15・試すもの、試されるもの
教室の中で、羽ペンの動く音が奏でられる。
「スミス」の一年生に宛がわれた教室の一つで、何時も通りの咥え煙草に汚れもないのに何故かよれよれの制服を着たオルゲイが、たった一人の生徒だけを対象に補習の授業を行っていた。
補習相手は、武具作成の為に休暇届を提出し数日間授業を欠席していたシロエだ。そわそわと落ち着きのない挙動不審なその態度は、明らかに授業へ集中出来ていない。
動き続けていたペンが止まり、続いてオルゲイの口から盛大に漏れた溜息が教室内に響く。
「……五十九点。不合格だ」
「あうぅ」
無情な宣言を受け、シロエは情けない声を出しながら表情を歪めて机へと突っ伏した。
物覚えの悪い方ではないのだが、シルヴィアたちの武具の内容を考える事に夢中で学生の本分である勉強を疎かにしていたツケが、数字として明確に示された結果だった。
「及第六十点のテストで、よくもまぁこんな見事な点が取れるもんだなぁ。おい」
「ご、ごめんなさい」
答案用紙を指で摘み、ひらひらと揺らしながら呆れる教師の言い草に返す言葉もないシロエ。
オルゲイは、そんな出来の悪い生徒に対しニヒルに笑いながら卓上にある大量の紙を叩いてみせる。
「ま、安心しろ。筆記が苦手なお前の為に、問題用紙は山ほど用意してあるからなぁ」
「あわわわわわわ」
嬉々とした笑顔という威圧を向けられ、がたがたと震え上がるシロエ。
適当そうに見えて、手の掛かる生徒は人一倍可愛がる不良教師は、そんなシロエの様子を見て笑みを更に深める。
「何を気にしてるのかは知らんが、折角放課後に延長してまで一対一で教授してやってるんだ。さぁて、次は間違えた箇所の復習といこうか」
「うぅ……」
何もかも見通され、それでも容赦しないオルゲイに恨みがましい視線を向けつつ、シロエはこの逃げ場のない状況に絶望しながら頭を垂れた。
「……皆、どうしてるかなぁ」
溜息気味に吐き出された呟きは、ここには居ない彼らに届く事はない。
それぞれへの武具の作成が終わり、担い手はシロエの鍛え上げた結晶たちを受け取った。
その結果を小さな鍛冶師が知るのは、もう少しだけ後になりそうだった。
◇
「それで? 肝心のお披露目に、作った当人は不在という訳か」
「筆記の補修が長引いてるそうだよ。シロエもレオと同じで、基本は体で覚えるタイプだから暗記が苦手科目なんだ」
画竜点睛を欠く状況に、不満気な表情を隠そうともしないシルヴィアの声と視線を、苦笑しながら肩をすくめて受け流すディーエン。
一年生「ソード」クラスの鍛練場。
シルヴィアが何時も訓練をしている定位置にて、シロエを除く六人が集合していた。遠くでは、幾人かの他の生徒が鍛練を行っている。
レオンが抱えた布に包まれた大きな三つの物体は、先日シロエが完成させたシルヴィア、メルセティア、フレサ、それぞれの武具である。
憮然とするシルヴィアの言葉通り、本来であればシロエも今回の集まりに同席するはずだったのだ。しかし、追試の追試と授業を引き伸ばされ結局この場に辿り着く事は叶わなかった。
「主賓が居ないとなると、いっそまた後日って事で良いんじゃないっすか?」
「いや。まだ日があるとはいえ、新しい武具に慣れるには使い続けるのが一番だよ。ちょっと締まらないけど、完成している以上は早く渡しておいた方が得策だね」
長椅子の縁に腰掛けるデジーの提案を、ディーエンは首を振って否定する。
シロエの作る武具は、優秀故に人を選ぶ。
担い手に相応の技術を求める場合も多いので、練習する時間は出来るだけ長い方が良い。
「まぁ、もしもの為にシロエに三人の武具を解説したメモを書かせておいたから、問題はないよ」
そう言って、袖口から折り畳まれた何枚かの羊皮紙を取り出す。
そこにはシロエの字で、作成した武具に関する図解入りの注釈が細かに描かれており、本人不在でも十分進行は可能だった。
「ほんじゃまぁ、まずはシルヴィアからだな」
レオンは抱えていた物体の一つを、シルヴィアへと放り投げる。
「――似ているな」
放物線を描くそれを片手で受け取り、布を剥ぎ取って中から出て来た白金の鞘に収められる一振りの剣を確認した時、騎士の少女が最初に漏らした感想はそれだった。
シルヴィアが父から譲り受けたものと同じ、細身の直剣。
片手での運用を前提として、柄には持ち手を覆う手甲が取り付けられている。
手甲の部分には月桂樹のリースが装飾として彫られ、その中心に黄緑色に輝く三つの宝玉が取り付けられていた。
「大切な剣だったらしいから、思い出を残す意味も込めて造りを真似てみたんだって」
「そうか」
メモに目を落とすディーエンの言葉を聞き、シルヴィアの口角が釣り上がる。
鞘の装飾も申し分なく、儀礼用としても配慮された細やかな意匠。まるで、作り手の心遣いが透けて見えて来るようだ。
模倣されたそれらは、決して未練を残す為の産物ではない。父の剣に込められた様々な想いは今、確かに少女の手に持つ武具と彼女自身の心へと受け継がれていた。
早速鞘から剣を引き抜き、白金の刀身を剥き出しにして身体の中央付近で水平に構えるシルヴィア。
「ふむ、少し軽いか? ――ふっ!」
言いながら、虚空に向かって素早い突きを繰り出したのを皮切りに、風切り音を響かせながら練舞を行う。
唐竹から切り上げ、軌道をずらし袈裟切り、横薙ぎ、半歩下がって再び刺突――一閃ごとに剣速を加速させ、次第にペースを引き上げていく。
「はわー」
「フレサさん、口開けたまま呆けると、アホの子に見えるっすよ? いやまぁ、気持ちは解るっすけど」
武芸を嗜んでいないフレサとデジーにとっては、シルヴィアの剣の軌道を追う事すらままならない。
続けられるその剣舞は、最早彼女の前で暴風が吹き荒れているようにしか見えていないだろう。
「は、ハハ――ッ」
無数の銀閃を縦横無尽に思うがままと振るいながら、シルヴィアは笑みを我慢するのを堪えられなくなっていた。
指一本の長さの違い。
石ころ数個の重さの違い。
ほんの些細な重心の移動。
一つ一つは小さな――本当に小さな変化が幾重にも折り重なり、少女の手に持つ剣を至高の一振りへと昇華させているのだ。
あの小さな少年が。あの、頼りなくも心優しい少年がこの一刀を鍛え上げた。
その事実をまざまざと突き付けられたのだから、笑わずにはいられない。
「……まさか、これほどとはな」
「びびったろ?」
一頻り振り回した後、シルヴィアが剣を鞘に収めた時を見計らってレオンが意地悪げに問い掛けた。
当然、軽口を返す余裕など今の彼女には残されていない。
「ああ。正直これは、想像以上だ……」
シルヴィアは剣に目を落としながら、半ば放心気味に口を開く。
だがしかし、その驚きすらもまだ序の口でしかない。
「その言葉はまだ早いよ。剣に魔力を通してみて」
「解った――なっ!?」
ディーエンに促されるまま剣へと魔力を通わせた瞬間、シルヴィアの顔が驚愕に染まる。
剣の全体へと行き渡った魔力により、刀身から頬に触れるほどの微風が発生しているではないか。
勿論、シルヴィアは魔法を発動させていない。それはつまり、この風を生み出しているのは彼女が持つ剣自身であるという証明。
「剣の手甲部分に付けた三つの魔晶石の属性は、シルヴィアの血統属性である風だね。それぞれに最初から術式が彫られていて、発生する風の形は、右上から時計回りに直線、平面、螺旋の順番だよ」
「まさかとは思っていたが……シロエには、魔具師の才まであるというのかっ」
武具に魔法の効果を付与するのは、本来ならば魔具師の役割だ。
ただの刀剣としてだけでも素晴らしいというのに、それが魔法の組み込まれた魔剣だったならばその価値は更に跳ね上がる。
至極簡単に説明しているが、ディーエン自身も込められた魔法についてそれがどれほどの偉業かを十分理解しているのだろう。
言葉を失う騎士の少女を、蒼髪の魔導士は苦笑とも呆れとも付かない顔で見つめている。
術式の刻まれた魔晶石は、魔力を通すだけで魔法が発動する反面それ以外の術が一切使えなくなる。
その上、一般の魔具師が作り出す魔具の大半は同じ効果で通常の三倍は魔力を必要とするような、効率が著しく悪いものが主流だ。
だというのに、巻き起こる風に対してシルヴィアが失っている魔力は、普段と同じか下手をすれば下回っている可能性すらある。
これは、精錬した魔晶石の純度や書き込まれた術式の完成度もさる事ながら、彼女の持つ魔力を正確に読み取りその情報に合わせて特化させる事で可能な限り無駄を省いた、単一使用の品として加工された結果だった。
天才だとは聞いていた。
腕が良いとも語られていた。
だが、まさかこれほどまでの傑作を産み出してのける事を、故郷の同胞以外の一体誰が想像出来ただろうか。
「気に入ってくれたみたいだね」
「あぁ――あぁ! これは正に、これ以上ない私だけの武具だ!」
今にもはしゃぎ回りそうな笑顔で、剣を高らかに持ち上げるシルヴィア。
陽光に照らされ、光を反射させる装飾が一層の輝きを放って辺りを照らす。
「次はメルセだな。ほれ」
最高のプレゼントを貰い飛び上がらんばかりに浮かれる金髪の騎士を尻目に、今度はメルセティアに向かって荷物を投げるレオン。
「って……これのどこが弓なのよ?」
エルフの少女が受け取った後、布を取り外されて現れたのは完成された弓ではなかった。
骨組みの板とごちゃごちゃとした部品らしきものが重なり合った、謎の物体。
メルセティアの当然の疑問に、ディーエンがメモに目を通しながら説明する。
「前に使っていた大きな弓だと持ち運びに不便そうだったから、普段は折り畳んでおけるようにしたんだって。腕を伸ばして、持ち手の留め金を外してみて」
「えっと、こう? ――うわぁっ!?」
ディーエンの解説通りに持ち手と思われる部分を掴み、メルセティアはフック式の留め金を外す。直後、上下の金属板が外に向かって勢い良く跳ね上がった。
突然の出来事と反動に危うく弓を取り落としそうになるが、咄嗟に持ち手を強く掴む事でなんとか押し留め冷や汗を流す。
「緊急時の為に素早く展開するから、怪我に注意って書いてあるね」
「先に言いなさいよ! びっくりし過ぎて、心臓止まるかと思ったじゃない!」
平然と続けるディーエンを、動揺に胸の鼓動を高鳴らせ顔を染めながらエルフの少女が怒鳴り付ける。
「折り畳み方も書いてあるから、後で読んでおくと良いよ」
「ったく――それにしても、変な形ね」
文句を言いつつ改めて出来上がった弓に目を向ければ、それは普通のものと比べてかなりの異色を放っていた。
以前使っていた弓の反りは、三日月のように大きな一つの曲線を描いていた。だが、四枚の板を張り合わせて形勢された今回の弓は、持ち手に対して上部の長い左右非対称の反りが二つ作られている。
上下の両端に小さな円盤型の器具が付いていたり、指を掛ける場所に筒状の形をした謎の装置があったりと見ただけでかなり複雑な機構だと解る。
「この、弓の上下にある丸いのは何?」
「滑車だね。弓を引く際のサポートと、引き切った状態での安定性を上げる為に取り付けたそうだよ。他にも照準用のサイトとか、色々と各部品の用途が書いてあるね」
「ふぅん」
一つ一つの目新しいもの全てに、取り付けた理由が存在するらしい。
普通の弓とは一線を隔す、機械弓とも呼ぶべき武具を再び繁々と眺めるメルセティア。
「とりあえず、一度撃ってみたらある程度は解るんじゃないかな?」
「そうね」
見て解らないものを、幾ら眺めていても仕様がない。
ディーエンの提案に同意したメルセティアは、同封されていた鉄製の矢を番え近くに置かれている練習用の太い丸太へと照準を付ける。
「あぁ、なるほど。こうなる訳ね」
弓を引き絞った状態で止まり、納得がいったのか一人で感心するメルセティア。
今度は一端構えを解き、弦の張りや滑車の状態などを確認した後で再度弓を引く。
「シッ!」
放たれた矢が高速で疾駆し、見事丸太の中心へと突き刺さった。
「どうかな?」
「……ありえないでしょ。なんなのよ、これ」
放った当人であるはずのメルセティアが、目の前の現実を受け入れられずにそんな言葉を漏す。
以前であれば刺さるだけで終わっていたはずの矢が、全体の半分以上を丸太の反対側へと貫通させているのだ。
全力など程遠い、手加減混じりの一矢でこの威力だ。全力で射れば、恐らく分厚い甲冑を着込んだ生身の者にさえ同じ事が可能だろう。
「まさかこれにも、そっちの剣みたいに何かとんでも効果が付いてる訳?」
胡乱気な目で自分の持ち物となる凶悪な弓を掲げるメルセティアが、お次は何だと言いたげな顔でメモを見るディーエンへと尋ねた。
「メルセの弓で気を使ってるのは、素材の方だね」
シロエのメモから目を離す事なく、ディーエンは事もなげに書かれている内容を要約する。
「父親である吸血鬼は死霊だから、多分君もミスリル銀が苦手でしょ? だからそれは避けて、その弓はアダマンダイトを中心にした合金で作ってあるそうだよ。心力の伝達し易い金属ばかりを混ぜ合わせたそうだから、実戦ではもっと威力が出るだろうね」
「はっ、なるほどね。最初の弓がお蔵入りする訳だわ」
この弓は、どう考えても戦闘に主眼を置いて設計されている。
山狩りで使えない事もないだろうが、小型の動物では直撃すれば原型を留めるかどうかすら怪しいものだ。
「これ、大会で使ったら死人が出るわよ?」
一度放たれた矢に、加減など存在しない。
骨すら貫通しかねないこの過剰な破壊力だと、急所以外に当たったとしても命中する箇所によっては容易に致命傷となり得るだろう。
弓の腕に関しては確かな自信を持つメルセティアだが、一々相手を気遣って行動したのではその動きがかなり制限されてしまう。
「その辺りも抜かりはないよ。はい」
言葉の後にディーエンからメルセティアへと投げ渡されたのは、新しい一本の矢だった。
矢尻に該当する部分には、円錐の上部を切り取ったような形の黒い物体が取り付けられている。触ってみると硬質ながら弾力があり、金属ではない事が解る。
「これは?」
「非殺傷目的の生け捕り用だそうだよ。大会までにそれなりの数を用意するから、基本はその矢を使って欲しいって書いてるね。勿論威力はそのままだから、過信は禁物だろうけど」
「可愛い顔して、えげつないわね。あの子」
渡された矢の重さを確かめ、再び番えて即座に放つ。今度の一矢は、丸太の上端へとぶつかって彼方へと弾かれた。
ガァンッ、という強かな音を上げ、地中深くに根を張った丸太が大きく前後に揺れ動く。
元々威力が絶大な事もあり、頭部に食らえば脳震盪は確実だろう。それ以外の部位であっても、恐らく骨に亀裂ぐらいは入るかも知れない。
「そんな感じで、矢の種類についてもこれから一緒に研究したいんだって」
「解ったわ」
ディーエンの締め括りに、メモを借りずに独力で折り畳み方を模索しつつメルセティアは言葉だけで了承を示した。
「あの弓の機構、何処かで見た事があると思ってたんっすけど――あれ、一月ほど前にディパールから売り出された始めた最新式の合成弓っすね」
無言でメルセティアの弓を観察していたデジーが、確信を持って呟く。
隣でその声を聞いたシルヴィアは、訝しんで眉をひそめる。
「シロエは、軍事国家の最先端技術を独力で考え付いたというのか?」
ディパールは、大陸最北端に位置する軍事国家だ。
遥か昔。神と魔、そしてこの世界に生きる全ての生物を巻き込んだ「百年戦争」と題された長き戦乱の際、強大な力を持った氷の悪魔の肉片が山脈へと飛び散りかの地を極寒の凍獄へと変えたのだと言う。
山頂付近から衰える事なく吐き出され続ける瘴気に当てられ、山に住む魔物たちはほぼその全てが生まれながらにして異常なほどの攻撃性と精強さを持つ。
そんな「氷床山脈」の異名を持つグラシオス山の麓にて防波堤の如く存在し、時折山脈から降りて来る凶悪な魔物たちとの戦いに明け暮れている。
厳しい風土故に食料の生産もままならず、国民の大半が軍属となるか傭兵となって出稼ぎを行う生活を強いられており、近隣諸国からの莫大な援助金を受ける見返りに、魔物との戦いで開発された武具や術式に関する技術を各国へと提供する事で国としての運営を行っている。
「いや、恐らくシロエ君のお師匠さんが作り方を知ってたんだと思うっす。でも、こっちじゃまだ絵付きの資料が出回ってるだけで本格的な製造はまだのはずっす。片田舎の鍛冶師が精密な設計の情報まで得るには、ちょっと時期が早過ぎるっすね」
「……謎は増すばかりだな」
シロエたちが学園に入学してから三ヶ月以上は経過しているが、ディパールからこの学園の所属するアリスレイ王国まででも馬車で軽く二ヶ月は掛かる道程だ。
入学以前に知識を得たと考えると、時期が合わない。
遠方との会話を可能とする魔具もあるにはあるのだが、非常に高価な上に声だけしか届けられないので構造を完璧に再現する事は難しいだろう。
どうやら、名もなき田舎村で三人を育てたという彼らの師たちもまた、彼らと同じく常識が通用しないらしい。
「後はフレサだな。ほれ、取りに来いよ」
「あ、は、はい」
そんなシルヴィアたちの思考を、解っているのか、いないのか。
レオンは最後となった獣耳の少女に、武具を手渡しているところだった。
フレサの武具は、身の丈に近い長さの柄に両手で輪を作る程度の深い紫紺の魔晶石が取り付けられた、如何にも魔導士らしい長杖だ。
「説明は後でするから、まずは使ってみて」
「はい――おいで、アンブラ」
ディーエンに促され、杖を掲げたフレサが小さく祈りを捧げる。
何時ものように、彼女の足元へと「向こう側」への扉が漆黒の影として出現する。しかし、その大きさが今までの比ではない。
常に握り拳ほどだったその穴は、両腕で囲う以上に広がり更にその範囲を拡大し続ける。
「え、ちょ……っ」
術者本人の意思を無視し予期せぬ大きさとなってしまった「向こう側」への扉から、満を持して闇の精霊ウンブラが姿を現す。
大きな頭部、つるつるの手足、つぶらな瞳にギザギザの大口。
原寸をそのまま拡大し、フレサの倍以上の身長となった巨大な黒色猫耳人形が大地へとその両足を踏み締める。
『――』
「でけぇ!?」
太陽の光をおおい隠し、口を裂くように開いて全員を見下ろすウンブラの巨体に、思わずレオンが大声を上げた。
遠くで鍛練をしていた他の生徒たちも、黒の巨人の存在に気付いてぎょっと目を見開いている。
ファンシーな見た目に反し、その巨体から発せられる威圧感は中々のものがある。
「う、ウンブラ……?」
『――』
「え? きゃっ」
フレサから震えた声を掛けられたウンブラは、身体を屈ませその両手を使って怯える少女を高々と持ち上げた。
『――』
彼女を自分の頭へと運び終え、闇の精霊はギザギザの口を大きく開けて無言の笑い声を上げ始める。
「……うん、ありがとう。ウンブラ」
ご機嫌なウンブラに乗せられ、その広い頭部に寝そべるように抱き付いたフレサは、感謝の言葉を口にしながら精霊の体を優しく撫でた。
「ここまでデカイと、流石に気持ち悪ぃな」
「そうか? 私はありだな。メルセティアティアもそう思うだろう?」
「……かわいい」
「だそうだ――触り心地は変わらないようだな。もちもちのすべすべだぞ」
巨体を見上げながら、レオンたちは口々に感想を述べたり触って感触を確かめたりと、インパクトのあり過ぎるウンブラに夢中だ。
「肝心の、杖の説明がまだなんだけど……」
「まぁ、後で良いんじゃないっすかね」
比較的冷静なディーエンとデジーの二人は、その場から動く事なく彼らの様子を呆れ半分で眺めている。
大人気となった闇の精霊は、大きな体躯を夕日に照らしながら、音無き哄笑を繰り返していた。
◇
心に灯る負の闇も、人の産み出す汚れた闇も、一度捕まれば逃れるのは容易ではない――
人目を避け、一人の少女が学園の廊下を急ぎ足で歩く。蒼い髪をした少年から譲り渡された柄の長い大杖を両手で抱き締め、頭の猫耳と視線を絶え間なく動かし続けながら体を縮めた体勢で逃げるように通路の先へと進み続ける。
そして、その行き止まりの場所である「スミス」校舎の空き教室に到着した彼女は、控えめにノックした後誰も聞こえないほどの小さな声で挨拶しながらその部屋へと入室した。
「し、失礼します……」
「遅いぞ!」
「ひっ」
入った直後、中で待っていた男に怒鳴られ大きく体を竦めさせる獣人の少女――フレサ。
「何時まで待たせる気だ! 僕たちは、お前みたいな獣臭い女と違って暇じゃないんだ!」
「ご、ごめんなさいっ。ごめんなさい……っ」
別の少年からも罵倒され、目頭に涙を溜めて必死に謝罪を繰り返す。
相手の二人は、レオンたちと最初に出会った時に彼女を虐めていた、「フォース」の生徒たちだ。
「余り怒鳴るものじゃない、怯えているじゃないか」
彼らを諌めたのは、部屋に存在する残りの二人の内の一人。銀髪の魔道士、クリストファーだ。
彼は前髪を指で触りながら、その隣に立つ黒髪の貴族――アルベールに、眉をひそめた。
「やはり、こういうのは僕の趣味じゃないね」
「平民如きのご機嫌取りをしろとでも? 下らないね。高貴なる立場であるボクらが、何故そんな事をする必要があるんだい」
クリストファーの戯言を一蹴し、整った顔立ちを醜く歪めるアルベール。
そのような愚挙に思考を割く気など欠片もないと、不快感をあらわにして吐き捨てる。
「君たち、ご苦労だったね。下がって良いよ」
「は、はい」
「へへっ、それで、そのぉ……ご約束頂いた件なんですが――」
「フォース」の少年たちが向ける卑屈な視線にうんざりしながら、彼らへと片手を振るアルベール。
「報酬は後で渡してやるさ。今は消えたまえ」
「は、はいっ! ありがとうございます」
喜色を灯してその場を立ち去る少年たちを見送り、アルベールは呆れた様子で肩を竦めた。
「本当に、平民というのは誰も彼も卑しいものだ。ボクらのような気品のなど、欠片もありはしない」
「君とその手の会話をすると、平行線になりそうだね。早く僕らの用事を済ませよう」
呆れているのは、クリストファーも同様だった。しかし、彼の対象は隣に立つ黒髪の少年も含めてのものだが。
クリストファーとアルベール。隣り合うこの二人は、利害の一致からお互いが利用し合う形で同盟を結んでいた。
クリストファーは、大会で完全な形でディーエンとの決着を付ける為。自分だけでは届かない根回しを行って貰う、協力者として。
アルベールは、自分を侮辱したシルヴィアを見返す為。彼女に選ばれ調子に乗っている平民たちに、自分の実力を知らしめる武具の担い手として。
最終的な目標はやや食い違っているが、過程については凡そ同じ工程を辿る為に結成された同盟だった。
「指示した通り、ちゃんと奴の武具は持って来たんだろうね?」
「は、はい……」
高圧的なアルベールから目を逸らしたまま、自分の為に作られたその作品をフレサは震えながら前へと差し出す。
「あ、あの、この杖は……」
「君が語る必要はないよ」
「ぁ……ひっ」
説明しようとするフレサの言葉を遮り、手に持つ杖を奪い取るアルベール。
少女の声を耳に入れる事すら気に入らないと、視線だけで黙らせる。
「ボクが見れば、あんな低能の作った作品の質なんて一目瞭然さ」
自分に対する絶対的な自信を滲ませ、紫紺の宝玉をつぶさに観察していく。
「――ふん、割りと上等な魔晶石を付けてるじゃないか。大方、プレディカード家の財産にでも縋ったんだろうね。彼女も見る目がないばかりに、金貨をゴミ箱に捨てたようなものだよ」
この場に居ない、耐え難い屈辱を味わされた金髪の女性を思い浮かべているのか、アルベールは口汚く罵りその暗愚さを嘲り笑う。
貴族の財産に物を言わせ、高級な既製品を仕入れたに違いない。恐らくこの少年は、その見事な出来栄えである魔晶石をシロエが自分で精錬した可能性など、露とも考えてはいないのだろう。
「もう一度だけ確認するが、本気なんだね」
「あぁ、勿論だ」
最終確認となるクリストファーの言葉にも、アルベールは考えるまでもなく即答を返す。
「まぁ、武具や魔具に関する知識に精通していない僕では作成に口は出せない。お手並み拝見といこうか」
「くくっ。あの節穴の連中にもちゃんと理解出来るよう、奴らの目の前ではっきりと証明してあげるさ」
長く伸びた新品の杖を眺め、低く笑うアルベール。
復讐に燃える貴族の少年に、最早どんな言葉も届きそうにはない。
「……」
二人の立つ位置から遠く離れ、フレサは明りの薄い部屋の隅で所在なく俯いていた。
深い常闇に落とされ、足掻く事を諦めた少女は恐怖と言う名の獣の影に囚われ続ける。
シロエには、それでも昔からの友が居た。しかし、フレサには未だ拠り所となれるほど強く彼らと繋がってはいない。
儚く弱い哀れな少女には、救いの手は未だ差し伸べられない。
彼女自身が己の意思でこの暗い牢獄からの脱却を願わない限り、明けない夜は終わらないのだ。
ちぐはぐで、ばらばらで、出来たばかりの小さな輪の中には確かにあった、あの優しい光を心から望み、自らの手をかざすまで――




