プロローグ3
プロローグラストです。
大神殿のど真ん中、鏡面まで磨き抜かれた床に燦然と輝く魔法陣。
三晩の間寝ずに複雑を極める詠唱を続けなければならない、正に知識と努力の結晶。魔術に少しでも造詣があれば、この魔法陣がどれ程に高度か見れば分かるだろう。
「……」
長かった準備期間も、ようやく終わりを迎えた。
神々しささえ覚える銀色の光を瞬かせ、魔法陣は起動の時を今か今かと待ちわびている。
「ついに完成したのですな、殿下」
「テスラン……ええ」
普段灯りを使うことの無い大神殿の祈りの間。
真っ昼間でも薄暗いのがこの場所の常なのだが、今は魔法陣の光によって晴天の下にいるかのような明るさだ。
”殿下”と呼ばれたのは女の子。腰まで伸びるプラチナブロンドが、魔法陣からあふれでる魔力の余波でうっすらと揺れている。絶世の美人と呼んでいいかんばせと相まって、幻想的な空気を纏っている。三日三晩不眠不休だったせいで隠しきれない疲労が滲んでいるが、そんなのは些細だ。
薄いローブは、正式な魔法の儀が執り行われる時の由緒正しき正装。女として成熟してきた彼女の身体のラインを意図せず鮮明に浮かび上がらせ、えもいわれぬ妖艶さだ。男ならば劣情を抱いたとして誰にも責められない程度には。
ただ、その雰囲気に対して彼女の顔立ちは幼さもはらんでいる。少女と呼ぶには些か大人で、女性と呼ぶには若干若い。そんな今しかない絶妙な美しさを持つ彼女こそ、この高等な魔法陣をたった一人で紡いだ高位の魔術師である。
そんな彼女を、最愛の娘を慈しむような瞳で労うテスラン。少し白髪の混じった黒髪はまだまだ豊かで、精悍な顔つきには鎧とツヴァイハンダーが良く似合うロマンスグレーだ。
「テスラン。人払いは……」
「無論済んでおります。ここには殿下と拙者のみです」
「分かりました。では、始めましょう」
少女はテスランから魔法陣に向き直る。やや間をおいて、両手を魔法陣にかざした。
「……………………ッ!」
先ほどの穏やかな語り口からは想像出来ないほどの早口で呪文が紡がれる。
その様子を後ろから眺めるテスランはごくりと喉をならした。
魔法陣が輝きを強くする。
テスランは剣の腕には覚えがあるが、魔法は騎士としては並のレベル。うら若き乙女ながら、既に歴史上の賢者と肩を並べる程の腕を持った大魔術師に掛け値無い尊敬を抱いている。
戯れに宮廷魔術師の長に聞いた話では、本来宮廷魔術師を十人揃え、七日七晩かけてようやく魔法陣を紡げるか否かだと言うのだ。それをたった一人で、それも半分にも満たない時間で術を起動させてしまうのだから、彼女の規格外さが分かろうというもの。
歴史に名を残す事が確実と言われる少女に仕える事が出来て、テスランは言葉にできない感慨に包まれていた。
だからそれは、腕の立つ彼をして、油断としか言いようがなかった。
「ヒャハハァ!?」
響く奇声。
テスランが想わず背負った剣の柄を握ると同時に、柱の向こうから人影が躍り出たのだ。
馬鹿な、人払いは完璧のはず!
侵入者を許した上にその無駄な思考。
それが、事態を悪化させた。
具体的には、取り返しがつかないほどに。
三日三晩の努力の結晶を、一瞬で無為にする事態に。
侵入者は手に杖を持って、恐ろしい速さで魔術師の少女に向かっている。人間の出せる速さではない。恐らくは、魔術での身体強化。
彼女にそれを止める術はない。そもそも他のことに気を向けて操れる魔術ではないのだ。
「させん!」
驚愕に固まった身体に喝を入れ、テスランが侵入者に向かう。
テスランの剣が侵入者を切り捨てるのと、彼の者が手にした杖の先が魔法陣に触れるのは、ほぼ同時だった。
少女の目の前で行われた凶事。
最悪の結末は防げたものの、それが救いにすらならない事態が、彼女とテスランを襲う。
およそ常識では考えられない程に精緻な魔法陣。予想外の出来事に術式を寸断させなかった少女の精神力は見事と誉めて良いだろう。
だが、魔法陣は、へそを曲げてしまった。
今までは幻想的な銀の瞬きで見る者を圧倒していた魔法陣。
その輝きが、一瞬にして濁った鈍色に変わった。
「……ッ! お願いっ! 待って!!」
悲痛な懇願も届かず、魔法陣は光を失い、その役目を終えた。
「嘘……そんな……そんなのって……」
目の端にじわりと滲んだ涙を咎められる者はいないだろう。
儀式の邪魔をする―――
その浅ましい目的を達した侵入者は、人の神経を逆撫でするような笑みを浮かべ、既にこの世を去っていた。
次から本編になります。