氷の熱にあてられた者たち
ユナはゆるやかにカールした銀髪の髪とアメジストのような美しい瞳を持っていた。ザカリーが本当に欲しているのはおそらく銀色のオーラを持つ妻ではなく、銀色のオーラを持つ後継者。しかし、何のためにそんな危ない橋を渡ろうというのか。
「ザクはこの人たちを危険に巻き込んでいる自覚があるのですか?」
「あの、誤解しないでください」
ザカリーが口を開く前に、ユナが縋るように割って入った。
「ザクはあたしたちに何も強制したりしないし、それに、あたしたちはちゃんと銀色のオーラのことをわかってます。オーラがあるだけで危険視されることも、反逆罪になるかもしれないことも。でも、新種の獣からクラウス領の人を守るためにこの力が役立てられるんです」
「危険を承知でザカリーに従ってるということ?」
わたしの問いに一同が示し合わせたようにコクリとうなずいた。
「シャーロット」
ザカリーに名を呼ばれ、わたしは「チャーリー」と訂正する。
「髪を切ってもシャーロットと呼ばれては意味がありません。チャーリーなら男でも女でも通用しますから」
チャーリーはシャーロットの愛称でもあるけれど、咄嗟に口から出たのはチャーリー先生のことが頭にあったせいだ。
彼の名前はチャールズ。家庭教師チャールズは初めてウィリアムズ家で顔を合わせたときから「チャーリー先生」だった。父も母も、執事や使用人たちさえも彼をチャーリーと呼んでいたから。
「順応が早くて助かる」とザカリーが言う。
やっぱり貴族のお姫様は違うね、と囁き声が聞こえた。
十年以上ウィリアムズ家に順応できなかったわたしが、出会って半日の人間に「順応が早い」と言われるのも不思議な話だった。
「チャーリー、無事にタイリィスに着くよう祈っている」
「隣町の治癒院まで行くのにずいぶん大袈裟ですね」
「おまえがウィリアムズ家に捕まってしまってはわたしの計画も台無しだからな」
「計画に乗るかどうかまだ決めていません」
「わたしの望みを叶えればおまえの望みも必然的に叶うというのにか? 氷壁に触りたいのだろう?」
ザカリーの言う通りだった。
ウィリアムズ緑士家で世界樹焼失跡地に入れるのは魔術師のみだが、クラウス家の場合は侯爵と領主代理にその資格がある。そして、親族に限って二人までの帯同が認められている。
クラウス侯爵が皇帝直属の銀月騎士団団長として帝都で暮らしている現在、領主代理を務めているのはザカリーだ。彼の妻となれば帯同者として堂々と跡地に入ることができる。
「シャーロットはなぜ氷壁にこだわる?」
「チャーリーです」
「チャーリー、おまえは死を前にして氷壁に触れたいと譫言のように言っていた。よほど氷壁に思い入れがあるのだろう?」
あのとき、氷壁を前に朽ちる悔しさがわたしにピッケルを振り下ろさせた。ピックで打ち砕きたかったのは新種モンリックヴィルではなく氷壁だったのだと思う。
世界樹が焼け落ちたことでこの周辺の大地は温もりをなくし、岸壁は凍てつき、あの分厚い氷の下は二百年前で時を止めている。イブナリア王国の残した生命が氷の棺の下に眠っているのだ。
「わたしは氷壁を壊したいのです。世界樹が失われて氷壁ができたのなら、氷壁を壊せば世界樹はまた芽吹くかもしれないでしょう?」
ザカリーはかすかに笑ったようだった。
「そんな大それたことを考えていたとは思わなかった。そのピッケルでは二百年かかっても無理そうだぞ」
「本当に壊そうなどと思っておりません。軟禁生活も二年を過ぎると自分が氷漬けにされているような気分になるものですから」
軟禁という言葉のせいか部屋に気まずい空気が流れる。
「チャーリー。おまえが氷壁を壊す手助けをすることはできないが、わたしの計画に乗れば氷漬けの生活から解放される。だが、分かっているだろうが相当なリスクが伴う。タイリィスで静養しながらよく考えてみてくれ」
「わかりました」
うなずいたと同時にグゥとお腹が鳴って、わたしは恥ずかしさに顔をそむけた。クスクスと温かい笑い声があふれ、ノランに手を引かれて食堂に向かう。パンとスープの簡単な朝食を終えた頃には野次馬たちはみな仕事に出かけていて、残っていたザカリーとノランと一緒にわたしは建物の外に出た。
バサバサと激しい音がし、空から舞い降りてきたのはウィリアムズ家のまわりでもよく見かける茶褐色のノスリ。ザカリーが右腕をかざすとノスリはその腕にとまり、わたしに向かってカーテシーのように羽を広げて頭を下げた。
「この鳥はカレンという名だ」
「もしかして獣人ですか?」
わたしが問うとザカリーは驚いたように目を見開いた。
「魔力感知したのか?」
「いえ、状況からそうではないかと思っただけです」
正直なところノスリから魔力は感じられない。
「ノランは感知できる?」
「いえ」と少年は肩をすくめる。
「獣人の魔力は少ないんです。その中でも鳥人は少ない方で、特に人の姿をしてるときは人間か獣人か見わけるのが難しいんです」
獣化したときの毛色と人化したときの髪色は同じはずだから、カレンは野次馬の中にいた茶褐色の髪の女性かもしれない。
「シャーロット、何かあれば手紙をカレンに渡せばいい。こちらからの連絡もそうする」
無表情と淡々とした口調はまさに「氷壁の貴公子」。その氷の下にノランやユナ、カレンたちを惹きつける熱がある。
「ザク。確認しておきたいのですが、どこまでがクラウス侯爵家の総意で、どこからがあなたの独断なのでしょう?」
クラウス家の名で立ち入りが禁止されたこの区域のことはおそらく侯爵閣下も把握しているはず。しかし、
「きっとわたしやユナ以外にも銀髪の花嫁候補がいたのでしょう? 侯爵閣下はそれについてご存知ないのでは?」
畳みかけるように問いを重ねると、ザカリーは観念したらしく「ああ」とうなずいた。
「銀色のオーラを持つ平民たちをクラウス家が雇い始めたのは父の代からだ。獣人が加わったのはわたしが領主代理を任された後。父も了承している。最初に新種の被害にあったのがユリエスト峡谷の向こうに住む獣人で、新種が峡谷を渡る前に処理するには獣人の力が必要だった。飛んで谷を渡れる鳥人がほとんどだが、他の種族も暮らしている」
「侯爵閣下はきっとザクの計画には反対されます」
ザカリーが一向に結婚の話をしないためわたしは無理やり遮った。
「なぜ?」と即座に問いが返ってくる。
「むしろなぜ反対されないと思うのですか。わたしはウィリアムズ家の人間というだけでなく、銀色のオーラまであるというのに」
「シャーロット。ウィリアムズ家とクラウス家の結婚が許可されない理由を考えてみろ。おまえはそれに当てはまるか?」
両家の婚姻が叶わなかったのは魔術師が貴族と結婚できないから。でもわたしは魔術師になれなかった。ノランとカレンはウィリアムズ家をただの男爵家と思っているからか不思議そうに首をかしげている。
「それに、シャーロットのオーラの件を父に伝える気はない。おまえは自分がオーラを継いでいることを知らずにわたしと恋人同士になった――という筋書きだ。出会いはタイリィスでの静養中、わたしがたまたま治癒院を訪れてシャーロットに一目惚れしたということにしておこう」
情緒の欠片もない棒読みにわたしは思わず苦笑する。しかし、笑っている場合ではない。
「ザク、それでは侯爵様を謀ることになります。侯爵家を揺るがすほどのことですよ」
「シャーロットの言う通りだ。だが、わたしはオーラを継ぐ貴族が文官になることを強いられる今の帝国法を変えたいと考えている。帝国がオーラの力を必要とする時はそう遠くない未来に来るはずだ。脅威が目前に迫ってからオーラを鍛えても間に合わない」
ザカリーの右腕でコクコクうなずくノスリを見ていたら、これ以上問い詰める気も失せてしまった。
「ザクは氷壁の仮面をつけた灼熱の貴公子ですね。ノランもカレンもその熱にあてられているようです」
「シャーロットもそうなってくれるとありがたい」
どうやら彼の頑固さは分厚くて固い氷壁並みのようだ。
「そもそもザクがいなければ死んでいた身。恩人であるあなたの計画に乗ろうと思います。わたしをあなたの妻にして下さい」
あまりに急な決断だったせいか、ザカリーは口を半開きにして呆然とわたしを見つめた。
「ザク?」
声をかけると我に返ってゴホンと咳払いする。
「すまない。こんなに早く承諾を得られるとは思っていなかったが、おかげで計画が進めやすくなった。必ずおまえをウィリアムズ家から解放し、氷壁に連れて行くと約束しよう」
ザカリーはわたしの左肩に手を置き、マントの上から体のラインを確かめるようになで下ろした。わたしの腕を斬り落としたことに責任を感じているのかもしれない。感情があまり表に出ないその顔がどこか悲しげに見え、わたしは右手で彼の頬に触れる。
「世界樹の加護があなたに降り注ぎますように」
「シャーロットにも世界樹の加護を」
ザカリーは力強くうなずくと、踵を返して建物に戻っていった。彼の腕から飛び立ったノスリは、わたしとノランを案内するように林の上を飛ぶ。
「チャーリー、せっかくなのでタイリィスに向かいながらオーラを隠す練習をしませんか? 基本は呼吸法なので歩行のリズムにあわせると感覚が掴みやすいです。まずはオーラの心臓と言われているお腹のこのあたりに意識を向けてみてください」
ノランに言われた通りにおへそあたりを意識する。背後からは滝の音が聞こえていた。
*
ピィーュと甲高いノスリの鳴き声がした。
「着きましたよ」
ノランが足を止めたのは、ぼんやりと自分の体を巡るオーラを感じられるようになった頃。
『イリィス2番治癒院』
そう書かれた看板が頭上で揺れ、ノスリがその上で羽を休めている。
「もう着いたの? そんなに歩いた気がしないけど」
「オーラを整えると疲れにくいんです。チャーリーはすごく集中してたからあっという間だったみたいですね」
ノランもザカリー同様に治癒院の主とは馴染みらしく、扉を開けると我が家に帰ったような図々しさで奥まで入っていった。
椅子に座って本を開いていたのは二十代前半くらいの男性。クラウス領でよく見かける金髪緑眼で、ザカリーと並んでいたら兄弟かと勘違いしてしまうくらい背格好が似ていた。けれど、ザカリーが氷壁ならこの男性は向日葵畑といったところ。
柔和な垂れ目にかけていた眼鏡を外し、治癒院の主は「クレイグと言います」と穏やかな笑みを浮かべた。
「先ほどザクから報せをもらいました。しばらく外出は控えてもらいますが気楽に過ごして下さい。カレンと相部屋になるので少々騒がしいかもしれませんが、悪い子ではありません。ノランはおれの部屋でいいな?」
「うん」
ノランがうなずいたとき、カランとドアベルが鳴って茶褐色の髪の女性が入って来た。
「こっちよ、チャーリー」
強引にわたしの手を引いて階段を上る女性に、男二人はただ肩をすくめている。
「カレン?」
振り返ったカレンがわたしの髪に目をとめ、「後で切りそろえてあげる」とニッコリ笑う。その表情にふとソフィアのことを思い出した。わたしがいなくなったことはそろそろ両親にも伝わっているはずだ。
気持ちがウィリアムズ家に囚われそうになっていたら、カレンがぐいとわたしの肩を抑えてベッドに座らせた。
「チャーリーに知っておいて欲しいことがあるの。氷壁のことで」
「氷壁のことですか?」
「氷壁がクラウス領を守ってくれてるってこと。世界樹が燃えた後、氷壁が世界樹の代わりに新種の侵入を防いでくれてるんだってザクが言ってた。氷壁は五十年くらいの周期で広がったり狭まったりしてるんだけど、氷壁が減少する時期には今と同じように新種が発見されてたみたいなの」
「心配しなくてもわたしに氷壁は壊せません」
「そんなの分かってる。ただ知っておいて欲しかっただけ。クラウス家に拾われたわたしたちにとって、ザクは氷壁なの。冷たそうにみえるけど最前線でクラウス領を守ってる。身体能力はオーラを持つノランや獣人のわたしの方が優れてても、ザクがいなければあそこにいる仲間たちはみんな宝の持ち腐れだわ。みんながザクについていくのは役割を与えてくれるから。役に立ってるって実感できるからよ」
「カレンはザクのことが好きなんですね」
だとしても、獣人の彼女はザカリーの相手候補に選ばれなかったはずだ。
「チャーリーが考えてるような〝好き〟とは違うわ。わたしがチャーリーの付き添いに立候補したのはここにクレイグがいるからだもの。それから、平民相手に丁寧な言葉遣いはやめて。あなたはシャーロットお嬢様じゃなくてチャーリーだし、わたしも畏まるつもりはないから」
「わかった」
「じゃあ、クレイグを連れて来るからちょっと待ってて。二人きりで乙女の服をはだけさせて包帯を巻くなんて絶対許さないから」
勢いよくドアを開けて出て行くカレンの後ろ姿を見送りながら、わたしは自分が生きてきた世界の小ささを改めて感じていた。
これまでの人生で、わたしに仲間と呼べるような人はいなかった。家族はわたしを遠ざけ、ウィリアムズ家で日常的に顔を合わせるソフィアとチャーリー先生もわたしを憐れんでいるだけ。命を賭けてついて行こうなどとは考えたこともないはずだ。
それを証明するように、ウィリアムズ家がわたしの所在を把握したのはザカリーが頃合いを見計らって噂を流した後だった。
ウィリアムズ家の執事が治癒院を訪れ、クレイグが「まだ動かせません」と神妙な顔つきで嘘の説明をすると、治療代と称して大金を置いて帰っていった。それまではわたしの捜索届すら出されず、あたかもわたしが離れで暮らしているように振る舞っていたらしい。
「先月の収支報告では若い女性向けの仕立て屋から夏用ドレスを買ったように記載されていたぞ。納品はちゃんとされているようだから、戻ったらクローゼットにかかっているのではないか?」
「双子にガールフレンドができたのかもしれません」
ザカリーとそんな会話をしたのは街路樹の葉が赤く染まり始めた九月の初め。
チャーリー先生が監視のため頻繁に顔を見せるようになってからザカリーは治癒院に来なくなり、わたしは静養中の男爵令嬢としてしばらくタイリィス町で過ごしたあと冬が来る前にウィリアムズ家に戻ることになった。十六才の誕生日から二ヶ月後のことだ。
クラウス領には木枯らしが吹き始め、わたしは窓をコツコツ叩くノスリに手紙を渡してザカリーとやりとりを続けながら、雪に埋もれたウィリアムズ家で息を潜めて春が来るのを待っていた。