少々、長い春。
まだ少し肌寒い日。
窓の外の桜の木に芽が出始めていた。
今日は結婚50年記念日だ。
妻の良火ちゃん(よかちゃん)(70)に花束を用意した。
今まで記念日には一緒に家でちょっと特別なディナーの日にしていた。
友人達とのお茶会の後に帰っきた涼(70)は二人が住む家のチャイムを鳴らす。
「はーい、あら?涼君じゃない。
鍵持って行かなかったの?」
「こらこら、いつも言ってるだろう?出る前に誰か確認してから扉を開けるようにと。
鍵なら持ってるさ。」
「あら、ちゃーんと窓から確認してるわよ。」
チッチッチと良火が人差し指を自慢げに振る。
「ならいいが・・・少しでも怪しい奴が来たら出るんじゃないぞ。」
「相変わらず心配症ねぇ、あら?後ろに何持ってるの?」
「ああ・・・今日は記念日だし今夜は花でも飾ろうかと思って。」
「まぁ、それで鍵をカバンから出せなかったのね。」
「まぁな。良火ちゃん、花瓶に生けといてくれ。」
「はいはい。」
花束を受け取った妻の手はしわくちゃだ。
彼女の顔には好きを重ねる度にしわが一つ、また一つ増えていく。
出会ってから52年、か。
これまで他の女性やそういったお店には行ったことがなかった。
ずっと最初から最後まで妻だけだったけど。
友人達からはよく笑われたものだけど。
今では尊敬さえされる。
エロ本はちょっとだけ。
ほんのちょっとだけな。それくらいは許して欲しい。妻には内緒にしてるつもりだが恐らくバレているだろう。
でも、これだけは君は気付いていないはずだ。
目元が緩やかで右目の下にホクロがあって若い頃の君に少し似ているんだ。
そんなことを言ったら君は呆れるだろうか、それとも・・・。
別に。無理してそうしてきたわけでも、妻に気を遣ってそうしてきたわけでもない。
俺が勝手にそうしただけだ。
何も最初から妻だけにしよう!なんて意気込んでいたわけでもなく。
ただ、本当に自然と良火ちゃんがいる家に早く帰りたかった。
それだけだった。
子どもがいる。娘(42)と息子(40)。
娘は20歳で結婚して早々に家を出た。
息子は25歳になった時から放浪の旅とか言ってどこに何をしに行ってるのか分からないが、毎度友人との楽しそうな写真が送られて来るので心配はしていない。
二人はたまにここへ帰って来るから寂しくはない。
人生なんて、長いようで短い。
自分の幸せを自分なりに見つけて生きたらいい。
見つけられなくても大丈夫。焦ることはないさ。
幸せの理由に囚われずともいい。
楽しいことや嬉しいことを見つけられたら万々歳だ。
ゆっくりゆっくりいけばいい。
そこに正解なんてないのだから。
あ、そうそう。話は逸れたが二人が巣立つまではお父さんお母さん呼びだったが、
それからは良火ちゃん、涼君呼びになった。
元々そう呼んでいたし、どちらからともなく自然とそうなった。
夕方になり、妻が鼻歌を歌い始めた。
「ふんふん〜♪」
なんだかな。さっきからやたら妻の機嫌が良いようだ。
良火ちゃんはマルゲリータとサラダを注文すべく電話をルンルン気分でかけている。
記念日は妻の食べたいものをデリバリーするシステムだ。
普段は質素な食事をしている代わりに特別な日は気にせず食べることにしている。
例えばクリスマスとかバレンタインとか記念日とか。
少々長い春だ。
特別な日には棚からワインを。
到着したマルゲリータとサラダを。
妻の笑顔を。
これさえあれば他にはもう何も言うまい。




