18・手と手を繋いで 前編
レオたちの試合が終わった後、お祭り状態の街に繰り出そうと、待ち合わせ場所に指定していた学園の正門に、着替えを終えて辿り着いたシルヴィアを待っていたのは、何故かシロエ一人だけだった。
多くの生徒や外来からの客で溢れかえったその場所で、門の壁に寄り掛かっている小さな少年へと近付いて行く。
「何だ、まだシロエだけしか集まっていないのか?」
「えっとね、ディーは他の試合を見るから残るって。他の皆は、急に仕事場から助っ人の依頼が入っちゃって、一緒には回れないみたい」
「何だと?」
他のメンバーはともかく、言い出した蒼の魔道士本人すら不在だと聞かされ、顔をしかめるシルヴィア。
「これだけ大量の観光客を相手にしているのだ、店側が猫の手も借りたいのは理解出来るが……何処か作為的なものを感じるな」
その場で腕組みをして考えを巡らせるが、大した答えは思い浮かばず、思考を断ち切る。
「考えていても仕方が無い。行くか」
「うんっ!」
声を弾ませ、今にも飛び出しそうなほど瞳を輝かせたシロエが、大きく頷いた。
興奮気味なシロエに苦笑しながら、シルヴィアたちは正門を抜け、街の大通りに向けて歩き出す。
「そう慌てるな。大会はまだ始まったばかり何だ。街も祭りも逃げはしない」
シロエの興奮は、そのまま街の熱気と連動しており、普段の何倍もの人々がひしめき合い、多種多ような種族が所狭しと行きかっている。
「シロエは、こういった催し物は初めてか?」
「うん。村の年越しとか、隣町の収穫祭とかは知ってるけど、こんなに大きなお祭りは初めてだよ」
「そうか。だが、余り周りにばかり気を取られていると、注意力が散漫に――っと」
「あぅ」
言葉にする前から、きょろきょろと忙しく顔を動かしていたシロエが小石に蹴躓くのを、慌てて襟首を掴む形で引き止めるシルヴィア。
「全く、言い掛けた傍からだな」
「う゛……ごめんなさい」
「まぁ、今は空気そのものがこんな有り様だ。浮き足立つのも解る」
祭りという独特の風情が蔓延し、心のどこかがそわそわして、どうにも落ち着いては居られない雰囲気に、街全体が覆われていた。
「道中逸れても面倒だ。手を……っ」
言葉を途中で切り、ようやくここには居ない彼らの意図に気付いたシルヴィアの眉が、みるみる眉間へと寄せられていく。
「なるほど、そういう魂胆か……暇人どもめ、観察でもしているつもりか」
「どうかしたの?」
毒づいている正面から、心配そうにその顔を覗き込まれながら、シルヴィアは再び思考に没頭する。
余計なお世話も良い所だし、そもそも自分は、シロエに対してそこまでの特別な感情は抱いていない……はずだ。
とは言え、このまま帰るのもシロエの期待に反してしまう。彼らの思惑通りに動くのは癪だが、この小さな鍛冶師を悲しませる事を天秤に掛ければ、安い恥辱だろう。
「シロエ、手を繋ぐぞ。あくまでこれは逸れない為に必要な措置だ。他の意味など何も無いし、特別な意図を感じる必要も無い。良いな」
「う、うん」
矢継ぎ早に告げられ、困惑しながらシロエが頷いた後、二人はどちらともなく手を取り合う。
シルヴィアの手は年頃の少女のものとは違い、日々の鍛練と努力によって硬く、厚く、多くの傷と節くれを刻んだ、柔らかさとは無縁のものだ。
勿論、それはシルヴィアにとっての誇りであり、今まで剣に生きて来た確かな証と言えるだろう。
「く……っ」
しかし、二人きりという事実を意識させられている今、女らしさの欠片もない自分の手を晒す事に、彼女は小さな抵抗感を感じてしまっていた。今までの人生では一度も無かった、始めて起こる胸の内に、戸惑いを隠せない。
シロエの手もまた、何時かと変わらずその背格好からは想像も出来ないほどに、一人の鍛冶師として頷けるだけの年輪が刻まれているのが、余計にその思いに拍車を掛けた。
シロエは男、シルヴィアは女だ。世間的にらしいという意味合いでは彼が正しく、彼女が間違っているのは明白だった。
隣に立つシロエが、そんな小さな事を気にする人物ではないと思考では理解しながらも、理性が羞恥から声にならない悲鳴を上げ、頭の中をのた打ち回っている。
僅かな不安に駆られ、知らず知らずほんの少しだけ、握ったその手に力を込めていた。見る影も無く弱くなった己の心に、軽い自嘲の念さえ浮かんでしまう。
そんな彼女の気持ちに応えるように、繋ぎあったシロエの手から、同じ程度の小さな力が返って来た。
言葉は無い。だが、そんなやりとりだけで、彼女の胸に宿った一片の澱みは、あっさりと霧散していく。
我ながら単純すぎると内心で苦笑いしながら、不安になった理由も、それが晴れた理由も全て棚上げにして、それでもシルヴィアはシロエに向かって笑い掛けた。
「――うむ。では改めて、行くか」
「うんっ」
頷きあった二人は、しっかりと手を繋いだ状態で、あらゆる音が入り混じる、喧騒の坩堝の中へと埋もれていった。
◇
「さて、どうなるかねぇ」
膝に置いた、大きな筒状の箱に入った大量の炒り豆を、手掴みで適当に取りつつ口に入れ、他人ごとのようにレオが呟く。
満席となった大議堂の一角で、戦いの繰り広げられている正面の映像を眺めつつ、意識は全く別の事へと泳いでいた。
「あの二人よ? どうせどうにもなんないわよ」
その隣から豆を失敬しつつ、メルセが呆れ声で切り捨てた。レオを挟んだ反対側にはディーが、更にその隣にはデジーが座っており、共に一年生の試合を観戦している。
「それでも、これぐらいは露骨にしておかないと、二人の仲を進展させるのは難しいだろうからね」
首謀者であるディーは、本人も通じるとは思っていないだろう、白々しい言い訳をしながら苦笑した。
当然、シロエに送った伝言は全て嘘である。フレサとは何故か連絡が取れなかったが、もし街で鉢合わせしたとしても、空気を読んで同様の事をしてくれるだろう。
「とんだ茶番ね」
「承知の上だよ」
恋の天使を気取る気などは更々無いが、だからといって、こんな面白そうなネタを前に、指を咥えて見ているだけなど、選択肢としてありえない。
純粋で鈍感なシロエと、古風で堅物なシルヴィア。明らかに恋愛には疎いだろう二人では、仮に交際を開始するにしろ、気の遠くなる月日が必要になるに違いない。
見た所、シルヴィアは己の感情に気付き掛けてはいる。まだ本格的に悟っている訳では無さそうだったが、無理にならない程度に周りが焚き付ければ、経過を早める事は容易だろう。
「良いんっすか? シルヴィアさんの家元は五等とはいえ貴族っす。何かの拍子に間違いでも……起こる訳無いっすね」
「起きるもんなら、逆に見てみてぇよ」
言い掛けて、自分で勝手に納得したデジーに、レオの口角が意地悪げに釣り上がる。
シルヴィアは貴族の令嬢だ。交友関係ぐらいは好きに出来るだろうが、交際となると彼女の父親である当主が出て来て、面倒な事態に発展するかもしれない。
とは言え、結婚を視野に入れてという訳でも無く、プラトニックな関係を続けるだけならば、メルセから語られた当主の一面を聞いた限りでは、理解を得られる可能性は十分にある。
二人とも大事な友人だ。遊び心も大なり小なりあるにはあるが、純粋に応援している気持ちも大きい。
あの二人なら、きっとどんな結末を迎えるにしろ、周りが余計な事をしない限り悪い方向に向かう事は無いという、確信的な安心感も手伝い、これからも今回のようなお節介は繰り返されるだろう。
「――良い動きしてんなぁ。このままどんでん返しがなけりゃ、次の試合はあっちの騎士の方と当たりそうだな」
試合の観戦に戻ったレオが、四組が別々の場所で戦っている映像の一つで、黒と白、互いに真逆の色をした者たち剣戟を眺めながら、嬉しそうに言葉を漏らした。
最初の試合が消化不良だった分、次こそはまともな相手と戦えるという事実が、嬉しくて堪らないらしい。
素早さを重視した、黒い部分鎧の剣士より、頭を含む全身を白の甲冑で覆った騎士の方が、技量の面から見ても一枚半は上手だろう。外から観察すれば、大きな盾を用いた後の先を取る堅実な方法で、確実に相手の挙動を封じつつ追い込んでいくのが解る。
まずは守勢ありきの立ち回り方と、甲冑の胸元に映る、家紋と思われる紋章が彫られている所を見ると、同じチームに所属している貴族の護衛なのだろうと思われた。
甲冑騎士の鎧を削り、胸部だけが残ったようなブレストプレートを装備した、貴族の少年の剣捌きも見事だ。
その動きは、同じ貴族であるシルヴィアに近いだろうか。手に持つ剣も何らかの魔剣らしく、刃を振るう度に水飛沫が宙へと舞い散り、対戦相手を圧倒している。
残りの二組の人間の魔道士とエルフの弓兵も、相手を倒して勝利を得るのは目前だろう。
「あの騎士、オレが貰って良いか?」
「好きにしなさいよ。アタシもディーも、対戦相手を選り好みなんてしないわよ……何よ?」
嬉々として尋ねて来るレオに、興味の無い態度を取るメルセだったが、ふとその向こうから贈られるディーの視線に気付き、眉根を寄せて問い掛けた。
「ううん。ただ、ようやく誰かの名前を読んでくれたねって」
そんなメルセを見つつ、ディーの顔が綻ぶ。
辛い過去を歩んだだろう彼女にとって、自分の中へ入る事を認められつつあるのだろう、良い方向への変化を感じ取れた事による、優しい笑みだった。
「~~っ」
どうやら、自分でも無自覚で言ってしまっていたらしい。指摘された直後、身体を強張らせたかと思えば、その全身が一気に赤色へと染まりあがった。
「べ、別に良いでしょ!? アタシの勝手じゃない!」
「悪いとは言っていないよ。寧ろ嬉しさの方が大きいね」
「~~~~っ」
「ったく、何がそんなに恥ずかしいってんだか――いでっ!?」
からかわれ過ぎて恥ずかしさの限界を超えたのか、手の届かないディーに変わり、レオの後頭部に全力で拳を振り下ろすメルセ。反動により、レオの持っていた箱が地面へと落下する。
「おっと」
だが、床に到着する直前で、中身を少々落としながらも、ディーの伸ばした足によって箱は器用に受け止められていた。
「うるさい、このバカ! 脳筋!」
「いってぇなぁっ。いきなり何しやがんだてめぇ!」
「恥ずかしいからやめるっすよ~。周りの皆さんがこっち見てるっす~」
足の箱を回収し、何事も無かったかのように観戦に戻ったディーに阻まれ、遠い位置に座るデジーの懇願はレオたちに届きそうに無い。
試合の光景そっちのけで盛り上がる彼らを、周囲から酷く迷惑そうな視線が送られるが、気にしているのはデジーだけだ。
「慣れだよ、慣れ」
「うぅ、肩身が狭いっす……」
豆を口に入れつつ、喧嘩を放置したまま我関せずを貫く元凶の隣で、何もしていないのに巻き込まれた被害者が、泣きそうな声を上げていた。
◇
オレンジをすり潰したジュース、一晩漬け込んだ果物の蜂蜜漬け、焦げ目の乗った牛肉の焼き串、旅芸人一座のジャグリング・ナイフ投げ・人形劇・楽団の演奏――
大量の露天や見世物を冷やかし、シロエとシルヴィアは街の祭りを存分に堪能していた。
最初はぎこちなかったシルヴィアも、今では違和感無くシロエの隣を歩いている。
「この辺りは、学園の為に設けられた区画らしいな」
今まで歩いていた大通りから、東門に向けて道を逸れた場所では、学園の生徒たちと付き添いの教師たちが、露天や商いを行っていた。
「わぁっ」
大通りで見て来たものよりも、質が悪そうだったり、値段が割高に思えるものもあるようだが、それ以上に学生らしい奔放な作品も多く、シロエは今までよりも更に目を輝かせて周囲を見渡す。
「学園行事名物! 世界一美しい魔女、ヴァネッサ・エクレール先生の氷菓子だ! 食べない人は損をするよー!」
通り抜けようとした隣から、天幕を付けた露天の一つで生徒の大きな呼び声が掛かった。
イチゴやオレンジなどの名札が書かれた、十種類近くの水瓶が机の上に置かれており、店員である生徒たちが杖を振るい、器に移されたそれらが瞬時に凍り付かせていく。
そうして出来た色付きの氷を、今度は別の生徒がピックを使って細かく砕き、上にシロップをかけて、訪れた客へと配っている。
工程はシンプルながら、見た事も無い料理を販売する様子に、シルヴィアの興味が湧く。
店の代表として、行列の出来た店舗の中央に座る教師のヴァネッサは、確かに謳い文句に恥じない容姿だった。
頭に被った、御伽噺の絵本に出て来る魔法使いのような、つばの長い真っ黒な三角帽子には、星や月などを形取った金色の装飾が取り付けられ、ドレス基調の黒色のローブは、足首が隠れるほど丈が長い。
しかし、変わりにスカートの右側に切り込まれたスリットが、下着の見える直前まで深く大きく広がっている為に、その隙間から見え隠れする細長く汚れ一つ無いおみ足が、酷く倒錯的な色気を演出していた。
ウエーブの乗った長い紫の髪に、己を知り尽くし完璧な化粧を施された、傾城とさえ言える妖艶な美貌。蟲惑的な艶やかさを見せる、まつ毛の長い同色の瞳には、他者を無条件で惑わせる底知れない灯りが揺らいでいる。
蓮華の形に刻まれた、果実のようにたわわに実った胸元といい、まるで全身を使って異性を誘惑しているとしか思えない、退廃的な色香を振り撒き続ける彼女には、恐らく大抵の女は嫉妬より先に白旗を振り、男は鼻の下を倍以上に伸ばす事だろう。
「一杯何と銅貨八枚! 今なら何と、学園が誇る魅惑のイケメン・美少女生徒たちが食べさせてくれる「あーん券」を、指名料込みの銀貨二枚で発行中だー! めくるめく一時を堪能したい紳士淑女の皆様方は、今すぐ財布の口を開けー!」
ヴァネッサの隣に並ぶ生徒たちは、どうやら彼女を師と仰ぐ一派らしく、各々個性を持ちながら誰もが水準以上だと思える外見を持ち、次々と指名されては、客の口へと氷の菓子を差し出している。菓子の美味しさなのか、サービスに釣られているのか、或いはその両方なのか、判断に迷う光景だった。
明らかに学園が出展するには公序良俗に反している気がするが、こうして店を構えている以上、許可は得ているのだろう。
「……この学園は大丈夫なのか?」
立ち止まったシルヴィアが、一抹の不安を抱えつつ、胡乱気な表情で口を開いた。
大通りの露天にも無かった、初めて見る料理は確かに気になるが、立ち寄るには幾らかの勇気と覚悟を持たねばならないだろう。
「シロエ?」
「――」
数瞬迷った後、相方の意見を聞こうと視線を移してみると、シロエは店の一点、客に対してしなを作る、ヴァネッサの姿に目を奪われていた。
「おいっ」
「うぎゅ~!?」
隣に手の繋いだ女性が居るというのに、他の女に見惚れるなど言語道断である。シルヴィアは繋いでいない左手を伸ばし、シロエの頬を抓り上げた。
しばらく罰を与えた後、ようやく開放すると、女性の扱いについて説教をすべく、抓った箇所をさするシロエを上から睨み付ける。
「いたたた……」
「純朴そうな顔をしておきながら、全く油断も隙も無い。お前一体は何を見ているんだ」
「え? 先生の杖だけど」
「……」
きょとんとした顔をする彼の言葉に、二の句を失うシルヴィア。どうやら穢れていたのは、彼女の思考の方だったらしい。
「そ、そうだったのか……」
「ボク、シルヴィアに何か悪い事したのかな?」
何とも言えない空気が流れ、冤罪により暴力を振るってしまったシルヴィアに、シロエは彼女の行動が理解出来ず、その理由を問い掛けた。その不安そうな表情が、心に生まれた罪悪感をより一層加速する。
「い、いや、すまない。私の単なる勘違だったようだ。侘びて済む問題では無いが、何か――そうだな、謝罪としてあれを奢ろう」
すぐさま頭を下げ、おろおろと視線を泳がせた後、丁度良いと先程の店を指差すシルヴィア。
不本意だが、立ち寄る理由が出来た事は僥倖だった。顔の一部に赤さを残すシロエの手を引き、並んでいる人たちの最後尾へと付く。
「名物と言うからには、味に外れも無いだろう」
「別に良いのに」
「そういうわけにもいかない。勝手に誤解した挙句迷惑まで掛けたのだ、これぐらいはさせて欲しい」
シロエにとっては取るに足らない出来事だったとしても、彼女にとっては許されざるべき愚行である。例え独りよがりだろうと、譲るつもりは無かった。
人垣を消化して辿り着いたのは、他の生徒ではなく、ヴァネッサの待ち受ける場所だった。
「はぁい、いらっしゃい」
艶のある声で入店を歓迎した彼女は、シロエたちの姿を観察して、その笑顔を更に深めた。
「あらぁ、一年生のカップルかしら? 付き合い始めたばかりって感じで、初々しいわねぇ」
「違います」
「あはは……」
即座に否定するシルヴィアと、苦笑いをするシロエ。その様子を見て、ヴァネッサは不思議そうに口元に人差し指を置く。
「あらあら、そんなにしっかり手を握り合ったりしてたら、嘘を吐いていても意味がないわよ?」
「本当に違うんです。ボク、まだそういうのが良く解らなくて――あ、でも、シルヴィアの事は好きだよ」
「お前は……」
シロエから当たり前のように好意を口にされ、彼女は恥ずかしさから額を押さえて沈黙した。他意は無いと理解しながらも、顔が染まる熱を止められない。
「今日は暑いわねぇ。茹だっちゃいそう」
初々しい反応に、ヴァネッサはくすくすと微笑みながら顔を手で仰ぎ、あからさまな態度でからかっている。
「ん゛ん゛、私はイチゴ味でお願いします」
咳払いを一つして、誤魔化すように注文するシルヴィア。
「シロエはどうする?」
「じゃあ、ボクはミントで」
「はーい、イチゴとミント一つね」
生徒の一人が、水瓶から注文の水を器に移してヴァネッサの前へと置くと、彼女は先端に赤、青、黄という三色の宝玉の付いた、螺旋状の杖をかざして呪文を唱えた。
「『氷結』――砕けろ」
次いで告げられた命令により、凍った水が一瞬で粉々へと砕け散る。ピックを使って手で砕いている生徒とは違い、術式そのものに手を加えられた彼女の魔法は、それだけで他より抜きん出ている事が伺えた。
「シロップをかけてー――はぁい、お待ちどうさまぁ。一度にたくさん食べると、頭がきーんってなっちゃうから気を付けてね」
「見事な腕前です」
「あの学園で、教師なんて職業やっているんですもの。これぐらいは普通よぉ」
代金と交換し、品物を受け取るシルヴィアの称賛にも、軽い調子で謙遜するヴァネッサ。発動させた魔法に次の動作を加えるのは中々に高度な技術なのだが、彼女にとっては自慢するほどのものでも無いらしい。
「一つ、質問してもよろしいでしょうか」
「良いわよ。何かしら?」
「先生は何故、魔法を使った菓子などを販売しているのですか?」
シルヴィアは、店を見掛けた時から思っていた疑問を、彼女へと問い掛けた。
魔法を使って料理をしたり、暖炉に火を付けたりと、日常生活に魔法を取り入れる行為は誰もが一度は想像するものだが、魔道士たちの間では余り好まれていない。
そういったものは魔具師の作った作品の領分であり、才能のある者にしか使えない貴重な技術を下世話な事に用いるのは、彼らのプライドが許さないのだ。
だというのに、この店に居る生徒たちは、皆一ように嫌な顔一つせず、寧ろ嬉々として笑顔を振り撒きながら魔法を使っていた。
「過去の因習に捕らわれていては、未来への進展は無くなってしまうわ。こういう遊び心を教えるのも、教師の役割なのよ」
ウィンクを一つして、お茶目にそう告げるヴァネッサ。
しかし彼女の言うほど、この場は生易しいものでは無い。実際、ただ水を凍らせる簡単な魔法だけでも、これだけの客量を相手にすれば容易に魔力が枯渇してしまうのは明白だ。
今氷を砕いている者たちは、魔力の切れてしまった生徒であり、現在魔法を唱えている生徒たちと互いに交代しながら、何度も枯渇と回復を繰り返している。
体力や筋力、心力などと同じく、時間と共に回復し、酷使する事で総量の増やせる魔力を鍛えるのに、常に魔法を使い続けなければならないこの店は、非常に都合の良い修行場なのだ。
「あの、先生の杖を一度見せて欲しいんですけど、駄目ですか?」
「私より杖の方に興味津々だなんて、おませさんねぇ。でも、だ・ぁ・め」
器を受け取りながら願い出たシロエに対し、ヴァネッサは少年の口に人差し指を添え、しなを作って妖しい微笑みを送った。
「女はね、嘘と秘密を重ねて美しくなるのよ。それを暴かれたら、心まで裸になってしまうわ」
おどけた調子でそう言って、添えていた指を彼の頬へと移動させると、二人はしばし無言で見詰め合う。
「……ごめんなさい」
「良い子ね。素直な子は大好きよ」
顔を伏せ、突然頭を下げたシロエの謝罪に、それを当然のように受け入れ、優しく頬を撫でるヴァネッサ。
「貴方が悪いわけではないの。だから、悔やんでは駄目よ」
「……はい」
隣で見ていたシルヴィアには、二人の間で行われている会話が理解出来なかった。恐らくもう話の内容は杖から離れ、ヴァネッサ自身の何かについて語られているのだろうとはおぼろ気に察せるが、それ以上には至らない。
自分には無い視点で会話を行う二人に、シルヴィアは例え様も無い、靄の掛かった暗い感情を持て余してしまう。
「先生、ありがとうございます」
「やーん、可愛いー!」
「ふぇ? むぎゅっ」
感謝を表すシロエの笑顔に、いきなり態度を豹変させたヴァネッサが抱き付いた。その見事な双丘に、小さな少年を埋め込む。
「あうあう」
「困った表情も素敵ねぇ、食べちゃいたいくらい。ねぇねぇ、お姉さんが膝の上で食べさせてあげましょうか?」
「――結構ですっ」
途端にまなじりを釣り上げ、殺気すら滲ませたながら、シルヴィアが器を机に置いて二人を全力で引き剥がした。
「やん。ふふふっ」
シロエを取り上げられながら、ヴァネッサは余裕の表情で笑っている。そして笑顔のままに、シルヴィアの傍へとその顔を移す。
「知ってる? その感情の名前はね、嫉妬って言うのよ」
耳元で、心に直接塗り付けられるような、ドロリとした口調で彼女が囁く。その声色は艶美に染まり、迂闊に聞き入れば飲み込まれてしまいそうなほど、底無しの深さと濃厚さを併せていた。
「貴女の心に色を付けたその想いを育てれば、貴女はきっと今よりもっと美しくなれるわ。だから、今の言葉を忘れては駄目よ?」
熱を込め、魔女はさも嬉しそうに語り掛ける。全てを見透かすかのように、甘美な美酒に酔いしれるかのように。
身を引いて視線を合わせ、真意を探ろうとしてみるが、彼女は妖しげな表情で挑発的に笑うばかりで、何も読み取る事は叶わない。
「……」
シルヴィアは追求を諦めると、無言のまま器を回収し、シロエの手を掴んで店を離れた。
「……行くぞ」
「シルヴィア?」
「学園で会う事があれば、仲良くしましょうねー」
立ち去る二人の背に向けて、ヴァネッサは何時までも手を振り続ける。
「――青春ねぇ」
今までとは違い、穏やかな笑みを作る彼女の顔を見る事が出来たのは、途中で振り向いた小さな鍛冶師だけだった。




