約束を果たすための別の理由
「息子の婚約者候補としてシャーロット・ウィリアムズ男爵令嬢を当家で預かることにした」
宴に戻るやいなや侯爵様が宣言したものだから、会場は大騒ぎになった。
広間の隅ではソフィアがハンカチを手に目を赤くしている。わたしの侍女とはいえ、ウィリアムズ家の魔術師でもあるソフィアをクラウス邸について来させることはできない。
チャーリー先生がソフィアの肩を抱いて広間から出て行くのが見え、わたしは慌てて二人の後を追った。
庭園で談笑していた招待客らが一斉にわたしを振り返り、ヒソヒソと何か囁いている。片手でドレスの裾を持ち上げてつまずきながら駆ける姿は氷壁の小侯爵の婚約者候補としては失格に違いない。
「ソフィア!」
木陰にソフィアとチャーリー先生の姿を見つけて叫んだ。振り返ったソフィアは目だけでなく鼻まで真っ赤だ。
「シャーロット様どうしてここに? 中にいなくてよろしいのですか?」
「だって、二人が帰ってしまうと思ったから」
わたしが言うとチャーリー先生とソフィアは顔を見合わせてクスリと笑う。
「シャーロット様に挨拶もせずいなくなるはずがありません。化粧が崩れてしまったから少し外の空気を吸いに出てきただけです」
「外に出てさらに化粧が崩れてしまったようですが」
「チャーリー、余計なこと言わないで」
こぶしを振り上げるソフィアに呆気にとられていると、二人はそんなわたしに気づいて姿勢を改めた。そして二人揃って頭を下げる。
「婚約者候補になられたこと、お慶び申し上げます」
「シャーロット様、幸せになってください」
「ありがとう、二人とも」
チャーリー先生は頭をあげたのにソフィアはいつまで頭を下げているのだろうと思っていたらズズッと鼻をすする音がした。ソフィアはそのまましゃがみ込んでポロポロと涙をこぼし始める。
「シャーロット様、嬉しいけど寂しいです。わたしもウィリアムズ家から出るので待っててください」
「ウィリアムズ家を出るって、チャーリー先生みたいになるってこと?」
年上のソフィアがコクリと子どもみたいにうなずく。
「そうすればシャーロット様に会えるって、チャーリーが」
チャーリー先生のように魔塔所属となれば移動が制限されてクラウス領に戻るのも難しくなるはず。わたしが視線で問いかけると、チャーリー先生はバツが悪そうにポリポリと首をかいた。そして周りで聞き耳を立てる人たちに聞かれないようボソッとつぶやく。
「支部に配属されればクラウス侯爵家に出入りすることもあると思って」
わたしがクラウス家に嫁ぐことも確定していない上に、緑士家に代わって魔塔支部ができるかどうかもまだ定かではないのに。ソフィアを慰めようとして言ったにしても不確定要素が多すぎる。呆れてため息を漏らすと、チャーリー先生はまた首をかいた。
「ソフィアさんはずっとシャーロット様を探していたんです。シャーロット様がいなくなったあと、絶対氷壁に向かったはずだと言って男爵様に隠れて毎日森の中を」
ピィーュと鳥の鳴き声が聞こえて空を仰ぐと、ツーッと涙が頬を伝って落ちた。ノスリがくるくるとわたしの上空を旋回している。
「シャーロット」
「ザク」
不意の声に思わず愛称で呼び返したら、周りも本人も驚いていた。彼について来た妹のエルゼは信じられないものを見たというように兄の顔を穴が開くほど凝視している。
「本当に恋人でしたのね。お兄様のことだから絶対裏で何か企んでいるのだと思っていましたわ」
エルゼの鋭さに内心ヒヤッとしたが、ザカリーは平然としていた。
「エルゼ、自分の兄を何だと思っているんだ」
「氷壁の策士ですわ。わたし知ってますのよ。お兄様がわたしをどこに嫁がせようとしているのか」
ザカリーは「まだ先のことだよ」と人差し指を唇に当てる。
エルゼは後継者ではないから領内の平民から結婚相手を選ぶ必要はないけれど、クラウス家に生まれた公女の嫁ぎ先は皇家の言いなりだと聞いている。まさかその相手が銀色のオーラを継ぐグブリア帝国の皇太子だとはこの時のわたしは想像もできなかったけれど、それはまた別の話だ。
迎春の宴が終わったあと案内された部屋でぼんやり夜空をながめていると、忍ぶようなノックの音がした。
「はい」
返事をした途端に扉が開いてザカリーが部屋の中に滑り込んで来る。夜着だったわたしは咄嗟に背を向け、窓に映ったザカリーの金髪が目が入った。
「すまん。こんな時間に来るのは非常識だが」
「いえ」
わたしは顔だけ彼の方に向ける。袖口にレースが使われたシャツは宴のときの着ていたものだ。宴のあと男たちは別室に集まって酒を飲んでいたようだが、赤みのない顔は少しも酔っているように見えない。
「シャーロットのおかげで計画が順調に進んでいる」
「わたしは何もしていません。魔塔主様とのやりとりも、チャーリー先生のことも、すべてザカリー様がしたことでしょう? わたしはただ宴に顔を出しただけです」
ザカリーはわたしのすぐ後ろまで来ると、椅子にかけていた薄手のストールを手に取りわたしの肩にかけた。布越しに肩から下へ向かって手を這わせ、彼の指先がわたしの左の乳房をかすめる。
「ザカリー様、わたしの体をお望みでしたら拒むつもりはありません。ウィリアムズ家から出たいというわたしの望みを叶えて下さったのですから、わたしもちゃんと応えるつもりです」
「わたしの望みが銀色のオーラを持つ後継者だからか?」
「別の理由が必要ですか?」
ザカリーの吐息が首元をくすぐった。
「シャーロットは氷壁のようだ。冷たいようであたたかい」
「氷壁はザカリー様でしょう?」
「わたしが氷壁だというのならその手で触ればいい。それがシャーロットの望みだろう?」
「そのような戯言を」
今夜この男に抱かれるのだろうと覚悟したけれど、ザカリーの手はわたしの左肩ばかりをさすっていた。いたわるような手つきのせいか昂っていた神経が落ち着いてくる。
「緑士の爵位は廃止の方向で進むだろう。おそらくシャーロットの父上はウィリアムズ男爵を名乗り続けることが許される。双子は魔塔に入れられ、男爵が亡くなれば爵位返上。ウィリアムズ家そのものがなくなる」
「そうですか」
「寂しいか」と問われ、わたしは首を振った。
「わたしにとっての家族は侍女のソフィアとチャーリー先生だけでした。チャーリー先生はもとより、ソフィアもウィリアムズ家を捨てて魔塔に行くようです」
もう一度「寂しいか」と問われ、今度はうなずいた。
「この窓からは氷壁が見えません」
「いずれ手の届く距離で氷壁を見せてやる。その約束を果たし終えたら、わたしはシャーロットの体を望むだろう。そのときは先ほど言ったのとは別の理由で応えて欲しいものだ」
胸のあたりにポッと熱が灯ったような感覚があった。これはオーラでも魔力でもない。相手を惹きつけて心に熱を注ぐ、ザカリーだけが持つ厄介な力。
いつだったか、クラウス侯爵家の始祖ハリー・クラウスについてチャーリー先生から聞いたことがある。
――イブナリア王国に進軍したグブリア帝国軍は王宮に攻め入り王族を根絶やしにしました。イブナリア王直属の魔術師だった魔塔主様は降伏を決意し、帝国軍の兵士の一人にグブリア皇帝に宛てた書簡を託します。その兵士が初代クラウス侯爵、ハリー・クラウスです。彼は兵站部隊に所属する下っ端の衛生兵だったのですが、魔塔主様がハリーを選んだのは、彼が上官に隠れて敵味方問わず治療を行っていたからだとか。
この話は誰にも内緒ですよ、とチャーリー先生は言っていたから、きっとザカリーも侯爵家の人々も知らないだろう。ウィリアムズ家の緑士が始祖であるテオ・ウィリアムズの本当の姿を知らなかったように。
チャーリー先生の話を思い出したのは、上官に隠れて自分の正義を守ろうとするハリー・クラウスと、父親である侯爵様に隠れて信念を貫こうとするザカリーの姿が重なって見えたからだ。
「ザク」
わたしはザカリーを振り返り、右手で彼のシャツを掴んで唇を重ねた。
「今はこの氷壁で満足しておきます。本物に触れるまでに別の理由ができるかどうかまだわかりませんが」
氷壁の策士にも不得意分野があるらしく、恥ずかしそうに顔を赤らめる貴公子に男女の駆け引きは無理そうだった。右手を彼の背に回すとぎこちなくわたしを抱きしめる。
アイスピッケルで壊さなくても、わたしを凍てつかせた氷は溶けてしまうのかもしれない。クラウス領は今日、春を迎えたのだから。
【氷壁の小侯爵と隻腕令嬢の契約結婚】
――完――