本を売る前に内臓を売るかな
<1>
「浮かない顔だね、旦那さま」
部屋に戻った俺を出迎えた金鞠は、借りた本を読破したらしく暇そうにしていた。読むのはえーなー。
俺は、最有力候補だった義川さんの話をしてみた。
「なるほどね。その人、旦那さまのことをどうでもいい風に思ってるみたいだ」
「いや、その、どうでもいいというか、なんか俺のことを可愛い弟ポジくらいに思ってる、って変更してもらっていい?」
「……どっちでもいいじゃないか、そんなの。一番怪しいかもって人がシロになったんだ。他の人を当たってみなよ」
みなよって簡単に言うけどさー。
「他に有力な容疑者候補はいないの?」
「容疑者か。なーんか嫌になる言い方だよな、それ。うーん。だとしたら、俺を追い出したがってる孝塚さんと忠山さんかな」
金鞠はふんふんと頷いた。
「あの小さい管理人は? 怪しくないの?」
「えっ? あの人は違うだろ。色々面倒見てもらってるし。追い出そうとするやつとそんな風には接しないだろー」
「一番近くで様子を見てるって可能性もあるんじゃない? 話を聞くとさ、旦那さまをつけてる二人から、旦那さまの状況をやり取りしてるみたいじゃないか」
「嫌だ。俺は管理人さんを疑わないぞ」
「まあ、旦那さまがそう言うなら……じゃ、当面はストーカーの二人だね」
難しそうな二人だ。
「何か手掛かりがあればなあ……」
「そういえば、魔導書以外にも何か売ってなかったの?」
「ん、何が?」
「だから、旦那さまに魔導書を売ったやつのこと。そいつ、魔導書と一緒に何か他のものも売ったんじゃないの?」
あ、そういうことか。そこから手掛かりを探そうってわけだな。
「色々、本を売ってたかな。あと、DVDとかも」
「どんなやつ?」
「覚えてねえええ……」
俺は頭を抱えた。
「しゃあねえ。明日バイト先で確認してみる。店長が気を利かせてくれてさ、そいつが売ったものはまだ店頭に並べてないはずだから。確か、どっか奥にしまってたはずなんだけど」
「うん。それと、何か売ったってことはお金が手に入るってことだよね。……その人の良心ってものに期待するしかないんだけどさ。人様のものに手をつけようって思っちゃうくらい欲しいものがあったってことかも」
「何か、緊急的に、やむにやまれぬ事情で金が欲しかったのかも」
「ここのマンションの人たちのお金の流れが分かればいいんだけどね」
そこまで調べるのは難しいだろうな。
「誰かの金遣いが荒くなったとか、それくらいは聞けるかな……」
「気が滅入る?」
金鞠は心配そうに俺を見つめている。
「……うん。疲れる」
人を疑ったり調べたりストーキングされたり。島で無邪気に過ごしていた頃ではありえない経験ばかりだ。
「だよね。じゃ、ちょっとこっち来なよ」
言われるがままに金鞠の傍に寄る。彼女は正座に近い体勢で座っている。
「何するんだ……?」
「そんな強張らないでよ。前から気になってたんだよね。旦那さまの爪」
金鞠は自分の膝をぽんぽんと叩いた。
「ほら、ここに頭乗せて。爪切ったげる」
爪切り?
「子供じゃないんだから自分で爪くらい切れるって」
「せっかく借りてきたんだし、いいから乗せなって」
金鞠はいつの間にか爪切りを持っていた。この部屋にはそんなものなかったはずだ。
「どっから拝借してきたんだよ」
「鍵の開いてる部屋がたまにあるんだよね。あとで返しとくから気にしないでよ」
えー。おっさんの使ってる爪切りだったらやだなー。
しかし、爪切りか。副産物で金鞠の膝枕か。抗えるか? いや、無理。
俺は金鞠の膝枕に己の頭を預けた。人間は人生のうち、三分の一を睡眠に費やしているという。であれば、その時に頭を預けている枕というのは人生の三分の一を共にするパートナーに近しい。俺は、そのパートナーがこんなに柔らかでいい匂いのする枕だったらなあと泣きそうになった。
「ちょっと、どうしてこっち向いてるの。あっち向いて」
「あぁぁぁああああ……」
ごろんと転がされた。さすがに駄目だったか。
俺は向きを変えて、改めて金鞠の膝枕に頭を乗せる。ベッドの縁とにらめっこする形となった。
「大人しくしててよ」
「あい。なあ。爪切りとかやったことあるの?」
「男の人のを?」
「そう」と頷く。金鞠は小さく笑った。ここからでは彼女の顔が見えないが、きっと意地悪い笑みを浮かべているのだろう。
金鞠は俺の手をとって、腕を畳むようにした。
「ぬるま湯持ってくればよかったかな」
「え、なんで。何のプレイに使うんだ」
「使わない。爪を柔らかくしたかったの。いいや、ちょっとずつ切っていくから」
ああ、そういうことね。
俺は、金鞠に何もかもを任せることにして、体中からぐでんと力を抜く。無脊椎動物になった感覚で何もかもがどうでもよくなってきた。目を瞑っていると、ぱちんという乾いた音がした。金鞠は親指の端っこから少しずつ爪を切っているようだった。
ぱちん。ぱちん。ぱちん。
「……んっ」
爪を切る音に交じって金鞠の吐息が聞こえてくる。
かさかさというビニール袋を開くような音も。切った爪をそこに捨てているのだろう。時折衣擦れ。音はそれだけ。自分の息や心臓の鼓動が邪魔に感じられるほど、俺はこの音と空間に支配されたいと願うようにさえなっていた。
「はい、終わり」
「お、ありがとな。ちょっと寝かかってた」
「ああ、待ってよ、動かないで」
金鞠は、爪切りの持ち手を裏返しにする。
「便利だよね。やすりもセットになってるタイプは。……ほら、大人しくしてて。綺麗にしたげるから」
「爪をやすりで? やすりなんてプラモデルにしか使ったことないぞ」
「引っ掛かりがあったら怪我するかもしれないし、見栄えが悪いじゃないか」
「確かに。プラモもそうだしな」
「旦那さまとプラモデルは違うでしょ。はい、やるから大人しくする」
しばらくの間、金鞠に任せていた。半分眠っていたが、彼女が俺の靴下を脱がせようとしたので『イヤァ! そっちは堪忍してえ!』 と団地妻みたいな悲鳴を上げて勘弁してもらった。足の方はさすがに無理……。
<2>
「おや。里見さん、爪めっちゃキレイですね……」
はー、とか息をつきながら、管理人さんが俺の手指を珍しそうに見つめ始めた。
「そうですかね?」
「お店でやってもらったんですか、これ?」
「いや、自分で」
「えぇ? 意外な特技ですね……」
朝食の際、金鞠に切ってもらった俺の爪が話題となった。テーブルには管理人さんとストーカー1・2もいる。
ストーカー1こと孝塚さんも目を丸くさせていた。
「里見くんって変なところが綺麗だよね」
「私のより綺麗じゃないか……」
ストーカー2こと忠山さんはショックを受けていた。
さて。チャンスだな。義川さんが魔導書を売ったのでなければ、怪しいのはこの二人だ。少し探りを入れてみようか。
「ここって家賃、そこそこするんですかね」
「里見さん、ご存じないんですか?」
「詳しい額までは」
俺の家賃など、もろもろは犬飼さんの掌中である。
「うーん。他のソーシャルアパートメントと比べれば、いくらかお手ごろだと思いますよ。芳流閣には学生さんもいらっしゃいますし」
「へー。……幽霊騒ぎがあるからですか?」
「何のことやら」
管理人さんは嘯いた。しかし俺は知っている。ラウンジで居眠りしている彼女が『部屋を満室にしないと……う、ううーん』と寝言を発しながら苦しんでいたことを。
「俺の住んでたアパートに比べればバカ高いでしょうね。やっぱ皆さん、結構持ってるんですか」
「何、いきなり。やらしいこと言わないでよね」
「いや、やっぱ趣味がある人ってそっちにお金かけるじゃん? 俺もそうだったし」
孝塚さんは鼻を鳴らした。
「まあ、そうね。私も衝動買いとかするし」
「ブランドの服とか鞄とか?」
「いや、全巻セットになってる漫画とか」
私もと忠山さんが手を上げる。
「ふらーっと入ったお店でフィギュアとか見ちゃうと……気づいたらお金が無くなってる」
「でも自分の手には?」
「欲しかったフィギュアがある……」
分かる。
「管理人さんも何か買っちゃったりします?」
「んー、私はそういうのないかもですねー。ゲームも発売日が分かってますから、お金は前もってキープしてます」
あ、そういや買い物で思い出した。
「ここって宅配とかどうするんですか? 郵便受けとかが見当たらなかったんですけど」
俺がそう言うと、三人ともが『ああー』という表情になった。
「他のソーシャルアパートメントはそうでもなかったりするんですけど、郵便物は本人がいなければ、別の人が受け取って保管しておくようになってるんですよ」
管理人さんはラウンジの入り口近くのホワイトボードを指差した。
「あそこで入居者さん同士でメッセージをやり取りしたりするんですよ。宅配があるので誰か受け取ってくださいーとか。たいていは管理人の私が保管しておくんですけどね」
「めんどくないですかそれ?」
「それも交流の一環になるかと思ったんでしょうかねー」
管理人さんはどこか他人事である。私が考えたわけではない。そう言いたげでもあった。
「じゃあやばいものは通販できませんね」
「やばいって何よ」
じろりと睨まれる。
「えっ、いや、その、なんかこう、エロいやつ?」
「里見サイテーだな」
「忠山さん、そういう目で俺を見るのはやめないか」
癖になるから。
「あー、でもハマーさんはめちゃめちゃ買いますね。すっごい配達の人が来る時期とかあるんですよ。段ボールが何箱も何箱も来るくらいで」
へー。たぶんエロいやつ買いまくってんだろうな。
「だいたいお盆とか、年末年始あたりなんですよねー」
「何か心当たりがあるな。なあ、孝塚さん」
「は? 何が? 意味分かんない」
あれ、孝塚さんになら通じると思ったんだけどな。
しかしなるほどな。ハマーか。あいつになら話を聞きやすいし、次に会ったら何か聞いてみよう。
<3>
大学に行き、掲示板をチェックするのが日課だ。俺には友達がいないから休講になっても誰も教えてくれないし、代返を頼めるようなやつもいないし、不用意な欠席が死に繋がる。
掲示板を確認すると二限が休講になっていた。一限が終わったら時間が空いちゃうな。どうしよう。
どうしようかなーと考えていると一限が終わった。俺はとりあえず教室から外に出て、ぶらぶらと歩き始める。図書館にでも行こうかなと考えていた矢先、背の高いやつが別の棟から出てくるのが見えた。梯さんだな。
「リアル○ごっこを日本三大奇書に加えようと思うんだけどどう思う?」
「えっ、でもアレは編集の手が入って読めるような代物になったって……里見くん? いきなり話しかけられたから驚いちゃった」
「ごめんごめん」
軽く謝ると、梯さんは仕方ないなあと言う風な、大人な笑みを浮かべた。
「もうじき二限が始まるよ? 教室、すぐ近くなの?」
「いやー、それが休講になっちゃってさ」
「ああ、そういうの困るよね」
「梯さんは?」
「あ、ぼくは、今日は二限取ってないんだ」
奇遇。
「そういう時ってどうしてんの? やっぱ図書館?」
「ううん、早めに学食行ったり、駅前に戻ったりしてるよ」
「へー。……よかったら俺と一緒に時間潰してくれないかな?」
「ぼくと? いいけど、いいの?」
願ったり叶ったりである。
「あの、里見くん。また後ろの方に孝塚さんがいるんだけど。すごく見てるんだけど」
「気にしなくていいよ」
アレは俺の自立型のスタンドみたいなものだから。しかも言うこと全然聞いてくれないやつ。
「そんじゃあ学食行こうぜ」
「うん、いいよ」
俺たちは食堂に向かった。中はさすがにがらんとしている。どこでも座り放題だ。
「里見くん、あっちに座ろ」
梯さんは一階の隅にある席を確保している。こんだけ広いのになんだってそんな狭苦しいところを選ぶのか。
「あとで人が増えてきちゃうから」
「静かなのが好きなんだな。なんか梯さんってエルフみたい」
「エルフ?」
「森の奥に隠れ住んでるイメージがあるから」
それでいくと俺はオークになってエルフを襲いたい。でもエルフって弓が得意で華奢なイメージあるけど、あいつら出典や媒体によっては意外とハイスペックなんだよな。襲撃して返り討ちにあってさらし首にされたい。
梯さんは笑う時も静かだ。あまり声に出さず、おぜうひんに笑う。
「里見くんはファンタジーなのも読むの?」
「色々読むよ。異世界に転生するやつとか好きだな」
「…………そう」
おや?
今、一瞬、梯さんのオーラがエルフからオークどころかドラゴンみたいなものに変わった気がしたけど、気のせいかな?
「梯さん?」
「どうしたの?」
「いや、別に……梯さんって本いっぱい持ってるの?」
「うん。買い過ぎちゃって置き場所に困ってる。ぼくもハマーさんみたいにもう一部屋借りられたらなあ」
えっ。あいつ一人で二部屋借りてんの?
「一つは物置として使ってるらしいよ」
「へー。あ、そんでさ、本とか売ったりする?」
「どうして? 売らないよ。売る意味が分からない」
「お金に困ったりしたら売るのかなって」
梯さんは小首を傾げた。
「そうなったら、本を売る前に内臓を売るかな」
「出来ればその前に俺に相談して」
力になれないかもしれないけど。
「でも、本を売る人には助かってるよ。古い本だと中古じゃないと手に入らないから」
「古本って高そうなイメージあるよな。本に限らず、なんで古いものって高いんだろ」
「うーん、二度と手に入らなくなるかもしれないからじゃないかな。やっぱり、古くなると世の中からなくなっていっちゃうから。本だと、絶版とか、出版社が変わったりの騒動でもう刷られなくなったりしちゃうし」
そんなことを話していると、いつの間にか食堂が賑やかになってきた。もうじき昼休みだな。梯さんも居心地悪そうにしてるし、そろそろ出るか。
「またなんか買って外で食おうぜ」
「里見くんは学食じゃなくていいの?」
「いいのいいの。あ、そうだ。今日の夜って、梯さんヒマ?」
「暇だけど、どうして?」
「借りてた本読み終わったから、ほら、前に言ってたやつ。管理人さんたちにライン的なやつ教えてもらおうぜ」
「……いいけど。あの、本を返すだけだったら、ぼくの部屋に来た時に」
「よし、行こうぜ!」
「あ、あの……うん、そうだね」
梯さんは何故だか困ったように笑っていた。
<4>
大学が終わってバイト先に行く。今日はシフトじゃないが、俺には使命がある。
「こんちはーっす」
「あっ!? どうして君が……!」
カウンターの方で座っていた店長は、立ち上がって身構えた。
いや、そんな風にされても。俺は例の客が売ったものを調べに来たのだと告げた。
「ああ、そういうことか。それならいいよ。倉庫の方にしまってるから適当に探して。俺は仕事してるから」
「仕事って……」
客のいない、閑散とした店内を見回した。
「椅子を尻で磨くお仕事ですか」
「そんな失礼なことを言われたのは過去十年を振り返ってもないよ。むしろ初めてだよ」
「いやー、店長の奪っちゃいましたね」
「ああ、そうだね! 俺の貴重な時間をたっぷりとね! ほら、さっさと裏へ行くんだよ!」
俺は店長に急かされて倉庫へ向かった。
倉庫とはいえ、手狭な物置だ。お客さんから買い取ったものなんかを段ボールに突っ込んで置いているだけのスペースである。
「さて、どこから手をつけるか」
「あのー」
「うわああ!?」
急に声をかけられて、俺はビビりそうになった。断じてビビってなどいない。
「俺に声をかけたのは誰だあ!?」
「わ、ごめんなさい。そんなに驚くとは思ってなかったので」
「いや、大丈夫、驚いてないから」
「あ。そうですか」
そう言って倉庫にやってきたのは角村さんである。
「どったの? バイトは?」
「店長に、先輩を手伝うように言われましたので。何か探してるんですよね?」
あの店長、俺をさっさと帰したいから角村さんを手伝いに遣ったんだな。助かるけどさ。
「あー……前に客が来てさ。その人が売ったものを探したいんだけど」
倉庫の中はごちゃっとしていた。
「どれくらい前に来たお客さんなんですか?」
「夏休みの前だから、もう二か月くらい経ってるかもな」
「だったら……」
角村さんは段ボールの中を確認し始めた。
「たぶん、古いものほど奥に置いてると思います。日付が書いてあるものもありますから、そこから逆算とかして……たぶん、このあたりに隠れているのではないでしょうか」
「おお……やるじゃないか角村さん。映画だったら参謀役だな」
「えー、先輩が主役ですかー?」
「いや、俺は主役の傍で調子こく陽気なやつがいい。だいたい生き残れそうだし。俺の吹き替えは高○渉で頼む」
「九割死なないじゃないですか」
駄弁りながら探していると、見覚えのある本やDVDが入っている箱を見つけた。引っ張り出して改めて確認してみる。
「うわ、オカルトっぽい本ですね」
本は何冊かある。俺は一冊ずつ確認した。……よう分からん人の画集だとか、芳流閣の八階に紛れ込んでもおかしくないやつだとか。
「先輩が買い取ったんですか? これ、よく値段付けられましたね」
「いや、結構適当にやっちゃったんだよ。一応、ほら、状態もいいから」
「買い取ってもお店に並べるところないですよ……」
そう考えると謎だ。俺もなーんで買い取っちゃったかな。
「DVDの方は?」
角村さんはつまらなそうにしてDVDのパッケージを見ていた。
「うーん。ポリシーがない感じです。その時流行ってた映画のばっかりで面白みがないです。CMで女の人が『泣きました』とか『もっかい見に行きまーす!』 って言ってるようなやつの」
「最近の映画はだいたいそうじゃないか……」
そら、武器人間が好きな子に言われてもしようがないよなって感じだが。
しかし、何だ? オカルトっぽい本にありふれた映画のDVD?
「査定額としては、結構高くなりますかね。本数は多いですから」
「それでも……うーん、確か、二万もいかなかったんじゃないのかな」
「二万円……大金じゃないですか」
角村さんの金銭感覚が可愛らしい。でも、盗品を売った額にしてはリスキーなことしたよな。
「本はどうするんです?」
「とりあえず持って帰って確認してみる」
犬飼さんじゃないと区別つかないだろうけど。あの人、忙しいみたいだからなあ。でも、彼女の探しているものはこれらの本かもしれないんだ。
「もしかして、その、これって出所が怪しいやつですか?」
俺は神妙な顔つきを作ってから頷いた。
「わーーーっ、これ、これアレですね。なんか事件が始まりそうなやつですよね」
「なんでワクワクしてるの……?」
「あの、不謹慎だったんでしょうか」
「いや、気持ちは分かる。やべえ取引現場を検証してるニューヨークポリスデパートメントの気分だ」
「えへへへへ、ですよねー」
角村さんの癖っ毛がぶんぶんと揺れていた。
「私のことはスタンスフィールドとお呼びください」
「えーーやべーやつじゃん、それ」
「えっへへへへ。昔、ラムネとか食べるとき真似しましたよね」
「いや、しない」
めちゃめちゃ楽しそうだな。
「知ってますか先輩。スタンはあの映画、意外と登場する場面が少ないんですよ。レクタ○もそうですよね。冒頭だけで一気に鷲掴みにしちゃうんですよー。やっぱり、いい悪役がいるといい作品になりますよねー」
いい悪役ってロリババアみたいでちょっと好きな言葉だな。
<5>
バイト先で見つけた本を自室に持ち帰り、金鞠に確かめてもらった。
「うーん。ぽいと言えばぽいけど、芳流閣にあったものかどうかまでは分からないかな」
「そっか。やっぱ犬飼さんに見てもらうしかないな」
「うん、そうだね」
金鞠はそわそわしていた。俺が持って帰った本が気になっているらしい。
「ま、読むくらいはいいんじゃないか? けど、それ日本語じゃないぞ。読めるのか?」
「何となくだけどね」
ほほー、そりゃすごい。もしかして金鞠は本当に頭の良いお方だったのでは?
とりあえず本のことは置いといて、俺は梯さんに借りてたものを返しに行こう。確か五〇五室だっけか。
「ちょっと行ってくる」
「ん。いってらっしゃい」
金鞠はもう本の虫と化しつつあった。
俺は部屋を出て梯さんの部屋を目指す。目的地にはすぐに辿り着き、ノックを何度かすると慌てた様子の梯さんが顔を覗かせた。
「こんばんは。今大丈夫?」
「う、うん」
「そいじゃラウンジまで行こうぜ。管理人さんがいるはずだから」
梯さんは歯に何かが挟まったような態度だったが、俺についてきてくれた。
ラウンジに降りると、管理人さんや孝塚さんがいた。
「あやや、珍しい組み合わせな気がしますね」
管理人さんは面白そうにして俺たちを見てくる。とりあえずテーブルにつくことにした。
「それで、お二人でどうされたんですか。まだ晩ご飯には早いですけど」
「あ、そうなんです。実は頼みごとがあって」
俺はスマホをテーブルの上に置いた。
「俺、梯さんとラインしたいんですよ」
「はあ」
「でもやり方が分からないんで、その設定? とか? そういうのやってくれたらなあって」
「はあ?」
孝塚さんは死ぬほど嫌そうな顔をした。
「なーんで私が里見くんたちのためにそんなことを」
「あ、私は別にかまいませんよー」
管理人さんはニコニコしながら俺のスマホを手に取った。
「何か見られて困るようなものはありませんよね?」
「履歴とか消してきたんで大丈夫です」
「素直に言わなくていいですから……じゃ、ちょちょいとやっちゃいましょうか」
押しに弱いのか、梯さんも笑顔の管理人さんに自分のスマホを手渡していた。
うっ、管理人さん、指捌きがすげえ。歴戦の古強者って感じがする。彼女がスマホを操作するさまを俺や忠山さんはきらきらとした目で見ていた。
「なー里見―」
忠山さんはナチュラルに俺を呼び捨てにする。しかしアドバンテージは年上ということ以外にないし、特に敬われる要素もないので気にはしていない。気にしてない。本当に。
「私ともライン的なやつ交換しようよー」
「おっ、モテ期かな?」
「交換したくらいで? そんなのみんな普通にやってるじゃん」
その言葉は俺に刺さった。ついでに梯さんにも刺さっていた。
「はい、やっときましたよー。あ、ついでにお二人とも、私のアカウント追加しといたんでよろしくです」
「おー、やったぜ。友達が一気に増えた。ありがとうございます」
「いえいえー」
梯さんに管理人さんに忠山さん。三人の連絡先を手に入れたわけか。何でもできるような気がしてならないぞ。
「ところでさー、なんで里見は梯さんとラインしたかったの?」
「いや、本を返したくってさ」と説明すると、忠山さんはあははと笑った。
「里見バカだなー、だったら部屋行った時に返せばよかったじゃん!」
あっ。
俺は、梯さんを見る。彼女は菩薩のような空気を纏わせていた。
「いいよ、里見くんのやりたいようにやるのが一番だよ」
「ま、まあ? そのおかげで忠山さんは俺のアカウントを知れたわけだし?」
「え? だから?」
ボケを真顔で返すな。
さーて、そろそろ飯だな、飯。管理人さんは腕まくりするようなしぐさを見せた。
「よければ皆さん、一緒に食べていってくださいね。今日はいっぱい作っちゃいますよ」
「ヒュー、やったぜ管理人さん! 今日は麺祭でお願いします!」
「私お肉ー!」
「あ、ぼくは少しでいいですから。でも魚がいいかも」
「少しは合わせてくださいよう」
何だか楽しくなってきちゃったな。
へらへらしていると、孝塚さんが俺のことを、今度こそ見つけた両親の仇でも見るようにして睨んでいた。
「その顔、芳文社だったら絶対しちゃいけないやつだからな」
「うるさいなー」と孝塚さんは自分のスマホをこれ見よがしに俺に見せつけてくる。
「おっ、そのスマホカバーおっしゃれりー」
「え、そ、そう?」
「うん」
俺は孝塚さんにそっぽを向いて、忠山さんのポニーテールが揺れるさまを堪能することにした。
「いや、ちょっ……私には聞かないの?」
「何を?」
「何をって……!」
スマホを握り締める孝塚さん。
梯さんは俺に耳打ちした。
「里見くんとライン的なものを交換したいんじゃないかな」
「ははーん、そういうこと。大丈夫。じゃぱり閣には白目の化物はいてものけものはいないからな」
孝塚さんは握りこぶしを作って震えていた。嬉しいのかな?
<6>
管理人さんに夕食をごちそうになった後、俺はある人物が訪れるのをラウンジで待っていた。そいつは日付が変わりかけた、夜遅くになってやってきた。
「ヤツフサじゃないか。よう、まだ起きてたのか」
目当ての人物はハマーである。
俺は軽く手を上げてハマーに挨拶をした。
「何か、俺に聞きたいことがあるって顔をしてるな」
「え?」
「色々と調べ物をしてるらしいじゃないか。何も驚くことはない。そういう話は流れてくるもんだからな」
じゃあ話が早い。
俺は、バイト先から持ち帰った本をハマーに見せてみた。
「バオウ・ザケ……」
「いや、こいつで魔界の王を決めるわけじゃねえから。この本って、どっかで見たことないか?」
ハマーは首を横に振った。
「あんまり興味がないからな、そういうよく分からないものは。ただ、そうだな、犬飼さんのコレクションの中にあっても不思議じゃない」
「だよな」
「おい。俺を試すような真似はやめとけよ。短い付き合いだけど、お前は嘘がつけないタイプだ。『嘘つきはいいお兄ちゃんになれない』って言うだろ」
「言うかあ?」
「おいおい見てないのか。『お兄ちゃんは慙愧の念に堪えない』に出てくる藤白コッペリアちゃんの名言だ」
ハマーは居住まいを正す。
「で、何が聞きたい?」
「この本が盗まれたんじゃないか。盗まれたとしたら、その犯人は誰だ」
「お前が犯人を捜してるのか? なんでまた」
「まあ、訳ありで」
「先に言っておくと俺は知らない。疑われるようなこともしていない。本が盗まれたって話があったのは本当だ」
俺は迷ったが、金遣いが荒くなったやつを捜しているのだとも告げた。
「はっは、そういうことか。俺は荒くなったんじゃない。元から金遣いが荒いんだ。でも言いかたが気に入らないな。金に糸目をつけないだけだ」
「お盆と年末年始にしこたま段ボール箱が届くとか」
「そりゃお前、ヤツフサ知らないのか? 日本三大祭りの両翼を担う夏コミと冬コミはその時期にあるだろ。現地に行って、たくさん買って、こっちに送るんだ」
「……段ボール何箱分も買うのか?」
「本はかさばるし、物販も色々あるからな。段ボールが何箱だって? 足りないくらいだ」
いいなあコミケ。俺もウス=異本とか欲しい。
「目の付け所はいいかもしれないぞ。確かに本が盗まれたのは夏コミの前だ。愛好家にとって物入りになる時期だろうし、何としても金が欲しいってやつがいても不思議じゃない」
「でもイベントに行きたいからってそんなことするかな、普通」
「それは分からない。一つ言えるのは、ヤツフサの普通はみんなの普通とは違うってことだ。もちろん俺の普通とも」
ハマーは、俺を諭すようにして言った。
「ヤツフサにも事情があるのは分かる。正直言って気は進まないし、本の盗難に関係しているかどうかは分からないが、妙に思ったことはある」
言いづらそうにしてから、ハマーは重々しい口調で俺に告げた。
「タカツカのことだ」
「孝塚さん? あの人が何か?」
「ああ。芳流閣には好事家が多い。俺もそうだし、お前もそうだ。犬飼さんだってそうだ。俺が言った日本三大祭りに参加するやつだって俺の他にもいる。そのうちの一人がタカツカだ。彼女も今年の夏コミには参加していたはずだ」
孝塚さんが?
いや、でも、オタクならイベントに参加するのは『普通』だしな。ただ、彼女は今朝、そのことをはぐらかしていたようにも見えた。
「俺も現地から大量の段ボールを芳流閣に送ったが、タカツカにも二、三箱分は届いていた。向こうで何か買ったんだろう。あるいは……」
「あるいは?」
「いや、それはいい。それから、タカツカはその前後にオオヤと話をしていた。ラウンジで何度か見かけたことがある」
そら話くらいするだろ。
「遠くから見ていたからはっきりとはしないが、恐らく家賃の滞納について話していた」
「遠くから見ていたってのになんでそんなことが分かるんだよ」
「読唇術だ。ロスにいた時に習得した」
なるほど。それなら納得だ。読唇術なら俺にも使える(と信じている)。
「でも、そうなると孝塚さんはお金に困っていた。もしかすると今も困ってるかもしれない?」
「まあ、そうかもしれないって話だ。……ヤツフサ。ここは適度な交流を求めるやつが来る場所だ。必要以上に踏み込まれたくない。しかし一人では寂しいって連中の居場所なんだ。そのことを忘れて欲しくない」
釘を刺されてしまった。でも、そうだよな。
「分かった。悪かった」
「いや、悪くはない。お前にも事情があるのは分かったしな」
「でも気をつけるよ」
「そうか。それじゃあな、俺は部屋に帰ってやるべきことがある。まだ今期のアニメ全部はレビューできてないんだ」
俺が頷くと、ハマーはエントランスの方へ戻ろうとする。
「気をつけるといったら……ヤツフサ。犬飼さんには気をつけろよ」
「へ? なんでさ。あの人は」
ハマーは俺の話を聞かず、軽く手を振ってエレベータに乗りこんでしまった。