5話:日本版ビッグバンの目的
1998年12月、有価証券店頭デリバティブ取引を解禁。証券会社の免許制を廃止、登録制に移行。取引所集中義務廃止、私設取引システム導入。不正取引等の規制整備
1999年3月金融持株会社解禁。4月、有価証券取引税・取引所税廃止。東証、立会い取引全面廃止「大証は1997年12月」。1999年10月 証券会社の信託子会社の業務範囲規制廃止。株式売買委託手数料完全自由化。
1999年11月、東証、新興企業向け市場「マザーズ」設置「以降、各取引所で新興企業向け市場を順次設置」。再び、本論に戻すことにしよう。日本版ビッグバンによって銀行間、その他の金融機関との競争が激しさを増した。
証券会社においては、手数料の値下げ競争とインターネット証券会社という売買手数料の価格破壊が起こり、中小の証券会社は淘汰されていった。この頃、島村善次は、自分の銀行が情け容赦なく融資の返済を要求すると、優秀な中小企業の社長達は、銀行から信用金庫に乗り換えた。
そういう様子を見ていると、島村善次は、自分のやっていることが本当に世のため人のためになっているとは思えないようなっていった。そうしているうちに1997年を迎えた。
こんな時に、ヤフーというインターネットの現れたのを経済関係の新聞、雑誌でみて、非常に興味を持ち詳しく調べた。そして、これが成功すれば、大きく成長するに違いないと思った。
しかし、証券会社に、コネはなく、新規公開株を手に入れることもできないと考えた。その後も割り切れない気持ちで銀行の上司に言われた通り、新規口座の獲得と融資返済の依頼に奔走する日々が続いた。
1997年にヤフーが日本で上場することが決まり、新規公開株が1株70万円と決まった。もちろん手に入らなかったが、N証券で証券口座を開き、投資口座を550万円にしていた。
1997年11月4日にヤフー株が新規上場し初値が200万円で寄り付いた。想像通りのすごい人気だ。そこで、安いところを買うために担当者に情報を入れる様に言っておいた。
1997年11月13日、朝8時過ぎに証券会社の担当者から気配値、164万円と言われ、成り行きで買ったらと言われ、了解し、3株成り行き買いを入れ492万円で買えた。
銀行へ行き昼休みに証券会社に電話して買えたことを確認した。投資残金が残金9万円と言われた。やがて1997年が終わり1998年を迎えた。1998年になると、今年中に、銀行で投資信託を販売できるようになるという噂が銀行内でまことしやかに語られる様になった。
そして4月から、投信信託の販売部隊として、島村善次が、選ばれて、投資信託の勉強をするように命じられた。もちろん、自分の肉親、親戚、友人への販売ノルマが課せられて、憂鬱「ゆううつ」な日々を送ることになった。
そうして、あろうことか、どうやったら銀行が儲かるのかということまで専門家と称する銀行の悪玉が出てきて、勉強会で、その方法を披露した。銀行が設けるには、お客さんに存させないようにして投信信託を定期的に乗り換えさせることが重要だと説明した。
「お客様に投信信託を乗り換えてもらう度に、タクシーのメーターの様に手数料が加算される」
「つまり、銀行のもうけが膨らむって訳」
「これをお客様に上手に納得させ乗り換えさせて行くべきなのですと説明」
「これって詐欺まがいと心で、思っても、おくびにも出さず、うなずいた」
さらに、わざとらしく、なるほど、素晴らしい営業テクニックですねと、みんなが褒めちぎったのである。そして、1999年になると、銀行では、こぞって、新商品、投資信託の販売合戦を繰り広げた。
瞬く間に投資信託の売り上げの10%をすぐに超えて銀行の販売力を見せつけた。その陰には、血と汗と涙の物語がいくつもあった。この1999年、ヨーロッパでは、米ドルに並ぶ世界通貨ユーロが誕生し、EU加盟国で、使われるようになった。




