4話:穴埋めに公的資金とビッグバン開始
急激な円高とカネ余り、内需拡大への政策シフトの中で、銀行は一斉に融資拡大に走った。この護送船団行政の下で、あとは大蔵省の指導を待っていればどうにかなる、という銀行の甘えがあったのかもしれない。
天下りを受け入れるなど、官民癒着もあった。しかし、その行政指導は皮肉にも「総量規制」の形でバブル崩壊につながっていった。
*なお、この情報は「週刊東洋経済『最後の証言 バブル全史』」の一部を参照させていただきました。
金融機関の破綻は、以下のように、1997年「三洋証券」「北海道拓殖銀行」「山一證券」が相次いで経営破綻、1998年には、金融システムを安定化させるため、大手銀行21行へ公的資金注入「合計1.8兆円」「日本長期信用銀行」「日本債券信用銀行」が破綻。
1999年には、大手銀行15行へ公的資金注入「合計7.5兆円」。さらに詳細に調べるとコスモ信用組合、木津信用組合、兵庫銀行、阪和銀行、京都共栄銀行、北海道拓殖銀行、徳陽シティ銀行。
さらに、みどり銀行、国民銀行、幸福銀行、東京相和銀行、なみはや銀行、新潟中央銀行、信用組合関西興銀、朝鮮近畿信用組合、石川銀行、中部銀行と想像以上にひどい状況だった。
それが、大蔵省のメンツ「日本の銀行は、絶対につぶさない」が崩れ、膿を出し切ったというべきなのかもしれない。話をもとに戻すことにしよう。島村善次の長男の島村秀一は、1995年4月に地元の小学校へ入学し、妹の博美も幼稚園に入園して通い始めた。
すると、母、節子が、何か、働こうかというので、島村善次が、長女、博美が小学校高学年になるまでは待ってほしいと話した、この頃には、地元の企業でも利益を充分にあげてる企業から銀行の融資を返済し出した。
つまり負債をゼロにする目標を立てる企業が増えてきたのに対して、島村善次は、何とも言えぬ違和感を覚えた。銀行が、企業や団体にお金を貸さなくなって、どうやって利益を出していくのかと疑問に思った。
そんな違和感を感じながらも銀行の行員は、銀行の上司の言うことを聞くしかなかった。そして1996年11月に第2次橋本内閣が発足した。この当時の日本は、バブル経済が崩壊した爪あとが大きく残っていた。
そのため、山一證券や三洋証券、北海道拓殖銀行など大手の金融機関でも経営破綻に追い込まれるような状況だった。そこで、二度とこのような事が起きないように、自由、公正、開かれた市場をめざす「金融ビッグバン」という金融改革が行われることになった。
日本の金融ビッグバンとは、1996年に橋本内閣が提唱した金融制度改革のこと。外国為替取引や株式取引において、NY市場・ロンドン市場の状況と比べて東京市場の伸び悩みは顕著。
その一方で、日本の個人金融資産は米国に次いで世界第2位の約1200兆円にも上っていた。この個人金融資産が有効かつ効率的に使われる事は、日本の経済にとっても大きなプラスになるし、高齢化社会への備えが必要な日本国民にとってもメリットが大きい。
日本が世界に相応の貢献を果たしていくため、世界に円滑な資金供給をしていくことが必要。その様な考えから、2001年までに日本の金融市場を、ロンドン・NY並みの国際金融市場として再生しようという狙いで行われたのが「日本版の金融ビッグバン」。
日本政府としては「改革を通じて資産運用の場としての金融市場環境は整える。その代わり、世界第2位の個人金融資産を効率的に運用して高齢化社会に備えて」という国民に向けたメッセージ。まさに「貯蓄から投資へ」という道筋を政府が明らかに示した。
金融ビッグバンが実施されてから相当の期間が、すでに経過し、この間にリーマン・ショックやギリシャ危機など世界的な金融危機が起こる場面もあったが、政府の「貯蓄から投資へ」という考え方を表したものと考えるべきだ。
1998年4月 株式売買委託手数料を店頭株式及び売買代金5千万円超の上場株式について自由化。有価証券取引税・取引所税引き下げ。1998年9月 証券総合口座での給与振込が可能となる。