『佐州拾遺記聞』
これも今となっては昔の話でございます。身分のあるお方が謀反の罪により遠島に処せられたのでございます。当時はそのような政争が日々刻刻と行われておりまして、罪と言うのも実は濡れ衣でございましたが、そのお方は甘んじてお受けになられたのでございます。やんごとなき位の方でさえも巻き込まれ、法に基づいて裁判が行われたのならと願うほどの罰が下されたのでございます。中には問答無用で押し込んだその場で斬殺というのも珍しい事ではございませんでした。
そのため、あのお方を七右衛門とお呼びすることにしますのにも事情がございまして、察していただければ幸いでございます。本来なら七右衛門様とお呼びするところ、ご本人様が敬称は肩苦しいとおっしゃるので、七右衛門と呼ぶことにしたのでございます。まあ、中には旦那とか若さんとかと呼ぶ者もおりました。
さて、七右衛門は武芸のみならず歌も優れておりまして、遠島の船に乗る際、挽歌のごとく詠まれた歌はお付きの者、親類縁者だけではなく、相対する側にいるはずの位の方の一部ですら涙なくしてお聞きすることではできなかったほどでございます。島でも七右衛門は歌をよくお詠みになりまして、島民にも歌の詠み方をお教えなさいました。最初は
「こんな成りのに歌なんぞ詠めませんで」
と自重していた農民や漁民も七右衛門のおっしゃることですので、不承不承に詠み始めるとその調子が体になじんで行ったと見え、息をするように歌を詠むようになりました。もちろん、秀歌ばかりではございませんが。
七右衛門がこの島に着いて、居住されたのは古い家でございます。あばら小屋とは申しませんが、かの地にお住まいになっていたころはけっしてこのようなところにお住まいではなかったと存じます。とはいえ、七右衛門はそのことに不平を口にすることなどございませんでした。
島の生活をお過ごしになって、もう指では数えられないほどとなったころだったでございましょうか、とあるお話をお耳になさいました。それというのは七右衛門がお住まいになっていらっしゃいましたお近くの者の行方が分からなくなってしまう、ということがあったのでございます。村の人々は無念そうに、それでいながらあきらめのあるような口調であったり、表情であったりだったそうで、それが七右衛門には非常に不思議だと思われたご様子で、
「いかなる故があって人々はそう話している」
とお尋ねになりました。人々は最初口ごもるようでしたが、七右衛門ならばと、重々しくも話し出しました。
「ミシハセが連れ去ったのでしょう。それは致し方のない事なのでございます」
人々が語ることに七右衛門はいぶかしくおなりになりまして、
「ミシハセとは何ぞや」
とお問いになりました。古書に書かれておりましたが、それからもう幾歳の月日が流れております。人々はそれをミシハセと申す以外存じ上げませんので、ミシハセと呼ぶのでございます、と説明を申し上げますと、
「それは鬼か」
と七右衛門は再びお尋ねになりました。人々は顔を見合わせてから、
「鬼かもしれませんが、よくはわからんのです」
と申し上げますと、七右衛門は、
「ならばそのミシハセとやらを成敗してやろう」
とお申し出になりました。人々はざわめきあいながら、
「そうしていただけるのでございますれば、大変ありがたいことでございます。しかし、旦那がミシハセと争って傷を負うのは本意ではございません」
と心配を申し上げました。すると、
「それがしは遠方から参って、暮らしになじめるかどうか不安であった。皆が協力を申し出てくれたおかげでこうして暮らしを楽しむことができておる。けれども、それがしが皆に何か報いることができているかどうか。皆が不安でいるというのであれば、いささかでも腕に覚えがあるそれがしがミシハセとやらを伏せることができるのならば、まさに皆への報いとして誇ることができるだろう。どうか、それがしに任せてくれぬだろうか」
七右衛門が申されることに誰も口を返すことができなくなりました。
それから七右衛門はミシハセのことをお調べになり、武具の御準備をなされ二晩を明かしてからご出立なされました。随行を人々は願い出ましたが、
「皆が傷ついたとしたらそれこそ名折れ」
と申されたため、人々は朝も晩も観音様に手を合わせておりました。
それから七日を経ちましたでしょうか、七右衛門はお戻りになられました。幾分おやつれになり、腕や足に傷がございました。武具にはおぞましい色の、人で言うところの血がべったりとついておられました。
「どうにか、成敗してまいったぞ」
七右衛門の一言に人々は歓喜し、一晩中おもてなししようと言い出しました。すると、村長が
「若様はお疲れになっている。お食事の準備をし、今晩は早くお休みいただくことにしようではないか。祝会なら明日にでもできるだろう」
ミシハセを成敗するなどという難儀をこなしてきた武将に気遣い、人々も一同納得致しまして、晩のお膳を用意して人々は帰りました。
翌日、昼近くになっても七右衛門は起きていらっしゃらないので、村長が代表して七右衛門のお住まいを尋ねたところ、すでに七右衛門のお姿は消えておりました。お膳は片付いており、布団が敷かれておりましたがお使いになったご様子はありませんでした。人々は四方探しましたが、七右衛門はどこにもおらず、
「どうしたことだろう、もしやミシハセのせいか」
と不安がる者もおりましたが、
「いやいや、旦那が成敗したと申していただろう」
「ならば、ミシハセの祟りなのでは」
と様々なことが話に上がりました。
「若様は貴き位にいらっしゃいながら、我らのような者にも分け隔てなく接してくださった。しかも尊大なご様子もない。むしろ、控えめでいらっしゃいました。我らがあまりにも騒ぎすぎるものだから、かえって気が引けて、どこかへ向かわれたのではなかろうか」
と申したのは、七右衛門のお世話を他の誰よりも行っていた藤吉の言葉でございます。これにはほかのどの方も首を傾けることはありませんで、
「我らが心配なされる方でもございますまい。ミシハセを退治するくらいだから」
村長の一言で、七右衛門がお帰りになった際に不都合がないようお住まいの掃除などは行っておこうということになりました。
それから数日後のことでございます。見知らぬ女が村を訪ねてきました。その美しさは都でも二人とはいるまい、なぜこの島にこのような美しい女がいるのかと思われるほどで、宝石と交換しても惜しくはないほどでございました。その女は
「七右衛門様はお帰りでございましょうか」
と申したので、村長はじめ「いや、これこれこうなのだ」と七右衛門がお帰りになってからのいきさつを話すと、女は合点がいったような顔つきになり、
「やはり、そうなってしまいました。いえ、私の村にお立ち寄りなさった折り、七右衛門様に申しておいたのでございます。ミシハセは都で言うとところの鬼とは一線を画しておりますから、ゆめゆめ陸と同じお心持でお向かいなさいますな、と」
極めて無念の色を隠さない様子となりました。しばらく涙を流してから女は去っていきました。恭しく頭を下げる女の姿に心を奪われかねないのはまるで女が天女のように見えたからでございます。(以下、数行欠落のため不詳)
しばらくして、村のある者がとある仕事についでに、ある村に寄りました。そこはあの美しい女が来たと申していた村なのですが、帰って来たその者は青ざめたまま、
「そんな名の女は村にはいなかった」
と震え続けました。
(しかし、)それ以降、七右衛門が戻ってくることはございませんでしたが、行方不明になる者も、不審死を遂げる者も一人としておらず、やはり七右衛門はミシハセを成敗したのだろうと、感謝の意を表すため、碑を建てたということでございます。
(『佐州拾遺記聞』第二十九章より)