2話:長女、島村博美の誕生と日本の銀行の凋落
島村善次は、義理の母に、お礼を言って銀行に出勤。やがて3月が過ぎて義理の母に教えてもらったように、秀一を風呂に入れてやり、買い物も一人で行くようになった。
しかし1週間もすると難しいので再び義理の母に応援を依頼して共働きをするようになった。その後の話し合いで秀一が保育園に行くまで見てもらうことにし、月3万円支払い事で、了解してもらった。
そんな事で忙しいうちに1989年が終わり1990年を迎えた。1990年、初もうでも終わり、また、島村夫妻は、銀行へ働きに行き、義理の母に面倒を見てもらいだした。
そうして1990年4月、再び、節子さんが妊娠した事が産婦人科で分かった。出産予定日が1990年10月27日と告げられた。これを聞いた、義理の母が、また妊娠したのといったと、妻から聞かされた。
そのため島村善次は、今度出産したら銀行を退職して子育てに専念してくれるように言い、実家に帰りたいなら、土日に車で送っていくと話した。それを聞いて、妻の節子さんは安心して、じゃー、お言葉に甘えて、退職させてもらうわと言った。
その後、島村善次は、奥さんの実家に行ったりして、忙しく、過ごし、夏の暑い日もフラフラになりながら、銀行の外勤業務を続けた。やがて1990年10月25日から残っている有給休暇を全部使い12月31日まで産休を取った。
その後、10月27日に女の赤ちゃんを出産し、島村博美と名付けた。そして1991年が明けた。1月5日、初出勤の日、節子が銀行に退職願を提出して、1991年1月25日付けで、銀行を退職した。
その頃、島村善次は、投資証券口座に、新たに320万円を送金し投資残金を1200万円にした。その後、島村善次は、カローラを購入して、奥さん、秀一、博美の3人をのせて多摩ニュータウンの実家に預けに行き金曜日の夜に迎えに行くようになった。
1990年10月27日、島村秀一に妹の島村博美が誕生し4人家族になった。島村善次は、銀行の融資先に融資金額の残額を早期返却をお願いに上がる毎日が続き、精神的に持たないと言い、銀行を退職する行員が増えた。
しかし、島村善次は、結婚して2人の子供が生まれ、4人家族になり加えて、子供の面倒を見るために、奥さんの節子さんに銀行を退職するように言った手前、弱音を吐ける状態ではなかった。
「銀行が融資をして銀行の状態が悪いから早く金を返せというのは、理不尽」
「そう思いつつ交渉に行くもので迫力欠けて融資の解消が遅々として進まなかった」
「そういう毎日が続き、1991年が終わり、1992年となった」
「しかし、この頃は、融資の取り立てに行って交渉が駄目であっても」
「ある程度、仕方ないかと言う温情もあり厳しく叱責されることはなかった」
そんな1992年8月19日、N証券の担当者から朝8時過ぎ、ソニー株が3600円の気配値が出ているから成り行き買いと言われた。
この時、投資残金を1500万円に増やしていたので、4千株、成り行き買いと指示した。その後、外勤に出て、昼休みにN証券に電話すると1440万円でソニー株4千株買えましたと連絡を受けた。
その結果、投資残金が60万円となった。やがて1992年が終了し1993年となり、銀行の融資の取り立てがさらに厳しくなり、島村善次にとっては、胃が痛くなる日々が続いた。
そして1994年、東京協和信用組合、安全信用組合の2信用組合が経営破綻に陥った。その背景は、元理事長らが1995年、背任容疑で逮捕された。その捜査の過程で、政治家の親族の会社に不正な金が流れたことが判明し事件は政界に波及。
1995年、国会で山口敏夫元労相と中西啓介元防衛庁長官が証人喚問される。その後、山口敏夫元労相は背任罪や偽証罪などで逮捕、起訴され、懲役3年6か月の実刑判決が確定した。
この処理のために受け皿銀行、東京共同銀行「現在の整理回収機構」が作られた。しかし、これは、これから起きる大きな日本の金融問題のプロローグでしかなかった。