俺は好きだよ
<1>
「うわああああああああああああっ、死ぬ! もう死ぬ! 絶対死ぬうううう!」
孝塚さんはまた飛び降りようとしていた(二階から孝塚)。
「振り出しに戻してどうすんのよ!」
「顔はやめて!?」
痛烈な一撃を頬に見舞われる俺。義川さん、手首のスナップ効き過ぎィ。
「里見さんのバカアホ! あと少しだったのにどうして余計なこと言っちゃうんですか! 退去ですよ! 退去!」
「丸く収まりかけたじゃないか。何がしたいんだ、ヤツフサ」
「うーん。でもさ、みんなもそう思わなかった?」
「え?」
いや、え、じゃなくて。
孝塚さんの漫画、みんなも読んだはずだ。そして思ったはずだ。いや思わないはずがない。
「確かに絵はまあまあ上手いんだけど、コマ割りとかストーリーとか台詞回しとか……つーかだいたいの要素がクソだなって。面白いのはあとがきだけだったぞ」
あとがきには孝塚さんの言い訳とかゴミのような近況報告がつらつらと綴られていて、そっちを絵日記にした方が面白そうだった。
「クソって……」
「本当に信乃が死んじゃうぞ」
でもクソだったと思う。そして強い反論が出ないのを見ると、みんなもそう思っているに違いない。
「や、でも、今言う? 火事だし、飛び降りようとしてるし、本当に死んじゃうかもしれないんだけど」
「今しかないし、どうせ孝塚さんは死なないって」
俺は孝塚さんを一瞥した。
「だって死ぬほどビビりなんだもんな」
「……どういうこと?」
孝塚さんは恥ずかしがっていたんじゃない。怖がっていただけだ。彼女がずっと待っていたのは人の目だ。声だ。感想で、評価だ。それもクラブ活動でやるような温い傷の舐め合いじゃない。傷つけ合いの殺し合いを望んでいたのだ。
高校で嫌な目に遭っても、諦めようと思っても、それでも続けているのが漫画だ。孝塚さんが欲しがったのは素直な感想であり正当な評価であって、優しい言葉でも温い嘘でも何でもない。
「今まで誤魔化されてきたんだ。ちゃんとした感想をもらったことがないし、評価だってされたことがない。だから、本当のことを人から言われるのを嫌がってただけなんだ」
それでも。
それでも、孝塚さんは漫画を描いて本にして、イベントに参加した。いつか『本当』のことをぐさりと刺し込まれるのをじっと待っていた。
「そ、そんなに……」
孝塚さんは泣いていた。
「そんな、普通、そんなクソクソ言う? そこまで言う? だって私、頑張ったし……睡眠時間削ってたし、締め切りやばかったけどやったんだよう゛……?」
「そんなもん漫画描いてるやつら皆おんなじこと言うだろ。趣味なんだから、社会人の人なんか仕事しながら時間作ってコツコツやってんじゃないの? みんな頑張ってるんだ」
「つーか、つーか……何? どこがクソなの? なんかさ、そんな適当な感じで言っちゃってさ……具体的にどこが悪いとか、そういう建設的な意見なくない? 適当にクソとか言ってない?」
俺たちは顔を見合わせた。
ハマーは同人誌を開き、それを孝塚さんに見せつける。
「八ページ目のここ、パースが狂ってる。いや、まあ、ここ以外もだいたいおかしいんだけど」
「なあ。なんでこいつらみんな横向きなんだ?」
「そういえば正面向いてませんね」
「ポーズも構図も似たり寄ったり……あ、17ページんとこね」
「つーかこんな男いないよね」
「多分、盛り上げようとしたんだろうけど、伏線ないのに急に出てくるんだもんな。作者の頭ん中は設定とか流れって完璧じゃん? でも読んでる方はそんなもん知らないし把握できてないんだから」
「伝わってないよね」
「俺さ、やべーことに気づいたんだけど、これ、二巻なんだ」
「ああー、道理で話が無茶苦茶だと思いました。えっ、ていうか一巻があったんですか」
「誰に求められて続きを出したんだろう」
「台詞だって一々漢字にしなくてもいいよな。『ない』を『無い』とか。なんでわざわざ難しい言葉使うんだ?」
「そもそもこれ、ルビが振ってないからキャラの名前がなんて読めばいいのか分からないぞ」
「『俺の女に手を出すな』ってこれ信乃ちゃんが言われたいんじゃない?」
「wwww」
「もういい! 分かった! 分かったからやめて! やめてーーーー!」
丑三つ時に叫ぶ女がいた。その女は窓からずりずりと降りて、廊下の壁に体を預けた。
「赤ペン先生がいたら全ページ真っ赤になってたな」
「……分かったから」
少しやり過ぎてしまったような気もする。でも、孝塚さんが望んでいたのはこれだったはずだ(本当にそうか?)。
こ。これだったはずだ。そうだよね……?
「まだ漫画描きたい?」
俺が聞くと、孝塚さんはきっとねめつけてきた。そんなもん、聞かなくても分かってたけど。
「諦めるつもりなんかないんだよな」
「さっきまでは分かんなかった。『下手くそだから諦めろ』って言われたら、私、どうなるんだろうって思ってたけど……」
孝塚さんが待ってたのは他人の評価だけじゃない。そいつを聞いて、自分がどうなるのかが知りたかったんだろう。
諦めろって言われて、諦めてたまるかって気持ちがちゃんと自分の中にあるのか。それを知りたかったのかもしれない。
「あァ、くそ。ありがとうね、里見くん」
それはそうと火事だった。
<2>
「誤報?」
「はい……」
管理人さんはラウンジでしゅんとうなだれていた。
火事は起こっていなかった。火災報知器は誤作動を起こしていたそうだ。
「でも、煙は見えましたよ」
「アレはどなたかが自分の部屋で焼いていた魚を焦がしてしまったそうで……そちらも大事なかったようです」
一件落着というわけだった。
妙な気分になりながらも、俺たちは部屋に戻る。もうじき、夜明けだった。
「おかえり、旦那さま」
「ただい……いつ部屋に戻ってたんだ?」
「結構前からかな」
金鞠はベッドで寝転がりながら漫画を読んでいた。孝塚さんの同人誌だった。
「もしかして知ってたのか?」
「ん、何を」
「火事じゃないってことをだよ。すげー余裕たっぷりじゃん」
「前にも同じようなことがあったんだよ。よく誤作動が起こる報知器なんだ、あれ。ちょっとしたことで過敏に反応する……現代社会みたいだよね」
適当なことを言うな。
俺はベッドの縁に背中を預けた。死ぬほど疲れたし、ビビった。最悪の夜だったな。
「けど、火事じゃなかった。呪いなんてやっぱりないんじゃないか」
幽霊の正体見たり枯れ尾花。呪いも占いの一種みたいなもんだろう。人生なんて何が起きるか分からないんだし、その結果をどう受け止めるかが大事なんだとしたり顔になっているであろう俺。
「それはそうと旦那さま。表に誰かいるよ」
「えっ、怖い」
俺はドアを見る。その向こうに誰かが立っているらしい。
「……誰?」
「さあ、そこまでは分からないけど。開けてあげたら?」
勢いよくドアを開けると、ふぎゃっという声がした。見ると、おでこを押さえている孝塚さんがいた。
「ああ、なんだ、ホッとした。お化けかと思った」
「いった……私……ていうか、なんで私がいるって分かったの?」
「勘」
「ああ、そう、いったぁあ……」
孝塚さんは折れた日本刀が膝に刺さったような顔をしていた。俺は部屋の中の金鞠に目配せしてから、よかったら中に入るかを尋ねた。
「いいの?」
「なんか話があったんじゃないの?」
「それじゃ、お邪魔します。あの。夜中にごめんね」
「いいよ、もう朝になるし。大学はサボりかな」
「あはは、だよね」
金鞠はまた部屋の隅で気配を消していた。孝塚さんはきょろきょろとしていたので、座布団代わりに俺の枕をよこした。
「あ、どうも。何これ。枕? つーか、うわー、この部屋、何もないんだね。あれ?」
「どしたん?」
「もしかして、さっきまで誰かいた?」
え?
「この部屋に? いや、ずっと俺一人だったけど」
「そう?」
孝塚さんは部屋の隅を訝しげに見つめている。金鞠に気づいているのか?
「な、何か変なもんが見えたりする?」
「え? ううん、別に。変なこと言ってごめんね」
「いやいや、大丈夫大丈夫」
俺は窓の傍に腰を落ち着かせた。しかし、女の勘というやつだろうか。金鞠が見えてるんじゃないかってちょっと焦った。
「あ。それで話ってのは?」
「ああ、うん。話は……」
孝塚さんはたっぷりと視線をさまよわせた後、意を決したようにして口を開く。
「そんな、言うほど面白くなかった?」
「何が」
「私の漫画」
「ああ、漫画ね。うん。面白くなかった」
「そんなはっきりと……」
がっくりと肩を落とす孝塚さん。
「でも、すごいし、羨ましいと思ったのはマジだよ。それに、俺は好きだよ」
「は……!?」
俺には何もない。
やりたいことやなりたいものなんか見当たらない。捨てよう。諦めようと思ってずっと引きずって、引きずり回して。それでもやっぱりしがらみみたいにくっついてくるもんをどんな目で見りゃいいんだろうな。血反吐吐くような思いで、顔から火が出るほど焦ってムカついて、生活や人生を賭けようって熱くなれるものなんかない。だから、そういう夢のある人はすげーって思うし、そういうのは好きだ。
「孝塚さんも好きだろ」
「自惚れないで欲しいんだけどっ、誰が里見くんなんかを」
「……? 漫画のことなんだけど?」
「あ。……ああ、漫画ね。え、えへへへ、そっちね、うん、好き。やっぱり、描くのやめらんない」
孝塚さんの目が泳いでいた。
「たぶん、好き。よく分かんないけど、文句言ったり、愚痴ったり、どうしようもなくなって腹が立ってうわーってなったりするけど。……けど、好きなことはやめらんないと思う」
「そっか。新しいの描いたらまた読ませてくれよ」
「また馬鹿にするんでしょ」
「なんで? しないよ。素直な感想を言うだけだよ。いいところはいいって言うし、クソだと思ったところはクソだって言う」
友達だろ。遠慮したって意味ないじゃないか。
「もう少しこう何というか、手心というか」
「じゃあ、嘘ついてでも褒める」
「それはそれでヤだな」
めんどくせーな! どういうメンタルしてんだよ!
「好きなことは続けなよ。いや、言われなくてもそうすると思うけど……俺も孝塚さんの漫画、また読みたいし」
「ホントに?」
「ホントだよ。自慢していい? 今度島に帰ったら、俺の友達って漫画描いてんだぜって」
「そ。それはちょっと、その、そんなたいそうなものじゃないから。自信ないし」
「じゃあ自信つくまで付き合う」
「……里見くん」
何。
「もしかして、私のこと好きなんじゃないのってくらいぐいぐい来るね」
「(孝塚さんの描く漫画の出来はさておき、夢に向かってもがいたりあがいたりしてる人は)好きだよ」
孝塚さんは顔を押さえて転がった。
「島育ちパねー、なんでそんなことこっちの顔見て言えんのー?」
「楽しそうだな」
「楽しくねーし! あっ」
転がっていた孝塚さんが何かを発見したらしく、ぴたりと動きを止める。どうやら金鞠がさっきまで読んでいた同人誌が気になったらしい。
「いつの間に持って帰ってたの」
「あー、ごめん。つい」
「……それあげる。本当は八〇〇円するんだけど」
たっけー。半額でも買わねーわ。
「何、その顔」
「何でもないよ。あ、それと、漫画のこと好きなんだろ。好きなことを好きだって言えないやつと友達になったってしようがないと思うぞ」
「え、なに、いきなし。束縛するつもり?」
「大学の友達にもいつかは言いなよ。分かってくれない人もいるかもだけど、分かってくれる人だっているよ。って、まあ、友達のことなんか俺にはよく分かんねえんだけど」
「うん。言う」
「え? あ、そう?」
「いつかはね。ちょうどいいし、どうせ漫画が最優先になるの決まり切ってるからさ、旅行とかも誘われてるけど、ほら、冬休みじゃん? コミケと被るし。旅行なんか行ってる暇ないんだよね。また、忙しくなるし……」
孝塚さんは無理して笑っているように見えた。空元気でも元気は元気だ。本人が明るく努めたいと思っているのは、そこまで悪くないことなんだと思えた。
「ありがとね里見くん」
「や、俺なんか全然」
「それで本題なんだけど」
本題? 今のが本題じゃなかったのか?
不思議に思っていると、孝塚さんは頭を下げて、小さな声でごめんと謝った。
<3>
「私、里見くんのこと、芳流閣に来るより前から知ってたの」
「……大学で俺のことを恋する乙女のように見てたってこと?」
「違う」
孝塚さんはそこでようやく顔を上げた。
「あのビデオ屋で」
「俺のバイト先で?」
部屋の隅で金鞠が動く気配があった。俺はそっちを見そうになったが我慢する。
「うん。里見くんが、何かを探してるのは知ってた。ハマーからも色々聞いてたし……本当に、ずっと黙っててごめんね」
まさか。それじゃ……。
「あの、魔導書っつーか、得体のしれない本を売ったのは、孝塚さんだったのか」
孝塚さんは小さく頷いた。
「里見くん。私のこと全然気づいてなかったの?」
「まあ、うん」
「……そっか。私のこと、他の人と見分けがつかないとか言ってたもんね」
「じゃあ、その、あの本を盗んだのって」
「それは違うっ、違うから!」
え?
「そう思われるのが嫌だったから言えなかったんです。……あの本は、犬飼さんからもらったものなの」
「犬飼さんから? え、もらった、の?」
「そう。私だけじゃなくって、入居者の人はみんな持ってると思う」
「どういう意味……?」
「ハマーも義川さんも、管理人さんも持ってると思う。芳流閣に来た人には引っ越し祝いだからって犬飼さんがくれるんだけど、里見くんはもらってないの?」
もらってねえし、そんな話聞いたこともない。
「でも、ほら、あの本ってその、趣味が悪いというか、気味が悪いじゃない? 夏コミの前でお金に困ってたのもあって、DVDとかと一緒くたにしてあのビデオ屋に持っていったの」
「なんでまたあそこで売ったんだ?」
「あの店は何でも買い取ってくれるってハマーが言ってたし」
店長、あなたの店はここいらじゃガバガバで通ってます。
「まさかあの時の店員さんが里見くんで、しかもここに引っ越してくるなんて思いもしなかったけどね。あの本を売ったのは私。でも盗まれた本とは全然別物なの。……ねえ、里見くんって犬飼さんの……『イヌ』でしょ」
わ、わうん? イヌ?
「だから、犬飼さんに色々と頼まれて盗まれた本のありかを探ってるんだと思って……勘違いされるかもしれないし、私が本を売ったことは黙ってたの。余計なこと喋られたら困るし」
「だ、だから見張ったりしてたのか?」
「本当、ごめん」
頭がこんがらがらがら。
その時、肩をつんつんと突かれた。金鞠だ。彼女は孝塚さんを何度も指差している。……そうだ。難しく考える必要はない。俺を呪ったであろう本を彼女は所持していた。そこは間違いなく、本当のことなんだ。
「孝塚さん。犬飼さんにもらった本の中身は? 読んだ?」
「何が書いてるのかさっぱりというか、何語かも分かんなかったけど」
くそ、駄目か。
「あの、もしかしてあの本って、めっちゃ貴重なやつだった?」
「や、そういうわけじゃないんだけど……」
だけど、あの本には何か書かれていただろうし、そうでないと困るんだ。でも、その本はもう焼けてなくなってしまった。この世からきれいさっぱり。ってことは、俺の呪いを解く方法も、金鞠の記憶を取り戻す手がかりも、この世から消えてしまったってことだ。
俺が相当深刻な顔をしていたのだろうか、孝塚さんは申し訳なさげにして顔を覗き込んでくる。
「あの本、お店に残ってないの?」
「その……うん」
「中身が知りたかったの?」
「そうなんだ。その、ちょっと事情があって」
「……もしかしたらなんだけど、他の誰かが同じ本をもらってるかもしれない」
俺と金鞠は孝塚さんをじっと見つめた。
「うっ、なんかすごい圧……! あ、あのね、犬飼さんが言ってたの。『こんなレアっぽい本もらっていいんですか』って聞いたら『同じようなものをみんなに配ってるから気にしないで』って」
だったらまだ可能性はある。というか、魔導書の出どころは犬飼さんかよ。やっぱりあの人に直接話を聞いた方が手っ取り早い。
「教えてくれてありがとう、孝塚さん」
「そんな、そういうの、いいよ。私が悪いんだから」
「悪くないよ」
悪いのは俺だ。主に頭が。
あの本が燃えてしまったのは残念だが、同じ本を誰かが持っているかもしれない。それが分かっただけでも十分だ。
「里見くん、大丈夫?」
「うん、へーきへーき」
「よかったら私も何か手伝おうか?」
その申し出は有り難かったが、なるべく俺一人でやりたかった。真偽はどうあれ魔導書だの呪いだの、そういうのに友達を巻き込みたくない。
「俺の方こそ、漫画で何か手伝うよ。ほら、アシスタント的な」
「えっ。里見くん、絵、描けるの?」
「人間、諦めないのが大事なんだなって」
「あはは、困ったらお願いするかも」
<4>
孝塚さんがいなくなった後、金鞠が口を開いた。
「同じような本って言ってたね」
「ああ。犬飼さんに聞くしかないだろうな」
「それか、マンションの人たち一人一人に当たってみる?」
当たるのは俺じゃないか。
「つーか、みんながまだ本を持ってるかどうかが怪しいよな。孝塚さんみたいに気味悪がって売ったり捨てたりしてる人がほとんどだろうし」
「でも、ひとつ合点がいったね。ハマーってのが魔導書を倉庫に置いてたのは……」
「犬飼さんからもらったやつだろうな」
うーん。とりあえず魔導書の所持が確定しているハマーから当たってみるか。
「なあ、金鞠。一つ聞きたいことがあるんだけど」
「なあに」
「孝塚さんは、呪われてるのか? もらったってことは、魔導書に触ってるだろ。触れたら呪われるんじゃないか?」
「それは人によりけりだよ。まさかさっきの人が魔導書のページでお尻を拭いたってこともないだろうし」
それはそうか。
「じゃあ、孝塚さんは大丈夫なんだよな」
「あたしのこともはっきりとは見えてなかったみたいだしね。まあ、ほんの少しくらいは存在というか、そういうのを感じてたっぽいけど」
「そっか。ならよかった」
「人のことを気にする余裕はあるんだね」
「嫌みかよ」
「褒めてるんだけどな」
よし。
ハマーと犬飼さんにアタックだ。
<5>
だが、犬飼さんはなかなか芳流閣に姿を見せないし、連絡を取ろうにも誰も彼女の連絡先を知らなかった。
だったらハマーだとばかりに彼を探したが、どうやら宝物であるグッズを二度も失いかけたショックから、彼は引きこもりがちになっていた。部屋まで尋ねていっても『TSして俺好みの容姿になるまで来るんじゃない』とかのたまって錯乱している。魔導書の捜索は難航していた。
月日が経つのは早い。じき、新しい月になろうとしていたある日のことだ。学校からマンションに帰ってくる途中、犬飼さんの後ろ姿が見えた。あの黒衣。あのいで立ち、間違いない。彼女は俺よりも一足早くマンションの中に入ろうとしていた。
「犬飼さん!」
犬飼さんがゆっくりと振り向くのが分かった。
俺は信号が青なのを確認して歩道を横断する。だが、それでもやはり注意力が散漫になっていたのだろう。猛スピードで突っ込んでくる車に気が付くのが、少しだけ遅かった。
っていうか、あれ? なんで車が来てるんだ? そっち赤信号だろ?
なんてことは一瞬で頭の外へぽんと放り出された。俺の体もぽんと宙に投げ出された。痛いとは感じなかった。ただ頭の中がぐしゃぐしゃになってまともに物が考えられないでいた。
「あ……?」
犬飼さんが悲鳴を上げていた。案外かわいい声だった。
俺を轢いたのはワゴン車のようだった。運転手の顔は見えない。何とかして中空でバランスを取り、車のフロントガラスに着地を試みて足をぐねって車道に落ちた。俺を轢いた車が急ブレーキをかけている。音がする。対向車が見えた。クラクションを鳴らしているのはバカでかいトラックだった。そいつがすぐそこまで迫った時、俺の脳裏を何かがよぎった。それは今までの記憶だ。これが走馬灯というやつなのだろうか。
芳流閣に来てからのこと。来る前のこと。島にいた時のこと。ぐるぐると回る。そうして気づいた。
火事の時だ。
俺が前に住んでいたアパートが焼けた時、あの時、俺の部屋のドアは開け放たれていた。自分で開けた記憶はない。俺はしっかり鍵をかけていたはずだ。じゃあ、どうしてだ。どうしてあの時は開いていた? ……誰かが。俺以外の何者かが、俺の部屋に入ったんじゃないのか?
そこまで考えた時、ぷつりと意識が途切れてしまって、もう、そこまでだった。