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雨音の記憶

 治療の成果が少しずつ現れ始め、皆と穏やかな時間を過ごしていたフレディ。しかし、些細な出来事をきっかけに眠っていた過去の記憶を呼び覚ましてしまう。

 混乱の中、マコと共に精神の奥へと潜り込むも、フレディが目撃したのは、あるニンゲンの『悲劇』の瞬間であった──。

 治療の成果が、僅かに現れ始めた翌日のことであった。

「多少の水になら触れても問題はないのね」

 そう言いながら、ルナは濡れた皿を手際良く拭き上げていく。

「あぁ。いつも家事をしてくれる機械の手伝いがしたいとお願いしたら、防水機能を施してくれたんだ」

「へぇ〜……」

 キッチンでは朝食を終えたばかりの一同が賑やかに片付けを行っている最中であった。

 拭き上げられた皿を食器棚へと仕舞っていたマコは、時折フレディの様子を見て、そっと微笑んでいた。

 ほんの少しではあるが、確かにフレディの表情が柔らかくなっていたのだ。

「ルナ〜、これはどこに片づけたらいいの?」

 メアリーが持ってきたのはサラダに使ったマヨネーズのボトルだった。

「それはここの冷蔵庫よ。メアリー、よかったら入れてくれるかしら」

「はーい!」

 ルナはメアリーを抱え上げ、冷蔵庫の扉を開けた。すると彼女は何かに気づいたのか、「あ……」と小さな声を漏らす。

「どうした?」

 手を動かしながら尋ねるマコに、ルナは振り返って答えた。

「卵のストックが切れちゃったみたいなのよ」

「あ~……そういえば朝食で使い切ってたな……片付けが終わってからでいいなら、買ってくるけど」

「いいの? ならお願いしちゃおうかしら」

「ついでに色々……」と呟くルナの言葉は聞こえていたが、マコはそれを無視してまた別の皿を直し始めた。

「マコさん、出かけるのか?」

 パレッタが興味津々といった様子で尋ねる。

「お出かけ……っていうよりお使いかな。そうだ、何か欲しいものとかあるならパレッタたちも一緒に――」

 ――行かないか。マコがそう誘おうとしたその時だった。

 パリン! と甲高い音が和んでいた空気を切り裂いた。

 マコは条件反射で音が聞こえた方へと振り返る。

 流し台の近く……フレディの足元に陶器の破片が飛び散っていた。

「フレディ、大丈夫⁉」

「す……すまない、ちょっと、手が……滑ってしまって……」

 フォルテを心配させまいと答えていたフレディだったが、取り繕うような声音とは裏腹に、指先が酷く震えている。

 明らかに様子がおかしい、そう悟ったマコは少し声を張ってフォルテを呼びかけた。

「フォルテ、ちょっとフレディをテーブル側の方に連れていってくれるか?」

「あ、はい!」

「パレッタも危ないから、ちょっとその場を動かずにいてくれ。ルナ、メアリーを避難させたら新聞紙を――」

「やっておくからいいわよ」

 ルナはそう言って、マコにアイコンタクトを取った。目が合ったマコは、そのまま彼女の思考を読む。

(今はフレディの方を心配してやれ……か)

「……悪い、頼んだ」

 マコは飛び散った破片を踏まないよう、慎重に足を運び、フレディの前へとしゃがみ込んだ。

「フレディ――」

 呼びかけた瞬間、強い力で両肩を掴まれる。驚いたフォルテが慌ててフレディの手を剥がそうとしたものの、ビクともしない。

「フレディ」

「――行っちゃダメだ」

 フレディの声は低く震え、感情が剥き出しになっている気がした。

「『あの日』がそうだった……父さんにお使いを頼まれて、出かけたんだ。それでっ……‼」

「……!」

 不意に出てきた言葉にマコは狼狽し、咄嗟にフレディの瞳を見つめた。

 痛みに苦しむ声や、何かに怯えるといった負の感情ばかりが読み取れる。見かねたマコが囁いた。

「……フレディ、部屋に戻ろう。詳しい話はそこでしてくれないか?」

 ……その言葉に反応するように、フレディの肩から力が抜けていく。身動きが取れるようになったマコは、そっと彼の手を取った。

「マコさん、大丈夫?」

「俺は大丈夫。ちょっと……フレディが疲れちゃったみたいだから、部屋で休ませてくる」

 マコの言葉にフォルテやルナたちは何も言わず、ただ静かに見送るだけだった。


 診察室に戻ると、マコはフレディをベッドに腰かけさせた。

「フレディ、前みたいに深呼吸してごらん。ゆっくり吸って……吐く。そう、上手」

 繰り返すうちに、フレディの震えは収まっていった。その間彼の背を何度も擦っていたマコは「落ち着いたか?」と優しく声をかける。

「……ありがとう。さっきはすまない、急にあの記録が流れてきて……」

 額を押さえ、掠れた声でフレディは呟く。

「……」

 ふとフレディはマコの手を見て言った。

「マコ……よかったら、また診てもらえないだろうか」

「もちろん」

 マコは頷いて手を差し出した。それをフレディはゆっくりと握り返す。

 次の瞬間、視界の色が静かに揺らぎ――雨の音が響いた。


 ……視界に広がっていたのは、薄暗く、濡れた石畳の路地だった。

「……」

 マコは繋いでいた手を離し、隣に立つフレディの方へ視線を送った。

 しかし――そこに居たのは、機械仕掛けの青年ではなかった。マコは驚いてその青年から僅かに距離を取る。

「……マコ? どうしたんだ?」

 キャラメル色の髪を持つ青年が不思議そうに声をかける。しかし声は間違いなくフレディのものだった。

「……フレディなのか?」

「そうだが……何かおかしいか?」

 青年……いや、フレディは不安そうに言った。

「いや……」

 マコは恐る恐るフレディに近づき、一瞬手を伸ばすのを躊躇ったが、それでもそっと頭や頬に触れてみる。普段の彼からは感じることのできない、若々しさと温かさを感じさせる肌がそこにはあった。

「……この感覚……」

 フレディは目を閉じて、過去の記憶を辿るように呟いた。

「……そうだ。私は……いや、僕は以前、この姿で生きていたんだ……」

「……思い出せたのならよかった。今……お使いのこととか聞いても大丈夫かな」

 フレディは頷き、ゆっくりと話し始めた。

「その日は、父さんに頼まれて孤児院の近くにあるパンを買いに行っていたんだ」

「本当の父のことは分からない。気づいた時には母と二人暮らしだった。でも、そんな母も病気で亡くして……僕はひとりぼっちになった」

 フレディはさらに話し続ける。

「母を亡くして数か月後だったかな……僕のもとに院長が訪ねてきて、一緒に暮らさないかと誘われたんだ。僕のような境遇の子たちが沢山いて……そんな僕らに接してくれる院長は、本当に優しいヒトだった……」

「……」

 気づけば二人は街角に立っていた。記録は進み、いつかのフレディがパン袋を抱えて孤児院に帰ろうとしている姿があった。

「……孤児院に帰る時は、いつもこの道を通っていたのか?」

「あぁ……その日は急に天気が悪くなってしまって、早く帰ろうと思っていたんだ。でも、道の途中で蹲っているヒトを見かけて……よく困ってる人は助けてあげなさいと父さんにも言われていたから……声をかけたんだが――」

 フレディの説明の途中で悲鳴が聞こえた。

「……ナイフで切りつけられたのか」

「すごく痛かった。相手の顔は見えなかったけど……声だけは覚えている。父の声に似ていた」

 犯人から逃げる過去のフレディの後をマコは追いかける。雨脚は強くなり、路地は暗さを増していた。

(この先は確か――)

 角を曲がった先。マコの視界に映ったのは凄惨な光景だった。

「!」

 雨水と血液が混じった赤い海の中を倒れこむ青年。その上に、誰かが馬乗りになっているが……この時点でフレディの意識は途切れていたのか、記録は一時停止をしたかのように止まっていた。

「……」

「マコ!」

 背後から聞こえた声に振り返る。振り向いた先には機械の身体に戻ったフレディがいた。

「……来ない方がいい」

 マコがそう警告したものの、フレディはかつての自分の近くに近づき、ゆっくりと膝をついた。そして馬乗りなっている犯人の顔を見ようと覗き込んだ瞬間、震える声が漏れた。

「――父さん……?」

 それがかつての「家族」としての父を指しているのか、今の身体を作った開発者のことか、それは分からなかった。ただ彼の声は……どこか哀しく、掠れていた。

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