プロローグ
「くっ、…はっ……!」
男の声は悲鳴にすらならず、ただ震えた。
赤い液体が地面を濡らし、速水零の革靴に向かっていく。
『こちら田中、任務完了。速水さん、迎えに参ります。』
無表情に仁王立ちする零の耳に、無線の声が届く。
腕時計の針は風防のひび割れの向こうで静かに止まっていた。
「ああ」
零はじっと男を見下ろす。
目に見えない、言葉という音のために死を選んだ男の表情は、一貫して虚勢の笑みを浮かべている。
もう何も見えてはいないはずなのに。
踵を返し、歩き出す。
地面に広がる赤い水たまりだけが、男の存在を静かに主張していた__
車に乗り込み、静かに息を吐く。
腕時計を確認すると、ちょうど2本の針が頂点で重なっていた。
「出せ。」
窮屈そうに足を組みながら、速水は耳に差していた無線を助手席へと渡す。視線は車窓の外、ゆっくりと流れていく夜景に向いた。対向車の姿もほとんど見えないバイパス。その下では、工場地帯の灯りが何を照らしているのかも知らず、今日も変わらず煌々と輝きを見せていた。
「お疲れ様です速水さん。あの、この後のご予定は空いていますか?その、よろしければなんですが…」
ミラーを気にしながら、運転席の田中充が口を開く。ハンドルを握る手には先ほどの任務ですら浮かばなかった汗が滲んでいた。
「かたっくるしーなぁ田中は!速水さん、飯行きましょっ飯!」
茶々を入れたのは助手席、田中の同僚、泉隼人。
その調子のまま田中の肩に腕を乗せ、気安く笑って見せる。誰にでもフレンドリーに接する楽天家だ。
「おい泉!速水さんにその言葉使いはなんだ!というか腕どけろ!」
「お前は何でもかんでも畏まりすぎなんだって。飯、誘う時くらいもっとフレンドリーにいかねーと!ねぇ、速水さん?」
「お前は礼儀を知らなさすぎなんだ!てかとっととおろせ!」
「お、なんだよ照れてんのかー?可愛いなー」
「…速水さん、少し港の方に寄り道をさせて頂いても構いませんか?ご心配には及びません。いつも通り上手くやりますので。」
「はっはっはっ、たなっち目がこわーい」
任務の緊迫感も、上司を食事に誘う緊張もどこへやら。
泉が口を開くたび、田中のペースは乱されていく。もともとは礼儀正しく穏やかな男なのだが、泉と一緒になるとどうも調子が狂う。
「…港へ寄るのは構わないが、その後は用がある。飯はまたにしてくれ。」
「速水さーん俺の死を肯定しないでくださいよー!って、マジで寄ろうとすんな田中っ!」
了承が出た途端、田中はウィンカーを左に出した。
本来なら右車線に寄るべき場面。それに気づいた泉は慌てて両手を上げて降参ポーズを取った。
田中は無言のまま、自身の肩を軽く払い落とす。まるで汚れを払うように。
「俺の手、綺麗よ?」と口を挟む泉の声はやはり聞き流された。
「仕事ですか?でしたら自分も何かお手伝いを」
「いや、家で下ろしてくれればいい。報告書の作成はお前達に任せる。」
「承知しました。帰ったらすぐにでも。」
「ええ?!今から社に戻んの?!もう日付変わってんだけど!」
残業反対などと今更なことを訴える泉に冷たい視線を投げても口は止まらない。
港へ行く決意をさらに強くした田中に、気づいた泉は後部座席の速水を見やる。鶴の一声を期待して。
「速水さん!」
「……田中、明日で構わない。」
「速水さんのお言葉の通りに。」
「お前マジで速水さんの何なの?」
いずれ神棚に速水の写真でも飾りかねない_そんな泉のちゃかしをよそに、田中は進路を変えて港行きを取りやめた。
「港は良かったのか。」
「はい。よく考えれば速水さんの貴重なお時間をこの馬鹿のためにさくなど愚の骨頂。考えが足りませんでした。後程沈めてきます。」
「おおっと、ストレートな殺害宣言!てかどうして蒸し返したんですか速水さん!」
「そうか。」
「そして華麗なるスルーと肯定!え、そんなに神棚に供えられるの嫌でした?!」
少しでも静かになるかと口を挟んだつもりが、逆に騒がしくなる。速水は小さくため息をついて、静かに目を伏せた。
それをミラー越しに確認した田中は、何も言わず泉の頬に拳を入れる。
多忙な上司の眠りを妨げないように。
それは、上司の眠りを守ろうとする、部下の気遣いだった。
その、良くも悪くもない空気のなか。
ふと何かを思い出したように、速水は閉じた目蓋を上げ窓の外に視線を移した。
_今夜は新月なのか。