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クラウドツアー  作者: Canopus
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青春ミステリー

総面積百七万マイル海溝二万五千フィートの多島海全域に、すぐには止みそうにも無いスコールが降り続いていた。

巨大な天の撥で休み無く水面を叩き続けるその様相は、その実その水滴一粒が自由に海底へと旅するのに途方も無く険しい通過儀礼を経なければならない事を十分承知し、酷く焦ったうねりを上げていた

 大海に浮かぶ木の葉のような文字通り頼りない一艘のボートは、正常なエンジンはあるものの、哀れで無力なその乗客たちそのものであった。

 悪運強く一つの海岸に辿り着いたその小舟から、命からがら蟻のように這い出た小さい人影の一つは、堰を切ったように目前の多雨林目掛けて走り出した。

 「誰かいませんか?」

 人影は自分と同じように後に続く者たちを気遣いながらも、どこか気の触れたように叫び続けた。

 この者たちにとってこの数か月間で見慣れた自国には無い、大ぶりで濃色な緑は晴れの日は愛想よく観光客を受け入れるが、嵐の時には容赦なく纏わりつき、意地悪く視界を塞いだ。

 拙いながらも地上でのその緑の波を必死に掻き分けながら、それでも歩みを止める事無く進んで行く先に、元から持っていた強い念が天にでも通じたのか、雷雨も簡単に凌げるであろう頑丈な納屋が目前に出現した。

 人影はようやくひと塊となり、震えながらもまるで合唱するかのように声を合わせた。

 「誰かいませんか?」

 すると、納屋から一人の少女が姿を現した。

 「ワタシノコト、オボエテル?」

 聡明なその少女は、ごく穏やかにその一団を受け入れた。

 納屋の内部は外観より広々としており、まるで一団の来訪を待っていたかのように美しく清らかな火が焚かれ、びしょ濡れの身体を落ち着かせる温かで甘い飲み物が振る舞われた。

 一団の心と身体がほんのりと安堵の色に染まった頃を見計らい、底知れぬ深く混沌とした使命を帯びているのに関わらず、その外観には鮮やかな南国の衣を身に纏ったその者が、突如として姿を現した—


—闇として締め切られた、殺風景なとある部屋。

カピロテさながら、頭から顔にかけて円錐帽を被った数名が、部屋の中央にある角張ったテーブルに整然と着席していた。

その各々の目の前に備わった蝋燭が順に灯され、三者三様の衣の艶模様を暗闇に映し出した。

一歩外に踏み出れば灼熱の太陽の光が降り注ぐ季節ではあったが、ここだけは奇妙にひっそりと静まり返り、どこからか水滴の漏れる音が響いていた。

そのうち、一人が合図の鐘を鳴らし、口火を切った。

「それでは交霊会を始めます。隣り合わせの方と手を取り合って下さい」

 その場の全員がそっと手を取り合うと、一人が唱和を始めた。

―その忌まわしき彼の島の、墓標無き小さな屍の山、その下に眠る者たち、そなたたちの美しく強き掌を侵す者など、この星々の空は広しと言えども、遡りそして先へと流れゆく永劫のうち、決して在るはずもない。ましてや邪悪な輩なぞ、気付くと気付くまいと、すでに―

 「底無しの」

 その時、締め切ったはずの遮光カーテンのほんの隙間から一筋の直射日光が漏れ、丁度悪い風に、四角四面なところのある佐久真新の富士額を直撃した。

 「ちっ、誰がカーテン閉めたんだよ。このガサツぶりはリオだろ」

 真新しいと書いて通称マシンは素早く立ち上がり、カーテンを綿密な調子で締め直した。

 「うっさい、アタシじゃないっ、それよりマシンの手、汗ちゃんとふけっての、ベタベタしてるし」

 名瀬河璃生、通称リオは、ふんっと鼻息荒く円錐帽を頭上からテーブルに叩き付けた

 「あっつくてやってらんないっ。ヒカル、何時に冷房入れた?」

 「あっ、いつも通りお忘れでしたので、わたくしが三十分前ほどにスイッチをONにしました」

 辻本命、命と書いてミコト、通称ミコトが言った。

三人の視線は一斉に都市伝説研究部の部長である刀禰光、通称ヒカルに注がれたが、ヒカルは憑りつかれたように、手元にある生成り色の紙切れを見下ろしていた。

 「大体、それ、どこで拾って来たんだよ?それに、前から思ってたんだけど、交霊会って、こんな雰囲気だけでやっちゃって意味あんのか?」

 マシンは溜息を吐き、ヒカルの顔を覗き込んだ。

それでもヒカルが身じろぎもしないため、三人は顔を見合わせた。

 「あっ」ヒカルが突然顔を上げた。

 「リオ、御影に今日のこと、RAIN出した?」

 「RAINって、あー、うちら専用とかいうあれ?ミカゲが作ったのってマジ?出してなーい」

 「おーい、一応、副部長だろ?しっかりしろよ。」マシンが口を挟んだ。

 「名前貸し部員に言われない」リオは鋭く目を光らせ、ヒカルの手元から素早く紙切れを奪い取った。

 「さあ、皆さん、めんどくさいですが、唱和しましょう。はいっ、せいのっ」

 「めんどくさいのはお前だろ」

 他の三人は苦笑したが、リオが頭上にかざした紙切れを奇妙な気持ちで見つめ、その読み上げる声を何とはなしになぞった。

―その忌まわしき彼の島の、墓標無き小さな屍の山、その下に眠る者たち、そなたたちの美しく強き掌を侵す者など、この星々の空は広しと言えども、遡りそして先へと流れゆく永劫のうち、決して在るはずもない。ましてや邪悪な輩なぞ、気付くと気付くまいと、すでに底無しの地獄に在る。我らに恐れるものなぞ何も無い。我らはそなたたちの過去からの味方。そして未来に、そなたたちを守り抜く契約を交わす。そうであるから、そなたたちは必ず、我らを信ずる道を選び取る。そすればたちまち悪意に満ちた古い鎖は断ち切られ、そなたたちは澄み渡る自由の風となり、今ここに、すみやかに現れ得る―


私立兎或記念高校の多目的校舎は、広大なマンション群の一角にそびえ立つ真っ白な立方体だった。真夏の最高気温をマークした日などには、蜃気楼の中にその姿をゆらゆらと投影し、行き交うマンション群の住民たちに、失念していたのは豆腐の買出しであったのだと、はたと気付かせる役割を担っていた。

その一室をアジトとしている都市伝説研究部のいつもどこか脇の甘い部員4名は、名ばかり部長でファンタジーオタクのヒカル、粗野だが謎に学業成績最優秀で同じくオタクの副部長リオ、ヒカルの友人で名前貸し部員のマシン、リオの幼馴染で期間限定部員、学園理事長の孫のミコト、そして幽霊部員というだけでなく、一年次でありながら出席日数ぎりぎりの御影玲の、それこそ結成条件ぎりぎりの五名で構成されていた。

未だ蒸し暑さの残るアジトの外で、ふいに遠雷が響いた。

「あら、雷?」

久しく聞いていない音に、ミコトは手際よく蝋燭の灯を消すと、締め切っていたカーテンを全開にし、ついでにそっと窓を開けた。

「あの、お嬢さま、冷房入ってますけど」マシンが背後からたしなめた。

その時、突然火災報知器がけたたましく鳴り出した。

 「あっ、またやった」四人が同時に言った。 

 程なくして、火災報知器の音に交じり、副顧問の加賀がキュッキュとスニーカーを鳴らしながらアジトに近付いて来た。

 「まさか、またこの部屋なわけ?」加賀は絵の具の付いた袖をどこか悠長に振りながら、四人のアジトに入って来た。

 ヒカル、リオ、マシンの三人は咄嗟に目配せし、理事長の孫として立場の危ういミコトをロッカーに、ヒカルの紙切れをリオの靴下にとそれぞれ隠す事に成功した。

 「ええっと、これで5度目」加賀はおもむろに胸ポケットから手帳を取り出し、デッサン用の鉛筆で正の字を完成させた。

 その途端、加賀の背後から小さな身体をよじりながら、副校長の赤衣がひょっこり顔を出した。

 「煙の残り香がありますね。今すぐ校長室に来るように」

 三人は思わず顔を見合わせたが、次の瞬間には観念したようにうな垂れ、そのまま大人しく校長室に向かった。

 赤衣はどこか意気揚々と三人の処分を校長に提案し、その勢いで退学や廃部まで言い渡しそうな空気を醸し出していたが、その日は事情聴取に終始した。

後日理事長の知るところとなったが、三人共に卒業年度で受験勉強の渦中にある事、意外にも学業成績等々学校生活全体に問題が無い事から、理事会判断で大目に見る流れとなった。

一方今のいままで四度も火の気を疑われ、終には現場を押さえられた事に何のペナルティが無いわけもなく、最終的に十日間の停学処分が下された。

 「いやあ、ご足労いただいでしまって」

主顧問の薗島は、購買で買った緑茶を目の前にいる保護者たちに無理やり勧めながら、奥の方に大人しく座っている三人に目をやった。

 「だが君たち、都伝部は都市部の研究が名目だろう?火を使う言い訳が、『火焔土器を作ろうとしてました』はないだろ……、まあ、今日入れて十日間なんてあっという間だ。その後はすぐ夏休みで切りがいい。部活動もようやく引退となる。大人しく受験勉強してろ、な?」

 薗島はそれだけ言うと、それぞれの保護者と共に教務室に踵を返した。ヒカルにとっての唯一の保護者、実兄の刀禰理人だけは一度ヒカルをふり返り、意味ありげに微笑んだ。

その場に残された三人は顔を見合わせる事無く、それぞれ堪え切れずに吹き出した。

「なんとかバレなかったな」マシンが小声で言った。

「まーね、まさか霊から金塊の在処、何度も聞き出そうとしてたなんてね。でも、今回のは違った。ほんと、この紙切れ、なんなん?」

リオの言うのは守銭奴奉行として名高いこの地域の先祖の事であったが、金塊が見つかったら都市伝説研究の海外遠征をしようなどと、この部員たちは本気で目論んでいた。

リオは言いながら素早く例の紙切れを取り出し、ヒカルに向かい眉毛を吊り上げた。

ヒカルは何も答えずそれを奪い返すと、どこか茫洋としたまま、また鳴り響き出した遠雷に耳を澄ませた。

交霊会の日から、学校の生徒の大半の住居である兎或区遺厨児町アーウェアマンション群の上空は常に重い鉛色の曇天となり、三人の気分を徐々に鬱々とさせた。

 「梅雨に逆戻りだな」

 その帰路、南国風の服を着たいつもの老婆が三人に声を掛けた。その小さな手元の大きめのラジオが奇妙な天気予報を告げている。

 三人は黙って会釈すると、空を見上げた。

 その途端、三人の周辺で雨が降り出した。

 少なくともほぼ同時に三人ともそう思ったが、実際は三人それぞれのポケットやカバンの中でスマートフォンの着信音が鳴っていた。

 三人はもたもたとスマートフォンを取り出すと、ミコトからのRAINに気付いた。

「ミカゲが開発したヤツ、スゴいリアル。おまけに非接触超えの網膜式ときた。若干一年生でありながら、だてに超生意気じゃない。まさに恐るべき天才オタク君、もといオタク天才君」

 マシンは鼻歌交じりに画面に目をやった。

―+ミコト どうだったの?

 その横でリオが回答した。

+リオ 10日停学 ミコトが偉い爺に軽いの頼んだ?

+ミコト まあそんなところ わたくしだけ逃れて 名乗り出たい

+リオ もつべきはお嬢の友 でも名乗りは不要

 マシンが口を挟んだ。

+マシン リプライより楽々機能 名乗りは特になしで お嬢さまが無事でよかった

+リオ マシンお嬢ねらってない?身分が違うからあきらめな 

+ミコト わたくしはどちらでも構わない それと 事件が起こってる それでミカゲさん機能使ってみたの

+マシン お嬢どちらでもかまわないって♪

+リオ そっちの意味とちがう しゅうとめ ムダに前向きなとこある

+マシン はいはい

+ヒカル 事件て?

+ミコト 祖母はマンション会理事長 マンションの子供たち4人?5人?行方不明になって大騒ぎなの—

 三人は思わず画面から目を離した。

 「だってさ」リオとマシンがヒカルを見た。

 ヒカルは考えを巡らすかのように眉間に皺を寄せ、今度は上目遣いに空を見上げた。

 それから三人はいつものようにそこで解散し、ヒカルが自宅であるマンション5棟503に着くと、兄の理人は一足先に帰宅し、リビングでリモートワークを再開していた。

 「停学中にさっそく寄り道か」理人は横目でヒカルを捉えた。

 「いつも通りの道だったけど。校長とか、何か言ってた?」

 ヒカルは冷蔵庫を開け中身を物色すると、黙って閉めた。

 「うちは兄弟二人のしがない家庭で、弟が食糧買出し担当だし、予備校も高い授業料払い込んでるんで、外出禁止は困りますって、泣きついてみたら、その二つは行ってもいいそうだ」

 理人は微笑みながら言った。

 「へえ」ヒカルは生返事をし、買出しメモを取り出した。そして付け加えた。

 「……、停学は、すいませんねえ」

 「俺さ、妙に安心したんだよね」理人はパソコンから手を放し、ヒカルに向き直った。

 「お前さあ、思春期かなんか知らんけど、カッコつけてても、基本アホウのまんまだな」

 ヒカルはこれを聞くと、猫のように理人をチラリ見し、「リヒトって、やっぱ変」と呟いた。

 そして、「夕飯、何食べる?」と、いかにもだるそうに聞いた。

 その時、雨の降り出す着信音がまた鳴った。

 「あれ?」理人は窓の方に目をやった。

 「あっ、ちがうから」ヒカルはスマートフォンをポケットから取り出すと、早速RAINを開いた。

+リオ さっきのつづき ミコトプリーズ

+ミコト 奇妙なこと 事件のことRAINした記憶がなくて リオに言われて たしかに残ってた

+マシン どういうこと? 俺たちの停学ショック受けてた?

+ヒカル まったく覚えてない?

+ミコト それがまったくなの

+リオ ミコト疲れてたん?そういうこと誰でもあるって

+ミコト でも ほんとうにまったく覚えてないの

+リオ そーいや3才からいっしょでも いまだかつてそういうの ないね

+ヒカル 事件 どーなった?

+マシン どーなつたべたい

+リオ いいから 結局行方不明の子供 十人だって

 ヒカルはここで思わず画面から目を放した。

 「んー、なんかあったのか?」

 ヒカルがはたと気が付くと、理人が冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、トクトクとグラスに注いでいた。

 「別に。なんかニュースやってた?」

 ヒカルはそう質問に質問で返した。

 「ニュース?」理人がテレビのリモコンを持った。

 ヒカルはテレビに目をやりながら、同時に画面操作した。

+ヒカル 明日予備校古典?終わったらあそこに集合どお?—


—次の日の夕方、昼間から薄暗い曇り空がさらに薄らと夜の気配を醸し出した頃、都伝部の部員たちは予備校のもっと薄暗い予備室に集合していた。

 「あーっ、物理ダルかった」

リオは指先でシャープペンシルをクルクル回しながら、開口一番ぼやいた。

「お前、確か物理模試一位だったろ?ったく、嫌味だなあ、そもそも出なくていいじゃんか」

マシンはリオを横目に続けた。

「今日一日何してた?この俺がだよ、一日マジで勉強してたさ。まあ時々はゲーム入れたけど、ほぼほぼ一日中。そんでなんか、返って効率悪いんだよ、なあ、ヒカル、そう思わん?」

その時ヒカルは暗がりにおり、他の二人にその表情は計りかねたが、ヒカルは意を決したように息を漏らした。

「俺さ、この十日間、調査に使っちゃおうかと思う。とりあえずは、予備校の時間までだけど」

「えっ、調査?」遅刻したミコトが息を切らして入って来た。

「あの紙切れ、ロック爺さんが落としたんだと思う」

 ヒカルは事も無げに続けた。

 「ロック爺さんて、マンション群の事なら裏も表も知り尽くして、犯罪者をドラムスティックで撃退したっていう、伝説のマンション群管理人の?それって実在なん?」

 マシンはヒカルの真意を掴みかね、困惑の声を上げた。

 「しっ、誰かそばにいる」リオは警戒し、半開きしている予備室のドアから外側を見た。

 「誰かいるのか?」マシンが小声を出した。

 「あれ、二組の薗島真理じゃね?予備校来てたんだ」

 リオはニヤリとしてヒカルを振り返った

 「ヒカルの意中のヒト」

 「あのヒトなんか意地悪そう?」ヒカルは苦笑いした。

 「意地が悪いというより、笑顔の裏に影があるというか」リオが付け足した。

 「そうは言っても、学園ヒエラルキーの頂点に逆らえませんて。非常に美女だし。ほんとに薗島センセーに全然似ても似つかない」

 マシンはリオに続き、ドアの外側をじっくりと観察した。

 そこから十数メートル先の開け放たれた休憩ルームのドア越しにターコイズ色のテーブルセットが見え、ふんわりとしたシフォンのトップスを見事に着こなした薗島真理が、ドリンク片手に数人の取り巻きと談笑しているのが分かった。

 「たしかに、自動販売機のジュースでも輝いて見える」

 二人の傍らでミコトが感嘆の溜息を洩らした。

 「えー、お嬢さまの方が上だから」マシンが慌てて言った。

 「とにかく」ヒカルは鼻で笑い、そのまま続けた。

 「俺はロック爺さんの居場所を知っている」

 「えっ?」三人が一斉にヒカルに視線を戻した。

 「ヒカル、大丈夫?正気?」

 マシンがまじまじとヒカルを見た。

 「まあ、ついて来てよ」 

 それからヒカルは皆を率いてするりと予備校は抜け出し、そのまま繁華街へと向かった。

街へは夜の帳が降り、客を誘う派手目から地味目の様々な掲示板、待ち合わせや家路もしくは家出、夜勤や怪しいビジネスに急ぐ人々と、時々怒号が飛び交う雑踏を、猫が列を成すようにすり抜けて行った。

「そういやみんなさ、家に連絡しなくていい?」

ふいに先頭にいたヒカルが振り返った。

「あー、アタシ、親と喧嘩中でさ、ミコトんとこに泊まる予定」

リオがミコトを見た。

「そう、じゃあまた離れで『勉強合宿』ね。わたくしのうちは大丈夫。祖父も祖母も父も母も、昼も夜も懇親会か何かで不在なので」

「えー、いいなあ。俺も勉強合宿参加したい」

マシンが軽口を叩くと、「ええ、どうぞ」ミコトは事も無げに頷いた。「えっ?」マシンは瞬きすると、ヒカルを見た。

「あっ、俺んち、兄貴、また泊まりの出張。在宅勤務なのに何してんだか謎」

ヒカルはそう言うと、また前だけ見て足早に歩き出した。それから十分も行くと、横歩きしないと進むことのできない奇妙に狭い路地裏に入って行き、さらに奇妙な青く小さい電光掲示板「フェス」に行き着いた。そこからさらに地下中三階まで下って行くと、看板の無い古びたドアが現れた。

「ここ」ヒカルは笑顔で三人を振り返ると、エイトビートにドアをノックし出した。他の三人は顔を見合わせたが、ヒカルはそれに構わず暫くドアをノックし続けた。するとふいにガチャガチャと鍵を開ける音がし、すっとドアが開いた。

ヒカルは軽く会釈すると黙って中に入って行き、三人もそれに続いた。

そこは一見して殺風景な場所だった。大型ロッカー、大型冷蔵庫、デスク一組、とその上の空のロックグラス。

四人を出迎えたのは、くたびれたTシャツを着こなす細身の老人だった。よく見ると、Tシャツの胸元に舌を出した唇のマークがプリントされている。

「探偵のケヴィン・サエキさん、ミドルネームはえっと、そういや知らない。伝説のロック爺。この三人はクラブ仲間です」

ヒカルはロック爺と三人を交互に見て言った。

「今日はどうした?」ロック爺が口を開いた。見かけは外国人そのものだったが、ほぼネイティブな発音だ。

「あの、二人はどういった知り合い、ですか?」

マシンがロック爺とヒカルを交互に見た。

「なんてことはない。ヒカルが私を見つけた。そう、小学生だったかな、彼が突然ここに来たんだ。そういや、あの時、どうやって私を見つけたんだったかな……、それにしても久しぶりだな」

ロック爺は、この界隈で伝説になっている程の有名人という体裁の割に、てらいの無い人物に見えた。

ヒカルは余計な事は言わず、ポケットから生成りの紙切れを出した。

「これ、少し切れてるけど、あなたが書いたんじゃない?字が似てる」

ロック爺は黙ってそれを受け取ると、メタリックの眼鏡の縁を下げ、その文字をまじまじと見た。

「ああ、そうだな。多分四分の一合ってる。どこでこれを?」

「四分の一?拾った場所は、どうってことないマンション群の中の空き地。でも、なんか変だった。そんとき、俺、だいぶ上から見てたような?」

「子供たちがさらわれました」

 その時、ミコトが唐突に口を挟んだ。

 「……、この綺麗なお嬢さんは?」

 「その通り。いや違う、正確にはお嬢様です」

マシンが余計な口を利いた。

 「うちの学園とかマンション群とかいろいろ経営している財団創設者の家系の唯一の後継者の、いわゆる一人娘で孫、辻本命です」

 リオが早口言葉のように一気に言った。

 「ああ、辻本さんちの……、お爺さんなら知っている。もっとも、仕事じゃなく盆栽フレンド。君にもきっと会った事がある。三千万の盆栽の枝、悪戯して折っても怒られなかった、それこそ伝説の五才キッズ。きっと君ね」

 ロック爺がミコトにウインクすると、他の三人が一斉にミコトを見た。

 「それと、子供の行方不明が多発しているのは知っている。関係しているかは分からないが、元々内偵中の件がある」

 「……、そんな事、バラしていいの?それじゃついでに聞くけど、紙切れに書いてある内容って、なんなの?」

 ヒカルはロック爺に微笑んで見せた。

 「ヒカルは小学生の頃と変わらないな。なんでもないように重要な事を聞き出そうとする。教えて上げたいが、前にも言ったようにただとは行かないんだ」

 「しがない高校生なんです。小遣いの範囲内しか持ってません」

 マシンがまた口を挟んだ。

 「金じゃないな、必要なのは労働力だ。ご存知かな?世界での行方不明者数のうち、一つの統計上だけでも子どもは年で八百万人以上」

 ロック爺の目が眼鏡越しに鋭く光った。

 「座ってもいいかな?」ロック爺は言いながら、デスクの椅子を引き寄せた。

 「認めたくないが、私もいい歳なんだ。最近ちょっと内臓の方をやられてしまって、ヒカルが来てくれたのは天の思し召しかと思ってね。あまり危険な事は頼めないが……」

 「何をすればいい?」今度はヒカルの目に光が宿った。

 「マンション群のマンションは知っての通り十一棟ある。部屋数は千六百五十部屋、入居世帯数は辻本さんの手腕で、そのほぼ同数。子どもの居る世帯数は千十三。その中から、今回行方不明になった子ども十人の世帯の共通項を調べられるかな?」

 「千十三世帯……」マシンが苦笑いした。

 「あくまで無理のない範囲での話だ。経費は仮払い、アルバイト代は終日一人二万。しかし期限があり、十日間のうち結果が出なければ実費のみ支給」

 「十日間て、うちらのジャスト停学期間。あの、なんか知ってるんですか?」

 リオが観察するような目でロック爺を眺めた。

 「何かとは何かな?期間の事なら、依頼主から言われている期限の逆算でしかないな」

 ロック爺が首を傾げた。

 「……ふと思い出したんだけど、二年前のCSの時も夏休み十日間ずらしてバイトしたなあって……、アタシ、そのバイトやってもいいな。家出資金稼がなきゃ。」

 リオがほくそ笑んだ。

 「わたくしは、子供たちが見つかるならやろうと思います。でも全部の日程は無理ね。わたくしは停学になっていないから、休めそうな日数だけでも」

 ミコトは真剣な面持ちとなった。ミコトの傍らに居るマシンは、ミコトが珍しく自己主張した事に瞬きしながら、その横顔を見つめた。

 「ヒカルは当然やるだろ?俺、どうしようかな……、予備校の授業は夕方以降だし……、その時間まででも大丈夫ですか?」

 「それで充分だよ」ロック爺は深く頷いた。

「それでは決まりだな。それと、何をおいても守秘義務は絶対条件だ。調査先や親御さんには新商品のマーケティングをしているとでも説明してほしい。取り敢えず、明日でも変装兼調査用のスーツやらを買うといいよ。印象に残らないサラリーマン風にな」

ロック爺はロッカーから茶封筒を出すと、ヒカルに手渡した。

ヒカルは黙ってそれを受け取り、その場はそれで解散となった。

帰りの道々、四人は少し興奮ぎみに明日から予定について話し合った。

そして話し合いの最後には、リオだけではなくヒカルとマシンもミコト邸に合宿する流れとなっていた。

「でも、一体どうやって理事長にOKしてもらうんだ?」

マシンが溜息を吐いた。

「やってみるわ」ミコトはすぐさまスマートフォンを取り出し、自分の祖父にメールを出した。

孫(命)+親愛なる御爺様へ。わたくしの親友三人はこの街への研究熱心さ故に大きめのミスをしてしまって、酷く落ち込んでおります。歴史書にあった火焔土器を再現できると思い込んでしまったのです……受験生なのに孤独に耐えかねて、勉強も進まなくなってしまったわ。親友たちは全員基本的に優秀です。親友たちを助けて上げたいの。親友たちは停学中ですが、離れで勉強合宿を実施してもよろしいでしょうか?+

 すると、すぐに能楽の返信音が鳴った。

祖父(福祷朗)*じぃじは命が優しく強い人に育った事を誇りに思う。しかし規則は必要。必ず寝食は全員部屋を分け、使用人に頼らず各自毎日清掃、貴重品は各自管理、就寝時には各自施錠の事。勉強部屋は中央の和室を使用。精神鍛錬のため正座による勉強を基本とする。一方、適宜脚を伸ばす事とケータリング使用は許可する。秘書から各保護者に連絡させる*

 他の三人はミコトのスマートフォンを覗き込み、全員ほぼ同じ事を思った。「さすが三千万の盆栽でもノーペナルティ」―

—次の日の朝、四人はミコトの手引きで邸の裏口を抜け、変装道具を揃えるために繁華街に向かった。

 「各自清掃って、返って都合が良かったわ。使用人が離れに来たら、抜け出すなんて無理ですもの」

相変わらず空は雲に覆われていたが、ミコトは朝露のように清々しい笑顔を見せた。

 「俺、自慢じゃないけど、使用人なんて言葉、一生使わずに済みそうだわ」マシンが溜息を吐いた。

 辻本邸は一等地にあり、繁華街までは徒歩で五分程度だった。四人は開店時間早々に百貨店に入ると、早速スーツ売り場に向かい、各自試着を始めた。そしてそのフロアで一通り買い揃えると、今度は眼鏡を買いに階下に戻った。

 「でも、全員眼鏡っておかしくない?」マシンが素朴な疑問を呈した。「うーん、じゃあアタシはウィッグにしてみる」リオはそう言うと、同じフロアの売り場へと足早に去って行った。

 三人が丁度会計を済ませた時、リオは自分だけスーツに着替え終わり、ショートヘアの上にボブのウィッグを乗せた姿で三人の前に現れた。

「どお?アタシってバレる?」

 「リオ、かっこいいわ」ミコトが感嘆の声を上げた。

 「お嬢ったらまったく、それは身内びいきってものだよ。な、ヒカル」マシンは肘でヒカルを小突いた。

 ヒカルはリオの変装姿をまじまじと見たが、すぐに目を反らした。

 「時間が無い。俺たちも早く着替えてしまおう。昨日の打合せ通りのスケジュールで」

 ヒカルは早口で言うと、マシンを更衣室の方に引っ張って行った。

 昨日の夜、四人が風呂上りに野菜ジュースを飲みながら立てた計画はこうだった。

―議長ヒカル・書記官リオ

〇大枠 調査方法 基本手法は聞き込み。時間が無いためチーム分けするが、リスク回避・調査の便宜上二人一組・男女分けとしてみる。リオとマシンはすぐ意見が分かれ時間が無駄になる可能性が高いため、ヒカル・リオ、マシン・ミコトとする(メモ*これが決まった時、マシンはニヤリと笑った)

●入手した情報 ミコトが本邸の使用人からさり気なく聞き出した内容→マンション群会理事長(祖母)が電話で話していた事として、十人の行方不明者はマンション十一棟のうちの十棟で、一棟ごとに一人行方不明となっている。

〇課題 今ある情報から、一棟ずつ聞き込みが必要。

〇詳細

【担当分け】

チームミコト・マシン №1棟~5棟

チームヒカル・リオ №6棟~10棟

№11棟の調査は担当分が早く済んだチームがする。

※補足ルール 住居について、リオは№1棟、ヒカルは№5棟、マシンは№8棟、であるため、自分の住居棟の調査は色々加味して一応避ける。

【調査方法】

名目 防犯グッズ販売のマーケティング

手法 アンケート調査・ノベルティグッズ配布

※※アンケート用紙データ作成はミカゲに依頼済・コンビニでプリントアウト済・ノベルティグッズ選定ミツリン夜中着注文済―超小型軽量3回使い切り犯罪者撃退☆彡嵐を呼ぶストームブザー(メモ*ここら辺で皆目の下にクマができていた)

【スケジュール】

最初の三日間 各棟階下の公園・空き地・フードトラック広場

※※※目立たない用数人聞き取りごとに場所移動。

【その他】

昼食は辻本別邸に戻りケータリング利用(ランチミーティングを兼ねる)・抜き打ち検査への備え→検査時、不在となった場合の言い訳→「自宅に参考書を取りに行ってました」もしくは「新しい参考書を書店に買いに行っていました」「頭痛がして個室で寝てました」「下痢の薬を自宅に取りに行っていました」等々—

 スーツ姿の四人は昨夜の議事録を再確認すると、最寄りの兎或駅構内のコインロッカーに隠してあった調査道具を次々と出し始めた。

 「ねえ、ノベルティ、これで今日分足りる?五十個」

 リオはリュックサックの中身をヒカルに見せた。

 「スーツにリュックっていいわけ?」

 二人を追い越しながらマシンが小言を言った。

 「ったく、嫌味な眼鏡。めちゃめちゃ金利の低い銀行の営業マンじゃん」リオが応戦した。

 「はあ、預金の金利は元から低いもんだ」マシンは溜息を吐くと、ミコトをそれは丁寧にエスコートしながら、終始気取った調子で出発して行った。

 「アタシたちも急がなきゃね」リオは言うと、アンケート用紙とバインダーをヒカルに押し付け、6棟へとさっさと歩き出した。

 ヒカルは黙って頷き、それに続いた。

 ミコトとマシンはまず1棟の階下の公園に向かった。

 人影はまばらであったが、子連れの何組かが遊具付近で談笑していた。

 マシンは軽く咳払いすると脇にミコトを連れ立って、親子らしき二組に近付いた。

「あのー、恐れ入ります。防犯グッズのマーケティングなんですが、アンケートにご協力いただけませんか?」

声を掛けられた親たちはぎょっとしたようにマシンを見て、顔を見合わせた。

「こちら防犯グッズとなっておりまして、簡単なアンケートにご協力いただいた方に無料で配布させております」すかさずミコトが笑顔を見せた。

その頃、ヒカルとリオの二人は6棟の階下で、一人の小学生に捉まっていた。

「ねえ、もう一個ちょーだい、友だちにもあげたいの」

ノベルティグッズをねだる女児に向かい、リオは膝を折った。

「気に入ってくれて良かった。それはそうと、今日学校行かなくていいの?最近、学校、楽しい?」

 リオは子どもの顔をじっと見つめた。傍らで棒立ちしていたヒカルも同じく膝を折り、それに倣った。

 女児は戸惑っていたが、その目先でリオがノベルティグッズをふるふると振ると、ぽつりぽつりと話し出した。

 「……クルちゃん、給食たくさん食べるんだけど、いっつも気持ち悪くなってた。そおして、学校来なくなったんだあ。いっつも夜に公園にいたから、さらわれちゃったんじゃないかって、お母さんたちが言ってて怖くなって、今日学校休んじゃって、すごく暇」

 リオとヒカルはこれを聞くと顔を見合わせた―

—午前中は瞬く間に過ぎ去り、四人は辻本別邸に戻っていた。

 各々ケータリングから食べたい物を皿によそうと、勉強部屋隣接の茶室に集まった。

 「あれ、いつもの山盛りはどうした?」ヒカルがリオの皿に目をやった。「あら、そうね。リオ、具合でも悪いの?」ミコトはリオの様子を覗った。

 「うん、まあ……、悪いけど、出掛けるまで後で少しだけ休む」

リオはどこか力無くレタスをかじった。

「……、早速だけど、チームOから午前中の収穫をお願い」

 ヒカルがマシンとミコトを交互に見た。

「結局幼稚園の親二人にしか聞けなかった。でも聴き上手のミコトお嬢様のお陰で、最終的にはみんな癒され、ガードが緩くなった。1棟で行方不明になってるのは、兎或区立文鳥小学校のヒナという名の六年生の女子」

「どんな子?」リオが口を挟んだ。

マシンが口にチキンを放り込んだため、替わってミコトが口を開いた。

「それがね……、マンションのバルコニーが各部屋にあるでしょ?九階の角部屋なんだけど、よく一人でバルコニーに出てたみたいなの。それも何故か夜中でも。仕事帰りのご主人たちによく目撃されてたらしくて……、午前中に分かった事はそれくらいだったの」

言いながら、ミコトの表情が曇った。

「チームTは?」マシンは口をもごもごさせながら言った。

「俺たちは6棟で小学生に掴まってた。俺は図々しいリオのお陰で助かったけど」

ヒカルはチラリとリオを見た。リオの方は「うん」とだけ力無く応じた。

「なかなかの子だったけど、ビギナーズラックってヤツだった。その子のクラスメートが行方不明者。区立兎或第二小学校6年のクルスユリナって女子。なんかさっきの話と似てるんだけど、そのユリナって子は、夜の公園に一人でいるところをよく目撃されてたらしい。あと、関係ありそうな事として、その子は学校でいつも給食をたくさん食べるんだけど、よく吐いてたらしい。まあ、子どもの言う事だけど」

ヒカルが言い終わると、隣に座っていたリオが徐に立ち上がった。

「悪い、ちょっと寝て来る」

「ああ。出掛ける前に声掛ける」

ヒカルはリオの後ろ頭に向かって言った。

マシンはまたチキンを口に運ぶと、「今のロック爺に報告する?」とまたもごもごと言った。

「ああ」ヒカルはプリンを頬張りながら、ポケットからスマートフォンを取り出した。そしてロック爺への報告を入力し始めると、ふいにミコトに言った。

「それでリオ、どうしたの?」

「……、元気いっぱいに見える人の人生にも、乗り越えなければならない試練があるのよ。わたくしはリオの味方である事しかできないけど……、今回行方不明の子供たちって、元々はどんな環境にいたのかしら」

「普通じゃない感じの環境」マシンが確信を込めた。

「それとリオの事と何か関係が?」ヒカルが眉間に皺を寄せた。

ミコトは前を向いたまま深い溜息を吐いた。

「……、二人には話しておこうと思います。落ち着いた時間に」

ミコトはどこか大人びた表情で二人を見た。

「いや、まてよ。今日予備校、みんな四時からの数Ⅱだろ?午後からの調査、今日は止めにしない?」

ヒカルが提案するのと同時にスマートフォンの着信音が鳴った。

「ボーリング・ストーンズはロック爺」

ヒカルは画面に視線を落とし、それを他の二人に見せた。

「グッジョブアンド、調査は明日から再開でいいって」

ヒカルは微笑んでみせた。

「ヒカルちゃーん、前から思ってたんだけどさ、多分自分で気付いてないと思うけど……」

マシンの小言に構わずヒカルは続けた。

「今、この時間に話してくれる?」

ミコトは少し驚いてヒカルを見たが、また深い溜息を吐くと、ラプサンスーチョンを一口飲み、静かに話し始めた。

—気分が暗くなるようなお話になるけれど、今回の件の何かヒントにはなるかも知れない。

リオに初めて会ったのは四才の時。離れの庭で桜が散っていた。ちょうどその頃、わたくしは母親を亡くして、きっと寂しかったのかしら。きょうだいもいないし、その頃からいつもリオと一緒に過ごしていた。

 後から祖母が話しているのを聞いて、リオはうちの親戚に引き取られてきたのだと知った。

 リオは少し乱暴に見えても根は優しいの。

 わたくし、祖父の学園に入る前まで学校でいじめられていた。

みんなの言う「普通」が分からないからかも知れなかった。

 リオはいつもわたくしを庇って、時には怪我をするような喧嘩を

したりしていた。

 リオはほとんど勉強をしなくても、何でもすぐ良く理解する子ど

もだったの。今もそうだけど、変わらず優しいし、運動神経もいい。

 でも一つだけ変わった癖があって、出会った頃からそうだったん

だけど、すぐ食べきれない程食べようとするの。

 最初はわたくしの分のおやつをちょうだいとねだっていた。

 いつも、いいわよ、って譲るのだけど、その後必ずと言っていい

ほどお腹を壊すから、もうやめときなさい、ってその都度ママみた

いに言ったわ。でもダメなの。食べちゃう。

 わたくしはヒカルの状態に疑問を持って、リオが親族へ引き取ら

れる以前の事について調べようって決めたの。

 手始めにリオの引き取り先である親族の家でリオと遊びながら、

書斎や倉庫に入ったり、リオの今の両親にそれとなく聞いたり。

 でも意外だった。大人ったら子供には脇が甘くなるの。

 具体的な事は分からなかったけど、リオはこの国で生まれて、何

かの事情で本当の家族と生き別れてしまったの。でも何かの拍子に

特別な能力がある事が分かって、どこかの富豪の計らいでこの国に

戻って来られたって。でも何故か本当の家族のところへは戻る事が

できないまま、今の親族に引き取られたって分かったわ。

 だいぶ迷ったのだけど正直にそれをリオに伝えて、具体的な事を

思い出せるか聞いたら、その時リオは酷い頭痛に襲われて、そこか

ら本人に聞くのは止めたの。

それで、うちの祖父や祖母からも聞き出そうとしたのだけれど、

その事だけは怖い顔をして教えてくれなかった。

 それからもリオが心配で、学園の中等部に入っても、わたくしは

隙を見ては手がかりを捜し続けた。

 それはそうとリオの体調はだいぶ落ち着いて来て、元々食欲旺盛

な性質だったみたいね。中等部に入る頃には、今のようにたくさん

食べても平気になってたわ。

 それはもちろん何より喜ばしい事だし、わたくしが安心し切った

矢先、夏休みに一緒に行った避暑地の帰り、偶然寄った町で、リオ

は突然悲鳴を上げて卒倒したの。

そして、その後の数か月間、元のように調子を崩してしまった。

 それがキッカケで、わたくしはその町を調べ始めたわ。

 そしたらある日、そう、ちょうど今みたいに季節外れの曇りが続

いていた。

その日の帰り道は、何故かリオとも一緒じゃなかったし、迎えの車も来なくて、一人きりだった。

 公園脇の近道を行こうとすると、目の前に二人の男の人が立って

いた。わたくしの直感は、この人たちはすごく厳しい、そしてどこ

か冷たい熱を帯びた仕事をしていると警告していたけど、子供のふ

りをして具体的な事を大人から聞き出さそうとしても、それはもう

とっくに通用しなくなっていた。

 「名瀬河璃生さんの親族の辻本イノチさんだね」

 二人のうちの一人が言った。

 「わたしくの名前、イノチじゃなくて、ミコトって読むのよ」

と、わざと明るく言ったわ。

 「実はそれを知っていて、わざと間違えたんだよ。だって、命っ

て言葉、大事だよね、お嬢さん、いや、辻本家のご息女さま」

 その時、もう一人がそう切り返した。

 それは脅しだって思ったわ。実際に目の前で、確固たる立場の人

たちが、身じろぎもせず、じっとわたくしを睨んでいたから。

 でもそのお陰で、リオに関する今までの調査は、単にわたくしの

空想に過ぎないのではないか、との迷いは吹っ切れたの。

 わたくしは拙いながらも、仮説を立てたわ。

 あの二人の男の人は、わたくしを傷付けたり、さらうような様子は微塵も無かったし、かといって親切な様子も無かったから、何かの公的な組織に属している人たち。それで、リオは乳幼児の時に公的では無い人や組織にさらわれて、さらわれる前はあの町で本来の家族と暮らしていた。でも残念ながら、大切にはされておらず、だからこそ情報が皆無だった。

 そして、うちの親戚筋の養子となったという事は、それなりの拘りの強いルートがあり、一旦外国に行かされてしまったというのはあながち嘘では無く、外国であるのであれば個人ではなく、組織の可能性もある—

 ミコトは呪文を唱えるように話し続け、最後にまたラプサンスーチョンを一口飲んだ。

 ヒカルとマシンの二人はミコトの話に聴き入っていたが、はたと我に返った。

 「確かに今回の件と似てるかも」マシンがミコトの手元を見つめた。「うん」ヒカルは考え込むように生返事をした。

 その時、突然和室の向こうから騒がしい声が響いてきた。

 「あっ、御爺様だわ」ミコトは素早くケータリングの皿を集めると茶室を後にしようとしたが、ヒカルとマシンを振り返った。「お二人も少し急いで。わたくしはリオの様子を見て来ます」

ミコトが出て行くと、ヒカルとマシンは急いで勉強部屋である和室に戻り、何食わぬ顔で参考書を開いた。

 それとほぼ同時に、紋付き袴姿の理事長が和室の障子戸を開いて現れた。理事長はヒカルとマシンの姿を見留めると、手にしていた扇子を開き扇ぎ始めた。

 「……、……、……、……、……、……、……」

無言の圧力は暫く続き、二人の足と脚を痺れさせて行った。

 「……、ところであんたたち、命を見なかったかな?体調を崩して欠席しているようだが」

 理事長が初めて口を開いた。

 「あっ、ミコト、いや、辻本さんは少し体調が良くなってきて、親友の名瀬河さんも体調が悪かったので、様子を見に行っています」

 マシンが機械のように答えた。

 「そうか、……、二人して何か合わない物でも食べたかな。まあ、頑張りなさい」

理事長はそれだけ言うと、さっさと出て行った。

 二人はそれを見届けるとすぐさま脚を崩した。すると、再び障子戸が開き、理事長が姿を現した。

 「伝え忘れたが、担任が合宿最終日に試験を実施するそうだ」

 二人はぎょっとして急いで正座し直すと、精一杯の作り笑顔を浮かべ、行儀よく頷いた。

 後でリオを連れて戻ったミコトは、開口一番ヒカルとマシンに言った。

「祖父は出て行った後、必ず一度戻って来るから気を付けて」

これを聞いた二人は顔を見合わせ、苦笑いした。

「リオ、今日は休めよ。俺たちは取り敢えず予備校行ってくるわ」

ヒカルはそれだけ言うと、どこか茫漠とした様子のリオの回答を待つ事なく、マシンを連れ立ち出掛けて行った。

道中、二人は珍しく黙々と歩いていたが、ふいにマシンが口を開いた。

「なあ、明日からの調査、リオのヤツ、できんのかな?」

「……、毒を持って毒を制す。それがアイツだろ」

ヒカルは前だけ向いて言った。

その時、二人のポケットでディースベイダーのテーマ曲が鳴った。

「あっ、ミカゲだ」二人は同時に言い、歩きながらスマートフォンを取り出し、早速画面に見入った。

⁂ミカゲ あんたらマンション群の事件調べてんだっけ?あんなアンケートとか回りくどい事してないで 刑事がうろうろしてっから その聞き取り拝借したら?

+ヒカル 刑事ってどこにいんの?

⁂ミカゲ 黄色のネクタイしているヤツと水色のチェックのシャツのヤツがいたら そいつを観察しろ

+マシン ミカゲくんなんでも知ってんだね♪ 次回のアプリ 考えがそのまま反映されるヤツにしてみない?

⁂ミカゲ 気が向いたら

+マシン たのむね ありがとう

⁂ミカゲ んじゃ

+ヒカル ありがとう またね

 二人は画面から目を放し、顔を見合わせた。

 「黄色のネクタイ、水色チェック♪」

 二人は鼻歌交じりに予備校に向かった。

その夜、リオの食欲はどうやら元の大食漢に戻り、ミコトが本邸で用意させた夜食をかっ食らっていた。

 ミコトはその様子を満面の笑顔で見守り、ヒカルとマシンは目で合図し合った。

「ミカゲからの連絡を確認した人」

ヒカルは唐突に言うと、自ら挙手した。

「ええ、確認しました」

ミコトが言うと、リオとマシンが遅れて挙手した。

 「明日は終日担当エリアを張り込んで、まずは黄色のネクタイ、水色チェックを見つけるのが先だな」

 リオが早口で言い、最後の一口を放り込んだ。

 それから四人は受験前日以上に気合を入れ、早々に就寝した—

 次の日の早朝、四人は早々に身支度すると、昨日と同様に離れの裏口からそそくさと出掛けて行った。

 「でもさ、ふと思ったんだけど、刑事で黄色のネクタイしてるヤツなんかいる?」

 マシンは歩みを止めないまでも、今気づいたと言わんばかりに眉間に皺を寄せた。

 「そうだけれど、黄色にも色々あるんじゃないかしら。ベージュに近い色とか、模様が黄色とか、ネクタイピンがレモン色とか……」   

ミコトは考えを巡らす様に曇り空を見上げた。

 「そんな事言ったら、水色のチェックのシャツも無いかも」

 ヒカルはポケットからスマートフォンを取り出した。

 「ミカゲに確認する」

+ヒカル 朝からわりいな あのさ例の黄色のネクタイ 水色チェックシャツの刑事って どういう意味?

⁂ミカゲ は?なんのこと?

+マシン 昨日RAINくれたでしょ

⁂ミカゲ オレから?しらねー アンケート?送信してからなんも送ってねー

+マシン なりすましか

⁂ミカゲ システムちがうから

+ヒカル どーいうこと

⁂ミカゲ 今いそがしー 調べるかも じゃ

 ヒカルとマシンは画面から目を放し、歩みを止めた。

「どうする?」二人は同時に言うと、事の次第を見守っていたミコトに目をやった。

「前にも同じ現象あったわよね?」

ミコトは一歩先行くリオに声を掛けようとした。しかし、リオは立ち止まらず、そのままマンション群7棟の遊歩道まで前進して行った。

「見て」リオはどこか茫漠とした様子で、突然一点を指差した。

ようやく追い付いた他の三人が何気なくその指差す方向に目をやると、幼稚園のバスを待つ人だかりから、一人の男児が駆け出した。

よくよく見ると、襟元に黄色の蝶ネクタイの付いたTシャツを着ている。そのすぐ後を追って、どっしりとした母親らしき女がのしのしと駆けて行った。

そしてさらにその後を、グレーのスーツを着込んだ二人の男たちが駆けて行った。

リオは小さく「しっ」と人差し指を口許に立て、男たちの行った方向を差し直し、ついでに早足で歩き出した。

「四人は目立つな。ヒカル頼む」マシンが言うと、ヒカルはリオに追随した。

「ミコト、俺たちは水色チェックシャツを探そう。今はそれしか手がかりが無いから」

マシンはミコトを振り返り、2棟の方へ歩き出した。

7棟付近では、リオとヒカルがそのまま暫く二人の男を尾行すると、男たちは人目に付かない通用口付近で、首尾よくさっきの母親らしき女を取り囲んだ。

リオとヒカルは階段下で鳴りを潜め、三人の声に聞き耳を立てた。

「7棟7階の間鳥さんについてお伺いしたいのですが、捜査協力願えますか?」

男の一人が身分証を女に見せた。

「ええ、分かる範囲なら」女はその周りをぐるぐる回る自分の子に気を取られながら、眉間に皺を寄せた。

「最近間鳥さんの二番目のお子さんの悠さんを見掛けましたか?」

「……、最近って言っても、最後に見たのは一週間前かな。夕飯の後だから、八時くらいだったか、7棟の公園に一人でいたけど。また遅い時間に一人でいるなとは思ったんだけど、私も息子を塾に送るのに急いでて、声も掛けなかったけど……、悠ちゃんいなくなっちゃって、本当だったんですねえ」

女は大袈裟な溜息を吐いた。

「一週間前という七日の火曜日ですか?悠さんはよく一人でいましたか?」

「塾の日だから確かに先週の火曜日です。近所でも意外と知らないもんですけど、悠ちゃん、暗くなっても一人でいるなって事は何回かあったと思います。児童委員さんがおうちを訪問してたって、下の子の幼稚園が一緒だから聞いた事あったし」

「他には?」もう一人の男が静かに聞いた。

「ええと、そうですね、それくらいしか思い出せないですね」

女がまた溜息を吐くと、男二人は軽く会釈してその場を後にしようとした。

「あっ、そういえば、一週間前!」女が突然声を上げた。

「なんですか?」二人の男が振り返った。

「八時くらいに悠ちゃんを見掛けてから、塾の迎えにもう一度公園を通り掛かった時、悠ちゃんはもういなかったと思うけど、見掛けない若い男二人が何かを捜している様子でしたね」

これを聞くと二人の男は顔を見合わせ、踵を返した。

「それは何時くらいですか?その男たちの顔は覚えていますか?」

「九時半頃でしたが、暗がりだったからはっきり分からないんだけど、妙に動きがテキパキしてたから、若いなって思いました。それと何だか……」女は天を仰いだ。

「何だか?」

「そう、なんていうか、ロボットみたいに整ってて、素人じゃない感じのオーラ出てましたね」女はふと苦笑いした。

二人の男は顔を見合わせた。

「またこちらからも連絡させて下さい」

男たちは即座に女と連絡先を交換すると、その場から立ち去った。

物陰に息を殺して潜んでいたリオとヒカルは、抜き足差し足それに続いた。

その頃マシンとミコトは、2棟階下の茂みに隣接したベンチに座り、十メートル先に停車したフードトラックを眺めていた。

洋風総菜を売っているフードトラック店員の二人は、小洒落た水色のチェックのシャツを着こなし、そこを通りがかるマンションの住民にせっせと総菜を売りさばいている。

「動きは無さそうですわね」

ミコトは呟きながら伊達眼鏡のずれを直した。

「あっ」その時不意を衝いたように、フードトラックの前にグレーのスーツの男たちが現れた。

「ここじゃ聞こえませんわね」

ミコトがマシンを見ると、マシンは手に持ったワイヤレスイヤフォンの片方をミコトに手渡した。

「実はあ、予備校帰りにロック爺のとこによって借りた盗聴器、さっきフードトラックの脇に仕掛けて来てましたー」

マシンは小声かつ得意そうに言った。

「えっ、ほんとに?」ミコトは小さく感嘆の声を上げると、早速それを片耳に装着した。すると、少しのノイズと共に女の店員の話す声が徐々に鮮明さを帯びてきた。

「……、その子かどうかは分からないんですけど、親御さんなのかなあ、夕方っていうか夕闇っていうか、かなり長い間叱られてましたね。可哀想だなあと思って」

次に男の声が聞こえてきた。

「七日の火曜日で間違いないですか?それと、この写真に見覚えはありますか?」

「あー、少し暗かったから。でも、この子だとは思います。日は間違いないですよ。先週だったし、このエリアの開店は火曜日なので」

「そうですか。他には何か?」

「八時にはクローズしてしまったので、でもその時にその子は一人でまだ遊歩道の脇の茂みにいましたよ」

店員の一人がマシンとミコトのいる茂みを指差した。

二人は咄嗟に目を反らし、さり気なく視線の合わない方向に身体を動かした。

すると、今度は男の店員の声が聞こえてきた。

「あっ、そうそう、それと、ナミ君って呼ばれてましたよ。すれ違っていた女の子に。あとー、はっきりと見えたわけじゃないけど、裾から見えた脚が異様に細かったですね」

「あっ、それ私も見た。あれ気のせいじゃなかったのね」女の店員が付け足した。

「あ、それと……」女の店員が急に口ごもった。

「まだ何か?」男がどこか詰問調子で聞いた。

「これ、本来親御さんの許可無くやっちゃダメな事なんで、どうかなって思ったんですけど、後で大事になっても困るし、今いっときますね」

「と言うと?」男の怪訝な声がした。

「お腹空かせてたんですよね、その子。背は結構あるのに、妙にやせっぽちだったし。売れ残りのお惣菜、消費時間切れじゃなかったから分けて上げて。でも受け取ってくれてから良かったかなって」

これを聞くと、ミコトとマシンが顔を見合わせた。

その後、男たちとフードトラックの店員たちが連絡先を交換して別れたのが遠目でも分かった。

二人がはたと気が付くと、時刻はとうに昼を回っており、丁度前方からヒカルとリオが引き上げて来るのが見えた

「……、さてと、盗聴器回収に行くか。お嬢様になんかドリンク買って来るけど」

マシンはよっこらしょっと立ち上がると、ミコトに微笑み掛けた。

ミコトもその表情に翳りはあるものの微笑んで、黙って立ち上がった。

四人は辻本邸へ戻る道々、目の前にランチは無いながらランチミーティングを始め、声を抑えて互いの情報を報告し合った。

そして邸の裏口を抜ける頃には明日の予定が定まったが、ふいにミコトの鞄から能楽の着信音が鳴った。

他の三人はぎょっとし、ミコトのスマートフォンを凝視した。

「大丈夫。祖父は今回の件、全く分かっていないわ。ただわたくしの体調を心配しているみたいだから、色々詮索されないように、明日は学校行く事にします。せっかく予定が決まったところなのにごめんなさい」

ミコトはどこか寂しそうに言うと、深々とお辞儀をした。

その後、四人は茶室で遅いランチの時間を取ったが、マシンが何とはなしに切り出した。

「……、あのさ、ロック爺に報告する情報はそれなりに揃ってきて、それはそれでいいんだけど、それにしてもさ、おかしいと思わん?」

「なにが?」リオとヒカルが怪訝な顔をしてマシンを見た。

「だからさ、あれだよ、ミカゲさまのRAIN。ミコトお嬢様に続き、今回はアプリ製作者自体もそのメッセージに覚えが無いわけでしょ?そんな偶然あるか?」

「ええ。未だにわたくしも本当に、何の覚えもなくて……」

ミコトはデザートの苺を口に運ぶ手を止め、眉間に皺を寄せた。

「ミカゲから何か連絡きてたか?」

ヒカルがポケットからスマートフォンを取り出した。

「いや、まだだけどさ。なりすましとか、乗っ取りとか、クラッカーとか、そんなとこ?でも、なんか、こう、もっと違和感があるというか」

マシンは考えを巡らせながら、リオを横目で見た。

「そーいやリオ、お前さ、今日7棟のところで、例の黄色ネクタイTの子ども見つけただろ?そん時、変じゃなかった?なんか、こう、なりすましどころか、憑りつかれてたような」

「は?なんのこと?」リオはローストビーフの塊にかぶりつきながら、マシンを藪にらみした。

「黄色ネクタイT?あたしが見つけたって?そんな事、知らんね」

「えっ」他の三人が一斉に声を上げた。

「……、リオ、余計な事で本当に悪いのだけど、わたくし心配で、以前ほんの少し心理学を調べてみたの。リオ、このところ辛い記憶を呼び覚ましてしまうような件に関わったから、離人症?みたいな症状かしらね?わたくし、祖父や祖母に良い病院紹介してもらうわね?もちろん付き添うつもり」

ミコトは泣き入りそうな目でリオを見つめた。

一方のリオは、小動物がきょとんするような顔をした。

「うーん」その傍らでヒカルが唸った。

「まあ、取り敢えずさ、様子を見よう。ミカゲももうちょっとして気が向けば、原因追及に乗り出すだろうし」

「そう?わたくしちょっと、深刻過ぎたかしら……、ごめんなさいね、リオ」

ミコトは顔を紅潮させ、リオは「ありがと」と微笑んだ。

マシンだけは何か物言いたげな顔をしたが、軽く溜息を吐くと、デザートのマンゴーと共にそれを飲み込んだ。

「じゃ取り敢えずって事で、明日ミコトお嬢ご不在の分、フォーメーションどうする?俺がチームTに加わればいい?」

「それなんだけさ、実はさっき、代理としてとある人物に声を掛けたとこ」

ヒカルはプリンを食べ終わると、満足そうに微笑んだ。

「えっ、だれ?」リオは三つ目のプリンを頬張りながら首を傾げた。

「まあ、行けたらいく、って回答だったけど、来なかったら迎えに行くつもり。万が一来れたら、11棟に住んでるからチームO」

「ああ、つまり幽霊部員のミカゲさまね」

その時、部屋の外から誰かが足早に近付いて来るのが分かった。

四人はぎょっとして茶室から退散しようとしたが、僅差で障子戸が開かれる方が早かった。

「ミコっちゃん、いる?」

ビジネスマン風の女が突然姿を現した。

「あら、レナ姉さま」ミコトが驚いたように、長いまつ毛を瞬きさせた。

「渡航先じゃなかったの?」

「あっ、とーさまだけ残して、一旦戻ったの。それより、コイツが玄関の前をうろついてたんだけどさ、なんか知ってる?」

レナが呆れたように言って振り返ると、その背後から色白で上背のある若い男が現れた。

「あっ」ミコト以外の三人は呆気に取られた顔をした。

「ええっと、どちら様?」ミコトは男の方を見た。

すると、男の方もじっとミコトの顔に見入った。

「あっそっか、ミコトもリオのお守りで臨時的入部だから、幽霊部員に顔合わせできてなかった。これが一年生のザ天才・御影玲君」

ヒカルは何でも無いように紹介した。

しかし肝心のミコトとミカゲは、そこにその二人しか居合わせていないかのように、暫くじっと見つめ合っていた。

「二人の世界……」マシンが挫けたように呟いた。

「ああ、そうですわ。レナ姉さまに似ている。すごく」

ミコトは満面の笑みを浮かべ、唐突に言った。

それに対しミカゲは何も応えず、目は全く笑っていないのに口許に薄っすら笑みを浮かべた。

「こんな継母がいるとたいへんですね、お嬢様」

ミカゲは嫌味っぽく言うと、茶室にどかどかと入って行った。

「あんたねー、場所を弁えなさい」

ミコトの継母の辻本麗奈は、ミカゲの背に向かい檄を飛ばした。

「ミカゲさんて、ニックネームだと思ってたけど、レナ姉さまの別れた息子さん……、わたくし姉妹がいないから、レナ姉さまを運命の姉妹だと思ってるわ」

ミコトがレナとミカゲを交互に見た。

「へー、あんた、こんな世間知らずなヒヨッコ、うまく丸めこんでんだな」

ミカゲはニヤニヤしながら、レナとミコトを見比べた。

「おーいクソ坊主、ミコトはそんなバカじゃないっつうの。中二病は他でやんな!」

リオは既に本気の戦闘モードに入っており、手にしたデザートのホールケーキをミカゲの頭に投げ付ける勢いで叫んだ。

「おい!生クリームは止めろ、なっ」

その傍らでヒカルが思わず叫んだ。

「ふん、相変わらずの大怪獣女、返り討ちにしてくれるわ」

ミカゲは冷たく言い放つと、茶室にあった屏風をリオの頭上にかざした。

「ねえ、お願い止めて」ミコトの身体がわなわなと震え出した。

「あの子たちきっと、普段から何も食べられなかったのよ。あの、事件に巻き込まれた子どもたち。このケーキの一欠片だって、わたくしが食べた苺一粒だって。きっと偽善者だって、沢山の人たちに言われるだろうけど、どうしていいのか分からなくて、本当は吐き出しそうなの。辛いのよ」

ミコトは押し殺した声でやっと言うと、わっと泣き出した。

その様子を見留めた部員の四人は、その場に呆然と立ち尽くした。

事の顛末を見守っていたレナは溜息を吐くと、ミコトを抱きかかえ茶室を後にした。

「ミカゲ、お前のせいだぞ、いや、アタシのせいかも……」

リオはぶっきらぼうに言うと、ホールケーキをそっと卓上に戻した。

「いや、誰のせいでもないよ。気にすんな」

ヒカルはリオの頭をポンポンっと叩くと、その隣にそっと腰を下ろした。

「まっ、しょうがない事もある……、それでミカゲ、今日はどうした?」

マシンがミカゲを見ると、ミカゲはその場に腰を落ち着かせた。

「それが空き時間できたから、アプリの件ちょこっと調べてさ、原因不明というよりは、原因が無いから、一応端末見に来た。ヒカルからここって聞いてたし」

「正面玄関を飄々突破とは、さすがミカゲさまだ。理事長とか居なくて良かったな」

「いや、いたよ。オレのこと見てさ、『麗奈さん、今日はやけに背が高いな』だって」

「えー、あの爺さま、ほんと大丈夫かよー」

「壁に耳あり、障子に目あり」リオが口を挟んだ。

「まあ、端末見せて」ミカゲは早々に他の三人のスマートフォンを調べ始めた。

「それで明日からの調査は、正攻法ではなく、奇襲作戦カッコ盗み聞ぎで行こうと思ってる」

「はー?ノベルティもったいな」リオがまた口を挟んだ。

「それでミカゲ、明日、参加できそうか?」

そう言うヒカルの問い掛けに、ミカゲは「んー?」とだけ生返事で応えた。

その時ふいに、激しく雨が降り出した。とミカゲ以外は思ったが、そこに居合わせたスマートフォン四台の着信音が一斉に鳴り出していた。四人はすぐさま画面に目をやった。

+ミコト 先ほどは取り乱してしまって みんなの方が色々あったのに本当にごめんなさい それと明日の調査なのだけど 今回の件で明日の午後二時から祖父が警察の人たちと接見するらしいの ロック爺からお借りした例のもので それを聞き取る事 できないかしら?

+リオ こっちこそごめん 警察と接見って 場所知ってる?

+ミコト うちの本邸の応接室

+ヒカル 応接室に入れる方法ってある?

+ミコト 応接室の奥が祖父の書斎 明日は午前中から在室予定 隠れる場所もなさそう

+マシン 明日の同席者は 理事長と警察だけ?

+ミコト 祖母が同席予定だったのだけど 心労で倒れてしまって しばらくの間 わたくしが本邸で看護する事になったの レナ姉様がマンション群の方の副理事長で 同席する仮予定ではあるけど

父が渡航先に持参するはずだったデータか何か忘れて 取りに戻ったみたいで そちらに戻る可能性もあるみたい

+ヒカル 情報サンキュー ちょっと考えてみる

 「どうする?」

 ヒカルは画面から目を離すと、他の三人を見た。

 「今回に限り、もう案を思い付いてる」

 「ふーん、それは奇遇、アタシも」

 マシンとリオはほぼ同時にミカゲに目をやった。

 ミカゲはそれに気が付かず、夢中でスマートフォンを操作している。

 「つまりこうだ。この人とあの人は似ているし、お爺様は少しばかりあれだから、化ければバレずに盗聴器どころか、同席できるんじゃねえ?」

 マシンが言うと、ヒカルが「ん?」と首を傾げた。

 「だから、ミカゲとミコトの義母の辻本麗奈は、顔も体形も似てるから、ミカゲが化粧かなんかして、後は背丈を誤魔化せば、事前に盗聴器を仕掛けるのはミコトに頼みたいけど、激しく機械音痴だから、それも含めて、ミカゲが仕掛け、ついでに理事長と警察の接見にも同席し、その時会話以外の資料なんかも閲覧できるんじゃないかって言いたい」

 リオが早口で通訳した。

 「えっ、そうなん?……、しかし、その案には幾つか乗り越えなきゃならない困難があるなあ」

 ヒカルはミカゲに目をやった。

 「だよな。一番面倒なのは一番先に来る、こやつへの説得」

 マシンは頷いた。

 「そうだなあ。オレさまの時間をそんな事に使うなんぞ百年早いわ。だから報酬一時間百万円ね」

 スマートフォンから目を離さないまま、いつの間にか聞き耳を立てていたミカゲが口を開いた。

「はあ?人の足元みやがって」リオがむっとしてミカゲを睨んだ。

 「ん?いいわけ?その態度?」ミカゲが鼻で笑った。

 そして、「あっ、でも」と付け足した。

 「え?何か?」ヒカルとマシンが同時に言った。

「オレすでに金いっぱい持ってんだった。いらねえや。でも……」

「このオ、勿体ぶりやがって。だから、何?」リオが藪にらみした。

「……、ミコっちゃんだっけ?オレ、あの女と二人きりになりたいなあ」

 ミカゲは言いながら、満面の笑みを浮かべた。

 「はあ?」リオは更に藪にらみを深め、マシンは青ざめた。

 「ミカゲさまったら、ミコっちゃんはピュアなわけ。だから、ミカゲさまの毒牙にはかけられないさ」

 マシンは引き攣った笑顔を作った。

 「オレ、顔もいいし、頭もいいし、運動神経もいいし、歌もうまいし、金持ちだし、悪いって言われるのは性格ぐらいだしさ、女の一人や二人、いや三人?それ以上?軽く面倒みられるしさ」

 ミカゲは上機嫌で付け足した。

 「いや、だからあ」マシンは泣き出しそうな声を出した。

「……、まあ、マシン、ここは落ち着こう。二人きりって言っても、ミコトは馬鹿じゃないしさ。ミコトを信じよう」

 ヒカルがマシンの肩を叩いた。

 「ヒカル、お前裏切り者」リオは今度はヒカルを睨んだ。するとヒカルはリオを和室に連れ出し耳打ちした。

 「まあ、ここは収めて。今回はミカゲに協力してもらうのが優先だろう?そうでなくてもミカゲは時間無そうだし、未だ子どもなんだ。後から何だかんだいって引き延ばして、約束自体忘れさせるか反故にすればいいよ」

 「ヒカル、お前が一番悪い奴よのう」リオは呆れたように溜息を吐いた。

 ヒカルとリオが茶室に戻ると、マシンは情けない表情で俯き、ミカゲは鼻歌交じりにスマートフォンをいじっていた。

 「やっぱり原因不明だな。万が一ハッキングなら裏組織に属するレベルだけど、子ども用連絡ツールを監視してどうすんだか……」ミカゲは呟いて鼻で笑った。

 一方ヒカルは、看護中のはずのミコトに早々に連絡した。

+ヒカル 手いっぱいの時に悪い 明日 レナさんがミコトの父さんのとこに戻るか 理事長と同席するか 分かったら教えてくれる?

+ミコト それならもう分かってるわ レナ姉様はもう出発したの 

+ヒカル そのこと理事長知ってる?

+ミコト 急に呼び出されたから まだ知らないでしょうね

+ヒカル 明日 ミカゲがレナさんに化ける予定

+ミコト まあ びっくりだけど レナ姉様の不在 祖父には伏せておくわね きっとミカゲさんには良い薬♪

 「なにげにみんな、ミカゲに厳しいな」ヒカルは苦笑いし、画面から目を放した。

 それから四人は数日前と同じように百貨店に向かい、ミカゲの文句とわがままと気まぐれに翻弄されながら、何とか化粧道具、衣装を揃えた。

 「オレ、結構化粧うまいでしょ?」

 ミカゲは案外乗り気でリハーサルを行った。

 「さすがミカゲさま、なんかデビューとかできそう」

 苦虫をつぶしたような顔のリオを横目に、ヒカルとマシンは終始ミカゲの使用人か付き人のように振舞った。

 その夜、ヒカルとマシンはミカゲを合宿場所に何とか足止めすると、一時間ほど掛けて盗聴器のテストをした。

 「ノイズも最小限に抑えたし、これで明日は何とかなりそうだな」

 ヒカルとマシンは満足そうに微笑むと、早々に自室に引き上げて行った。

 リオは未だ不服そうな様子ではあったが、自分も自室に引き上げようと立ち上がり、居眠りしているミカゲの脇を通った。

 その時、ミカゲの手元に置かれたスマートフォンが振動した。

 ふと、その画面が一瞬リオの目に入った。

 「……、まさかね」

 リオはそう呟くと、いかにも眠そうに大きな欠伸をし、そのまま茶室を後にした—

 次の日もどんよりとした空模様の朝を迎えた。

 一方、天気男の典型のようなヒカルとマシンは、興奮気味にこの日を迎え、いそいそとミカゲの眠る茶室に集合した。

 二人は満面の愛想笑いを浮かべ、より豪華に見えるケータリングの皿にミカゲの好きな鴨肉のパイやカマトロなどを厳選して並べ、嫌いな野菜は排除し、その目前に恭しく配膳した。

 「えー、知らなかったけえ?オレ朝食べれないんだよねえ。でもオレ、抹茶好きなんだから、ここ茶室だし、お茶を点ててくんない?」

 ミカゲはスマートフォン画面から、ちらりとだけ皿を見て言った。

 「はあ?あんた、どんだけめんどくさ……」リオがまたミカゲに掴みかかりそうな様子を見せたため、ヒカルとマシンは慌ててリオを隣室に運んで行った。

 「リオ、もう少しの我慢だ。しかし茶を点てるのは俺たちには無理だ。だからお前が点ててくれ」

 二人はリオに先ほどの皿を差し出し懇願した。

 「あー、もお、用が済んだら覚えとけよ」

 リオは怒り心頭で茶室に戻ると、以前ミコトの茶会に付き合った時の見よう見まねで茶を点て、ミカゲに茶を差し出した。

するとミカゲは片手で茶器を持ち上げ、ほんの一口だけ飲むと、次の瞬間には興味を失くしたように茶器をリオの足元に置き、そのまま置きっぱなしにした。

 「こいつ、なめやがって」リオはマックス状態の怒りを抑えながら呟き、自分の皿を抱えるように持つと、そのままガツガツと食べ始めた。

 「それでミカゲ、今日は行けそうか?」

 ヒカルは力無くカフェオレを啜ると、上目遣いでミカゲを見た。

 「うん、一応ね。あと、オレ、午前中ちょっと出て来るわ」

 ミカゲはスマートフォンから目を離さず、気だるそうに言った。

 「ふうん?どこへ?二時の準備に間に合う?」

 マシンも上目遣いにミカゲを見た。

 「うん、なんとかね」ミカゲはそれだけ言うと、それ以降考え事をするかのように黙り込み、その十五分後にはふらっと出掛けて行った。

 「あいつ、ほんとに時間通り戻って来るんかな?」

 マシンはミカゲを見送った後、ヒカルにぼやいた。

 「もし間に合わなかったら、ミコトは学校行ってるし、今から盗聴器の設置は頼めないぞ」

「となると、何とか俺らで応接室に忍び込んで仕掛けよう。それまでは時間潰しに、いや本来の、勉学に励みましょ」

 ヒカルは溜息交じりに言った。

 それから三人は、ごく大人しく勉強部屋である和室で黙々と過ご

した。

そして瞬く間に午前中は過ぎ去り昼の時間となったが、未だミカ

ゲは姿を現さず、ヒカルとマシンはそわそわし出した。

 「タイムリミットはいつにすんの?」

二人の様子に勘づき、リオが横槍を入れた。

 「そうだな。どうする?」ヒカルがマシンを見た。

 「そうだなあ、取り敢えず、返信きたかな?」マシンがスマートフォンの画面に目をやった。

 「来ないかぁ、……、タイムリミットは、一時四十五分?」ヒカルが言った。

 「それ、ぎりぎり過ぎでしょ」リオは手元でシャープペンシルをくるくると回しながら一蹴した。

 「うーん、一時三十分?」マシンが眉間に皺を寄せた。

 「あのさ、応接室に忍び込みチャンスは、理事長が奥にある書斎から出て来ないタイミングか、もしくは書斎や応接室から出て行ったタイミングなわけ。ランチはデスクや応接室で食べる可能性がゼロじゃない。間取りまで確認はしなかったけど、そーなると、どーするのが妥当な範囲?」

 リオが早口で言い出した。

 「えーっと、つまり……」ヒカルとマシンが天を仰いだ。

 「だから、応接室の中には設置の無い可能性の高い場所は?」

 「設置の無い?金持ちだけど、応接室には無いとなると、パニックルームとか地下に造るオーディオルーム?」

 「はあ?まあそれもあるかもだけど、稼働時間でも離席する可能性があるのは、トイレなわけ」

 リオはイライラを隠し切れず、より早口になった。

 「んで、人によって、トイレは近いとか遠いとかあるわけね。だから不在のうちに応接室に忍び込むには一時間以上はあった方がいいから、ミカゲを待つタイムリミットは二時より一時間以上は必要なわけね」

リオは一気に言い、ここで息を切らせた。

 「それで?」ヒカルとマシンが呑気な調子ながら続きを急いだ。

 「でも、昼の休憩時間にトイレに行ったら、その後一時間以上トイレに行かない可能性もあるわけね。だから、ジャストナウなわけ」

 「……、まあ、言われてみればそうだな。幸い俺たちが自宅に戻る際は、中庭を抜けて本邸を通っても不自然では無い。どうする?」

 マシンがヒカルを見た。

 「……、まさにジャストナウだな。三人だと目立つから、取り敢えずマシンと俺で行って、マシンが見張って、俺応接室に入って盗聴器を設置する。それでどお?」

 ヒカルはリオにつられ、早口で言った。

 「ふん、なんか不備がありそうでしょうがないけど、時間が無いからそれでいい」リオは鼻息荒く言った。

 「それとさ、ミカゲなんだけど……、ヒカルの兄さんって、下の名前なんだったけ?」

 「理科の理に人間の人で、リヒト、なんで今それ?」

 ヒカルが首を傾げた。

 「あー、いいや、ミカゲが来なかったら後で言う」

 リオは面倒そうに手を振った。

 「おう、じゃあマシン行こう」

 ヒカルは盗聴器を参考書に紛らわせてバックパックに入れると、マシンを連れ立って出て行った。

 辻本邸の離れである別邸と本邸は通路で繋がっていない替わりに、中庭を隔てたそれぞれの通用口があった。

 ヒカルとマシンは本邸の通用口から正面玄関に繋がる廊下の様子を覗ったが、そこには誰の姿も見受けられなかった。二人は安堵し、そこから本邸に入り、ひと際豪華な扉となっているのが特徴の応接室付近まで前進すると、階段下の物置に一旦身を潜めた。

二人がその中から応接室の様子を覗っていると、程なくして応接室脇の書斎のドアが開き、理事長がそそくさと出て行った。

「ふうん、リオのヤツ読みが良かったな」ヒカルとマシンは小声

で合図し合い、理事長の背が遠のくのを見届けると、ヒカルはそこからそっと抜け出した。

 そしてほとんど音を立てずに応接室の前まで辿り着き、周囲を見計らうと、突然背後から声がした。

 「あんた、勉強の方はどうだね?」

 ヒカルは冷や汗をかきながら声の主を振り返り、その顔に作り笑いを浮かべた。

 「そういや理事長は必ず一回戻って来るんだってミコトが言ってたような……」物置で見張りを続行していたマシンが青ざめた。

 「ちょっと書斎に痔の薬……、あっいや、忘れ物をして、ちょっとトイレに行って来るから、応接室で待ってなさい。合宿明けテストの傾向と対策のプリント、担任から預かっているから」

 理事長は二人の計画など露知らず機嫌よく言うと、ヒカルを応接室に招き入れた。

 「まっ、結果オーライ?」マシンはヒカルにこっそりゴーサインを出し、ヒカルは言われるがまま応接室に入った。そしてガラス張りのテーブルセットに腰を下ろすと、理事長が出て行った隙を突き、盗聴器を応接室と書斎の二箇所セットした。

 その後トイレから戻った理事長は、そこで一緒に昼食をとるようヒカルに提案した。ヒカルはまた引き攣った笑顔を浮かべながら、成り行きで理事長とオムライスを食べた。

 午後一時三十分になった。

 「あー、あんた、私はこれから来客があるから、これプリント持って行きなさい」

 理事長は終始にこやかにヒカルを見送った。

 「おじーちゃんごめんね」ヒカルは心の中だけで呟くと、最後まで引き攣った笑顔のまま、マシンと共に離れへと踵を返した。

 「どーだった?ミカゲのヤツは予想通り戻って来てないけど」

昼食も食べ過ぎたリオが気だるそうな声を出した。

 「予定通りには行かなかったけど、設置はできた」

 ヒカルとマシンが幼児のするようにVサインを出した。

 「ご苦労さん」リオは緩慢な動きながら、茶室の周辺に他に誰もいない事を念入りに確認すると、受信機のスピーカーをオンにした。

 それから暫くはスピーカーから理事長の歯磨きや電話で話す声が聞こえていたが、午後二時五分前、応接室に誰かが入って来るのが分かった。

 「多分二人だな」ヒカルはスピーカーから聞こえる音に聴き入りながら呟いた。

 開口一番、来訪者が言った。「理事長、今日はお忙しいところお邪魔してすみません」

 次に違う声が言った。「早速なのですがマンション群の行方不明者の件で、ご協力をお願います」

 次に理事長らしき声が聞こえた。

「ええ、ええ、もちろん。ちょっと待って下さい。お茶がまだのようだ。今秘書に電話しますので。コーヒーと緑茶と紅茶とソフトドリンクの類いと、あとホットとかアイスとか、何がいいですかな?」

 再度来訪者が言った。「いや、お構いなく」

 「改めてお聞きしたかったのは、マンション住民からの聞き取りの内容なのです。こちらの情報とすり合わせをしたいので、ご存知の範囲で教えていただけますか?」

 「ええ、ええ、もちろんですとも。それと、丁度明日一日使って、十一棟各棟で防犯についての住民会をやる予定です。警察の方も臨席していただければと思いますが」

 理事長が言った。

 「分かりました。そちらにも人員を配置します」

 「それはどうも。今日はすみませんね、本来会長である家内も一緒にと思ったんですが、体調を崩して結局検査入院する予定になりました。まあ、どちらかと言うと家内はお飾りなんでね、私の方でと思って」

 「それは大変でした」一人の来訪者が言った。

 「それで早速ですが」もう一人の来訪者が言った。

 「ああ、はいはい。それで、なにせ規模が規模で、全部の住民から聞き取るのは難しいので、回覧板で防犯のための無記名アンケート用紙を配布しました。因みに回収方法は、郵便の後納封筒をそれに付けて。これは今日の午前までに届いた分の回答用紙の原本です」

 すると、理事長の声と共に、スピーカーのガサガサしたノイズが流れた。

 来訪者の声がした。「ざっと千通はありますが、読まれましたか?」

 「ええ。ええ。叶うなら書いた者に会ってお説教でもしたくなるくらいの悪筆も中にはありましたねえ。しかし事が事なので、老いた目に鞭打って、全部目を通しました。また棟ナンバーは入っているにせよ、所詮無記名なんで、警察にとっての証拠か何かにお役に立てるか分かりませんが。ただ、冷やかしの類はありませんでした。それなりに身分がしっかりした住民の集まりなので」

 これを聞いたリオは、「ふーん?」と呟いた。

 「ええ、そうでしょうね。それで内容はどうでした?」入室者の一人が畳みかけるように言った。

 「それが千差万別とはよく言ったもので、千通ほどの中には、全然本件とは関係無い、クレームや悩み相談、近隣住民への悪口、行政への不満なんかもありましたが、共通する部分は確かにありました」

 「共通する部分とは?」両方の来訪者が声を揃えた。

 「ええ、ええ、ご存知かとも思いますが、被害の疑いのある園児と児童へは住民から何回か通報があって、児相との関わりがあったようです。それと、毎年度夏季長期休業中にCS諸島海外語学プログラムを実施しているんですが、名簿を確認したら、全員が二年前の参加者でした。その全員が他のマンション住民の保護者から、強い推薦があっての参加だったとの事です」

 理事長の声は何回か途切れ途切れとなったが、それを聞いたリオたち三人は思わず顔を見合わせた。

 「他にお気付きの点はありますか?」再度一人の来訪者が畳みかけるように聞いた。

 「ええ、ええ、それと、その子どもらについて、最後に目撃したのは、今月の七日の火曜日の夜、マンション群の中心に立っている5棟の公園近くの空き地で、との意見と言いますか、証言が目立っていましたね」

 理事長は言いながら、「ふああ」と欠伸をした。「ああ、これは失礼。昼食を食べ過ぎましたな」

 「いえいえ、その他にも何か?」来訪者が再々畳みかけた。

 「ええっと、そういえば、今回の件と関係あるのか、どこかの企業の防災グッズの訪問販売員が来ていたらしいですが、事件でも何でもビジネスに結び付けようとして、まったく商魂たくましいもんですなあ」

 「ええ、まあ」来訪者の一人と、スピーカー越しに聞いている三人が同じように苦笑いした。

 その後暫くは理事長の独断調での世間話が続き、警察からの来訪者は足早に引き上げて行った。

 「明日の住民会の内容も入手した方がいいな」

 スピーカーをオフにしながら、ヒカルは他の二人を振り返った。

 「そうだな。ミコトが帰ったら時間を聞いてみよう」

 マシンが頷いた。

 「それと、さっきのどう思う?」ヒカルがその目に光を灯した。

 「海外プログラムの事?二年前って、アタシたちが引率のバイトした年度だなあとは思った」リオは遠くを見るような目をした。

 「でも、あん時確か、小学生だけで七十人以上いただろ?さすがに全員は覚えてないな」

マシンが眉間に皺を寄せた。

 「まあそうだな」ヒカルが溜息を吐いた。そして付け足した。

 「それはそうと、リオ、俺の兄貴がどうとか言ってなかった?」

 「それなんだけどさ」リオは珍しく遠慮がちに話し出した。

 「昨日の夜、あんたたちが部屋に引き上げたすぐ後にさ、アタシも眠くて、ミカゲが寝落ちしている脇を通ってしまったわけ」

 「はあ?」ヒカルとマシンは首を傾げた。

 「そしたらミカゲのスマホがバイブして、一瞬そこに名前が表示されたわけ」リオがヒカルをまじまじと見た。

 「で、つまり、その名前が兄貴のだったってわけ?」

 ヒカルが瞬きした。

 「うん。『刀禰理人』って確かに表示されてた」

 「どーいうこと?ミカゲ謎過ぎ」マシンが呆れたように溜息を吐いた。

 「それなんだよ。今日の約束も結局破って、どこほっつき歩いてんだか分からず終い。そもそもミカゲってさ、普段から学校来ないで何してると思う?そりゃアイツにしてみれば今日の件も約束した覚えは無いし、学校も飛び級でもして、さっさと卒業させろって事かも知れないけど、それにしても、ゲームソフトでもつくってそうでいて、家に居る感じでもない、かといって出歩いてる感じも無い」 

リオはさも深刻そうに考えを巡らせた。

 「そう改めて言われてみると、うちの兄貴も似たところあるのかも。IT系の企業勤めとかで普段在宅勤務だけど、かといって家にだけ居る感じじゃないし、何か会社に内緒で副業とかやってそう」

 ヒカルは一人で腑に落ちた。

 「そうだな。ミカゲがやりそうな事はつまり金儲けだよ。きっとそこで繋がってるはず……、でも、その二人、実は付き合ってたなんて事だったらどうする?」

 マシンが盗聴器セットを片付けていた手を止めた。

 「まさか、理人はなんていうか、そりゃ兄弟でもプライベートはあるだろうけど、ほぼほぼそういう色気みたいのはないよ。あの人は人生自体がビジネスライク。まあ、大学卒業と同時に親が死んで俺を育てるハメになったから、そのせいだろうけど……」

 ヒカルが遠い目をした。

 「盗聴器って何セット借りたわけ?ロック爺には調査報告してる?」リオの目に光が灯った。

 「一応予備に何セットも借りてる。報告は毎日してる。あるだけの情報」ヒカルが頷いた。

「今の時点でもまあまあ情報提供出来たんじゃない?」

「ああ、まあまあね。バイト代が期待できるくらい」

ヒカルはリオを横目で捉え「何企んでんの?」と付け足した。

 「アタシ、並行してミカゲの素行調査もしておこうかなって」

 「はあ?何で?」ヒカルとマシンが呆れ切った声を出した。

 「ちょっと考えてみたんだけど、あのお人好しのミコトを守れるのは、その真逆なヤツの方がいいんじゃないかとも考え直したんだ。悔しいけど、実際ミカゲは将来も勝ち組だろうし」

 リオはごく真面目に説明した。

「なんでお前が勝手にお嬢の将来を決めようとしてるんだ」

 鞄の中身の整理を始めていたマシンは、さも不服そうにリオを睨んだ。

 「マシン、あんたが嫉妬する気持ちは分からないでもないよ。でもさ、今後もしミコトとミカゲが付き合う事になって、付き合ってからミカゲの悪事が露呈したらどうする?本来事前に阻止すべきじゃない?」

 リオはあくまでも大真面目に言った。

 マシンは苦虫をつぶしたような顔をし、それに応じなかった。

 その場に居るはずのヒカルはヒカルで、全く別の事に思いを馳せていた。

 マンション群5棟のヒカルの家。兄の理人はヒカルに、ローンは全額返済し、ヒカルの大学資金も準備してあるから、アルバイトはせずに安心して受験勉強をしていろ、と言った。予備校の費用も一括で支払ってくれた。母親はローンを支払い終えていたのだろうか?もしかすると病死した時の生命保険で完済したのだろうか?しかし身体が弱くパート勤めだった母親は、はたして高額な保険に加入していたのだろうか?

 年の離れた兄。理人が大学を卒業した年、ヒカルは小学校五年生だった。

 住居の維持費はマンション管理費・修繕積立・固定資産税等各種税金・駐車場代等々維持費、日々の食費、水道光熱費、スマホ本体と通信費、保険各種、その他雑費、ヒカルの学費、給食費、その他学校で掛かるあらゆる費用、車の購入代、保険料、そしてまた税金、家電の買換え、あらゆる嗜好品、流行りのゲームソフト、ゲーム機器、タブレット……もとい、ゲームソフト&ゲームソフト、理人は必要な費用をきっちりと支払った上で、ヒカルの望む範囲であったとしても、最新のものをいつも用意してくれてきた。

 でも実際、どうやったんだ?母親より先に、既にこの世にいなかった父親が財産でも遺していたのだろうか?

 そして理人自身が大学の新卒だった頃にはどうしていたんだろう?

 在宅勤務中、理人はリビングで過ごす。

そういや理人の部屋ってどんな部屋だ?家のあらゆる清掃は何年も前から理人の担当だから、ヒカルの部屋に理人が入る事があってもその逆は無い。

最初で最後、理人の部屋に入ったのは、確か小学校六年生の時だ。

ゲームソフトを友だちに貸したのを忘れていて、理人が自分の部屋に持って行ったのだと勝手に思い込んだ。

あの時、何か見たか?何か知ったか?

全く覚えていない。

そうだ、あの日、理人は不在にしていたのに、帰宅した途端、むやみに人の部屋に入っては駄目だ、と言ったんだ。

あれは、帰宅する前に既に部屋に入った事を知ってたって事なのか?もしかして、防犯用か何かの監視カメラを設置していたのか?そして今も設置しているのか?

マンション一階の管理員室前にも防犯カメラはあるし、各階のセキュリティは万全だ。

それでも心配になるほど財産でもあるのか?

あるいは、持ち歩けない情報とか?

ヒカルは、リオとマシンが大声で喧嘩をする傍ら、独り眉間に皺を寄せ考え込んでいた。

「ヒカル、おーい、ヒカル、ヒカルってば」

リオとマシンが盛んに呼ぶ声に、ヒカルははたと我に返った。

「ヒカルどうした?魂がここにありませんってな顔してるから」

リオとマシンが怪訝そうにヒカルの顔を覗き込んだ。

「あっ、いやさ、別に。まあ、喧嘩すんなよ」

ヒカルは未だ半分以上ここに心有らずの状態のまま言った。

「もしかしてお兄さんのこと?余計な事言ったね。でも隠すのも良くはないよね?」

リオは珍しく人の顔色を窺いながら切り出した。

「ねえ、変だと思わない?お兄さんとミカゲがリンクしてるのって。調べてみる価値あると思うんだけど」

「……、でも、どうやって?」ヒカルはまた遠い目をした。

「お兄さんの部屋って入れそう?」

「それは、だいぶガードが固そうだな」

「そうだろうと思う」マシンが妙に納得して頷いた。

「隙があるのは、まだミカゲの方だろうな。奴は未だ赤子のようだ。だからお嬢を守るなんて所詮無理、絶対無理」

「ふうん、まあ隙を狙うさ」リオが挑戦的に言った。

「いや、待て。今日って何曜日?」ふいにヒカルが聞いた。

「水曜日」リオとマシンが声を合わせた。

「理人が出張とかで家にはいない日だ」

ヒカルはまたはたと我に返ったようにリオを見た。

「ヒカル、リオの思い付きに振り回されるな。どうせ何も出て来ないか、理人さんを怒らせるだけだ」

マシンが眉間に皺を寄せた。

「でも正直、確かに気になる事があるんだ。一時間で帰って来るから。ミコトがこっちに顔出したら、明日の住民会の件、聞いておいてくれ」

ヒカルは立ち上がると、リオを見た。

「よし、アタシも行く」

 マシンは大きく溜息を吐くとそれ以上何も言わず、黙って二人を見送った。

 ヒカルとリオは、程なくヒカルの住居であるマンション群5棟503号室に着いた。「リオ、一応靴は持って行こう」ヒカルはリオを振り返り、ヒカル自身も自分のスニーカーを持ち上げた。

 そして理人の部屋の前まで来ると、「鍵は掛けてないと思う」と小声で言い、ドアノブに手を掛けた。

 その部屋は少し殺風景ながら、すっきりと片付いていた。

 引き出しの無いデスク、デスクと揃いのチェア、折り畳み式のベッド、同じ色調の服と靴下、アンダーウェアが並んだクローゼット、ほんの気持ちばかりの貴重品入れ……。

 「でもさ、断捨離したばっかでも、ここまですっきりしてるもんかな?まるでいつでも逃げ出せるようにしてるみたい」

リオがヒカルの背後で言った。

 「ああ。分かり易いヒントが無さそうだな……、戻る?」

 ヒカルが小さく溜息を吐いた。

 その時、玄関の方で人の入って来る気配がした。

 ヒカルとリオは極力音を立てず素早く理人の部屋を出ると、リビングに隣接したヒカルの部屋に逃げ込んだ。

 そのすぐ後、玄関からリビングに繋がる廊下を理人が歩いて来た。

 理人がリビングのソファにビジネスバッグを置くと、スーツのポケットでスマートフォンの着信音が鳴った。

 理人はすぐさまその電話に出ると、聞き慣れない言語を流暢に話し始めた。隣室の二人はほんの数ミリドアを開け、聞き耳を立てた。

 そして理人は一通り話し終え電話を切ると、ヒカルには見せた事の無い険しい顔をし、そのまま素早く引き返して行った。

 二人は無言のまま迷い猫のように玄関ドアから這い出ると、非常口を通って一階まで行き、裏口から外に出た。

 それから人気の無い階段下まで来ると、ようやく口を開いた。

 「ねっ、何語話してた?」リオがヒカルを食い入るように見た。

 「ハーメルン?ハメルンて、何回か言ってたよな?」

ヒカルが力無く言った。

 リオはポンっと一回だけヒカルの肩を叩いた。

 「それだけはドイツ語?だったよね?しっかりしな、お兄さんはあんたが不安がってるような悪事はしてない。ただ、ちょっと深刻な仕事をしてそうなだけ。それにしてもあんたの部屋、オタク臭っていうか、ミツリンの段ボールだらけだった。今度一緒に片してやるからさ」

 リオは軽く溜息を吐くと、ヒカルを促して辻本邸に踵を返した。

 辻本邸の離れに戻ると、ミコトはとっくに学校から戻って来ていた。ミコトはマシンから事情を聞いているのか、黙ったままただ二人を見守るような視線を送った。

 「明日の住民会の件なんだけど、1棟から10棟の合同で、代表者が5棟の会議室に十時から集まるそうよ」

 「出席が10棟までって事は、いなくなったのは一棟に一人、全部で十人だから、つまり行方不明者が出なかったのは11棟だったって事か……、ミカゲの住処のある……」

 リオが考え込んだ。

 「会議が午前中だからどうする?準備するなら、今日か明日の早朝」

 ミコトの傍らに居たマシンが口を挟んだ。

 「……、じゃあ、今日だな。5棟なら俺住民だから、管理人に荷物置かせてとか何とか言って盗聴器セットしてくるわ」

 ヒカルはまたここに心有らずのまま、荷物の準備を始めた。

 「ヒカル、待って、俺も行くから」

 マシンはヒカルを手助けし、程なく二人は5棟に出掛けて行った。

 リオは二人を見送ると、ミコトを振り返った。

 「アタシさ、ロック爺のとこ、行ってみようかな」

 ミコトは何も言わずただ頷いた。

 リオとミコトはほんの数日前通ったはずの道を迷いながら進み、電光掲示板「フェス」を見つけた。その夜のための標は、日の当たる時間には全ての力を失ったように薄汚れみすぼらしい風貌をしていた。それでも二人はそれを見つけられた事に満足し、早速地下を下って行った。

 ドアの前まで着くと、まずミコトが家の使用人たちがやるように四回ノックを繰り返した。しかし中からは何の反応も無いため、リオはミコトのそれをそっと制止し、ヒカルのやった見よう見まねでエイトビートを刻んでみた。

 すると、意外な程すんなりとそのドアは開けられた。

 「今日はどうしたのかな?」

 ロック爺は微笑みながら、目の前の女子二人に氷の入ったソフトドリンクを勧めた。

 「このところ奇妙な事ばかりです」

 堰を切ったようにリオが話し出した。

 「あなたに雇ってもらったのは有難いばっかりなんですけど、アタシたち専用アプリに先を見透かしたような指令が来て、まあそのお陰で少しは成果が出るんですけど。アタシ自身も変だったり、ヒカルの兄さんは何か秘密があるようだし」

 リオはグラスの氷からロック爺に目を移した。

 「ハメルンて何でしょう?何か知ってる事はありませんか?」

 リオの射ぬくような視線に、ロック爺は合点がいったように頷いた。

「話す前に一口よろしいかな?」

ロック爺は徐にロッカーからウイスキーを出すと、デスクの上のグラスにほんの少し注いで一口飲んだ。

「伝えられる範囲の事は伝えよう。君たちに頼んだ件には大本の依頼人がいる。それは個人では無い。それと、個人としての依頼人もいる。それは今君たちの目の前に居る、この老人だよ」

「一体、どういうことですの?」

ミコトが長いまつ毛を瞬きさせた。

「ヒカルが拾ったという紙切れを覚えているかい?」

「交霊会の時に使った、あの詩の書いてある、あれですか?」

リオも瞬きした。

「そう。あれは、元々は私が持っていたものだ。肌身離さず持っていたから、もっとボロボロだったはずなんだが、実に奇妙な事に、ヒカルが持っていたものは、新しくなったというよりは、それを受け取った時に戻った状態だった」

ロック爺は暗い海を彷徨うような遠い目をし、グラスのウイスキーをゆらゆらと揺らした。

「それでもあの紙、少し千切れているようにも見えたけど、元々は誰から受取ったものなんですか?」

リオの声が微かに震えた。

「私の孫の遺品なんだ。ここから一万三千キロ以上ある場所から船便で届いた。私が失くしたそれが、ヒカルによって再び齎された。だから君たちに頼む事にした」

リオとミコトは一瞬声を失くしたようにその場に佇み、その目はロック爺を見守っていた。

「ハメルンというのは隠語だよ。どちらかというと、取り締まる側が使う」

ロック爺が何気なく付け足した言葉に、リオとミコトは顔を見合わせた。

「ああ、それとこれをヒカルに渡してほしい。メッセージ付きだ」

ロック爺はそう言うと胸ポケットから灰色の封筒を出し、二人にそっと手渡した。

その頃、ヒカルとマシンはマンション群5棟の管理員室に依頼し、会議室にコピー用紙を運び入れていた。

「これも経費の内だな」マシンが軽口を叩いた。

「まあな」ヒカルは相変わらず心ここにあらずのまま応え、搬入が終わると、さり気なく盗聴器をセットした。

「こんな事に慣れちまって、俺たち将来探偵か何かかな」

マシンがまた軽口を叩いた。

「犯罪者の方じゃないといいな」ヒカルはどこか力無く言った。

「ヒカル、理人さんの事、信じようぜ?」

マシンは唐突に恥も外聞も振り切った変顔を作り、ヒカルの顔を覗き込んだ。

ヒカルはそれを目にすると我に返ったように大笑いし出し、二人はふざけ合いながら5棟を後にした。

その夜、予備校に行く予定だったのはヒカルだけだった。

ヒカルが授業を終えて校舎を出ると、意外な人物がヒカルに近付いて来た。

薗島真理だった。上背のあるヒカルともリオのように背伸びせずに視線が合った。近付くと良い香りがして、ヒカルは少し眩暈を覚えた。きっと自分の後ろに立つ誰かを見ているのだろうと思い、振り返った。しかし誰もいない。次に真理がヒカルの名を口にした時、初めてヒカル自身に用があるのだと確信した。

「隣のクラスだよね?」

真理が微笑むと、天性の華ある薫り高い花々がその場に咲き誇るようだった。

ふとその一瞬、ヒカルはその場にいながら虚空に居るような感覚を覚えた。

ヒカルの日常から圧倒的にその思考を支配し、神出鬼没にヒカルの心身と魂レベルに想起される者として、現時点で目の前に実存するこの対象と比較した場合、同じ人間であるのに、「腐れ縁のリオ」、別名・名瀬河璃生とは、俺にとってどういう存在なんだろう?

真理が稀有な品種の薔薇なら、リオはそこら中を散らかす様に

生息している雑草?しかも高慢ちきで乱暴でせっかちで拝金主義でドライでひたすら大食いで、優しさも友情もあるようなないような、やっぱり良くも悪くも飼い馴らせない野生の雑草?

いや待てよ、それでもリオは俺にとってきっと価値の高い雑草なんだ。例えばシロツメクサ。呆れるほど馬鹿で小憎たらしい時もあるけど、存在しないと俺自身の自己も自我も確立しない、幸運を呼ぶいとしいクローバー。

ヒカルは自分の心と頭が混乱している事にはたと気が付き、改めて真理をまじまじと見た。

「あの、何か?」

ヒカルはぎこちなくビジネスライクに微笑み返した。

「急にごめんなさい。実は私、刀禰君のやってるオカルト研究会?に興味あったんだけど、父が顧問て言うのも気まずかったし、なんとなく聞きそびれてきたんだけど、今回テニス部も引退したし、この機会に今度ゆっくり内容を聞かせてほしいなって思って」

真理はまた微笑み、ヒカルの腕にさり気なく手を添えた。

ヒカルは一瞬のときめきや憧れを抱きながらも、奇妙な感覚のまま、その煮え切れない頭をフル回転させた。

さすが学園ヒエラルキートップクラス。この女は見た目だけじゃなくて、コミュ力もあるんだ。相手の懐に実に鮮やかに自ら飛び込んで、そのテリトリーに相手を取り込もうとする。ちなみにオカルト研究会ではないけど、少し天然なところがまたその魅力を増幅させるんだな。

でも、俺を取り込んでどうするんだ?何の得がある?研究内容なんて二年以上あったし文化祭でも発表してたんだから、本当に興味があれば調べられるだけの頭はある筈だ。そして既にヒエラルキートップクラスの沢山の友人がいて、交際相手を探すにしても同じ学年だけでも都伝部員より恰好も性格も良くて金持ちで頭がいい奴、それなりの数いるだろう?

ヒカルは混乱気味の自分の頭の内側に、一旦でも腑に落ちる答えを導き出しほっと安堵した。

—何かある。怪しい範疇—

そして今度は余裕の笑みを浮かべた。

「そうだね。受験落ち着いたら是非。これ都伝部自主制作リーフレット、よかったら読んで」

それから丁寧に真理に別れを告げると、その足で辻本邸の離れに直行した。

ヒカルから真理の件を聞かされた他の三人は顔を見合わせた。

「ヒカル、そんな疑うんじゃなくてさ、あんたにも人生を楽しむ権利はあるんだから」

リオが開口一番言った。

「でも、この色々あるタイミング……、なんとなく違和感があるわ」

ミコトは首を傾げた。

「羨ましい限り。でも、俺もヒカルの言う通り怪しいと思う」

マシンは言い切った。

「いや、俺さ、なんていうか、大した事ではないんだろうけど、キッカケとして、返って自分の気持ちに気付いたというか」

ヒカルは自分で自分が何を言っているのか気が付かないまま、リオを見た。

「なんていうか、薗島はやっぱり薔薇だな。そしたら、ふとリオは雑草って思った」

「おーい、ヒカルちゃーん、何言い出した?」リオがヒカルを藪にらみした。

「それで何ていうか、高慢ちきで乱暴な、その他諸々悪いところだらけのリオをそのまま受け止められる男は俺だけだし、無類の大食いなのを永遠に食わせていく覚悟を最終的に持つことが出来るのも俺だけだなって、何かこう、深く自覚したんだ」

これを聞いたヒカル以外の三人は思わず目が点になり、マシンとミコトは大笑いし出した。

「ヒカル、それ、告るどころか、いきなりプロポーズになっちゃってるから」

「ヒカルさん、もしかして天然さんかしらと思ってましたけど、やっぱりそうでしたわ」

リオは暫く茫然としていたが、ヒカルの肩をポンっと叩いた。

「アタシはいいよ。ヒカルがアタシらと居たいならそうすればいいし、そうでなくなったら、ヒカルの人生の主役はあくまでヒカルなんだから、永遠の自由の風となって、この時も十二分に楽しんで。もしいつか、アタシたち二人の事として形を決めなきゃならないとしても、きっと一旦でも離れてみないと本当の事は分からないから、今すぐ決めなくていいんだよ」

「リオ、なんだよそれ、なに謎めいてんだよ」マシンはぎょっとして青ざめた。

一方のヒカルは、それでも満足そうなうっとりとした笑顔を見せた。

「……、それにしても、薗島真理は、調査した方がいいリストに追加かもね」

リオが付け足すと、他の三人は黙って頷いた—

次の日の朝、マンション群の上空は天気予報に反してますますの曇天だった。

ミコトは学校に行き、残った三人はマンション群5棟付近で盗聴器の電波の届くエリアを早朝から見定めていた。

「5棟で確実に電波が届く場所として、特にエントランスが広くて席も多いし、目立つと言えば目立つけど、今誰も居ないし、いっそここにしちゃう?」

マシンは疲れたように腰を下ろした。

ヒカルとリオもその脇に腰を下ろし、会議室の方を見た。

「まあ、イヤフォン使えばいいかも」リオがヒカルの方を見た。

ヒカルは魔法にでも掛かったかのようにリオを真っすぐに見つめ、微笑んで、そして頷いた。

「ヒカル、ごめんな、俺お邪魔だよな」マシンが苦笑した。

 「え?そんな事ないよ」ヒカルはマシンにも微笑み掛けると、鞄から人数分のイヤフォンと変装用の帽子と伊達眼鏡を出した。

 「もう九時か。一旦戻ると理事長に出くわすかも知れないし、隅の席にでもいよう」

 マシンはキャップを深く被りながら、人目に付きにくい席を選んで移動し、他の二人もそれに倣った。

 それから十五分程経ち、ヒカルがふと窓の外に目をやると、黒塗りの車が遊歩道手前に着くのが見えた。「噂をすれば」ヒカルは呟くと、急いで伊達眼鏡を掛け、格子柄の鹿撃ち帽もどきをより深く被った。

 車の後部座席のドアが開くと、早速紋付袴が見えた。

 理事長は「よっこらせ」と言いながら車から降り立ち、ヒカルたちが佇むエントランスを横切り会議室に入って行った。

 その直後、如何にも警察関係者らしき数人が理事長の後を追うように入室した。

 それからさらに二十分も経つと、ちらほらと住民の姿が見え始めた。大半はリタイアした年代だったが、中には仕事を中座してきたようなビジネスマン風の男女もいた。

 おおよそ三十人が入室し終わったところで十時十分前になったが、エントランスに居る三人のイヤフォンから聞こえてきたのは、前倒して始まった会議の議事録を読み上げる司会進行者の声であった。

 その後すぐに理事長のどこかまどろっこしい挨拶が終わると、1棟の代表者である初老の女の話が始まった。

 「1棟の役員会では児童委員を含め事前の会議を行いました。防犯対策の前述として、今後行方不明のお子さんの捜査協力を併せて住民の方に声掛けをしていく所存です。早速この場をお借りしてお願いしたい事として、行方不明者の情報提供についてですが、まず1棟の住民の方々の協力で得ている情報として、報道されている内容と重複する事があるかも知れませんが、1棟で行方不明になっている兎或区立文鳥小学校六年生の沢渡陽菜さんについて、関係する住民の方々からの情報では、最後に目撃されたのは今月七日火曜日の夜半、マンション下の公園です……」

 女の話の続きはこうだった。

1棟の沢渡陽菜は、普段から夜半まで付近の公園やコミュニティセンターの空き地で度々目撃されていたが、非常にその身体がやせ細っており、クラスの友人の母親らに食べ物をねだるような様子も見受けられていた。

 元々の性格は明朗で成績も良い児童であり友人も多かったが、このところ不登校ぎみであった。

 二年前の夏季長期休業中のCS諸島海外語学プログラムへの参加は実は曰くつきなものであった。

 その年の夏休みに入る少し前、陽菜はごく少数の親しい友人たちと学校のプールの開放日に参加したが、その着替え中、同行した児童らは行方不明者の腹部にある傷や痣を偶然目撃した。

 目撃者の児童らによると、児童らに傷や痣について心配された陽菜は、自宅のロフトから落下してしまった時のものだと説明した。

 目撃した児童らは一旦納得したが、ショックを受けた事もあり、それぞれの親にその事を相談した。それぞれの親はたまたま普段から連絡を取り合う間柄であったため、親同士で協議した結果、代表者が専用ダイヤルに通告した。

 一方、その後陽菜が保護された様子は全く無く、そのまま長期休業に入ってしまう流れとなった。

 そんな時、一人の児童が立ち上がった。陽菜の幼馴染であるその児童は、長期休業に入った事により陽菜が給食さえ食べられなくなってしまったら、いよいよ死んでしまうのではないかと考えていた。

 そこでその児童は他校ではあるが、辻本理事長の運営する兎或記念学園中等部にいる友人を通じて、マンション群の副理事長でもある辻本麗奈氏に頼み込み、一ヶ月間に渡りその間の衣食住の保障されるCS諸島海外語学プログラムの自分の参加枠を陽菜に譲りたいとまで申し出た。

 それはすぐここにいる辻本理事長の知るところとなり、理事長からも専門機関に相談してもらったが事態が変わらなかったため、地域との関わりを持たない陽菜の保護者に対し理事長直々に働き掛け、結果特別枠としての語学プログラムへの参加が可能となり、その費用はマンション群の保護者会からの寄附と理事長のポケットマネーで賄われた。

 帰国後のこの二年間は地域の見守りがあり、陽菜は辛うじて無事に過ごせていた—

 ヒカルたち三人はここまで聞くと一旦録音を止め、1棟のデータ名を入力した。

 続いて2棟の番となった。

 プレゼンテーションを行うような話し方の2棟の代表者は「1棟のお話と類似しているところがあります」と前置きし話を始めた。

 1棟と同じように防犯対策を含め、今後も警察の捜査に協力していくためにも行方不明者についての詳細を伝えたい。

 2棟の行方不明者は兎或区立第一小学校六年生の名見凌平であり、最後に目撃されたのは1棟と日時、場所ともに同じ状況であった。

また1棟の行方不明者同様痩せ衰えて行く様子目撃されているが、凌平の片親である父親は行政関係の仕事でほとんど家に戻れていなかった。

凌平は非常に優秀な児童であり、CS諸島海外語学プログラムに立候補しトップクラスの成績で特待生として選出されていた。

一方、学校関係者によれば凌平は性格的に難しいところがあり、きょうだいがおらず、特定の友人もいなかったが、海外プログラム参加後は特定のコミュニティに所属する事となり、理事長出資の「みんなのキッチン」食堂などを利用しながら、生活・学習面を安定させてきていた—

2棟の代表者の話は唐突な印象で終始したが、ヒカルたちは既に手慣れた調子で、ここでも2棟のデータ名を冠した。

順番通り、次は3棟の番となった。

3棟の代表者である高齢らしい男性は、盛んに咳込みながら話し始め、咳が完全に収まらないながらも、「1棟と2棟と同じように、行方不明者が見つかる手掛かりになればと思い、情報を共有しておきたいのです。最後の目撃情報は全く同じです」との前置きが聞き取れた。

3棟の行方不明者は兎或区立第三小学校五年生杉本泰司であった。泰司は水泳の強化選手であり、校区を越境して第三小に通っていた。

丁度二年前の春、たまたまこの地域の保護者が第三小区内のスーパーマーケットで買い物をした際、部活帰りらしい泰司を見掛けた。泰司は一人で大量の荷物を抱え、その前を上級生らしい数人が歩いているのが見えた。保護者が暫く観察していると、歩道の切れ間で泰司は躓き、ごく自然な流れで手に持っていた大量の荷物が投げ出されてしまった。泰司の前を歩いていた上級生らはこれを見ると泰司を強く叱責し出し、その中の一人が泰司を蹴ろうとしたため、目撃者である保護者はその周囲に居合わせた人と一緒に慌てて止めに入り、その場で泰司の保護者に連絡をし、後日行われた学校からの聞き取りに協力した。

しかしその数日後、今度は泰司が第三小校内で腕を負傷した。傷は内側に付けられ、専門医によれば自傷ではないかとの事であった。一方、これがキッカケとなり泰司は部活動を休み、泰司の保護者の計らいで、水泳一色の生活を方向転換するためにCS諸島海外語学プログラムへの参加を目指す事となり、申込み期間ぎりぎりであったが何とか参加を果たす流れとなった。

プログラム参加後は精神的に落ち着いた様子が見られたが、既に高学年であるため、第三小から地域外へ転校手続きをどうするかという矢先の事件であった—

3棟代表者はここまで話すと再び咳込みだし、話はこれで終わった。

ヒカルたちはまた録音データに3棟と記すと、その後すぐに4棟の若い男の代表者によるせっかち気味の挨拶があり、目撃情報等は他の発表者と同様である、との前置きのみで早々に本題に入った。

4棟の行方不明者は兎或区立第一小学校五年生百田叶絵であり、一年間の闘病を経て通学復帰していた。小学校では生活委員と生き物係の仕事を間違いなく務め、気の強い他の児童に対して物怖じせず意見を言い、気の弱い児童には見守る姿勢を見せるなど、非常にしっかりした児童だが、体育等運動系の授業や催事はドクターストップが掛かり見学としていた。

また退院後も受診や検査入院を繰り返しており、行方不明の今現在も体調が心配されている―

4棟の代表者の話はここで終わった。ヒカルたちがネーミングを終えると同時に次の代表の話が始まった。

5棟の代表者は大袈裟な咳払いをすると、太い声で説明を始めた。

最後の目撃情報は他棟と日時が一緒であったが、場所は公園では無く5棟の空き地であり、警察に報告した通りとなっている。

また5棟の行方不明者は他棟と一緒で第一小学校に通う六年生の植野竜真であり、特別支援学級に所属していた。

竜真は非常にエネルギッシュな明朗快活な人柄で、設定された環境が合えば学習能力を発揮する事も出来るが、衝動・多動性が認められ、幼少期から怪我をする事故に遭い易かった。

幼少期から数えると大小合わせて二十回以上の怪我をしているが、CS諸島海外語学プログラムへの参加を果たし、その後母親が入院する経過となった、非日常の出来事が重なった期間から、逆に症状が大幅に軽減し、普通学級へ異動する話が出ていた直後の事件となった—

代表者のボリューム感のある声はここで途切れ、ヒカルたちはここで初めて顔を見合わせ、それぞれ首を傾げたが、それでも素早く5棟のネーミングを終えた。

6棟の代表者は若い女だった。おっとりとした口調ながら明確に話し始めた。

6棟の行方不明者は区立兎或第二小学校六年の来栖百合那であり、最後に目撃された状況は他の児童と同様であった。

百合那は容姿端麗で非常に賢くクラスの人気者であったが、父親が再婚し単身赴任となった時期からみるみるやせ細り、学校給食時に異様な食欲を見せるようになった。

一方、百合亜は国際機関に勤めるという将来の夢の足掛かりのため、CS諸島海外語学プログラムへの参加を遠方にある父親の単身赴任先に一人で頼み込みに行く程切望し、義母の反対を押し切った父親の意向でそれが実現した。

語学プログラム参加後は学校や家庭での生活が落ち着いたように観察されてきたが、この数か月間で再度給食を貪るように食べては嘔吐と下痢を繰り返す状況となり、それに加え夜半まで公園で一人きり過ごしている様子が多数目撃された事から、学校管理職と担任が家庭訪問を行うなど対応したところ、食事の状況に変化が見られないばかりか、百合那が学校に来なくなる事態に発展していた矢先の事件となってしまった—

6棟の代表者の話が終わると、会議は小休憩に入った。

各棟の話が進むにつれ、リオの顔色が徐々に青ざめて行った。ヒカルはそれに気が付くと、リオの隣に席を移しリオの頭を撫で始めた。

「いい子ねえ、リオちゃん。リオちゃんは何も悪くないし、俺が傍にいるから大丈夫だよ」

 ヒカルは満面の笑みを浮かべながら子守唄を謡うように繰り返し、挙句の果てにリオを抱き締めようとしたところその場で躓き、結果格闘技の技を掛けるような形となった。

 「ヒカル、アンタね」呆然自失だったリオは我に返り、ヒカルに噛み付きそうな勢いで藪にらみすると、6棟のネーミングをさっさと済ますよう意地悪く命じた。

 「ヒカルはすっかりタガが外れてるし、リオは狼に育てられた赤ん坊そのものだし、まったく世話の焼けるカップリング……」二人の席から一つ空いた先の席に移動しながら、マシンが心の中でぼやいた。

 小休憩終了直後、警察関係者らしき人物の声が三人のイヤフォンから流れた。

 「この度は再度ご協力いただき有難うございます。防犯対策については10棟までの代表者のお話が済んでから、こちらが引き取ります。理事長からご寄附いただいた防犯グッズも各棟のお子さんの数配布させていただきますのでお持ち帰り下さい」

 これを聞くとマシンが空かさず、リオとヒカルに目をやった。

 「この防犯グッズってもしかして」

 「そう、ノベルティグッズ。ミコトが持て余してるのたまたま見つかって、理事長が買い取った」リオが苦笑いした。

 そしてそのすぐ後に、7棟の代表者の話が始まった。

 代表者である高齢者の声は非常に聞き取り難く、リオたちはより注意深く耳を澄ませた。

 高齢者の話はこうだった。

 7棟の行方不明者である同じく第二小六年生の間鳥悠であり、目撃情報の日時や場所は他棟で一緒であったが、併せて同日不審な若い男たちの目撃情報があった。

 悠の両親は夜の飲食店を経営しているが、家庭環境のためか悠は夜半に家を抜け出し繁華街に入り浸るなどの非行傾向にあり、そこで非行仲間と遭遇し、警察に補導された事があった。

 両親は悠を心配し素行を改めさせるための一考として、悠が海外旅行に興味を持っていた事から、CS諸島海外語学プログラムへの参加を強く勧め、家庭教師を付けるなどして何とか参加に漕ぎ着けた。

 両親の目論見通り、海外プログラム参加後は語学や世界遺産などに興味を示し悠は勉強に励んでいたが、偶然街で再会した以前の仲間により再び非行の道へ呼び戻されてしまった—

 最後に「との事です」と付け加えられ、7棟の代表者の話は終了したが、続けざまに「補導歴についてはお答えできかねます」との警察関係者のアナウンスが三人のイヤフォンへ聞き漏れて来た。

 リオは素早く7棟の録音データに名を記すと、直後に8棟の発表者の声が聞こえてきた。

 8棟の中年らしい女は抑揚の無い調子で話し始めた。

 8棟の行方不明者の目撃情報は他棟と同じ七日火曜日夜八時頃、行方不明者は区立文鳥小五年生の播磨傑。

 学校、家庭生活とも主だった問題は聞かれた事は無く、父親は会社員、母親はパート勤務、2学年下の妹いる。

 傑はどこか悟り切ったような老人のような子供であり、その特性としては囲碁とプログラミングが得意であった。

 CS諸島海外語学プログラムは傑の囲碁の師匠が辻本理事長の友人であった繋がりでの参加であった。

 参加後は今までと違う友人の増えた様子はあった、との事—

 リオはまだヒカルを睨んでおり、顎でヒカルを使い8棟のネーミングを命じた。ヒカルと言えば、それでも満面の笑顔でそれに応じた。

 次に9棟の番となった。

 生真面目な様子の中年の男の声がイヤフォンから聞こえてきた。

 9棟の行方不明者は第二小四年生の檜山未弥であるが、最後の目撃証言は他棟と同様であった。

 未弥は幼少期から保護者の仕事の都合で五つの国で生活してきたが、既に三ヶ国語を流暢に話し、その他の一ヶ国語の日常会話が出来る状態にあった。

CS諸島海外語学プログラムへの参加は保護者が決めたが、未弥は最年少ながら語学スキルとしても最高点をマークし参加メンバーに選抜された。また精神力・体力があり、コミュニケーション能力、リーダーシップの才能に長けていた。

語学プログラム参加後はさらにもう一カ国語を習得したが、本年新たな国に家族で転居する予定となっていた—

リオの機嫌は徐々に直り、9棟の録音データに率先して冠した。

そして最後の10棟の番となった。

 代表者は若い男であったが、目撃証言はほぼ他棟と同一であった。

 行方不明者は兎或記念学園中等部一年神澤天音であり、1棟の沢渡陽菜を助けるために尽力した二年前の小学生であり、1棟の説明通り陽菜の幼馴染であった。天才児と評価されており学年を飛び級するため他国に転居予定である。

 また天音をマンション群副理事長の辻本麗奈氏に仲介したのは二年前中等部在籍生徒として同じく語学プログラムに参加した11棟

在住で現在同学園高等部一年生の御影玲であった—

 リオら三人は最後に聞こえた名前に反応して、三人とも同時に首を傾げた。

 「えっ、今本当にミカゲって言ってた?」

 「ああ。一瞬空耳かと思ったけど、二人も聞こえたらそうだと思う」マシンがさも恐ろしそうに後退りした。

 「ま、落ち着こ。送信完了。ロック爺にデータ送った」ヒカルが満足そうに微笑んだ。その途端、辺りに雨音が響き渡った。

 「ん?RAIN?あ、ミコトから」

+ミコト みんな調査お疲れさま 取り急ぎ残念なお知らせがあるの 今度は薗島真理さんが行方不明だわ

+ヒカル え マジ あん時予備校で何か言いたかったのかも

「どうしよう」ヒカルがリオとマシンを振り返った。

 「んー、どうしたもんか」リオが顔を引き攣らせた。

+ミコト 今夜薗島先生 うちの本邸に来るわ

+リオ それだね 盗聴器そのままだし まずは情報収集GO

+ヒカル ラジャ

+ミコト ラジャね

+マシン まあ ラジャ—

—その夜、顧問の薗島はその妻を伴い辻本邸にひょっこり顔を出した。

 理事長に接見するのに薗島自身はいつもと変わらぬラフな出で立ちであったが、その表情はいつもと真逆の暗澹たるそれだった。

 使用人が大理石を敷き詰めた広い玄関で出迎えると、周囲を観る事も無く案内されるままに応接室に入った。

 「薗島さん、大変だったね」

 離れで四人がスピーカーに耳を澄ませていると、理事長の声が聞こえて来た。

 「まあ、まあ、座って下さい」

 薗島らしい大きな溜息が聞き漏れると、ティーセットのカチャカチャした音がそれに続いた。

 「警察の用事は済んだのかな?」

 「はい。授業が終わった三時から一時間ほど、マンション群の事件があったからか、向こうから来てくれましたよ」

「差し支えない範囲で、ご家庭で何か気付かれた事はありますか?」

 「……、以前理事長にもお話した事があったかと思うのですが、真理は養子なので、親である私たちの至らないところがあったかも知れません。しかし、家庭では特に変わったところも思い当たらず、まあ受験生ではあったので悩みはあったのかも知れませんが、進路も本人の希望通りになるようにしてきたつもりではありました」

 「ええ、ええ、そうでしょうなあ。不明になったのは、予備校帰りだったとか校長から聞きましたが?」

 「ええ、私は警察から聞きました。手前味噌ですが、真理は何かと学校やら何やらで注目を集めていたようでしたが、昨日の夜、黒っぽい車に乗せられるのを見たうちの生徒と他校の生徒がいたそうです」

 「うーん、スマートフォンか何か、連絡手段はありますか?」

 「それが、目撃されたという辺りに真理のスマートフォンが落ちていたそうです。これなんですが、中身も確認したところ、親しい友だちとの他愛も無いやり取り程度で何も……」

 その時、薗島の傍らで女の泣き声が聞こえて来た。

 「真理と親しい生徒たちは忙しい中捜査に協力してくれているのですが、手掛かりらしい手掛かりが無く、妻も参ってしまっていて……」

 「ええ、ええ、そうでしょうとも。薗島さん、私も学校も最大限に協力させてもらいますから」

 また理事長の声がした。

 それ以降、理事長が薗島の妻を励ます声が暫く続いたが、四人はスピーカーに噛り付き、じっと聞き耳を立てていた。しかしそのうちヒカルは一人だけ妙にそわそわし出した。

 「そういや、これ見てくれ」

 ヒカルは唐突に三つ折りのリーフレットを三人に見せた。

 「これがどうしたの?」リオが怪訝な顔をした。

 「これ、ただの紙に見えるけど、発信機付きなんだって。怪しい人間がいたら迷わず渡せ、と、ロック爺から指令が来てたから、昨日予備校で薗島にやった」

 これを聞くと三人はリーフレットを手に取り、さすったりライトに翳したりした。

 「受信機はスマートフォンアプリ」

 ヒカルは自分のスマートフォンの画面に目をやった。

 「ただいま、兎或臨海埠頭、コンテナターミナル付近を走行中」アプリがアナウンスした。

 「西の管理棟近くだわ」ミコトが画面を指でなぞった。

 「もし、船に乗せられたらどうなる?」

 同じく画面に見入っていたマシンがヒカルを見た。

 「そうだよな、あ、待って、ロック爺からだ」

ヒカルは慌ててそのまま電話に出た。

ロック爺との電話が終わると、ヒカルは傍らにあったバックパックを拾い上げた。

「行くのね?」ミコトが見上げた。

「ロック爺から警察に連絡するって。但し、表じゃない方の警察だってさ。それまで何とか船に乗らないようにしなきゃ」

ヒカルが立ち上がりバックパックを背負うと、他の三人も一緒に立ち上がった。

「お嬢は危ないだろ?」マシンがミコトの方を見た。

「いざという時、棒かなんかあれば。ミコトはアーチェリー、アタシは剣道、まあまあ強いから」リオが息巻いた。

「いや、ミコトを危ない目に遭わせられない。俺もさ、ヒカルの

覚悟を目の当たりにして決心したんだ。身分違いでもミコトのパートナーとして相応しい男になるってね」

 マシンが気取った調子で襟を正した。

 「しゅうとめ、今ふざけてる時じゃないっつうの」

 リオがマシンを睨んだ。

 「マシンさん、お気持ちは嬉しいわ。でも、ここは乗りかかった船。わたくしも参りますわ。アーチェリーは本当に大会にも出場してましたの」

 ミコトの目に強い光が宿った。

 「うーん、じゃ、みんなで行こっ」

ヒカルが小走りし出すと、他の三人はそれに続いた。

四人が辻本家御用達ハイヤーに乗り込むと、埠頭へは二十分程度で到着した。

 四人はアプリをなぞりながら、街路樹のように外灯が並び、規則的な汽笛が重なり合うコンテナターミナルを移動し、西エリアへ辿り着いた。

 「ここで間違いなさそう。貨物船は全部で五隻か」

 マシンが遠くまで見通した。

 「どれだろう?」ヒカルが船を見比べた。

 「アプリ通りでしょ?」リオがアプリを再確認すると、ある一点に目を留めた。

 「あの船、おかしくない?」

 リオの指差す方に皆が目をやると、一番前に停泊している一隻のさらに先の暗がりに一艘の船があった。

 「あれはスーパーヨットですわ。昼間マニアの方々が写真を取りに来られるから、ここに停泊するって」

 ミコトがヨットを監視するような目で見た。そして付け足した。

 「そうだわ。確かCS諸島の富豪か何かに貸し出すとレナ姉様が言ってた」

 「ビンゴなんじゃない?」リオがヨットを藪にらみした。

 「あのクルーザー、大型というだけじゃなく最先端のフォルムだな。それにしてもヘリポート付のヨットなんて初めて見たけど、ミコトのお父さんて一体……」マシンがミコトを流し見た。

 「あれ、言ってなかったっけ?ミコトのお父さんは辻本財団の会長だけど埠頭全体を統括する企業のCEOでもあって、客船や商船を扱う関連会社がアタシの義理の父親の会社。もっとも辻本家のそれと、うちなんかとは規模が全然違うけどさ」リオが早口を挟んだ。

 「お嬢のパートナーになる道は険しそうだな。でもマシン、君は

誇り高き外航船船長の息子だ。まずこの一歩を踏み出すところからお互いがんばろう」

 ヒカルがマシンの肩をポンっと叩いた。

 うな垂れていたマシンは顔を上げ、ヨットの停泊する方へ歩き出し、三人はそれに続いた。そして四人がヨットの間近まで来ると、突然前方に金属音が響き渡った。

マシンは咄嗟に、後から来る三人に身を隠すよう促した。

 三人はコンテナで出来た通路に素早く隠れると、そこからヨットの方を覗った。

ヨットのデッキに立っていたのは外国人の男一人だけだったが、リゾート仕様の派手な半袖シャツとその鋭い目つきが怪しいコントラストを醸し、その手にはキャプテンハットと金属棒が握られていた。

 暫くの間四人が息をひそめていると、船室の窓から一人の子供が盛んに手を振っているのが見えた。

 「あれって……」ヒカルが青ざめた。

 突然、四人の背後に人影が迫った。

 「ノレ、アレニ」

 その赤毛の大男は、四人に覆いかぶさる勢いで盛んにヨットを指差した。

 四人は目配せし合うと、その場から立ち去ろうとした。

 しかし、いつの間にか現れたもう一人の赤毛の大男に進路を阻まれ、今度は一斉に四方八方へ駆け出した。

 すると、大男はミコトに狙いを定め、瞬く間に捕まえると、その太い腕で抱きかかえた。他の三人はそれを目にすると、ぎょっとして立ち止まった。

 「汚い手を放しな」

リオは近くにあった廃材を素早く掴むと、竹刀の様に力強く素振りし、大男を威嚇した。

「リオ、危ないからよして」大男の腕の中でミコトが悲鳴を上げた。

その時、ヨットのデッキから意外な人物の声がした。

 「レオ、辻本さんを放して。オカルト研究会の皆さん、理由を話すからこのヨットに乗ってくれない?」

 四人がほぼ同時にヨットに目をやると、そこに居たのは薗島真理だった。

 「薗島、なんで」マシンが瞬きした。

 「理由を話すから。お願い乗って」

 真理は繰り返したが、階上にあるその表情は定かでは無かった。

 四人は顔を見合わせたが、赤毛の大男はリオの足元を小突いてヨットに乗るよう急かした。

 「これって半強制だよな」マシンがぼやいた。

 「乗ったら多分おしまい、でも乗らないと真実は藪の中」

 ヒカルが眉間に皺を寄せた。

 すると、レオは待ち切れない様子で、ミコトを手放さないままヨットの方へ歩き出した。

 「おい、放せ」リオはレオの脚に食らいついたが、レオはそれに構わず歩を進めヨットに乗り込んだ。残されたヒカルとマシンは大きな溜息を吐くと、黙ってそれに続いた。

 そして四人が乗船したのを見届けたように、その船は突如碇を解かれ、その港から出航した。

 「ねえ、これ現実?」マシンがヒカルを見た。

 ヒカルはまた大きな溜息を吐いて頷き、その場に立ち尽くした。

 大男のレオはようやくミコトをデッキの上に下ろし、リオを自分の脚から無理やり引きはがした。

 「ごめんなさい。驚かせて」

 四人の背後から音も無く薗島真理が現れた。

 「今日は風が強いみたい。中に入りましょう」

 真理は四人を案内して船室に入った。

 その船室は豪奢なホテルのラウンジを連想させるもので、乗船した事のあるミコト以外の三人を驚かせた。

 真理はダイニングテーブルの椅子を四人に勧めると、自分も腰を下ろした。

 「さて、どこから話せばいいものか」

真理が切り出した。

 「長くなるかも知れない。ノア、何か飲み物を持って来てくれない?」

 傍らのソファに腰を落ち着かせ、四人の様子を覗っていた赤毛の大男の一人が頷いて立ち上がった。

 「あのお二人、双子なの?」ミコトが素朴な疑問を口にした。

「よく似てるでしょ?でもそうじゃなくて、何人も同じような人がいて、名前は違うそうなの。本人たちは意図的に生み出されたって言ってるんだけど、本当かどうかは……」

 真理は苦笑いした。

 「それってどーいう……」リオが呟いた。

 「ねえ、名瀬河璃生さん、私の事、覚えてない?」

 真理がリオの顔をじっと見つめた。

 「うん、覚えてるよ。3Aの薗島真理さんでしょ?うちの顧問の薗島先生の娘」

 リオが真理の顔をじっと見返した。

 「そう、じゃあ、本当に覚えていないのね。分かった」

 真理は表情を微塵も変える事無く、大男の一人が持って来たグラスを受け取った。

 「それ、どーいう?」リオは怪訝な顔をした。

 「あのさ、いいかな?さっきこの船の窓のとこで、子供が手を振ってたんだけど、あれは誰?」

 マシンが唐突に切り込んだ。

 「いいでしょう。じゃあ、その事を含めて一通り説明します」

 真理はごく落ち着いた様子で、グラスのアップルタイザーを一口飲んだ。

 そしてまず、真理の自己紹介が欠かせないものとして語られ始めた。

 「もう知っているかも知れないけれど」

 真理は前置きし、自分は薗島教諭夫妻の本当の子供では無いと言った。

 真理は自分の生まれた場所を知らず、本当の両親も知らない。

 記憶にあるうちの一つとして、真理の幼名はマリアだった。

 物心が付いた頃に住んでいた場所は、ここから東に一万四千キロ離れたCS諸島のライア島だった。

ライア島は不可思議な場所だった。

マリアと同じように出自の不明な子供が大勢住んでいたのだが、月の決まった日になると一人ずつ行方知らずとなり、その後住居区域に戻って来る事は二度と無かった。

 月の決まった日とは、島に客人の来る日を差していた。

 その日になると住居区域の子供たちは木陰から恐る恐る、その月の客人を確認した。

 客人は世界各国から訪れているようだった。

 人種も性別も年齢もばらばらであったが、唯一共通しているのは裕福な人たちである、という点だった。

 裕福な人たちが訪れる日は、住居区域の子供たちに土産の菓子やら玩具やらが配られた。

 住居区域の子供たちは普段はその島のお城で、召使いをしていた。もっともそれは当番制で毎日働いたわけではなかった。

 お城は島の入り口にあって、大理石が敷き詰められた、広々として美しい場所だった。

 その日はマリアのお城の当番の日であった。

 マリアがお城で給仕の仕事をしていると、それはたまたまその月の決まった日であったのだ。お城の主が或る客人を迎え入れた。

 客人はお城の主が持っていた飛行機でやってきた。

 その日の客人は少人数ではなく、大勢であった。

 科学者とか物理学者と言われている人たちで、この島の子供

たちの視察をしに来ていた。

 その日の給仕を一緒にやったのはマリアの親友だった。

とても元気で明るい子で、二人は大の仲良しだった。

 しかしその日その子は、マリアに思ってもみなかった事を打ち明けた。

 「この島から逃げ出そう」

 その子は真剣な面持ちでマリアに言った。

 その子によれば、この島に住んでいる子供たちはいずれ、どこかの国の奴隷として売られるか、邪悪な大人の客を取らされるか、実験材料にされるか、狂った儀式の生贄にされるか、そのいずれかだと言う。

 「その証拠に月に一度客が来た後、どの子も住居区へは帰って来なかったでしょ?」

 その子は賢く光る目でマリアを見た。

 マリアはその日その子に言われるまで、月に一度行方知らずになる子は、どこかの裕福な家族に引き取られて行ったのだ、それが皆に知らされないのは、他の子供たちが悲しい想いをするといけないからなのだろうと考えていた。

 さらにその子は言った。

 「昨日来たお客はね、あなたと私を選んだんだよ。どこかの偉い博士たちは私たちを実験の材料にして、いらなくなったらゴミとして捨てるか、殺すかするよ」

 これを聞くとマリアは困惑し、どうするのが良いのか思い悩んだ。

 その子はこうも言った。

 古びて放置されていた船をこっそりと少しずつ修理して、この島の人目に付かない場所へ隠してある。そこへは子供の住居区からしか行けない。そして、いつの間にか船の操縦の仕方も覚えてしまったと。

 その子の熱意に押され、マリアはその島から逃げ出す事にした。

 その夜は新月で、子供たちの住居区の森はいつもにも増して真っ暗でしんと静まり返っていた。

 その子とマリアは昼間の内に隠していた小さな灯りを頼りにして、お城から反対方向の道を急いでいた。

 二人は走るのに夢中で、途中の木々に仕掛けられた子供たちを監視するための装置に気が付かなかった。

 二人は狼のように鋭い牙を持った沢山の犬たちに追い掛けられたが、その子が用意していた匂い消しや煙の出る香草が功を奏し、終に船の隠し場所である入江に辿り着き、その子は実に手際よく船を動かし始めた。

 ちょうど雨季に当たっていた事は、追っ手を撒くには幸運で、船旅には不運な事だった。

それにしても、その子の操縦は実に鮮やかなものだった。

ほんの数人乗りのその小船は、大海に浮かぶ木の葉そのものだったが、そんな事はものともせず、まるで波と戯れるように突き進んで行った。

昼間のうちにその子からマリアが聞いていた事として、その諸国の伝承にあるトゥル島に行くとも言った。

「それはおとぎ話でしょ?」

マリアは笑った。しかしその子は真剣そのもので、少しずつ古い書物を探し当て、大体の位置が分かったと言った。

それから何時間、いや何日経ったのか分からなかったが、海の色は透き通るように美しい青色で、上空には澄み渡った空が広がっているのに、そこだけは雲で覆われている場所が前方に見えて来た。

マリアは首を傾げたが、その子は意気揚々とますます忙しく船を動かした。

雲に覆われたその島こそトゥル島だった。

その島に近付くにつれ、マリアは不思議と自分の全身が安堵感に包まれて行くのが分かった。

島に上陸すると、その子は早速身体に固く縛り付けていた包みを解き地図を取り出すと、マリアを連れてどんどんと歩いて行った。

その道は南国でも珍しいほど大きく棘のある木の葉や蔓で覆われていたが、二人は振り向く事無く歩き続け、何時間歩き続けたのか、ようやく視界の開けた場所に辿り着いた。

そこには頑丈な造りの納屋があった。

上背の無い二人の子供にとって、それは首が痛くなる程見上げなければならない大きな建物だったが、その子は意を決してその門を叩いた。

「呪術師はおられますか?」

その子は必死の大声を上げた。

すると、その門は呆気なく開かれた。

如何にも賢そうな一人の少女が微笑んで迎え入れ、幼い二人に木の実の飲み物を与えてくれた。

「あなたが呪術師なのですか?」

その子はいつもするように率直に尋ねた。

「いいえ。呪術師は今、木の根に腰を据えているの」

その子は立ち上がり、二人に付いて来るよう言った。

納屋から数分歩いた場所に大木があり、二人がその大木を見上げると、大木自体の枝葉であるのか枝葉自体がそうであるのか、そこには巨大な雲が在った。

その大木の脇に奇妙に艶のある切り株が規律的に太い根を生やし、その上に端座する人影があった。

二人がより近くまで切り株に近付くと、人影は鮮やかな色の衣を纏った老婆だと分かった。

「あの、あなたに会いに来ました」

その子は勢い余り、瞑想中であろう呪術師に大きく声を掛けた。

「ああ、分かっているよ。よく来たね」

老婆は目を閉じたまま、その口許を緩ませた。

「呪術師は盲なの」

少女が二人を振り返った。

「盲って?」マリアが首を傾げた。

「目が見えないんですね?でも、何か見えますか?例えば、私たちの未来とか……」

その子が珍しく遠慮がちに聞いた。

「大丈夫。見返りは無い。ただ、ここに辿り着けたという事は、命が尽きようとしている証拠だ。そうでない者は辿り着けない」

呪術師が何でも事のように、その顔に笑みを湛えた。

「生き延びる方法はありませんか?」

その子は畳み掛けるように聞いた。

「そうさなあ。お前さんたちの行末は思う以上に多難だよ。今はおぞましい者たちに命を狙われているようだ。だが、逃げおおせる方法ならばある」

呪術師は瞼の奥で盛んに眼球を動かした。

「西北西に向かう空飛ぶ者がある。それに拾ってもらうには暁を待ち、赤色の国鳥の群れを追うんだな」

二人はこれを聞くと、呪術師の納屋で夜を過ごし、次の暁を待つ事にした。

納屋に住む少女は二人を客人としてもてなし、二人は生まれて初めて安堵の中で眠りに付く事が出来た。

そしていよいよ暁の時が来た。

二人はまだ眠い目をこすりながら来た道を戻り、海岸から船出した。

呪術師の島を離れると、急激に青空と青い海が広がった。しかし二人にとってそれは油断のならない青色であった。

しかし二人にとっては思ってもみなかった幸運が訪れた。暫く航海を続けるうちに、その青色の中に赤色の国鳥の群れが広がる場所を見出した。

鳥たちは見事な弧を描きながら力強く自分たちの空の海を泳いでいた。それと寸分違わず見事に船を操るその子は、ますます意気揚々と空の赤色を追いながら島に伝わる古い言葉の歌を口ずさんだ。

—その忌まわしき彼の島の、墓標無き小さな屍の山、その下に眠る者たち、そなたたちの美しく強き掌を侵す者など、この星々の空は広しと言えども、遡りそして先へと流れゆく永劫のうち、決して在るはずもない。ましてや邪悪な輩なぞ、気付くと気付くまいと、すでに底無しの地獄に在る。我らに恐れるものなぞ何も無い。我らはそなたたちの過去からの味方。そして未来に、そなたたちを守り抜く契約を交わす。そうであるから、そなたたちは必ず、我らを信ずる道を選び取る。そすればたちまち悪意に満ちた古い鎖は断ち切られ、そなたたちは澄み渡る自由の風となり、今ここに、すみやかに現れ得る。

 その大海を割る三つ時のはざま、光と影と、生と死と、清濁をと、瞬く間に飲み干し収め得る。しかして、闇に堕ちぬなら、必ず新たな星と命となる。決して闇に堕ちぬよう、光を求む、光を求めん―

 真理の話がここまで進むと、ヒカルたちは一度我に返った。

 「交霊会の時の詩、続きがあったのか……」

 ヒカルは奇妙な程心から納得し、深く頷いた。

 真理はそれに構う事無く話を続けた。

 赤色の国鳥を追い一時間程すると、二人は突如として二人が今まで住んでいた世界から全く別の世界、多分元々生まれ付いた世界へと引き戻された。

 赤色の国鳥の全てが飛び去ると、二人にとってそれは国鳥とは別の巨大な白鳥のように一瞬見えたが、眩い光に小さな手を翳すと、それは機械の鳥だと分かった。

 機械の鳥には、白地に青く突き立った剣の紋章が標されていた。

 後で二人が聞かされたのは、それは国際機構の航空機であったとの事だった。二人は万に一、億に一の確率で救助された。

 それから二人は極秘裏に生まれ故郷に返され、それぞれ養子に出された。

あの恐ろしい島で生活していたのは、現実では無く悪夢だったのだと本当に信じられる程、故郷の国での生活は平和だった。

しかし、マリアから薗島真理となった後でも、ほんの少しの隙を突くように、真理にとっての悪夢は再び訪れた。

それは過去から届いた手紙のように突然現実として真理の目の前にあり、その男は真理にとって悪夢そのものだった。

ある日の下校途中、その男は姿を現した。

「やっと見つけたぞ」

男は真理にほくそ笑んで見せた。

真理は自分の心臓が恐ろしい程速く波打ち出すのを感じ、同時に酷い眩暈に襲われた。

その時同級生が通り掛からなければ真理はそのまま男にさらわれてしまったのだろうと、その時の事を思い出す度、真理は命の縮まる感覚を覚えた。

 そして、真理はその男、真理の実父への恐怖を抱えたまま、自分を引き取ってくれた義父や義母である薗島におぞましい過去を知られたくない想いと自分なりの矜恃が邪魔をし、二人に相談する決心が出来ないまま数日が過ぎた。

 数日後、真理の目の前に再び悪夢が訪れた。

 真理の実父は、今度は真理の自宅前で待ち伏せし、真理に一緒に

来るよう強要した。

 真理は一瞬にして自分の心臓が凍り付くような恐ろしい感覚に襲われ、声を出す事も出来なくなってしまった。

逃げ出す事も出来ずその場に立ち尽くしたが、その時思わぬ助けが入った。

偶然訪ねて来た、美術教師でオカルト研究会副顧問の加賀だった。

加賀はまるで本当の聖職者であるかのように、ごく静かに、憐れむように、真理の実父に名前を尋ねた。

実父は怒りに任せ「私は実の父親だ」と怒鳴った。

しかし加賀は動ずる事なく、あなたは実の父親であっても前の父親であり、私の知人が真の父親であり、今の父親だ、と言い切った。

それを聞くと実父は捨て台詞を吐き、その場を後にした。

その事がキッカケで真理は加賀を頼りにするようになった。

加賀は真理の決心が固まるまで、今回の事は他言無用とすると約束してくれた。

そして加賀が実父に対面してから、実父が真理を付け狙う事は終には無かった。真理が奇妙に思い加賀に尋ねた事があったが、加賀は支援先に依頼した、とだけ回答した。

真理が後で知った事として、加賀は自由人のようでいてその実資産家の子息であり、二年間でプロとして美術の才能の目が出なければ、それを目指す事も教師も辞め、後継者としての実務に入らなければならない立場であった。

加賀は教師を辞める心残りが二つあると真理に言った。

一つは真理の高校卒業まで真理を見守れなくなる事、もう一つは秘密だと浮かない顔をした。真理は加賀の只ならぬ様子が気掛かりであったが、それ以上聞く事も出来ずに日を重ね、ついに加賀が教師を辞める決断をした。

真理は加賀に最後の願いとして、真理が大学に入学したら加賀と正式に交際したいという事と、加賀を苦しめているだろう秘密を教えてもほしいという二つを懇願した。

最終的に加賀の方が根負けし、今後は真理が他言無用の打明け話を聞く番となった。

 一年程前、加賀は生家の伝手でチャリティパーティに出席した際、ある子供支援団体の主催者と親しくなっていたが、現在の加賀の住居である兎或区のマンション群の住民会では、事あるごとに子供への虐待傾向にある家庭が話題に上っていた。

 実際、住民が勇気を持って通報に到ったケースも、一定期間を経ると子供が自宅に戻されてしまうか、何も対応がされないかという状態が続いていた。そしてその都度教師としてどう対応するのかと住民から問われ、思い悩んでいた加賀は、親しくしている支援団体の主催者にその話題を持ち出した。

 すると、主催者側の回答は意外なものだった。

 一つの国においても複雑に絡み合う根深い問題と課題があり、それは誰も解けないし、解こうともしない、そしてそれがずっとこの先も続く。しかしそれを魔法のように解く良い方法が一つある、と。

 それが何かと言えば、一つの国においては非合法となるが、違う国では合法であるやり方で、ある遠い島の支援先に子供たちを逃がしてやるのだ、もちろん本人の意思確認が必要であるし、その後の生活を保障する条件も揃っている、そう加賀は提案された。

 加賀はさらに深く想い悩みながら日々をやり過ごしていたが、ある時、加賀の住むマンション群で実際の被害者である子供を目撃した。

 加賀は被害者である沢渡陽菜に、誰も居ない夜の公園で思わず尋ねた。

 「もし安全に暮らせる遠い島があったら住んでみたいと思う?」

 陽菜は質問の意図を確認もせずに、「行こうと思う」と強い口調で言った。「CS諸島であれば行った事がある」とも言った。そこには以前から何かを知っていたような確信的なものがあったが、それが何であるのか加賀には分からなかった。

 そして陽菜は、命の危険のある仲間も一緒に行きたいと言うと思う、と付け加えた。

 加賀は思案した末に、未成年ではあるが、もし本当に命が危険にさらされているのであれば、子供たちには選択する権利があるのではないかと考えるようになった。

 それから加賀は早速支援団体の主催者と子供たちとの仲介をする約束をしたが、思い掛けずそれはスムーズに話が進んだ。当初それが十人にも及ぶとは考えてはいなかったが、一人でも多くの命が救われれば良いと自分で自分を納得させた。

 しかし問題があった。加賀は未だ在職中で、今回の件は善意で行う事であったが非合法である。

 そこで真理は加賀に提案した。

 加賀が行う予定であったBTトライアングル海域までの航海への同行は、付添いだけの事であるから自分が引き受け、公になった場合は、決行日に未だ十七である真理もさらわれた立場であり、子供たちの行方は分からないという事にしようと。

 加賀は真理を必死に止めたが、真理の意思は変わらなかった。自分もあの子に生かしてもらったのだから、私も子供たちを逃し、

生かしてあげなければならないと、真理は信じていた—

 真理の話はここで突然切れた。

 真理はノアによって差し替えられたグラスのレモネードを一口

飲むと、真っ直ぐリオを見た。

 「……、この船、BTトライアングル海域に向かってるって事か」

「それにしても海上で乗り継ぎって、追い詰められ感が凄いな」

 その傍らでヒカルが口を挟んだ。

 「その海域で私有の無人島があるらしいの」

 真理が応えた。

 「でもさあ、言いにくいんだけど、加賀せんせー、人はいいけど、

根っからのボンボンだぜ?騙されてんじゃない?」

 呆れたようにマシンも口を挟んだ。

 「はーい、珍しく姑に激しく同意」リオが付け足した。

「……、確かに、申し上げ難いけれど、去年のエイプリルフール、

リオが宇宙人を見たと騒いでいたら、誰よりも本気で信じてましたわ、加賀先生……」

ミコトが遠慮がちに言った。

真理は天然カールした睫毛を瞬かせ、酷く困惑した表情となっ

たが、すぐに落ち着きを取り戻した。

「目的地までまだ時間はあるし、それまでまたお話し出来たら嬉しい。個室は小さいけれどシャワーも食料も十分にあるし、クルーは最少人数だけどシェフもいるの。少しでも楽しんでもらえたら」

真理は立ち上がった。

「あのさ、薗島、あんた、大変だったんだな」

リオが思い立ったように、真理の背中に向かって言った。その

横でミコトが深刻そうに深く頷いた。

「……リオさんもね。もう遅いから明日の朝食の時、子供たち

を紹介するわ」

 真理は顔半分だけ振り向いて付け足した。

 その場に四人だけになると、全員疲れたようにソファの方へ腰を落ち着かせた。

 「今何時なんだろ?」

 「えっと」ヒカルはポケットのスマートフォン取り出した。

「これって、いわゆる軟禁状態だよな?完全に抜け出せない軟禁」

 マシンがぼやいた。

 「あれ?」ヒカルが声を上げた。

 「他のアプリは使えないのに、RAINだけ機能してる」

 「でもさ、だとしても、あのミカゲが助けに来るとでも?」

 今度はリオがぼやいた。

「でも、ほら、あの一件あっただろ?理人に知らせてくれるかも」

「それにしても薗島、アタシたちにあれだけバラしちゃったけど、どうするつもりなんだろ?一緒に加賀を庇うように説得するつもりなんかな……」

 リオは茫洋としながら、夜の海に目をやった。

 その時唐突に、音も無く赤毛の大男が現れた。

 四人はそれに気付くと驚いて仰け反いたが、男はそれに構う事なく黙ったまま尖った顎をしゃくり、着いて来るよう四人を促した。

 「コイツ、大柄な割にすばしっこい猫レベルな動きだな」

 マシンが男の背中に呟いた。すると、突然男が振り向いた。

 「オマエ、ワタシ、コトバワカルカラナ」

 男はマシンを鋭く藪にらみすると、何事も無かったように前に向き直り歩き出した。四人は深い溜息と共に苦笑いし、男に案内されたそれぞれの個室に大人しく入った—

 次の朝は快晴とは行かなかった。相変わらず地上と変わらぬどんよりとした曇天が広がり、爽快とはいかない湿度を含んだ風が、デッキチェアのストライプを落ち着き無く波立たせていた。

 「なんだかおかしいの」

 ダイニングルームの朝食の場で、開口一番真理が言った。

 「この船の上空一体だけ曇が広がっているの。天気予報は快晴のはずなのに。明日は晴れるといいけれど」

 「でも潮の香は久しぶりでとても嬉しいわ」

 ミコトはアイスティーを手にしたまま小窓に身を乗り出し、どこまでも広がる海上を愛でた。

 「まあ、所詮予報は予報ですから」

 その時、真理の隣の席にいた男児がしれっとした顔で言った。

 「そうだ、早速だけど、オカルト部さんにみんなを紹介するね。この子は名見凌平君、すごく優秀なの」

 「真理さん、この子は止めて下さい。僕は子供じゃありませんから。僕のコードネームはナミです。宜しくお願いします」

 ナミは憮然としたまま四人を順に見た。

 「そうそう、一応ミッションだからって、子供たちがコードネームを考えたらしいの。この子は百田叶絵ちゃん」

 真理が右隣りを見た。

 「百田叶絵です。五年生です。よろしくお願いします」

 「百田さん、コードネームを言って」

 ナミが口を挟んだ。

 「あっ、そうだった、モモって呼んでください」

 モモの青白い顔がほんのり紅く染まった。

 「そして、モモの隣が杉本泰司君」

 「杉本泰司です。特技は水泳です。タイって呼んで下さい」

 タイがいたずらっぽく笑った。

 「タイの隣が植野竜真君」

「植野竜真でーす。よろしくっ、みんな、リュウって呼んでるよ」

 リュウが威勢よく言った。

 「リュウの隣が来栖百合那ちゃん」

 「来栖百合那です。宜しくお願いします。コードネームはユリです」

 ユリが華やかで美しい笑顔を見せた。

 「ユリの隣が間鳥悠ちゃん」

 「どうも。ユウってそのまま呼ばれてる」

 ユウがぶっきらぼうに言った。

 「ハルの隣が播磨傑君」

 「播磨傑です。ハリーって事になってるらしいです。趣味は囲碁とプログラミングです。その二つについて、分からない事があったら聞いて下さい」

 如何にも賢そうなハリーが早口で言った。

 「ハリーの隣が檜山未弥ちゃん」

 「檜山未弥です。四年生です。通訳が必要なら言って下さい。コードネームはミヤです」

 「ミヤの隣が神澤天音君」

 「……、んー、オレ、バカは無理なんで、覚えておいて」

 神澤天音は椅子の上で体育座りをしたまま、ちらりと四人に目をやった。

 「アマちゃん、ダメでしょう、そういう言い方」

 天音の隣で一人の女児が空かさず窘めた。

 「あー、既視感。まるでミコトとミカゲだわ」

リオが茶々を入れると、マシンがリオを肘で小突いた。

真理は苦笑しながら続けた。

 「アマネの隣が沢渡陽菜ちゃん」

 「アマちゃんが失礼しました。わたしは沢渡陽菜です。コードネームはヒナです。どうぞよろしくお願いします」

 ヒナが丁寧に頭を下げた。その仕草は柔らかな羽毛を持つ真っ白な小動物を連想させた。

 「可愛い……」ミコトとヒカルが同時に呟いた。

 「そう。じゃあ、早速君らに聞きたい事があるんだけど」

 リオは朝食に出されたミートローフサンドに噛り付きながら、十人の子供たちを順に見た。

 「何でしょう?」ナミの眼鏡の縁がライトに反射して光った。

 「まあ多分、アタシもサバイバーなんだけさ、全員が家庭にリスクがあるわけじゃないでしょ?なんでこのメンバーで、このミッションとやらに参加しようと思ったわけ?」

 「それはいずれ分かります」

 ナミは即座に突っぱね、間髪入れず続けた。

「それより、お兄さんとお姉さんたちはいつ交霊会を行いましたか?」

 「それ、いつの交霊会?何回かやってみたからさ」

 ヒカルが呑気な調子で答えた。

 「あのー、ヒカルお兄さん、ナミは質問に答えてないから、こちらも答える必要はないのでは?」

 リオがヒカルを藪にらみした。

「でもさ、そもそもなんで俺らが交霊会もどきをやってた事知ってんだ?」

 マシンが素朴な疑問をナミにぶつけた。

 ナミはこれを聞くと大きく溜息を吐き、子供たちを手招きした。

 「ちょっと話し合ってきます」

 子供たちは中座し、ぞろぞろとデッキの方に出て行った。

 「ナミさんて、すごくしっかり者なのねえ」

 ミコトは至極感心して、その後ろ姿を見送った。

 真理とリオたち四人が朝食を食べ終えた頃、子供たちはまたぞろぞろと戻って来た。

 「結論から言います。時間が無いので、僕たちはこの一日でお兄さんとお姉さんをテストする事にしました。それに合格したら本当の事を話します。不合格になったら話しませんのでご了承下さい」

 ナミが再びつらつらと話した。

 「はあ?どこまで上から目線なわけ?」

 リオがナミを藪にらみした。

 「リオ、相手は小学生だからさ」ヒカルが傍らで言った。

 「テストってどんな内容なのかしら?」

 ミコトがナミの顔を覗き込んだ。ナミは急にどぎまぎし顔を赤らめた。

 「ナミ君、ミコトお姉さん、憧れだったものね」

 ヒナが無邪気に言った。

 「そっそんな事ありません。……、テストの内容はどちらが先に深海魚を吊り上げるかです」

 「えっ?それ、いきなり難し過ぎるだろう?お兄さんやお姉さんはこうやって助けに来てんだから、それだけでも少しは感謝してさあ、もっとこうなんていうかさあ……」

 マシンがぼやきながら溜息を吐いた。

 「条件は変わりません。目的地には今日入れて二日で着いてしまいますから、それまでに吊り上げるよう、お互いに頑張りましょう」

 ナミは言い切ると付け足した。

 「ではその前に、食べ物を粗末にする行為は決して許されるものでは無いので、僕たちは朝食を残さず食べます」

 ナミがそう言うと、子供たちは一斉に朝食を続行し始めた。

 ヒカルたち四人は黙ったままダイニングルームから引き上げると、手狭な一つの個室に集まった。

 「どうする、深海魚」

 マシンが口火を切った。

 その時、ベッドサイドテーブルのスマートフォンがディースベーダのテーマ曲を奏でた。


(つづく)


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