記録の彼方に
フレディが見た、夢か現実かも分からない世界。そこに現れたのは自分によく似た青年であった。青年の謎めいた言葉に導かれ、フレディの『心』の奥底へ潜るマコ。
そこで目にしたのは、衝撃的な光景と遠い過去の残滓であった──。
最初に聞こえたのは、水の跳ねる音だった。それは覚えのない記録の中で何度も耳にした音で、同時に現実でも体験したことのある音だった。
雫の糸が見えないほどの真っ暗な空間。そこに立っていたのは見知らぬはずの――しかし自分に酷似した青年だった。
「――こんにちは、フレディ」
青年の口が動いたと同時に何故だか胸がズキリと痛んだ。
「……こんにちは」と少し間を置いて挨拶を返す。
「キミに、聞きたいことがある」
「どうしてデータの中に存在しているのか、でしょ?」
先回りするように返ってきた言葉にフレディは目を丸くさせた。その間に青年は「簡単なことだよ」と話を進めていく。
「――僕はキミで、キミは僕なんだから」
「……何だって?」
フレディが不可解そうに眉を顰めると、青年は「やっぱり覚えていないんだね……」と寂しそうな表情を浮かべて言った。
「昔は僕だけだったんだ。でも……あの日を境に、僕はキミに成った」
「……訳が分からない」
アニマヒューマノイドの自分と、目の前にいる青年が同じ? そんなことがあり得るのか、そもそも青年の言っていることが何を指しているのかも分からない。
そんなフレディの感情を読み取ったかのように、青年は「大丈夫だよ」と断言するように言った。
「僕の言っていることは、必ず思い出せる。ううん、思い出さないといけないんだ。今度こそ家族を守るために」
「それは一体――」
どういう意味だ、とフレディが尋ねようとした矢先、またもノイズの嵐が視界を覆っていく。
――気づけばノイズの嵐は治まり、視界には未だ眠り続けるマコの姿があった。
「……」
マコを起こす時間までまだ数分残っていたが、先程の青年の言葉がフレディを動かした。
「マコ。すまない、起きてくれ……」
マコの肩に手を添え、何度も軽く揺する。暫くすると彼の持つアメジストカラーの瞳が開かれた。
「ん……フレディ……?」
マコとフレディ、互いの目がバチリと合う。するとマコはフレディの思考が読めたのか、すぐに意識を覚醒させ「どうした⁉」と声を上げた。
「……夢。夢を、見たんだ。私と同じ名前の青年が、「家族を守れ」と……自分と青年は、同じなんだと……」
フレディは頭を抱えて呻いた。
「彼の言っていることが理解できなかった。でも、私は……何故だかそれを忘れてはいけないと感じている。そもそも、あれは夢だったのか? 私はどうしたらいい? 分からない……!」
「――フレディ」
マコはフレディの前にそっと手を差し出した。
「キミが感じたことは、きっと大切なことだ。キミのエラーを解明する手がかりにもなるはず」
「最初に試した診察、あれをまた試してもいいか? 今なら……もっと奥まで覗ける気がするんだ」
フレディは一瞬躊躇いを見せた。そして自分を鼓舞するように力強く頷き、マコの手を握り返した。
フレディがマコの手を握り返した瞬間、まるで時間が止まったように空気が静まり返る。周囲から色が滲み、揺らいだ後に――闇が部屋を包んだ。
――静寂の中、空間にはフレディとマコだけがぽつりと立っていた。二人の足元には浅い水面が広がり、少し足を動かすと水の跳ねる音がする。
「ここは……」
「キミの精精神領域……分かりやすく言うと、心の中だ」
「フレディが俺のことを信頼してくれたから、ここまで来ることができたんだよ。今なら例の記録についても、何か分かるかもしれない」
マコは歩き始めたのを見て、フレディは黙って彼の後ろをついていった。その都度、水の音が響き渡る。
フレディはその音を耳にするたび、先程の体験と同じことを思い出していた。
暫く歩き続けて、ふとマコが歩みを止めた。目の前には、淡い光を放つ扉のようなものがあった。
「……フレディ。もしかしたら、この扉の先に例の青年がいるかもしれない。開けてもいいかい?」
「……あぁ」
了承を得たマコは、扉のノブに手を添え、そっと回した。ギィ……と軋む音とともに扉が開かれる。
扉の先には、鉄砲雨の中走り続ける青年の姿があった。片方の腕を強く押さえ、何かから逃げている。青年の腕からは赤い液体が下へと何滴も落ちていっていた。
「……あの、赤い液体は……」
「……血だよ。失いすぎると、ダメなもの」
その答えを聞いて、フレディは息を呑んだ。
「……」
マコは眉を顰めて、青年の姿を目で追っていた。その青年はというと、雨で濡れたアスファルトに足を取られて転んでいた。
青年は何とか動こうとしていたが、彼の背後に立っていた何者かが背中に鈍く光る何かを突き立てる方が早かった。
「……マコ?」
「……あぁ、ごめん。一旦戻ろう。もう一度俺の手を握って」
言われるがままフレディはマコの手を取った。その途端、光と音が現実に帰ってくる。
「……戻ってきたのか……」
フレディが安堵の息をつく中、マコは手帳の上でペンを走らせていた。
マコの額には汗が滲んでいる。それが心を覗いたことによる疲労なのか、記録の内容が凄惨的なものだったことによる動揺なのか……フレディには全く分からなかった。
「……フレディ。今、質問をしてもいいかな」
「えっ、あぁ」
マコは半ば突き出すように手帳のあるページをフレディに見せた。
「――ニンゲンって種族、知ってる?」
手帳には簡素であるものの、ヒトの姿が描かれていた。しかしその絵には体格こそマコに似ているものの、蛇の鱗はなく、動物的な特徴が全くなかった。
「それは……さっきの青年と同じ……」
「そう。俺も詳しくは知らないんだけどな、文献にもほとんど載っていないくらい滅多に見ない種族で、今は存在していないんじゃないかって言われてる。でも――」
マコは一拍置いて、言葉を選ぶように言った。
「姉さんの話では、何かしらの形で生きている可能性もあるって、囁かれてる種族でもあるらしいんだ」
「……」
フレディは絵を見つめたまま、何も返さなかった。記録と、記憶の境界が滲んでいく。
彼の頭には、青年の言葉が繰り返し反響していた。
――今度こそ家族を守って。
あれはただの記録じゃない。単なる夢やバグでもない。何か大切な痕跡……そんな気がしてならなかった。
「フレディ」
マコが再び声をかけた。
「正直……俺だけでどうにかなる範囲じゃない。姉さんとルナにも相談しよう。そうすれば……きっと、もっと深く掘り下げることができるはずだ」
フレディはその問いかけに、ゆっくりと頷いた。その目には微かな不安とそれ以上に強い意思が浮かんでいた。
「よろしく頼む」