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ミシハセ  作者: 金子よしふみ
第二章
7/43

居酒屋にて

 宿から十分ほど歩くと居酒屋があった。チェーン店でも洋風居酒屋でものない、街の飲み屋と呼んだ方がいいような、良く言えば味わいのある、そうでなければ年季の入ったこじんまりした一軒。作屋守が入ると、壁際に寄せられて対面二人掛けのテーブル三つの、出入り口から一番遠い店奥の方に二人の客がしゃべっていた。うるさく騒ぐといった迷惑な感じではない。常連客のもう馴染み感のある、遠慮をしているわけではないが節度を持っているそんな感じだった。背中を見せている客はふくよかでその丸みからは壮年であると見とれた。なにせ着ているシャツの柄が、まあいつの時代とそう思わせるのだ。対面の客もそれくらいの年齢のはずだが顔がよく見えなかった。カウボーイハットを目深にしているせいかもしれない。口を囲う髭の色合いがたしかにそういう年代に違いなかった。店内の靄っとした感じはたばこの煙ではない。魚を焼いたせいだろう。そんな匂いがした。なんの魚かはわからない。それよりもである、店主の姿が見えない。作屋守はカウンターに座った。そうすると料理場の奥に、丸椅子に腰を掛け新聞を広げている店主が見えた。目が合った。

「いらっしゃい」

 ぶっきらぼうな言い方は、下手をしたら面倒臭いと聞こえそうだ。接客がそんな口調でいいのかと作屋守は思ったが、別段腹を立てるような理不尽に怒鳴られたわけではないので、気にしないと努めた。

「瓶ビール一本」

 作屋守が注文をすると、「へい」と短く答えて、ずいぶん着込んだ割烹着をしている店主は立ち上がって冷蔵庫から瓶ビールとグラスを取り出して栓を抜き、作屋守の前に置いた。

「料理は今のところ結構です」

 作屋守がまさに飲むために来たことを告げると、壮年の店主は舌打ちをすることもなく、やはり愛想のない「へい」と返事をした。サービスという点からすると、ここはかなり高得点とはいかない。けれども、作屋守にとっては、今はこれでよかった。変に「今日のおすすめは」とか「お客さん、旅の御方でしょ」とか威勢のいいことを言われる方が億劫なのだ。冷えたグラスに冷えたビールを注いで一気にあおった。ふうと息を吐く。まだ心底臭いわけではないが、それでもうっすらとするビール臭が口の周りから鼻腔まで漂って来た。テレビもラジオもついてないのに、何か音楽のような旋律のような調子が静かに聞こえて来る。どこから聞こえるのかと頭を振ると酔いが回ってしまいそうなので詮索しないようにした。あの二人の客が大騒ぎをしないのは、それを耳のどこかで聞くためなのではと思うくらいだった。

 二杯目のグラスに口をつけた時である。店の、きっと何度も錆取りスプレーをかけたであろう、そんな音をさせてドアが開いた。女性が入って来た。一人で。着物姿である。夏ではない、浴衣ではない。成人式は季節外れで、女性は失礼だがそのような年ではない。「おー、こんばんは」とか「今日は着物ですかい」とか、あの客たちとか店主が声をかけたとしたら、常連客の一人に違いないと思えたのだが、壮年たちはそんな反応はしなかった。古風な美しさを感じさせる彼女に興味を示さないのは、やはり酔っているからとしか思えないくらいだ。店主はやはり「いらっしゃい」とぶっきらぼうに挨拶をする。

「瓶ビールを」

 女性は作屋守から椅子を二つ空けたところに座った。「へい」、美人客に小躍りすることなく店主は淡々と仕事をする。彼女の前にビールとグラスを置いた。彼女から料理の注文がないことに疑問を持つこともなく店主は丸椅子に座ってやはり新聞を開いた。

 女性はグラスに注いだビールをうまそうに喉を鳴らした。半分ほど飲むと一旦グラスをテーブルに置いて、吐いたかどうか分からないほどに静かに息をした。それを作屋守はちらちらと見ようとして、もはや顔を微細に動かしてがっつり視界の中に入れていた。髪を上げさらしたうなじの曲がり具合がビールを飲む時からグラスを置くまでで変化した。それが妙に心惹かれてしかたなかった。妖艶とか甘美とか言ってしまうのは帯に短したすきに長しで、じれったい。色気がある、というはあまりにも簡単すぎるが、そう言わずにはいられないと拍動がする。だが、そう言ってしまうと彼女の美しさが脇に除かれてしまう。作屋守は言葉を言及するくらいならば、見とれていたいと思うほどだった。

 彼女は残りを飲み干した。すると、

「お飲みにならないの?」

 にっこりと作屋守に問いかけてきた。

「ああ、飲みますよ」

 すでに注いであった二杯目をあおった。

「あら、お強いのね」

 やはりにっこりとする彼女に

「強いわけじゃないです。少し飲みたい気分になって」

「私も。席を詰めてもいいかしら」

 作屋守がうなずくと彼女は衣擦れの音もたてずに彼の隣に座った。彼女の香りがした。湯上りか。いや、違う。香水か、いや違う。彼女自身の香りがする。どことなく潮が混じっているような。それでいて乾いた土のような。それでいて。酔ってしまったのか、頭がどこかぼんやりするような、焦点がはっきりしないような。一度目をぐっと力を込めて閉じてから開いた。目薬はない。点せれば視界が明らかになるのだろうか。

「どうかした?」

 彼女は心配そうではなく、ただ作屋守の目の開閉を疑問に思ったらしい。が、彼女の問いかけのおかげで下手をしたらそのまま酩酊に陥ってしまいかねない感覚から現実に戻ることができた。

「いや、なんでも」

「乾杯しましょうよ」

 彼女は自分が頼んだ瓶ビールから作屋守のグラスへ、それから自身のグラスへ注いだ。

「何に、にしよう?」

「何にって、そんな枕詞はいらないのでは?」

 彼女からたしなめられた。作屋守は初めての体験をした。たしなめられて、喜んでいる。下手をしたら口角が上がりかねない。意図して堪えなければならない。なぜ、教師に言われるとなぜか腹が立つか、そこまでいかなくても機嫌を損ねる。親に言われても。初めて会った彼女なのに、なぜだろう。魅惑的だったから。それにしては軽率すぎる。理由も定かにはならないと言うのに、作屋守はそれ以上考えなかった。なぜなら、たしなめられた嬉しさの方が勝ったからである。嫌な感じはまるでなかった。むしろ、彼女の言うことには間違いがないと、感じられるくらいだった。それでも男の変な自尊心ははにかむなんて行為をしてかろうじて保たせたのである。

 静かにグラスを鳴らしてから、二人はここまでの経緯を酒のつまみにした。女の名前はリサと言った。

「苗字は?」

「あなたには苗字で呼んでほしくないわ」

 自己紹介として姓名を明かしてしてしまった作屋守としては全裸になったようなものである。それなのに、と彼は不公平感を嘆きそうになった。それでもリサから手慣れた感じであしらわれ、それは特別感を錯覚させるには十分だった。酔いのせいかもしれないが。

 瓶ビールを空けると、カウンターにあった、ラミネート加工もしてない、手書きと見える古めかしいプラスチックに入ったメニュー表を手にした。作屋守は焼酎でも飲もうかと思ったのだ。

「あ、ごめん。君は、リサはどうする?」

 自分を優先させてしまった失念をごまかす。リサは薄く笑った。蔑みではない。憐れみでもない。やんちゃな年下を生暖かく見つめる年上の女性と言う感じだ。彼女は見た目、作屋守と同じか年下のように見えるのに。

「私は何でも行ける口だから、作屋さんと同じもので結構よ」

「作屋さんはよしてくれ。俺はリサと呼んでいるのだから、守と呼んでほしい」

 酔いの勢いに任せて作屋守は強い口調で訴えた。不公平感、年下的あしらいなどという不平等条約は即刻改正をして対等に持って行きたかった。そういう、いわば駄々のこね方も少年的なのだと、自覚はしていなかったが。

「分かったわ、マモルさん。焼酎が良いのかしら」

 リサは作屋守の手元に視線を落とした。「さん」付けさえもどこか居心地の悪さが残滓として感じられるが、出会ったばかりの美女から名前を呼ばれる距離感になるなんて初めてのことだと、これまでを思い返して受け入れることにした。

「ああ、ロックでも飲もうと」

「それなら、つんぶりが良くってよ」

 当地の米焼酎らしい。旅行者なのに、良く知っているなあと質問しようとしたが、お取り寄せができる時代である、いろいろな情報サイトが過多な時代である。それにリサは飲む口だと自己紹介した。それならば、知っていてもおかしくはない。店主につんぶりのロックを注文した。「へい」と、店主は相変わらず愛想のない返事ながら手抜きをしない気質を醸し出して淡々と整えた。

「ああ、美味いね。初めてな感じだ」

「そうね。聞いていた通り」

 店主から出されて、グラスの中の氷を二周回してからゆっくりと口にした。リサの言を聞けば、やはりサイトから情報を得ていたのだと分かる。髪を上げ、着物を着て、姿勢よく焼酎のロックを飲む姿からはスマホとかパソコンとかスマートツールとか現代的なガジェットとは無縁な感じがどうしてもぬぐい切れなかった。

 それからロックのおかわりを終えるまでは今日の動向なんかを酒の肴にした。その晩はそれっきりで帰ることになった。作屋守はその後を誘おうかどうか迷った。旅の恥はなんてことを思いながら、節操のないのはいくら酒の勢いとはいえ自分で自分が許せない感じがした。それにリサが

「ちょっと今日は疲れてねえ」

 なんてことを言ったから、手を打たれたのかと自重するしかなかった。ただ、翌日も会えないかと彼女から言い出してきて、天にも昇るとまでは行かないものの、背に羽が生えた感じになって二つ返事で約束を取り付けた。

 店を出ると、リサは礼をしてから帰って行った。作屋守の滞在先とは逆方向らしい。疲れているというのなら心配なので送って行くと言ったが、

「平気。マモルさんとの会話を思い出しながら一人で帰りたいの」

 会話なら宿までの道のりでもできるではないかと言い返そうとして、これもまた駄々にしかならないと思った。それに思い出してくれると言われて悪い心地はしない。送り狼だとか思われたとしたらそれこそ心外である。リサの姿が夜に飲み込まれていくようになるまで見つめてから、帰途に就いた。もうスキップしそうな拍動になっていた。どうしてこんなにうれしいのだろう。作屋守はそんな高揚のせいか、どうやって部屋に戻ったのか、記憶がなかった。


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