夜中
尿意があった。灯りのない部屋。布団の中にいた。浴衣は少しはだけていた。いつの寝たのだろう。いや、いつ帰って来たのか。記憶が定かではない。暗い部屋でかすかに見える鞄は確かに自分のものだし、この部屋は前日も泊っている景色そのものだった。あいまいな記憶云々に拘泥よりも、まずは片付けなければならないことがある。腹を掻きながら重々しく起き上がろうとした。窓が鳴った。半立ちになると、襖が鳴った。ひゅるりと風が外から部屋の中へ細く吹き込んで来る感じがした。ガタリともう一度襖が揺れた。冬でもないのにそんな隙間風のようだった。作屋守はまどろみながら襖を開けた。部屋に備え付けのトイレの戸が開かなかった。はっきりと覚醒するのを彼は嫌がった。廊下の突き当りにもトイレはある。戸を開けて廊下を二三歩進むと、さすがに彼は正気にならなければと思った。廊下に灯りがついてなかった。足元に点在するはずの灯りも消えていた。暗黒ではない。確かに廊下だし、各部屋の戸もなんとなく見える。ずっと先には観葉植物もある。壁にところどころ絵がかけられている。どんな絵かは見えないが額縁がある。
「停電……」
こぼれた。常識的判断を上書きしたのはちょっと前の記憶だった。今は冬ではない。ましてや気づけば風が激しいなんてことはない。それなのに隙間風が荒ぶるがごとく戸を鳴らした。息が詰まった。それでもまだどうか思考がはっきりと動こうとしていなかった。涼やかな空気でもなくなっていた。湿度が高く、ただじっとしているのに汗が噴き出て来るような夏のような空気感。たしか自分以外にも何人かの宿泊客がいたはずだが、人気がまるでない。部屋で寝ていると言ってしまえばそれまでだ。宿の主人が停電の修理に起きて来る気配すらない。
(トイレに行こう)
意を決して進もうとした。床を黒いものが走った気がした。人ではない。小さい。ゴキブリほどの大きさではない。ネズミかもしれない。
(そうしておこう)
止まった歩みを再び動かした。
(もはや怪談だな)
作屋守はまた腹を搔いた。彼が冷静でいられたのには理由があった。尿意が臨界に近づいていた。なんかよくわからんけれども宿泊施設に変わりはなかった。それに、あまりにも出来過ぎた怪奇な雰囲気なのに彼はアロマテラピーを受けているような感覚になっていた。鼻腔に漂っていたのは柑橘系でもウッド系でもない、けれどもかぐわしい香りだった。好きになった女性がこういう香りならばうっとりして手放したくはないと思うほどだった。あるいはこの香りだから好きになったのかと思うだろうほどだった。それが天女であろうが、魔女だろうがたしかに好意が芽生える。天女だから魔女だからではなく、こういう香りを醸し出す女性だから芽生えるであろう。
済ませてトイレから出ると、廊下の天井にも床にもまぶしくはない灯りがついていた。もう香りはなくなっていた。いざなわれた尿意に舌打ちをしたいくらいに妬ましく思って自室に戻ると、備え付けのトイレの戸は開くようになっていた。作屋守は舌打ちの代わりにため息を一つして、ペットボトルのお茶に一口つけてから投げられるように布団に入った。