1-7:帰還
「わぁー、ずいぶん登ったねぇチヨ」
「件の鳥型モンスターも見かけないし、これはたいして苦労せずに帰れるかもしれないね」
市場を後にした紫乃葉たちは、露天商の言う通り転移門を抜け、目印を頼りに、ほとんど植物の生えていない山道を登っていた。
3日は覚悟しろと言われていた道のりだったが、おそらくモンスターが出始めるより前に馬車のために整備したのだろう。山道とは思えない、なだらかで広い道が山頂までつづいている。
ここに車という現代文明パワーが加わって、逃げも隠れもせずに山頂目指して突き進んだことで、ものの数時間のドライブでもうすでに山の中腹を超えた辺りまで到達していた。
「やっぱり高いとこってテンションあがるよねー」
車の窓から見える眼下には、おそらく鉱山であろう山々が広がっており、ところどころに点在する人工物が景色に彩りを与えている。あたりには鉱石の混じった塵が舞っているのだろうか。景色がキラキラときらめいて見えている。
「ふむ。なんとかと煙は高いところが好きというが、天才であるこの私も同じ気持ちだよ」
紫乃葉の自分で言う?という呆れ声を無視してメガネをついっと持ち上げる夜千代。
「ん?まって?チヨが天才なのは認めるけど、もしかして私のこと馬鹿っていってる?」
ふと夜千代の言葉に引っかかった紫乃葉が疑問を口に出すと、しばらくの間があってから夜千代が口をひらく。
「……お、あれなんだろうね」
「こらーー!!」
露骨に話題をそらした夜千代に紫乃葉が怒りの声を上げる。
途端に笑い出す夜千代。
「あっははは、冗談だよ!私はね、シノ、君のそういう純粋で素直なところが好きなんだ」
「へぇ!?あ、うん。ありがと……」
唐突に褒められて赤くなる紫乃葉だが、ふと気づく。
「……ん?あれ?言われてることは変わってなくない?」
「……お、あれなんだろうね」
「騙されるところだった!!」
車内で大騒ぎしながら、さらに走ること数十分。
二人はとうとう目的のものを見つけた。
それは山頂付近の開けた窪地にまるで水たまりのように溜まっている黒色の液体。
夜千代曰く、限りなく重油に近い物質とのことで、夜千代の技術があれば帰還に必要な加速を得るのに使えるレベルまで即座に精錬できるらしい。
「重油っていうから、もっとネバネバした沼みたいなの想像してたけど、なんていうか、醤油みたい。」
「……醤油みたいかどうかはさておいて、実は私も店主から買ったサンプルを調べて驚いたんだよ。化学特性としては重油に限りなく近いんだけど、この透明度と粘度だ。詳しい解析はラボに戻ってからだが、おそらく“不純物”のなかに我々の世界には無いものが混ざっているんじゃないかな。」
「よーし、じゃあチヨ、ささっと集めちゃおうよ」
「ああ。トランクにうってつけのものがあるよ」
そういって夜千代はトランクを開けて伸縮式の柄杓と折りたたみ式のバケツを取り出した。
「へぇ、準備いいじゃん」
「本当は釣りでもしようかと思って積んでたんだけどね」
“醤油溜まり”の縁にかがんだ二人は、
紫乃葉が柄杓を持ち、夜千代が左手にバケツを持って右手で紫乃葉の背中を掴んでいる。
「シノ、おちないでくれよ」
「大丈夫大丈夫。任せといて」
紫乃葉は自信有りげな口調とは裏腹な、ぎこちない手付きで柄杓にちょびっと掬っては夜千代のもつバケツにぷるぷる震えながら注ぎ込む。そんな調子で2〜3往復した頃だろうか、唐突にケーーンという甲高い音が辺りに響き渡る。
「な、なに?なんの音?!」
「!!マズい!シノ!クルマに戻るぞ!!」
「えぇ、でもまだ3分の1も汲めてない──」
すっと足元に大きな影が落ちたことで、
状況の飲み込めていなかった紫乃葉にも今の危機的状況が瞬時に理解できた。
「とり!!」
「ご明察!シノ!露天商から貰った鈴を!!」
「あ!えーと、どのポケットにいれたっけ?!」
上空を旋回していた怪鳥は、初め普通の大きさに見えたが、
ポケットをわたわたと探る紫乃葉にむかって急降下を始めると、
その姿はみるみる大きくなっていき、
紫乃葉がようやく鈴を取り出した頃には
視界に収まらないほどの大きさになっていた。
「シノっ!!」
たまらず叫んだ夜千代の声に被せるように
キーーーーンという澄んだ音が空気を震わせる。
同時に、今にも紫乃葉に掴みかかろうとしていた怪鳥が不意を突かれたように身をよじって上空に向かって離れてゆく。
「ま、まにあったみたい……」
「し、心臓に悪い……ヒヤヒヤさせないでくれシノ……早く、今のうちにクルマへ」
大慌てでバケツに蓋をしてトランクに積み込み、自分たちも座席に乗り込む。
「チヨ、この後どうするの?」
「転移の準備をしよう。頼めるかい?」
「最初にやった2秒間隔でスイッチを入れるやつだよね?いいけど、燃料がないんじゃなかったの?」
「隙をみてさっき集めた燃料を給油口から入れに外に出よう。小型精錬炉を直結しているからそのまま燃料に変換できるはずだ。」
「え、トランクに積んじゃったよ」
「おっと……ま、まあなんとかなるさ。とにかく転移装置の起動を急ごう」
言いながら夜千代はエンジンをかけ、複雑なレバー操作を始めた。
「えぇっと、グローブボックスあけて、ランプが光ったら、あ、光った。バルブを回して、いち、に、スイッチオン。いち、に、スイッチオン。いち、に……」
と、紫乃葉がある程度スイッチを入れたあたりで
──ガンッ!!という鈍い衝撃がクルマを揺らした。
「え!?な、なに!?なんかミスっちゃた!?」
「いいや、外的要因だね。どうやら燃料を入れに行くのは難しくなったみたいだ」
そう言って窓の外を指差す夜千代。
つられて窓の外をみた紫乃葉の視界に入ったのは──青空。
「わ、わぁ!!飛んでるう!!やばい!あれ!馬車!!谷底に叩きつけるって言ってたやつ!!」
大慌ての紫乃葉に、つとめて冷静な装いで額の汗を拭いながら夜千代が告げる。
「大丈夫。まだ持ち上げられている途中だ。落ちついて転移装置の起動を続けてくれ。」
「えぇ、!う、うん。わわわかった。スイッチ入れて、い、いちにスイッチ!」
ヴッ゙ーー!!というブザーが車内に鳴り響く。
「駄目だシノ、早すぎる。チャンバーが圧縮できてない。しっかり2秒以上まってくれ。」
「そんな事言われても!この状況2秒がめちゃくちゃ長く感じるんですけど!!」
大騒ぎしながらも、なんとかすべてのスイッチを入れ終わる紫乃葉。
もはや地面は遥か下方に遠のき、
いつの間にか谷底が真下に見えている。
ここから地面までゆうに300メートルはあるだろう。
「よ、よし。入れ終わったよ。どうすんの!?」
「“奥の手”だよ。車の空気抵抗をゼロにする。理論上160メートル落下できれば転移に必要な時速200キロに到達するはずだ。」
「そ、それってめちゃくちゃ早く地面にぶつかるってことなんじゃ……」
「今計測したら地面までは324メートルだ。システムを起動してから6秒で目的の時速に到達する。そこから地面までの猶予は2秒もないが──」
夜千代がそんなとんでも無い話をしている途中で、ふわり、と二人の身体が宙に浮かぶ。
怪鳥がとうとう手を離したのだ。
「わぁっーー!!!」
運転席を下にして谷底めがけて落下する車。
「車内保護シールド展開。推進エンジン停止、空気抵抗消散システム始動!──シノ!私が合図したらレバーを引いて時空ブレーキをリリースしてくれ!」
「2秒しか無いんでしょ!?」
「大丈夫!2秒は長く感じるんだろう?!」
ぐんぐん加速する車体。風がうるさい。
「時速100キロ。」
すでにさっきまでいた台地は通り過ぎた。
車体がギシギシときしむ音がする。
風なりの音がどんどん大きくなる。
激しく揺れる車内。
迫る地面。
「199、200!今だシノ!!」
「「時速ブレーキリリース!!」」
──一瞬、辺りに閃光が迸ると、二人の車はまるで大地に吸い込まれるかのように消えていった。