咆哮
「そりゃそうさ。確かに異世界転生したいなんて願ったこともあったけれどね……」
暴風雨。崖下には見渡す限りに樹海が広がって、その数キロ先の上空で、遠目にも強者とわかる黒い竜が翼をはためかせている。雨の日は機嫌でも悪いのか、ふいに咆哮するような動きを見せ、するとやはり数秒遅れて耳をつんざくような強烈な鳴き声がビリビリと体中に浴びせられた。
その直後、(咆哮の理由だったのだろう)竜の十倍以上は巨大なミミズ型の怪物が樹海からせり上がってきて、それを旋回で躱した竜が再びの咆哮とともに、今度は炎の息を吐いて敵に浴びせた。
巨大ミミズの動きが止まり、ビルが倒壊するようにゆっくりと倒れていくのと入れ替わるようにして別の強襲、おそらくコウモリのような魔物が数百単位で竜を取り囲み、吸血攻撃でも行われているのか体をくねらせて逃れようとしていると、また突然に辺りの木々を巻き込んだ特大サイズの竜巻が発生して、竜もコウモリ達もなす術なく巻き込まれ、はるか上空で放り出されたかと思うと、そのまま樹海のどこかへ墜落してしまった。
「――いくら何でも、異世界過ぎない?」
雨ざらしだが、この世界に来てから初めての静寂に一息ついて、思考を巡らせる。これはどう考えても大作RPGの終盤とか、クリア後のDLCマップで出くわすレベルの場所だ。転生して数分後のオレがいるべき場所としては相応しくない。
「同感ですね」
唐突に声がして、右側の少し離れたところにいる男に初めて気が付いた。同じように樹海を眺めながら、しかし余裕のある表情を浮かべている。
「異世界転生……。全人類の誰もが一度は憧れたシチュエーションを、我々は今まさに体験しているわけですが――」
見た目は十代半ばというところだが、まるで講義中の教授のように落ち着いた仕草で、後ろ手に組んだまま一歩一歩とこちらに歩み寄り、隣まで来ると両手を広げる。
「いかんせんストーリーに無理がある。これじゃあ異世界物語というよりも、出来の悪いコメディってもんです」
「全くだ。野球を始めたいと言い出した子供に、ニューヨークヤンキースのトライアウトを受けさせるのかってね」
「ふふ、これはユニークな例えです。よければ自己紹介をしても?」
オレは手のひらを向けて、どうぞ、の意を示す。
「僕は仲村といいます。高校二年生で、ほんの十分ほど前に転生されたばかり。付与された職業スキルは〈画家〉です。以後、お見知りおきを」
「これはご丁寧に。オレは後藤田、大学三年。職業スキルは〈水道屋〉。どうやら連続して飛ばされてきたみたいだね、よろしく頼むよ」
飛び込んだばかりの新世界で、同じ境遇の者同士が出会えた安心感は大きい。しかし、この先の展望について話し合うよりも先に、どうしても済ませておかなければならないことがある。「さて、仲村君」と、オレが口火を切った。
「そろそろ良いかな?」
すると彼はニヤリと口の端を緩めてみせた。
「後藤田さん、あなたとは本当に気が合いそうだ。僕も我慢の限界を感じていたところですよ、ぜひご一緒させて下さい」
オレは快く頷いた。それからは簡単な話だ。二人で深く息を吸い込み、崖の上から見える景色、樹海、暗雲、モンスター、そして異世界というくそったれな存在そのものに向けて全身全霊で――
「うわああああああああああ!! こわいいいいいいいいいい!! 異世界こわああああああいい!!」
「誰かああああああ!! 助けてええええ!! 助けて下さい高いところおお駄目なんですうううう!!」
「何かいたんですけどお!! ドラゴンいたんですけどお!! 変なくそでかモンスターいたんですけどおおおええ!! おええっ!!」
「何だよ〈画家〉って!! そんなん元の世界でも食っていけない職業なんですけどお!? 〈画家〉がどうやって竜とかと戦えるんだよおお!!」
「〈水道屋〉ってええ!? 蛇口持って魔王と戦えってええ!? 普通に〈剣聖〉とか〈魔道士〉とかよこせよおおお!!」
「ふざけんなよ転生させたやつ!! あの薄着の尻軽そうな女!! 人が胸元にみとれてる間にポンポン話進めやがって!! なーにが〈魂を司る者〉だ、港区女子みたいな整形鼻でよおお!!」
「そうだよ鎖骨チラ見しながらハイハイ言ってたらいつの間にか説明終わっててさあ!! じゃあ転送っ♡じゃねえんだよお!!」
「てめえ降りてこいこのクソ女!! もう一回スキル選びやり直せえ!!」
「ビッチビッチ!! 天界一のアバズレ!! ハニートラップオバサン!!」
もともとが運動不足のインドア派大学生だ。大声を出しただけでも目が回り、両膝に手を当てて屈み込んだ。仲村君はそれ以上で、地面に四つん這いになり、ゼエゼエと肩を上下させて、唇を紫にしてよだれを垂らしながらも笑ってみせた。多分チアノーゼだ。
「――もしもっ、天界まで聞こえてたらっ、ゲホッ、どうします? あの女ならっ、ゴフッ、雷の十発くらいっ、落としかねない」
「かまわない、泣いて謝って、それでも駄目なら逃げ回る、だけさ」
「お供しますよ、どこまでも、ゴホッブホッ」
心からの叫びは、雨音にかき消されただろうか。とにかくとオレ達は晴れやかな表情で、もう何もかも諦めるように固い握手を交わした。
「あのさあ」
唐突に背後から声がして、驚いて振り返ると、岩壁にもたれて座り込んでいる人間がいた。十代後半くらいに見える女の子で、肩当てと胸当てをつけて、よく見れば腰に剣も携えている。戦士系の職業だろうか。
「あんたら、情けなくないわけ?」
急にひどい。