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12「普通の偏見」

 翌朝、マオはトイレの前にいた。

 便座を両腕でしっかりと掴み、狭い個室の床の上、便器の前で跪いていた。頭上の窓から漏れ入る光がマオの頭を照らし、ボサボサの髪が壁に荒波の影を作る。


「くっ……女神の夢のようなやつよりよっぽど気持ち悪いぞ……」


 マオはパジャマの袖で口元を拭きながら、独り言を言った。

 トイレボウルの中には嘔吐物が、トイレットペーパーに被せられて浮かんでいる。

 換気扇がついているものの、匂いがひどく充満している。


「飯はまずいと言うだけでこれほどになるとは……」


 今度は誰かに聞いてもらうためかのように、上を向いて言った。

 すると、トイレの個室の外から琉太の声が聞こえた。


 トイレの扉の向こうでは、琉太も、また吐きそうになりながらも、抑え込んでマオを待っていた。


「まずかったのは認めるけど、これは多分味関係なく食中毒……うっぷ」


 琉太はお椀を顎の下に持ちながら少しづつ溢れ出す唾をキャッチしている。ヨダレがものすごく薄くなって顎に痛みが走る。


「それよりも、早くしてくれマオ……」


 彼はそのまましゃがみ込んでしまった。


 ▼▲▼▲▼▲


 二時間後、ある程度ふたりの下痢や嘔吐、腹痛は収まった。だが琉太も、マオも、仕事に行けるような気力はなかった。


「杉原部長?」


 琉太は自分の上司に、そしてマオのコンビニの店長に連絡をした。ひどい食中毒にあったと。もちろん、自分のせいだとは伝えていない。


「きっと鶏肉が良く焼けていなかったんだと思う」


 琉太は素直に言った。


「この我が肉ごときに……」


 鋼のような皮膚を持ち、どんなものも貫いてしまう角。馬鹿力を持つ最強の魔王が、食中毒なんかにやられてしまったのだ。


「つ、次からは素直に外食しに行こうよ」


 琉太は平和的な解決策を提案した。


「そうだな。我も料理は得意な部下に任せていた」


 マオは琉太から水の入ったコップを渡され、両手で飲む。

 

「有休も使っちゃったから、この休みは月給から引かれるのか……」


 カレンダーを見て残念そうに言う琉太は、今日一日をおかゆでも食べながらマオとゆっくりしようと思った。


 朝ご飯の代わりに、琉太はマオと自分のためにおかゆを作った。


「これ、本当に食べても大丈夫なのだな?」


 マオは、食中毒の二度目はいらないというように、消極的にお椀を受け取った。


「今度は大丈夫だ。信じてくれ。良くなるさ」


 琉太はマオに安心感を与えるために、先に自分でスプーン一杯分を口に入れた。

 黙ってマオも食べ始める。


「……やはり、おいしくないな」


 マオは隠そうともせず、琉太の顔を見て言った。


「そりゃ、おかゆだから……」


 ふたりは腹を抱えながらおかゆを喉に通す。


「しっかし、食中毒なんて小学校の給食ぶりだなぁ」


 琉太は自分と共に苦しむマオを見て思い出した。


「あの時は友達もみんな腹を壊して、誰も学校来てなかった」


 マオは琉太の過去に興味を持つ。


「ショウガッコウ?キュウショク?」


 単語を繰り返してみる。


「ああ。学校は、子供たちが言っていろんなことを学ぶんだ。常識とか、ね」


 琉太は異世界に学校がないことを知っていた。識字率は低く、モラルないまま社会に放り出される。最初に見たものを親だと思い込む(ひな)のように、初めて見た社会を常識ととらえる。モラルが低いわけだ。


 一方で、マオは子供が通うと聞いて即座に通を思い浮かべた。彼は今、そのショウガッコウに通っているのかと。

 

「我もそこに行けるか?」


 マオはおかゆを食べ終わり、机に置く。


「うーん、ちょっと無理かなぁ」


 琉太は苦笑いした。


「なんでだ?」


 マオは素直に首を傾げる。


「学校っていうのは、年齢とか色々決まってるんだよ。急に『通わせてください』って行っても無理なんだ」


「ほう……」


 マオは腕を組み、難しい顔をした。


「それに、マオはもう働いてるだろ?時間が被っちゃうよ」


「確かにな」


 コンビニのレジに立つ自分を思い出し、マオは小さく頷く。


「でも安心しろ。学校に行かなくても、この世界のことはそのうち覚えるよ」


 琉太はスプーンを置きながら言った。


「我は覚えがいいぞ」


「うん、それは知ってる」


 むしろ覚えすぎて困ることもあるが、今は言わないことにした。


「しかし、我は働くと言っておいて、テンチョーを置いて休んでしまっている」

 

 マオは話題を変えた。今店長がコンビニで独り、働く様子を思い浮かべると、マオも手伝いたくてうずうずしているらしい。


「明日は行かなくては。やはり、我は起こられてしまうのか?」


 敬語を使わなかった事や商品を食べ荒らしたときに怒られたので、一日休んだからまた怒られるのではないかと思っている。

 そんな彼女に寄り添い、琉太は隣に座る。


「そんなことないさ。マオはいつも頑張ってるし、分かってくれるさ」


 その上、琉太も休みを取っているが、五十日間無断で休んだ上での休みだ。一般的な企業であらばとっくにおさらば。琉太を居させ続けてくれる上司に、今度焼き肉を奢ってあげないと、と思っていた。


「マオは、俺のためにあんなに働いてくれているのだろう?」


 琉太はマオがどうしてコンビニで働きたいなどと言い出したかを薄々気づいていた。

 

 琉太の家に住まわせてもらっている少しでもの礼として、できるだけお金を稼いでいるのだ。

 

「我は恩返しのつもりだ。それに働くことが()()なんだろう?」


 「そうだね。ほとんどの人が働いている。慣れてない環境で、俺のために働いてくれてんのは嬉しいよ。働いてくれることが嬉しいからこそ、店長も働いてくれている君を怒らない」

 

 マオは琉太の確信に驚いた。どうして琉太はマオが怒られないと分かるのだろうか。どうして怒られないと予想できるのだろうか。


「本当か?それが()()なのか?」


「本当だ。そうだ」


 店長は琉太の知る限りとても優しいし、体調を崩した人を心配せずに怒鳴るなんて、完全にブラックな職場だろう。

 

「どうしてそう思うんだ?怒られるって」


 琉太はマオの不安を探った。


「我は魔王、部下が何万といた。任務を与えられると、奴らは喜んだ」


 マオは腹を抱えながら体勢を変えた。


「我は外の世界をあまり知らなかった。適当な任務をあげ、こなしてくるのを待つ。世界のためだと奴らは言っていた。だが、あげたその任務に失敗した時、帰ってきた奴らの顔は青ざめていた。怯え竦んでいた。そんな奴らを、他の部下に処分したほうがいいと言われた。そして、我は()ったのだ」


「でも、それは昔の君だろう?それに、品川さんは魔王じゃないんだから」


 琉太はマオの肩に手を置いた。

 

「やはり、それが()()なのだな」


 マオは考え込むように言ったが、琉太はマオの普通ラッシュにもう耐えられなかった。


「いい加減にしてくれよ!」


 琉太の大きな声に体をビクつかせたマオは、突然の動きにまた腹痛が強くなるのを感じ、即座に腹をさすりながら琉太を見上げた。

 琉太も腹から声を出したことで、同じくらい痛かった。


「マオ、俺は君にこの世界で不便してほしくなかった。だから服も、帽子も、コンビニで働くことも、全部、全部手伝った」


 琉太の口調にマオは慌て、自分の犯した過ちを直さねばと考えた。


「そ、そんな……我が期待に応えられなかったのなら……」


 しかし、そんなマオを琉太は立ち上がって遮った。


「それがダメなんだ。マオは応えてくれて、応えすぎてくれたんだ。君が他の人に迷惑を掛けず、他の人が君に迷惑をかけないために常識、()()を学ぶことが大切だと思ったんだ。でも、それで君が本来の自分を抑え込んで、隠すようなら俺は嫌だ!」


 琉太は強く拳を握りしめる。腕が少し震えている。


「自分が魔王だって、あんなに言ってたじゃないか……」


 口が少し動き、かすんだ声で言い切る。


 マオは謝るために口を開いた。だが、声を発する前に自分を止めた。


 彼女は異世界にいた時、魔王として一度も謝ったことがあったか?否。琉太が彼女に伝えたかったことはしっかりと伝わった。その上で、マオは頭の中で考えた後、最も今までの自分が言ったであろうことに変えた。


 琉太がマオに求める()()は、周りと同じようになることではなく、周りと調和しつつ、自分の個性を誇りに思ってほしいというもの。マオが奥底はいったい誰なのか、それを忘れてほしくなかったのだ。

 マオは一気にモヤモヤの解けた気がした。


 そうだった。


 我は魔王だ。


「魔王の我に向かって、随分と大きい態度ではないか?()()


 マオは優しくもある力強さで琉太の腕を殴った。


「痛っ」


 彼は瞬間的な痛みに喚いたが、マオへの感情に怒りはなかった。口元には少しのおかゆと、大きな笑顔がついてた。

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