ep5 森コウ
翌朝。
博音が起きてリビングに行くと、母が出勤の支度をしていた。
「母さん。おはよう」
「あらおはよう、ヒロ。今日はちゃんと朝に起きたのね」
母は何かを言いたげに微笑した。
「な、なに」
「今日はバイトで遅くなるのよね?」
「昨日話した通りだよ」
「小さな一歩も一歩は一歩。まっ、頑張りなさいな」
それから母は「行ってきまーす」と言って足早に家を出ていった。
夜になり、博音は出勤する。
美人店長ヨーコが顔を合わすなり含みのある笑みを浮かべた。
「バックレなかったな」
「えっ」
「なんでもない。さーて、今日からが本当のスタートだ。気合い入れていくぞ」
「は、はい」
ヨーコに煽られるように博音は開店準備を始めた。
やがて開店して四十分ばかり経った頃だろうか。
店の扉が遠慮がちにゆっくりと開いた。
「い、いらっしゃいませ」
博音が率先して言うと、入ってきた女はびくんとした。
「あ、あれ。し、知らない人が、いる?」
大人しそうなその女は、おずおずと黒縁メガネ越しにヒロを見る。
「あ、あの、ええと」
博音は困惑する。
黒髪を地味ぃ~に結んだ控えめな社会人女性といった外観の彼女は、明らかに警戒を示している。
「ハッハッハ。相変わらずモリコは人見知りだな」
ヨーコがカウンターから出ていって女に歩み寄った。
「彼は新しく入ったバイトだよ」
「あっ、ヨーコさん。バイトの子を探してるって、本当だったんですね?」
ヨーコは微笑んで頷き、女をカウンター席に案内してカウンター内に戻った。
「ヒロ。この子はウチの常連のモリコちゃん。歳はヒロと一緒だぞ」
ヨーコに紹介されて、彼女は慌てて立ち上がってペコリと頭を下げた。
「わわ私は、森コウです。会社員やってます。ここではモリコって呼ばれてます。よよよろしくお願いします」
「あっ、あの、俺は来原博音です。今日から正式にBAR異世界のアルバイトとして働くことになりました。よ、よろしくお願いします」
博音は挨拶を返しながら、改めて森コウを見る。
すごく真面目そうだ。
正直、こういうバーに来るようなタイプには見えない。
いや、待てよ、と博音は考えた。
このバーに来るということは、この人も異世界人なのか?
「赤ワインください」
さっそく森コウが注文する。
ヨーコによってワイングラスに赤い液体が注がれる。
その様子を何となく眺めていた博音は、あることに気づいた。
森コウの眼鏡の奥の眸が、やけに熱情的なものに変化していたのだ。
よっぽど赤ワインが好きなのだろうか。
真面目で大人しそうな森コウの不自然なほど熱くなったその眼差しは、博音を少しドキッとさせた。
「ごくん......」
赤い液体に満たされたワイングラスを手に取ると、森コウは飲む前から飲み込んだ。自分の生唾を。
「ハハハ。相変わらずだな〜モリコは」
ヨーコの言う「相変わらず」が何のことなのかよくわからない博音はきょとんとする。
森コウの、変にもったいぶったような飲み方のことなのか。
ただ、ひとつだけ感じることがある。
それは地味で大人しい森コウが赤ワインを前にして醸しだす雰囲気が、妙に生々しいものだということ。
色っぽいとも言えるけど、そういうのとはまた違う気もする。
「い、いただきます」
ついに森コウがワイングラスを口元に持っていった。
喉元がごくんと波打つ。
それから彼女は舌なめずりをするように唇をペロっと舐めまわし、恍惚の表情を浮かべた。
頬は生き生きと紅潮している。
「美味しい......!」
そのまま森コウは中々の勢いで飲んでいく。
気がつけばあっという間にワイングラスは空になっていた。
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