3話:住専問題の穴埋めに多額の公的資金支出
それというのは、1995年、世の中の目と耳は住専問題に奪われていた。住専とは住宅専門貸付会社の略称で、住宅ローン専門の貸付業者のことである。誕生し
たのは1970年代で、これがバブル経済に乗って急成長した。
この年の住専7社の総融資残高は11兆4千億円に達していた。その74%にあたる8兆4千億円が不良債権となり、その処理のために6850億円の公的資金を投入するという閣議決定が騒動の始まりである。
国会はこの問題を巡って紛糾し、テレビも新聞も連日大々的に報道した。問題はこの資金投入が、住専への債権者の一角をなす農協を救うためのものだと宣伝されたことである。
たしかに住専7社の債務総額12兆6千億円のうち、農協資金「農林中金、信連、共済連」の合計は5兆6千億円で全体の44%を占めていた。残りは銀行と保険会社であるが、銀行融資のほとんどは住専を設立した「母体行」のものだった。
この母体行が口をそろえて「農協の責任」を語り、マスコミがそれに乗って農協批判に追い打ちをかけた。ノンバンクの中でも悪名高いのが、住専「住宅金融専門会社」。
バブル以前は住宅ローンなど個人向け融資に力を入れていなかった銀行が、当時の大蔵省主導の下、住宅金融専門の会社を共同出資で設立したのが最初。たとえば三和銀行などが出資していた「日本住宅金融」、日本興業銀行、日本債券信用銀行が中心となって設立した「日本ハウジングローン」。
富士銀行、住友銀行など都銀が中心となって設立した「住宅ローンサービス」、住友信託銀行など信託銀行が設立した「住総」などだ。1980年代後半になって大企業が間接金融離れを起こす。
銀行からの借り入れに頼るのではなく、資本市場から資金を直接調達するようになると、銀行は住専のテリトリーだった住宅金融市場へ注力し始める。一方、住専は不動産融資にのめり込んでいった。末野興産など問題会社への貸し出しも膨らんだ。
しかも、母体行といわれる親銀行から、銀行本体では融資をしたくない質の悪い融資先を紹介されたり、既に不良債権化した融資の肩代わりをさせられたりと、住専は掃きだめ扱いだった。都内から数時間かかる地方の別荘地。
しかも別荘がある土地は崖地だった。だがその土地を担保に数億円の融資が行われた事例もあった。反社会勢力とのつながりがある「企業舎弟」と深い関係にある不動産会社にも、銀行やノンバンクは融資をした。
1社で数千億円もの融資を受けていた企業も複数あった。ある反社会勢力とつながりのある不動産会社は、かつてラブホテルをいくつか経営していた。そこへ銀行から舞い込んできた話は、飲食店やキャバクラなど風俗店が入っている商業ビルを買ってくれないか、というものだった。
そのビルのオーナーは家賃滞納で困っていた。テナントのほとんどは暴力団とつながりがあり、取り立てに行けば命の危険さえ感じることもあった。 ビルオーナーは「このビルを売りたいので買い手を探してきてほしい」と銀行に泣きついた。
そこで銀行は、同じ反社会勢力とつながりのある、この不動産会社にお願いすることになったのだ。こうしたトラブルシューティングも含めた不動産取引で銀行と反社会勢力が深くつながりを持つようになった。
なぜ、銀行は行き過ぎた担保主義の下で乱脈融資を続けたのか。1990年、大蔵省の行政指導として「土地関連融資の総量規制」が行われたのを契機に、土地取引は縮小、地価下落と共に景気も急速に冷え込んでいく、バブル経済の崩壊。
その後も、資産価格「株価、地価」の下落は続き、日本経済のデフレが進行する。1990年代に日本を襲った不良債権問題による金融機関の破綻は、まず体力の弱い小さな金融機関から始まった。
この当時、銀行の健全経営は信用の源泉であるとして、大蔵省・日銀の強力な行政指導の下で採用されていたのは、護送船団方式。その根底には「銀行はつぶれない」という神話があった。
経営が怪しくなった中小金融機関は、大銀行や近隣の金融機関に救済合併してもらうというのがお決まりのパターンだった。しかし、不良債権問題は思わぬところから国会の与野党対決案件になる。