その1ー1
その言葉が最後だった。
『たーくんも叔父さんも大っ嫌い!!』
拗ねて。
怒って。
出かけていく二人に玄関口から叫んだ。
その日、二人の行った催し会場で爆破襲撃事件があり弟の隆弘は寝たきりになり、叔父の弘志は帰らぬ人となった。
1Day探偵
人の近似記憶は脳の海馬と言う部分に溜まって整理され、眠っている間に脳の必要なところへと収納されていく。
ただ、事故や病気などによってそれが阻害され海馬から適切な場所へと伝達されなくなると人は記憶を紡げなくなる。
それだけでなく脳に損傷を負うと数日で記憶が消えていくこともある。
『昨日何があったのか?』
『二日前に何があったのか?』
それが分からなくなるのだ。
歳月は進んでも阻害の起きた時から記憶の時が進まなくなる。
昨日や二日前など記憶が消え去ると記憶はずっと同じ日以前になるのだ。
それでも…人は生きて行かなければならないのだ。
東京の一角にあるマンションの部屋から一人の青年が目を細めながら窓の外の光景を見つめていた。
「あれから5年…でも、俺にとってはずっと一昨日のままだ」
それは永遠に変わらない
「きっと」
彼、神守春香はそう呟き視線を落した。
その視線のずっと下を1人の同年の青年が歩いていたのである。
互いに新しい運命を紡ぐために。
飛鳥芹が東京の私立高校を受験して入学したのは家にいるのが辛かったからであった。
元々、母親は兄であった自分よりも弟の隆弘と気が合っていた。
明るくて少しやんちゃな弟は言わば家の中心だった。
その隆弘が10歳の時に母親の弟…つまり叔父と事件に巻き込まれて寝たきりになり家の中はまるで一年中葬式をしているような空気であった。
会話もなく。
将来の話もない。
母親は弟の病室に籠りきりで帰って来るのは極々偶にであった。
だから。
「東京にある東都大学付属高校に行く」
下宿するつもりだけど
と言った時に母は一言「そう」と答え、父親も長い間の後に
「そうか、分った」
で終わった。
下宿先すら聞いてこなかったのだ。
芹は鞄に二、三日分の服だけ詰め込んであの日から貯めていた通帳を手に
「じゃあ、行ってきます」
さようなら
と既に両親が出掛けて誰もいない家に声をかけて出て行った。
二度と家には帰らないつもりで実家を後にしたのである。
飛鳥芹は下宿の鍵をもらうと独身用マンションの3階にある302号室の扉を開いた。
マンスリーマンションのように家具は備え付けられておりその日から生活が出来るようになっていた。
入用なモノは日常的消耗品である。
芹は鞄を置いて中から服を取り出すとクローゼットの中に仕舞い込み小さな袋を三つ取り出した。
「上下とお隣さんに挨拶だよな」
東京初めてだしここで人脈作らないと色々困るし
アルバイトとかも良いのがあれば紹介してもらいたい。と言う本音を隠しつつ芹は部屋を出て隣の部屋のインターフォンを押した。
ライトが自動で付き
「…誰?」
と声が返った。
芹はカメラに向かって
「隣に引っ越した飛鳥芹と言います」
引っ越しの挨拶に
「大阪で有名なお菓子を」
と告げた。
それに応答マイクから
「…どうせ忘れるけど」
と返り
「んー、同じ年くらいに見えるけど何歳?」
と聞いてきた。
芹は「えっと」と言い
「15歳です」
東都大学付属高校に通うので引っ越しを
と返した。
それに
「そうなんだ、分った」
待ってて
と返事が返ると、少しして扉が開くと同じくらいの年齢の青年が姿を見せた。
薄い髪の色に淡い藍とも紫ともとれる瞳の美青年であった。
芹は目をぱっちり開けて
「マジ美形」
と心でぼやき、手にしていた『大阪の恋人たち』というチョコレート菓子が入った袋を差し出した。
「あ、これ」
どうぞ
青年は受け取りつつ
「ありがとう」
と言うと手にしていたペンで袋に
『隣に越してきたあすかせりさんから 3月21日』
とデカデカと書いた。
…。
…。
いや、そこまでアピールしてもらわなくても。と芹は内心汗を流しつつ
「これからも宜しくお願いします」
と頭を下げた。
青年はじっと芹を見つめ
「俺の名前は神守春香」
4月から同じ東都大学付属高校に入学するんだけど
「飛鳥芹さんは外部入学試験に通ったの?」
と聞いた。
芹は頷いて
「はい」
と答えた。
「神守さん宜しくお願いします」
神守春香は芹を見つめて腕を組むと
「ちょうど良いかも」
とポソリと呟き
「これから行くところに付き合ってくれないかな?」
と告げた。
「あと10分程で水先案内人が来ると思うから」
あ、鍵は閉めた?
芹は「へ?」と目を見開き
「か、鍵?」
と慌てて鍵を閉めて戻ると蒼褪めながら
「何この人…不味いこと言ったかな?」
まさか、は、犯罪がらみじゃないよな
「東京って怖いって聞くし」
とドッキンドッキンと心音を響かせた。
それに彼はんーと少し考えると
「その、変な想像しないでもらえたら助かる」
と言い
「別に取って食うわけじゃないし」
犯罪に巻き込もうと思っている訳でもないから
と芹の心を読んだように言い
「君が駄目なら他を当たるから安心して」
と告げた。
芹は「は?」と声を零すと
「俺が駄目ならってそれこそ何?」
と心で叫んだ。
東京についてまだ2時間。
なのにトンデモない何かに巻き込まれたような気分の芹であった。
■■■
神守春香が言った通りに10分ほどすると二人の人物が姿を見せた。
一人は身体がゴツイ成人男性でもう一人は顔が厳ついこれまた成人男性であった。
芹は春香の顔をちらりと見て
「やっぱりやばそうだろ」
と心でビシッとハリセンで突っ込んだ。
春香はゴツイ成人男性を見ると
「こちらの彼は飛鳥芹さんで隣の302号室に引っ越してきたんだけど」
東都大学付属高校の外部入学試験に通ったからそれなりに頭が良いんじゃないかと思って
と告げた。
「連れて行ってもいいかな?」
男性はちらりと芹を見ると
「東都大学付属高校の外部入学試験にか」
と言い
「それで春香君は彼にどこまで話を?」
と聞いた。
バッチリと目を見開いて顔が些か引き攣っている。
どう見ても良からぬ想像をしているとしか思えない表情である。
芹はドックンドックンと鳴る心臓を押さえつつ
「何、マジヤバな感じの人たちですけど!」
と心で叫んだ。
春香は平然と
「テストしてダメなら他を当たるとだけ言ってる」
と言い
「彼なら隣だし毎日顔を合わせることになるだろうから丁度良いかなぁと思ってね」
ほら明後日には忘れるだろ?
と告げた。
明後日には忘れる?
芹はちらりと春香を見て
「どんな忘れんぼなんだよ、こいつ」
と思わずもう今日何度目か分からない突っ込みを心で入れた。
飛んでもないお隣のいるマンションへ越してしまった。
それだけは芹は十二分に今理解していたのである。
だが、親を頼ることはもうできない。
親戚も頼れない。
踏ん張るしかなかったのである。
『たーくんも叔父さんも大っ嫌い!!』
もしそう言わずに弟を押し退けて自分が付いていったら…隆弘の代わりに自分が寝たきりか、もしくは死んでいたかもしれない。
「そうしたら、あの人たちも俺が悪い子でそのバツが当たったなんて言って隆弘を普通に可愛がって丸く収まっていたんだろうなぁ」
何故、あの日に限って弟が『俺もいく』って言ったんだろう。
何故、あの日に限って叔父さんは券を二枚しか持って来なかったんだろう。
いやそれ以上に後悔していることは…大好きな叔父さんや弟に最期に投げた言葉が『大っ嫌い』だったことだ。
芹は小さく息を吐き出し
「考えればその罰を受けているんだよな」
ここで俺がどんな風になってもあの人たちは何とも思わない
と独り言のように呟いて、目の前に立つ三人を見た。
「それで、俺をどうしたいんですか?」
それに厳つい顔の男性が胸元に手を入れた。
芹は思わず
「拳銃?」
とハヒッと身構えてその男性が手帳を見せるのに目を瞬かせた。
顔の厳つい男性は
「俺は警察庁特殊班の刑事、播磨正」
と告げた。
身体のゴツイ男性も同じように手帳を見せて
「俺も同じ特殊班の刑事で霧島世雄利」
と告げた。
芹は驚きながら
「絶対に警察だと想像できないだろ!」
このガタイと顔じゃ!
と心で突っ込みまくり汗を拭うとジッと手帳を見て目を細めた。
「その手帳は本物ポイですけど」
それでこの神守春香さんとどういうご関係で俺とどういう関係になろうと思ってこられたんですか?
未だ心拍数が高い心臓を押さえつつ肩で息をしながら問いかけた。
播磨正はそれに手帳を直しながら
「春香くんには探偵として活躍してもらっていてね」
色々な事件に協力をしてもらっている
と言い
「ただ5年前に大怪我をしてそれ以降の記憶が保てなくなっているんだ」
つまり記憶が二日も経つと消えてしまうということだ
「それで近くで彼をフォローしてくれる人間を探していたんだ」
と告げた。
芹は「ん?」と声を零すと
「つまり俺は彼の世話係に抜擢されたということですか?」
と聞き返した。
それに霧島世雄利が腕を組み
「大まかに言えばそうだな」
と言い
「勿論、日常的なことは春香君自身がするから別に君がする必要はない」
事件で呼び出しがあった時に同行してもらえればいいだけだ
と告げた。
芹は「つまり事件の付き添い」と言い
「それでアルバイト代は幾らくらいになりますか?」
と聞いた。
三人は顔を見合わせた。
春香は芹を見ると
「やるつもりはあるのか?」
と聞いた。
「事件現場の付添人」
芹は頷くと
「金額によってはする」
と言うと
「俺、生活かかってるから最低賃金ならお断り」
普通のアルバイト探す
と告げた。
貯金はあるがアルバイトは必須である。
芹にすれば生活が掛かっているのだ。
善意のボランティアをする余裕はなかったのだ。
斜め上の交渉に播磨と霧島は腕を組んで考えた。
勝手にアルバイト契約を結ぶわけにはいかないのだ。
それに春香は
「いいよ、月10万で雇う」
と答えた。
「支払いは俺がする」
でも1か月は見習いで
「役に立たないと分かったら即クビにするから」
それで良いよね
芹は頷くと
「わかった、いいぜ」
と答えた。
播磨は心配そうに春香を見たが春香が平気そうにしていたので小さく息を吐き出すと
「じゃあ、早速現場に来てもらおうか」
と告げた。