぎりとは、「ぎりぎり対応出来る」のではなく「ぎりぎり対応出来ない」という意味でだ。
避けられず、耐えられず、落とせない。魔法の使えないレオンにその恐ろしさを叩き込む為とはいえ、ファウストの魔法は弟子にとって正に悪夢の代名詞だった。
「いっつ~。ったく……化け物師匠相手にしながら、そう簡単に出来るかってんだ」
多少乱れたとはいえ心力により肉体を強化していたレオンは、ぶつぶつと文句を言いながら割と平然と立ち上がる。こちらの実力に合わせて手加減されている上でまったく手も足も出ない現状に、少年は不満げな表情で下唇を突き出す。
幾ら心力を高めて攻撃してもまるで通用しない剣技と体術を持っていながら、同時に自分には才能のなかった魔法まで気安く使ってくる。
レオンにしてみれば、今の自分では一太刀さえ浴びせる事の出来ないファウストの強さは化け物以外のなにものでもなかった。
「俺より上の輩など、世界には掃いて捨てるほど居る。そういうのを東方では、「井戸の中に住むカエル」と言うんだ」
レオンの小声を耳に止めたファウストが、変わらぬ口調で訂正を入れた。
「いやいやいや。この前買出しで町に行った時に突っかかって来たゴロツキ連中、俺とディーであっさりノせたぜ?」
「お前が目指しているのはその辺のゴロツキか? だったら、今すぐにでも十分やっていけるだろうな」
「そうじゃなくてさぁ。なんつーか、師匠がすげぇって話をだな――」
「御託は良い。さっさと来い」
「っ――あ~もう!」
どうにも伝わらないファウストとのやりとりに、レオンは苛立ちを隠そうともせずがしがしと頭を乱雑に掻く事で気を静めようとする。
この手の会話は何時もこうだ。
彼がどれだけ尊敬しているのか、どれだけ憧れているのかなど、感情の乏しいこの師匠はまるで解ってくれない。
レオン自身が、気恥ずかしさから直接言葉にしないのも原因の一つだろう。だが、自分の師が世界で一番格好良いと思う事の一体何が悪いというのか。
「はいはいはい、行きますよ――行きゃあ良いんだろうが!」
そして、苛立ちに任せやけくそ気味な咆哮を上げてファウストの元へと駆け出すレオン。
全力で振り上げられた木剣に対し、師は剣を持たない左手をかざす。
「『魔障壁』」
どうやら今日は、弟子の態度から対魔法用の特訓をする事に決まったらしい。ファウスト前方に出現した薄皮一枚にしか見えない希薄な魔法の障壁が、レオンの斬撃をあっさりと受け止める。
「どちくしょうがー! ――むげぶっ!?」
絶望に叫ぶ少年が、再度空へと吹き飛んでいく。
今日の鍛錬は、まだ始まったばかりだった。
◇
「レオ~、ファウスト先生~」
空が茜色に染まり終わった頃、村の方角から二人を呼ぶ声が掛かった。
目を向ければ、ガモフの工房から今日の手伝いを終えただろうシロエが作業着姿のままレオンたちに片手を振って近づいて来ている。
経緯を思い出せないほど何時の間にか定着した迎えの姿に、ファウストは構えていた木剣を下ろした。
「今日はここまでだな」
「ちっ、結局今日も駄目かよ」
レオンも不満げな声を出しながら、シロエを見て大人しく構えを解いた。
昔は、終わった時にはもう息も絶えだえでまともに歩く事すらままならなかったのだが、今では息を弾ませる程度の疲労しか感じなくなっている。
自分の成長をそんな形でしか実感出来ないもどかしさを覚えるものの、出来ないものをねだっても仕様がないとレオンは気持ちを切り替えファウストへ締めの挨拶を行う。
「ありあっしたー――いでっ!」
適当過ぎる言い方で頭を下げた少年の後頭部に、師の木剣が容赦なく振り下ろされる。
「挨拶の時だけでも礼節は正せと、何時も言っているだろう」
僅かに咎めを含んだファウストの口調に、叩かれた箇所を撫でながらレオんは顔を横に向けて面倒臭そうに口を尖らせる。
「別に良いじゃんよー、オレと師匠しかいねぇんだし」
「いずれ必要になる。もう一度だ」
「ちぇー――ありがとうございました!」
それでも重ねて注意されれば、意地を張るつもりはない。レオンはファウストの前で姿勢を正し、足を揃えてはっきりとした発音で再び頭を深く下げた。
「それで良い」
短くそう言って下げたままのレオンの頭を軽く撫でると、ファウストはそのまま彼を置いて歩き出しシロエを横切って村へと去って行く。
自分たちの仮親が淡白なのは何時もの事なので、レオンは気にせずシロエの元へと小走りで近づいて行く。
「よーす」
「お疲れ様ー。今日もどろんこだね」
「お前もな」
「「にひひ」」
方や地面を転がり泥だらけのレオンと鍛冶仕事を手伝い煤や灰で顔まで汚れたシロエは、互いに疲労を労い合うように笑い合った。
「ん? 何か良い事でもあったのか?」
「解る? んふふ~。皆にも教えたいから、夕ご飯の時一緒に教えてあげる」
「そいつぁ楽しみだ」
夕日を背に、高さの違う二つの影が連れ立った歩く。
日が沈み、何気ない一日が終わる。
弟子が励み、師が育て、日々の繰り返しを確かな糧として太陽と共に明日が来る。
いずれ、彼らに連なる運命の輪が風を受けて回り始めるまで――変わらない日常の中にある村は、今日も優しい平和に溢れていた。