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ミストメモリー

 ポチャン。

 水滴が落ちる音で目が覚めた。

 薄暗い空間、やけに静かな一室で。

 水音のみが繰り返す。 

 「....」

 少女は目元に手をやり、驚いたように小さなお口を半開き。ほどなくして目元と目元から溢れてしまっていたものを拭うと、緩慢に体を起こしていた。その際、音なく滑り落ちた温もりは腰の辺りで動きを止めた。

 「?」

 薄手ながら保温性能が高い。古めかしい肌掛けに覚えはなく、自身の物ではないのは明確で少しばかり困惑しつつも。

 洞窟を彷徨い疲れ果て、地べたに座り込み、横たわって寒さに戦慄き縮こまっていた。その内抗えない程の眠気に誘われ意識が途絶え___無事目を覚ました現在に安堵して。

 確かな温もりを握りしめ顔を埋めた。

 私をここまで運んだ誰かがかけてくれた。

 誰の物とも知れない肌掛けが安心感を与えてくれる。

 クンクンクン...。

 匂いはお世辞にもいいものとは言えなかった。埃っぽいようなかび臭いような匂いが混じった物ですらどこか懐かしい気配を感じられる。

 ケホッ...ケホッ...

 仄かに残る鉄臭さ__ありふれた臭いに懐かしさを覚えたのは本当だろうか。

 疑念から首を傾げつつも、誰かいないの?とばかりに少女はキョロキョロと人影を求め始める。

 岩肌から生えたこぶし大の水晶の塊。淡い青光を放つ水晶を頼りにするも、暗がりに馴れた目ですらぼんやりと部屋の輪郭を映すのが精一杯で。それでも確固たるものへと変わるまで、時間を要さなかった。

 助けてありがとう。お礼の一つも未だに伝えられないことに少女は小さな肩を窄めた。

 ルーム内に人の影も形もないことは明らかだった。

 「....」

 岩肌を削り、急ピッチに作り出されたようなルームは歪にぼこぼことしている。天井を始め、側面、地面に至るまで、これを部屋と呼ぶにはお粗末で荒々しい。もしも扉の一つもなければここを部屋とは認識できなかっただろう。

 既存の空洞に少しばかり手を加え、無理やり金属扉を嵌めこんだようなこの場所には物品の一切がなかった。無論、衛生的か否かと問われれば否と答えるのは条理で、苔だかカビだかわからない洞窟特有の香りに加え、この薄闇で歩みもままならない、冷たい空気も小さな身体から体力を奪うには十分だった。

 睡眠により体力は回復したものの雀の涙。

 肌がけにくるまり留まるにしろじわじわ体力を削がれていく現状、むやみやたらに動き回れるほどの体力はもうないが。

 恩人がここに戻る可能性も捨てきれないながらも確証もないのは事実だった。

 進むが吉か、留まるが吉か。

 「...」

 全身に蓄積された疲労から重さを覚え積極的に行動したくはないが、まったく手足が動かないわけじゃない。

 動けるだけ動いて、駄目なら、力尽きたなら、諦めがつくというもの。

 尽きたと思われた命を辛うじて繋いで貰えて、人の温かみに触れることが出来たのだから。

 確かな肌掛けの温もりに笑みが溢れて押さえられない。

 誰にも知られず寂しく朽ちることはなくなった。

 それだけで救われた。

 この気持ちを伝えたい。感謝を言葉に言い表し恩人に届けたい。

 行こう、恩人に会いに。

 しかしながら肝に銘じておかなければならない。

 次、力尽きたら、きっと__

 __目を覚ますことはないだろうことを。

 __感謝を伝えられる機会を失うことを。

 選択一つで生死が左右される場面で決心が揺れる。はぁー。と息を吐くとただ一点、扉だけを見つめ始め恩人の帰還を待ち望む少女の背中を場の空気はこれでもかと押していた。

 薄闇の中、明らかな生物は認められなかった。

 ただ、遠間隔で水が地を打ち続ける。

 終わりの見えない虚無の音。

 孤独感に苛まれ始めた少女の耳にはそれだけが永遠届いていた。

 「....」

 仮宿となった固く冷たい岩の上。唯一救いだったのは滑らかで綺麗であったこと、人一人が横になれる面積が十分に確保されていたということだった。

 そんな寝所とも言えない寝所からそろりと降りて__水気を帯びたようにひんやりとした石の地面に裸足で降りると身体をぷるぷると震わせていたが。

 「....」

 肌掛けを器用にマントのように纏い直し微かにほほ笑む。

 足裏は冷たいまま。好転したことなど高が知れてるが、それでもこれがあるから大丈夫。着の身着のままだった以前とは比べものにならないぐらい心が温かい。

 手を離せば肩からずり落ちてしまいそうな布地を胸元で力強く握った左手。

 そろそろと扉を目指して歩みを始め、右手を伸ばす。

 「♪」

 記憶喪失の少女は洞窟を歩む。

 出口を求め彷徨うこと数日間。食うことは出来ず足取りが覚束ないが既に迷いはなかった。

 今日(最後の日)は恩人を探すことにする。

 希望を抱きもう少し前向きに進んでみようと決意を固めるのだった。

 例えそれがどんな結末を迎えることになろうとも。

 

 〇 ● ● ●


 ペタ、ペタと僅かな足音を鳴らし少女は壁伝いに歩みを進め続ける。

 その道は未知の道か、数日前に既に通った道か、確かめるのもままならない暗闇はルーム内の方が幾分かマシだった。視界は皆無で暗中模索。壁面を見失わないように、壁面だけを頼りにして信じて進む。例え水だまりに片足突っ込むことになっても、鋭利な石片を踏むこととなっても。

 恩人に辿り着く一本道と自己暗示をかけて。ぎゅっと結んだままの左手に力を込めて、凍えそうな寒さに目を背けて一心に。

 それでも入り組んだ洞窟の中、どこからともなく聞こえ反響する水音に精神を蝕まれつつあるのか目には涙が浮かんでいた。

 陽の光が差し込むことのないこの場で時間の感覚は狂っており、疲労具合から長い時間が経過したしたことだけははっきりしていた。

 少女の、恩人に会いたい。恩人に会ってお礼を言いたい。

 最後に、彼もしくは彼女の、人の肌の温もりに触れたいという執念だけが今も彼女を動かし続ける。

 ペタ...ペタ...

 持てる力を振り絞り、一歩でも先に。

 健気な少女を嘲笑うかのように徐々に速度は低下して、やがて瞼が重くなり眠気にも似た症状が現れ意識が薄れつつあることを知覚すると。

 ...会いたい.....

 唇を強く噛み締めた。

 何度も、何度も。何度も。

 意識を手放したら今度こそおしまいだとわかっていたから必死だった。

 長らく続いていた空腹からか身体にはもう力が入らず。足に、体に、瞼に、枷をつけられてるかのように重くて、重すぎて、歩みを止めて今すぐに苦痛から解放されたかった。横になりたい。一眠り出来たらどれだけ楽なことだろう。

 同時に死が頭をよぎった。

 ...駄目...まだ..

 唇に滲んだ血が舌に触れると味がした。塩味かかっていて、そして、確かに鉄臭い。

 纏っている肌掛けと近くとも遠からずの匂いに意識が繋ぎ止められたが一時しのぎに過ぎないことはわかっていた。

 「...」

 いつの間にかあれだけ鬱陶しいと思っていた水音が聞こえない。

 今、目が開いているのかも、閉じているのかもわからないが、暗闇故に端からだったか。

 頭が働かない。

 文字通りの限界だった。

 なんで...歩いてるの...辛いのに..

 理由すら見失っていたが、それでも不思議と足は止まらない。

 いつからか感覚も曖昧になり苦痛すらも薄れていくと嫌でも理解してしまう。

 ...死にたく...ないな...

 少女は死力を尽くし足掻いたが、それも間もなく終わることになる。

 暗闇に突如ポツリと浮かんだ光。天高く輝きを放つ恒星ぐらいの小さな光が狭まった視界の中央に映り込み。

 暖色の光を放つそれが規則的に揺れ動く。

 反響し聞こえてくる筈の靴音すらこの耳にはもう届かなかったが、ゆっくりと何者かが近づいてきていることを知った。

 私の選択は報われた。

 会えた。

 よかった。

 心残りがあるとすれば、その全身を拝めなかったこと、その声を聞けなかったこと、その温もりに生きて触れることが叶わないこと...

 「....」

 泣きそうな顔で力なく微笑み、涙を一滴零した少女は最後に口した。

 声にならない声で、

 「ありがとう...。」

 力尽きる前に最後の力を振り絞った。


 〇 〇 ● ●


 いつ頃から聞こえていた、ペタ、ペタと軽い音は、バタッ...その反響音を最後に途切れ、直後に男はわき目もふらず走り出した。

 人工洞窟内部は複雑に分岐しているものの最終的には全ては袋小路となる。数日を費やし内部探索を終え、安全を確保していた。

 所々に水だまりがあり、そのどれもが清んでいて飲み水に困ることはないことは身を持って実証済み。足元を徘徊するよな齧歯類を始め、天井などに蝙蝠など小型の生物も目視できず、羽ばたきの音すら耳に届かず。感染症のリスクは低いと考え口に含んだのだった。

 何より人工洞窟の出入り口には観音扉がつけられそもそも閉め切られていたため汚染する者の侵入を阻んできた。

 安全、飲み水、次に必要なのは食料だった。そればかりはここにはなく、洞窟を後にせざるを得なかった。

 収穫に乏しく思いの外日数をかけてしまったが。

 自分がここを発つ際、扉の両方の取っ手に結わえ付けた布は解かれることなく保たれていたことから外部から侵入を受けたわけではないことは明確で音の主は少女以外にあり得なかったのだ。

 勝手に出歩かれ倒れられてはかなわないと明かりの類いは置いてきていない。だが、結果的に予期せぬ展開へと繋がってしまった。

 彼女はまた光の一切が届かない闇の中、冷たい地面に伏しているのだろうことは容易に想像でき、肝が冷えた。

 食わずまま部屋を抜け出て栄養失調により死に瀕しているだろう。今から間に合うかすら怪しいが、間に合わないなら何のために彼女を置き去りにしたのか、意味を失う。

 それだけはあってはならない。

 上下左右、周囲を照らす炎は手元のランタンから起こっており、緩急をつけたように不規則に揺れた。あまりの速力に置いてけぼりにされてたまるかと追いすがるものの糸を引くように弱弱しくなったりしながらも役割は忠実にこなし続ける。

 ダッ、ダッ、ダッ、と蹴る音が洞窟を満たし地響きのように唸っていた。

 足場の悪さなどものともせず男は時間を要さず辿り着く。

 暗闇の中に薄っすら浮かぶ白い少女の元に。ランタンの光が少女を照らすよりも先に男は存在を視認した。

 「すまない。...すまない。」

 俯せに転がる彼女、その体を炎がチラチラと照らし、映し出された顔は満足げにも、どこか悲し気にも映る。青白い頬を伝う涙の跡は炎できらきらと輝きを放っていた。

 持っていたランタンを、収穫物を詰めた革製の袋を、力なく下ろした男は、静かに硬い地面に膝を着けると。

 両手を差し出し、小さな肩と膝の裏に周し少女の体を優しく抱いた。

 小さな体は相も変わらず軽かった。何日も食事を摂れていないためか、それとも元からか。

 それより気がかりなのは、驚いたのはその身の冷たさ。洞窟に転がる無機質な岩を抱えているかのように体温がみるみる彼女に吸われていくのがわかる。

 全身から力が抜けぐったりとしていた。死人のそれとも穏やかに寝ているだけともとれるが。

 「...」

 加工される前はマントだった黒の肌掛けから覗く白いドレス。鳩尾は未だ上下していた。

 弱弱しいながらも拍動は健在で、事切れる前に間一髪間に合いはしたが事態は急を要するようだ。

 以前とは状況が違う。意識を失った状態のまま休ませることは死に直結しかねない愚行だ。栄養を、食べ物を早急に摂取させる必要があったが。

 自力での摂取はもはや困難を極める。衰弱しきって実は疾っくの疾うに手遅れだったのかもしれない。

 それでも打てる手を打たず諦めるのは愚か者だ。

 彼女の体を優しく地面に降ろすと革袋に手を突っ込みまさぐり。

 すべすべとした感覚に、ひんやりとした感覚、手頃のサイズの物に指がぶつかり、それを鷲掴むとぐりぐりと引っ張り出した。

 シャリッ。

 軽い歯触りの後に口に広がる甘く仄かに酸味がかった汁は果肉を歯で押しつぶす度、更に広がりを見せる。

 シャリッ。シャリッ。

 口にある程度含み、有形な物を形が崩れるまで、グズグズになるまで砕いていくと男は少女に覆い被さるようにして視線を少し腫れた小さな唇にやった。

 ご無礼お許しを。

 無防備な少女にそっと顔を近づけ目を瞑る。


 〇 〇 〇 ●


 淡く香った。

 果実ようにさっぱりとしたものが。

 「...。」

 華奢な体から伸びた白みを帯びた腕はスラッとしていた。

 良く手入れされている。綺麗なまでの白髪を腰まで伸ばした女性は幼子の頭を繰り返し撫でている。

 同じ血が通うことを証明するかのように白い髪の子らは目鼻立ち整い。また、あどけなさの中にも魅力を備えていた。

 憂いを帯びたような眼差しは儚げに。特に肌の白さは印象的で、存在するなら、女神や天使は彼女らのように美しい者達に違いない。何とも形容し難い美しさが万人の目を引くことだろう。

 「♪」

 なされるまま受け入れ、顔を綻ばせ、満足げにしている幼子は女性にベッタリ。ほどほどを知らないようで、もっと撫でて撫でてと催促し、いくら待っても女性を解放することはなかった。

 とても仲睦まじいのは重々承知しているが自分が些か除け者にされているように思えてならない。

 「....。」

 幸せムードに包まれた二人を、すぐ脇から見守り。

 心をモヤモヤさせる少女だが傍観を決め込んでいた。

 年相応の幼い見た目に反し我慢が出来る。別に躾られたわけではなく、自分で考え、そうあろうとしていたからだ。

 纏う雰囲気からしてもそうだが彼女らはいい身分の者たちなのは目に見える。

 広い純白の寝台の上、囲う純白の蚊帳の庇護を受け何不自由無さそうにコロコロ笑う。(一人は何も考えまいとして無表情だが。)

 寝具、衣服のどれをとっても純白で覆いつくされていて清潔感漂う部屋は怖いくらい一色だった。

 色の無い世界みたいだと思いはしたけど温かく居心地は悪くなかった。若干快く思えなかったのはきっと。

 「ごめんね、エミリヤ。」

 「....。」

 きっと、妹に母を独占されていたからだと思う。

 穏やかな透き通るような声音で、困ったように笑う母に、むすっとしたエミリヤはちょっぴり頬を膨らめつつも首を振った。

 私はお姉ちゃんだから、大丈夫。口にはせずとも母には伝わっている。

 同時に強がってるだけで本当は甘えん坊なことを知っている母はもう片方の手で長女の頭を愛おしそうに____触れる前に手を止めた。

 フリーズした母を戸惑いから見上げると満面の笑みを浮かべていたから再び面食らう。

 「エミリヤ。いつまでも変わること無い私の大事な大事な宝物。何があっても忘れないで。エミリヤ。その名前を。母と妹のことを。それでももし忘れてしまったならいつか思い出して貰えたら嬉しい。それじゃあ...いつか...きっと......。幸せになってね...エミリヤ。」

 やっと頭を撫でて貰えた。その手は柔らかく程よい温もりに浸るも束の間。涙を一切見せたこと無い母がボタボタと大粒の涙を溢し泣き出してしまった。

 光景があまりにも衝撃的でショックを受けたようでピクリとも動けなくなった。母は鼻すすり混じりに忘却の魔法、【白霧(はくむ)】の詠唱をしだし、詠唱が終わるとエミリヤの意識は徐々に薄れていく。

 やっと少しだけ思い出せたのに。聞かなきゃいけないことがあったのに。まだ聞けてない。

 いい子いい子と妹のエイミーが状況わからず母の頭を撫でていた姿を最後に瞼は完全に落ちきった。

 どうして私から記憶を消したの?

 「おかあ...さ.....ま....。」

 

 〇 〇 〇 〇


 ポチャン。

 水滴が落ちる音で目が覚めた。

 暖色に適度に染められた空間、やけに静かな一室で。

 水音のみが繰り返す。

 「...エミリヤ...。」

 名前。私の名前はエミリヤ。

 そうだ、どうして自分の名すらも忘れてしまっていたんだろう。折角付けて貰った名前なのに。

 誰に?

 私に名前をくれたのは誰?

 先程まで見ていた夢が手がかりに違いないのだが、鮮明にさせようとすると霞がかったように不自然にぼやける。何度も繰り返すうちに頭が一段と重たくなった。

 「痛い...。」

 よしよしと擦ると、ズキズキと一際大きな波が訪れ、自分に瓜二つな自分よりは小さな幼女が誰かに頭を撫でられ嬉しそうにしている情景が浮かぶ。何故だかモヤモヤして胸まで苦しくなっていた。

 肉体的にも精神的にも辛いだけで肝心な名前や過去の出来事だったのか真偽の程は確かめようがない。

 「っ....。」

 ハイリスク、ローリターン。あまりにも理不尽な見返りの少なさに声を押し殺すようにうずくまるエミリヤは冷たい岩肌に額を押し付ける。

 ひんやりした感覚がこの時ばかりは心地よく感じた。

 何故頭が痛くなったのかおおよそ見当はついた。

 あくまで推測の域をでないことだが、失われてしまった記憶に関する部分に、真相に近づけば近づくほど頭痛が増す。誰かの顔がチラチラ浮かび、立ち込めるような深い霧に飲まれると思い出す前に消えてしまう。人為的に記憶を操作されているような違和感を拭えないのは気のせいじゃない。

 洞窟にいる理由しかり、記憶を失っている理由しかり、判然としないながらも受け止めなくてはいけない現実だということだけで悩ましいのに。

 それにしても頭痛が酷い。もう少し眠った方がいいかもしれない。

 「魘されているのか...無理もないが...。」

 「!」

 私が横になる後側から、低めの落ち着きある声が気にかけてくれた。

 独り言だったのだろうが不意を突かれ、ビクッと弾んだ肩を男は見逃さず。ルーム内の反対側の壁面に背を預け座り込んで居たにも関わらず腰を持ち上げると何かを手にしエミリヤの元に歩み寄った。

 「目が覚めたか。余裕がなくとも少しずつでも食べるといい。危機は脱したが依然状態はいいとは言えない。」

 「...。」

 緊張からか、恐怖からか。萎縮し寝返りどころか返事も返さぬ、狸寝入りを決め込んだ彼女の背に男は続けた。

 「そうか。動けないなら、食わせてやろう。」

 気配が一段と近くなって。

 「だ、大丈夫です。自分で..食べられますから..。」

 「そうか。」

 堪らず声を上げるも、震えを伴い尻すぼみになっていく。深呼吸をして、気持ちを落ち着かせると。

 準備を整え、ゆっくり身体を起こし向き合った。

 この人が私を助けてくれた命の恩人。恐らく一度ならず二度までも。

 お礼を伝えたかった、相手。

 逆光でほぼほぼ黒いシルエットにしか見えないけど、思いの外相手は若いのかもしれないと何故だがそう思えた。

 「あの__」

 「果物を擦り潰した物だ。これなら食べられるだろう。身体が受け付けるようなら他のも用意しよう。」

 「は、はい....。」

 木製の器と同じくスプーンも受け取り、揺れ動く光を頼りに中の固形物に目をやった。

 固形物の小島を取り囲む、汁溜まり。

 恩人が差し出してくれた物だから毒など入っていないことはわかっているけど、赤の他人が持ってきた得体の知れない流動物と考えると手は自ずと止まってしまうというもの。

 悪意はないが、灯りが心許ないせいで素材となった物がわからず体が拒否反応を示している。

 「食べないのか?」

 「た、食べます。」

 心配してのことだろうが、急かされているような気になってしまった。気付けば頭痛が消えていた。

 口許にお皿を運び食べるふりして鼻をくんくん。

 「林檎。」

 「嫌いか?」

 ふるふるとエミリヤは首を動かした。

 「大好き、です。」

 「良かった。」

 「頂きます。」

 中身が分かれば怖いことは何もない。

 何日かぶりの食物に食欲が刺激され口の中は唾液で一杯で溢れそうになっていた。

 一口。あむっ、と。

 すると手は止まらなくなっていた。

 しかし、この香りを、味を、先程も堪能していたような不思議な感覚に襲われる。

 気のせいだよね。きっと。

 だって数日ぶりの食事だもん。ありえない。

 「美味しい♪」

 至福の時間に幸せオーラを放ちパクパクと口に運ぶ姿はなかなか絵になる。

 育ちの良さと母譲りの美貌が織り成す彼女自身の素質、あどけなさ残る姿に溜め息が零れた。

 ホワイトリリーにそっくりだ。十年あまりの時が流れればやがて彼女の生き写しになろうことは目に見える。

 この状況を、こう至った経緯をどこまで、どう説明するべきか。ゆっくり考えるとしよう。

 なに時間はある。焦る必要はない。

 「助けてくれてありがとう。お兄さん。」

 空の容器を置いた彼女は言う。

 大層気に入ったのか黒のマントだった物を纒い直し左手でずりおちないよう押さえている。

 「お陰で頑張れた。あなたに出会えた奇跡に感謝します。」

 その言葉。10年程の月日が経過した頃、大人になった彼女に言われたらどんな顔を晒していただろうか。

 子供というは無垢ながらに恐ろしい。

 「そうか。」

 思わず伸びた手で撫でしまった。

 不味いと引っ込めようとして、それを上から抑えられ。

 彼女が望むのなら暫くこのままでいいのかもしれない。

 照れくさそうにちょっぴり赤く染めた横顔を見て、今は素直に、その白髪に触れていいのだと思えたのだった。

 「他にも果物があるが、食べるか?」

 「食べたいっ...です。」

 「そうか。食欲があるようで安心した。」


 記憶喪失の少女、白の魔女の娘 エミリヤは自らの名前を思い出した。

 兵士の装いの男に無事合流したのは白魔女が眠りについてから5日後の出来事だった。それは将軍リーンがユリウス国に戻った日。


 時を遡ること5日前__

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