やばいくらいつまらなかったけどな
<1>
お兄ちゃん。
人生で一度は言われたい言葉だ。ニコッと笑って親しげに呼びかけてくれる。そんなヴェルタース的な存在を俺は心底から欲していた。小さいころ、サンタに妹をお願いした覚えがある。どうしても欲しくて駄々をこねたのだ。そんな俺を見かねた母さんは、
『うーん、でももうお父さんアレだから。サンタでもちょっと無理かも。トナカイの角を煎じて飲んでも効かないと思うの』
『アレって?』
『お父さんはね、もう立てないの。ドントスタンダップでヴィクトリーできないの。もう一度どころかずっとテンダネスなの』
『え、でも、今日もお父さん、お仕事に行ってるよ……? 怪我とかしてないよ?』
『せやな。ホンマ八総の優しさと来たら三千世界に響き渡るで……』
あの時、母さんは泣いていた。どうしてだろう。
しようがないからお手伝いの梓さんに頼んだら十年後、妹じゃなくて娘だったら考えてもいい。そして俺の協力が不可欠なのだとも言った。あれから十年は経ったが、いったい何のことだったんだろう。話はそれたが『お兄ちゃん』には魔力が宿っている。ある種魔法だ。しかし俺は知らなかった。『お兄ちゃん』という魔法を使えるのは何も妹だけではないということに。そう、ちょっと強面で高そうなスーツを着た男だって『おう、お兄ちゃん、ちょっとええか?』 という魔法を扱うのだ。
お兄ちゃん。その言葉は同じだというのに誰が言ったかであんなにも違うのか。
「金鞠。ちょっと、ほら、俺のことお兄ちゃんって呼んでみて」
「朝っぱらから何言ってるのさ。……ああ、朝だから寝ぼけてるのか」
窓から注ぐ陽光が部屋に少しずつ温もりを届けている。朝の空気と金鞠の香りを胸いっぱいに取り込んで、俺はベッドから起き上がった。金鞠は薄い本を読んでいた。ハマーにもらったやつだ。マジで、読めるんなら何でもいいんだな。
「だいたい、あたしと旦那さまはどっちが年上なのか分からないじゃないか」
金鞠は薄い本をぺらりとめくり、こともなげに言った。
「それもそうか」
記憶を失っている金鞠。見た目だけでお前、妹決定していたが、もしかすると姉だったかもしれねェ……。
「じゃあちょっと、俺のことを弟として可愛がってみ」
「うるさいなあ。ちょっと旦那さま、あっち行っててよ。つーか話しかけないでくれる?」
「そういうリアルっぽい反応はやめろ」
俺には姉妹だの兄弟だのはいなかった。金鞠はどうなんだろう。
「あたしは……妹とか、姉はいたような気がする。思い出せないんだけどね」
「へー。じゃあ俺が性転換して妹か姉ちゃんになったら何か思い出すかな」
金鞠は口を利いてくれなくなった。冗談なのに。
<2>
ラウンジで管理人さんの作ってくれた朝ごはんをメリメリ食べていると、ふと、どうしても彼女にお兄ちゃんと呼んで欲しくなった。いや、分かっている。皆まで言うな。
「管理人さん」
「はい、なんですか」
管理人さんの笑顔は実に眩しく可愛らしい。全て包み込んで許してくれそうな、地母神のような凄味がある。
「ちょっと俺のこと、お兄ちゃんって呼んでください」
「はい? なんでですか?」
「そういう日ってあるじゃないですか。昨日まで何ともなかったのに、どうしてだかコンボができなくなっちゃうー、バースト読まれて画面端に連れてかれちゃうー、みたいな」
「はあ。でも私、里見さんより年上ですよ。お姉さんですよ」
お姉さんぶる管理人さんも可愛いが、こうもちっこくては妹にしか見えない。
「それに私は『お兄ちゃん』呼びより『兄者』とかの方がいいですね」
「兄者て」
「あるいは兄上とか」
「あっ、それはちょっといいかも。じゃあ管理人さん、くノ一やってください。今までエッチな術に興味なかったお堅い性格だったけど兄である俺が里を抜けてしまい、妹である管理人さんが追手に選ばれたんですけど俺を連れ戻すのは一筋縄ではいかないので仕方なく房中術を習得しようとするんですが……」
「朝から何言ってんのアホらしい」
「何だと」
俺の考えた最強の設定語りを邪魔したのは孝塚さんだった。彼女は食後のコーヒーに口をつけようとしているところだった。
「そんなことばっかり言ってるからツイッターで声優に絡むオタクみたいに気持ち悪がられるのよ」
「いつ、誰が気持ち悪がられてるってんだよ!」
孝塚さんは同じテーブルにいる忠山さんを一瞥した。
「今まさに、せつかちゃんが、里見くんのことを、ゴキブリでも見るかのように」
俺は忠山さんを見たが、彼女はぷいっと顔を反らした。
「キショい」
「うわあ!?」
短い言葉でざっくりやられるのが一番心に来るな。少し反省。
俺は気を取り直して、孝塚さんにも管理人さんに言ったのと同じことを頼んだ。
「はあ? なんで私が里見くんなんかを……つーか私ら同級じゃん」
「いや、だから同年代にお兄ちゃんと呼ばれたらどうなんのかなって。そういうんじゃないよ。ただの知的好奇心だよ。だから早く『お兄ちゃんだーい好き、チーズタッカルビより好き』と言え」
「欲望剥き出しじゃない。何が知的なんだか……」
「違うっ。俺が好きなのは妹なんだけど妹じゃないというか」
孝塚さんは既に話を聞いていない様子だった。俺は忠山さんの方に向き直る。彼女は椅子から立ち上がり、妙な構えをとった。
「近寄るな!」
ふーふーと野良猫のような警戒心である。俺は猫が好きだ。邪険にされると構いたくなってしまう。
「忠山さん。君はシステマを知っているかね」
「知ってる」
「脱力と柔軟性。ロシアの合気道とも言えるシステマ。呼吸し続け、リラックスを保ち、姿勢をまっすぐに、そして移動し続ける。さらには恐怖と苦痛を和らげるシステマ・ブリージングという呼吸法。いいかね。俺はこれをマスターしている。つまり俺に痛みという感覚はなく、DOAでいうところのマリー・ロー○ちゃんと同じスタイルをとることで実質俺はマリー・ロ○ズちゃんであり」
「シェイハ!」
「あっっっっ!?」
話の途中でローキックを放たれた。死ぬほど痛くて、俺はその場に転がった。ごろごろと転がりながら忠山さんのスカートの中を覗こうとして尻をけっ飛ばされた。
「七転び八起きを地でいくやつね」
カシャカシャカシャというシャッター音が聞こえてくる。
「くそー、孝塚さん、俺の無様な姿を待ち受けにするのはやめろぉ……」
「しないっつーの」
システマ・ブリージングで圧倒的な回復力を得た俺は、テーブルに手をつきながらひいひいと立ち上がった。忠山さんはまだ構えを崩さない。
「というか忠山さんは俺より年下なんだから、俺のことをお兄ちゃんって呼ぶべきだと思う」
「こいつ心が壊れてるわ」
「そもそも私は『お兄ちゃん』って呼ばないぞ」
ん?
「忠山さん、お兄さんいるの?」
「いるぞ。『にぃ』とか『にぃに』って呼ぶ」
「にぃに! 何それ! じゃ俺もそれでいい」
「ヤだ! 里見が私のにぃ……兄貴だったら血を全部入れ替える。里見の血を」
「俺のかよ」
何の血と入れ替えるつもりだ。
しかし忠山さん、リアル妹だったのか。
「ところで管理人さんにはご兄弟とかいらっしゃいますか」
「はあ。私は、幼少のみぎり母親と喧嘩して火口に投げ捨てられたので、家族のことはあまり……」
「三島家かよ」
<3>
「梯さんは『兄さん』って感じだよな」
「え、急に、どうしたの」
梯さんと駅前で昼ご飯を食べている時、俺はふとそう思った。
「や、俺さ、朝からどうしても『お兄ちゃん』って呼んで欲しくてたまらなくなったんだ」
「里見くん。妹さんがいるの?」
「いや、いない。だからこそなんだ」
「そうなの? でも、ぼくは妹っぽくないと思うよ。ほら、背が大きいし、無愛想だから」
背が高くて無愛想な妹もいると思うけど。むしろそういうのもいいと思うけど。
「梯さんには姉ちゃんとかいるの?」
「ううん、弟と妹が一人」
「おっ、長女なんか。確かに。梯さん、しっかりしてそうだし」
「そうかな。ぼくは、ぼんやりしてるって言われるのが多いけど」
梯さんはお姉ちゃんだったわけか。姉ちゃんか。そういうのもいいな。
「じゃあなおさらだな。ちょっと『兄さん』って呼んでみ。いつも敬語でクールなんだけど内心は俺のことがスーパーウルトラハイパーミラクルロマンチックに好きって感じでお願いします」
「難しいよ……」
「ええええええ梯さん妹になりたい願望ないの?」
困ったように笑うと、梯さんはお茶を一口飲んだ。
「そろそろ戻らない? お昼休み終わっちゃうよ」
促され、俺は梯さんに続いてベンチから立ち上がる。次の講義は珍しく彼女と同じだったりする。隣同士で講義を受けるのだが梯さんは真面目さんだし口数が少ないので特に何もない。ただ隣に座っているだけ。しかしそれが最後の一匹となったドードーよりも孤独だったであろう俺の心に温かさを与えてくれるのだった。
駅前から大学に戻り、教室に入ると大概の席が埋まっていた。
「後ろの方しか空いてないね」
「参ったな……」
自慢じゃないが俺には友達がいない。というわけで講義の間お喋りをする相手がいないし、居眠りするのもどうかと思うし、そもそも枕が変わると眠れないほど繊細なので前の方の席で講義を受けるのが性に合っている。
しかし世の中には学ぶために大学へ来たはずの人間に混じり、教室の後ろの方でペチャクチャしたりトランプしたり居眠りする学生もいる。何のために教室へ入ってくるんだか分かんねえ。とにかく後方の席は講義を聞くには気が散る環境なのだ。
「つーか冬休みどうする?」
「どこ行く?」
「えー? べつどこでもー」
「寒いとこ行かね? 逆に」
「え、いや、それは絶対ない」
「どこでもいいって言ったじゃん……」
案の定、俺たちの二列ほど後ろが騒がしかった。男女混合のグループが冬休みの予定を楽しそうに話している。率直に言って羨ましい。俺は冬休みどうしようかな。こたつ入って年越しカウントダウンのテレビ番組でも見るか。いや、ちょっと待て。俺の部屋にはこたつもテレビもラジオもねえ。寂し過ぎない? ……ひい! 想像しただけで恐ろしい! この恐ろしさを分かち合いたい。隣の梯さんを見るが、彼女はじっと講義を聞いている。声をかけて邪魔をするのは忍びない。なもんで俺はルーズリーフに『冬休みってなんか予定ある?』 と書き、それを梯さんの手元にすっと置く。
「……?」
彼女はそのルーズリーフに書かれたことを見ると、俺を見て小さく笑った。そうして彼女もまたルーズリーフに何かを書き込み、俺の手元に置き返してくる。
『読書かな』
いつも通りだった。なるほど。そうだよな。新年明けましたところで何が変わるというわけでもない。ヴァレンタインやハロウィンなどわざわざ誰かの用意したイベントに乗っかる必要はなく、自分たちで毎日をスペシャルにしていけばいいわけだ。梯さん。君の心意気は受け取った。俺は『梯記念日』とルーズリーフに書き込み、それを彼女の手元に戻した。梯さんは困惑していた。
『どういう意味?』
『俺の中で天才は天原と古賀○一と杉作○太郎だったけど、そこに梯さんも刻んで天才四天王にしたという日』
『何それー』
梯さんは声を出さないで笑っていた。そうやって二人でこそこそしていると、背後から猛烈な視線を感じた。これは……孝塚さんの気配だな。彼女はどうやら後ろの騒がしいグループにいるらしい。そう言えば聞き覚えのある声がしていたっけ。
携帯も震えた。机の下でこっそり確認すると孝塚さんから中指を立てたキャラクターのスタンプが連打されていた。なんでやねん。
「……あのさ。信乃ちゃんって付き合い悪くない?」
そこにいる人たちの話がぴたりと止まってしんと静まり返る時、それを天使が通るとも言う。天使が手ぇ上げて横断歩道渡っている時にF1カーが突っ込んできた感じ。遠慮がちな、しかしはっきりとした言い分。俺と梯さんは思わず手を止めてしまう。
聞こえてきたのは孝塚さんたちのグループ、そのうちの一人から発せられたものだ。やや間があって『いきなり何言ってんだよ』と茶化すような声。しかし妙な緊張感は変わらない。孝塚さんからのスタンプ爆撃も止んでいる。
これは、修羅場(悪鬼羅刹が大盤振る舞いするイメージ映像)?
「や、だって……信乃ちゃんって旅行どころか、遊び誘っても来ないし、他のグループ転々としてるっつーか」
「あー、あの子とも一緒にいたよね。ほら、あの、バスケやってるのと付き合ってる野口さん? だっけ?」
「クソダサい車のやつ?」
「そそそ、そいつ。つーか野口って中学同じだったんだよね。大学入っていきなり何髪の毛染めてんの? みたいな」
「別に染めるのはよくね?」
「あんたさ……もう喋らないでくれる?」
うっ、険悪! 見なくても分かる。これ怖いやつや。というか講義中に切り出すような話かね。素面じゃ言えないよ、夏。そういう話は喫煙所とか体育館の裏とか裏垢とかでさあ。
「まあ、何? なんつーか、はっきりしたらいいんじゃない?」
と、言われている孝塚さん。果たして彼女に責はあるのだろうか。
俺には分からない。
そもそも、なぜに孝塚さんは責められているのだろうか。彼女が遊びの誘いに応じないからか? 一つのグループにとどまらないからか? そいつの好きじゃないやつともつるんでいるからか?
それの何がいけないのか、俺には分からない。思ったのは、人間ってめんどくせえなって。
結局、孝塚さんは明確な答えを出さなかった。そんな便利なもの、持ってる人の方が少ないに決まってる。
<4>
大学が終わって、俺は日々の糧を稼ぐべくアルバイトへ向かった。
「あっ、くそ、このクソアプリまた落ちやがった」
「アルバイト中に携帯を弄るなって何度言えば分かるのかな!」
「あ、店長、ちわーす。なんだ、もう来たんですね」
俺は携帯をズボンのポケットに戻した。
「人を思春期の女の子の部屋にノックなしで入ってきた父親のような目で見るんじゃないよ」
「店長ノックしないんですか? ちょっと引いちゃいます」
角村さんが俺の後ろに隠れた。
「ちょっと! 里見くんねぇ、前途有望なアルバイターに妙なこと吹き込むなよ。というかまた遅刻しただろ! 言ったよね! あと三回遅刻したら時給下げるorクビだって!」
「いいんですか店長。俺をクビにしたら角村さんも辞めることになりますよ」
「えっ」
「それでもいいと言うんですね」
「卑怯千万過ぎてぐうの音も出ないよ!」
というか角村さんの許可はとっていない。
「でも先輩がいなくなったら、私も本当に辞めちゃうかもしれませんね」
角村さんはえへへと笑った。なんだそれ。可愛いし嬉しいなオイ。
「まったく、お客さんがいなくてもやることはあるだろうに。ほら、仕事仕事」
店長はぶつぶつと呟きながらバックルームに入っていった。俺は椅子から立ち上がって体を伸ばす。
「先輩。お客さんがいない時はどんな仕事をすればいいんでしょう」
「そうだな……」
俺は、がらんとした店内を見回した。
有名な映画監督が昔アルバイトしていたというビデオ屋の名前にあやかってつけられた、ここ『オオアライ・ビーチ・ビデオ・アーカイブ』は個人経営のビデオ屋である。動画配信や大手レンタルビデオ屋の価格破壊攻勢の波にもみくちゃにされながらも、マニア受けするラインナップや、ビデオ以外にも書籍、フィギュア、ゲームやらでよく分からないがらくたを所狭しと並べて(その様はゲームショップがカードコーナーに占拠されていくようで一抹の悲しさを覚える)どうにかして閉店の憂き目から逃れている崖っぷちな、そして愛すべき俺のアルバイト先だ。客はまだ来ない。
「そろそろ次のバイト先を考えた方がいいかもしれない」
「ええ、マジっすか……」
「角村さんは他にどんなアルバイトがしたかった?」
俺はファミレスとか喫茶店とかおしゃれ空間でにっこり爽やかスマイルで社会勉強のために……いや、自分を装うのはやめよう。はっきり言って可愛い子と仲良くなれるなら泥を啜ってもいい。尻を叩かれたり踏まれたりしても構わない(あれ? それってどっちがお金を払うんだ?)。
「特にこだわりはないですよ。ここって通いやすい場所ですし、時給はそんなよくないですけど、いつ覗いてもお客さんがいないので暇そうだなって」
「映画好きだからここにしたのかと思った」
「もちろんそれもありますけど、決め手はアレでしたね」
角村さんは、映画コーナーの一角をじっと見据えた。
「『店長のおすすめ』ってコーナーがあるじゃないですか。ここの店だけじゃなくって、店員のおすすめ映画って手書きのPOPが飾ってある感じの」
「ああ、あるある」
ちなみにうちの店長のおすすめは古い映画がほとんどだ。白黒だったり、無声だったりの。
「私、某所のアレが納得いかなくって。だってCMでバンバン宣伝してるようなのを普通紹介します? 今更感満載じゃないですか。だから、ああいうのを自分でもやってみたいんです」
「おおー、いいじゃん。じゃあ今から店長のおすすめコーナー片づけて乗っ取ろう」
「ええ、怒られちゃいますよ」
「ああいうのは肩書が大事なんだよ。角村さんには現役高校生という、イコラ○ザーの主人公並みに無敵な要素があるんだからさ。うらぶれた中年男がおすすめしてても誰も観ないだろ。でも女子高生にすすめられると世の男性もおっ、そうかって気になるんだって。これは店のためにもなるんだよ。ぜぜこさえ入れば店長だって嬉しいに決まってるよ」
「先輩、目がぐるぐるしてますよ」
コーナーはおいおい侵食していくこととなった。角村さんは恥ずかしがっているのか、それとも自分に自信がないのか、今はまだ動く時ではないと話題を変えたがっていた。
「じゃあ、ちょっと俺のことをお兄ちゃんと呼んでみてくれ」
「何が『じゃあ』なんでしょうか……パルプフィクショ○みたいに時系列飛んでませんよね?」
「飛んでない。角村さんは兄弟とかいないの?」
「あ、私一人っ子なんです」
俺も俺も―。勝手な親近感を覚えていると、角村さんがあっちを向いて咳払いした。
「お、お兄ちゃん」
「いらっしゃいませー」
お客さんに挨拶する俺。
「なんなんですか!」
「ええっ」
顔を真っ赤にした角村さんに詰問される俺。
エプロンの端っこを掴まれて肩をばしばしと叩かれる。
「せっかくリクエストに応えたのに。酷いですよ」
「え、マジ。いつ?」
うああああ最悪だ聞き逃した。まさか自分が難聴系ラブコメ主人公みたいな真似をしでかすとは思いもよらなんだ。
「もっぺん。もう一回お願い」
「ヤです」
ご機嫌斜めになった角村さんの気を反らすべく、また話題を変えることにした。
「JKとはコミュ力モンスターと聞く。聞きたいことがあるんだけどさ」
俺は、今日あった孝塚さん周りのことをボカして話した。俺だったらどうすればいいか分からない。
話を聞き終えた角村さんは難しそうな顔になる。
「あのー、私そんな友達多いわけじゃないんですけど。それでも何か言うとしたら、まあ、そういうもんですよねとしか」
「お、おう」
「人間に限らず、動物だって群れるし、派閥があるし、いじめだってするじゃないですか。知能がある生き物はそうするんです。面倒だなあ、嫌だなあって思ったら一人で生きていくしかないと思いますよ」
「俺はもっとこう、十代らしいあまあまでふわふわな答えを期待していた」
「先輩だって十代じゃないですか。……とはいえ、あっちこっちふらふらしてる人ってコウモリみたいで、あまりいい気はしないんじゃないですかね。スパイみたいで。ほら、インファナル・○フェア的な」
うーん。まあ、そうかも。
「その人がどうしてそういうことをしてるのか、その人にしか分からないと思いますけど、そんなことしてるってのはやっぱり、人と深く関わりたくないんですよ。同じところで同じ人とずっといたら深く仲良くなれますけど、深い溝ができちゃうこともありますし」
「広く浅くか」
「一番楽なやり方だと思いますよ」
孝塚さんのやり方というか、人との付き合い方は俺には真似できそうにない。それだけは確かだった。
<5>
アルバイトの帰りしな。俺は帰路の途中であるものを見つけた。前にも来たことのある公園のベンチで、一人きりで座っている孝塚さんの姿だ。
俺は悩んだ。孝塚さんは誰がどうどの角度から見ても落ち込んでいる。こういう時は慰めるのが普通だろう。しかし分からない。慰めるにしたってどうすればいいんだろう。火に油を注ぐことにもなりかねない。ここは東京砂漠よろしく見て見ぬふりをするのが都会人らしいやり方ではなかろうか。
「寒くない?」
そう思ったんだけど、体は勝手に動いていた。
俺が話しかけると、孝塚さんはゆっくりと顔を上げた。泣き顔ではなかったので少しホッとした。
「アルバイトお疲れ」
孝塚さんは俺に缶コーヒーを手渡した。色々聞きたいことはあったが、彼女は俺のストーカーである。俺のスケジュールをナチュラルに把握しているはずだ。その事実に思い至って大半の疑問は氷解した。
「……もしかして待ち伏せしてた、とか」
孝塚さんは顔を伏せた。それを答えとして受け取ろう。
もらったコーヒーを一口飲み、俺は何から聞くべきか悩んだ。
「あの漫画、ほら、前に言ってたやつ。アレ新刊出てたよ」
「え。ああ、アレね。うん、買った」
「面白かった?」
「……まあ、うん」
空気が重い。圧壊しそうだ。
この場から逃げ出したいが、孝塚さんはここで俺を待っていた。話したいことがあるに違いない。
「今日のことなんだけどさ。ほら、講義ん時。里見くん、私の前の方に座ってたじゃん」
うっ、やっぱりそのことか。
「だいたい聞こえてたでしょ」
「まあ、うん。聞こえちゃってた」
「だよね。……あのさ。どうすればいいのかな」
人付き合いのことを俺に聞くの? 孝塚さんはコミュ力で言えば俺の上位者にあたる存在じゃないか。どうやら相当参ってるみたいだな。
「よく分かんないけど、誘われてるんだったら断らずに遊びに行けばいいんじゃないの?」
「よく分かんないくせに適当なこと言わないでよ」
「えー……孝塚さんはどうしたいんだよ」
「分かんないから聞いてんじゃない」
「めんどくさ……そもそも、どうして遊びに行かないんだよ。俺をつけ回すくらい暇なんだろ」
「それは」
孝塚さんの表情が曇った。彼女は長い間黙り込んでいたが、俺が帰るそぶりを見せたら口を開いた。
「高校の時、部活に入ってたの。漫画クラブ」
えっ、いいな、楽しそう。
「そこね、男の子が多かったの。でも好きなものが同じだし、話してたら男も女もないんだなって。楽しかった」
「また自慢か」
「……楽しかったけど、その部活、なくなっちゃった」
「え、なんで?」
「私のせいなんだと思う」
はあ?
「二年に上がって、夏休みに入る前、同じ部活の男子に告白されたの。好きだって」
「へー、いいじゃん」
「断ったの。だって、その子のこと、そういう目で見てなかったし、みんな友達だって思ってたから」
「はあ。そりゃまた……」
俺は鈍い。というか、そういう経験に疎い。そんな俺でも何となく察しつつあった。
「二学期から、何だかみんなよそよそしくなってさ。部活辞める子も出てきて、廊下ですれ違っても『おう』って素通りしてくだけ。私に好きだって言ってくれた子も、他の男子から仲間外れにされるようになってさ。私もそう。部活の子だけじゃなくって、クラスの子にもなんか、妙な目で見られるようになった」
相槌を打つのにいっぱいいっぱいな俺。
「そんなつもりなかったのにサークラだって後ろ指差されてからかわれたの」
「サークラって?」
「サークルクラッシャー……男女関係引っ掻き回すやつ」
ああ。アレか。河○荘の渡辺さんみたいな人のことか。
「でもそんなつもりなかったんだろ」
「結果的にそうなったの。なんか。あの、自分で言うのアレだけど、私ってクラブの男子に人気あったみたいで。だから、私のせいなんだなって」
紅一点ってプレミアムだもんな。
「や、でもさ、別に孝塚さんのせいじゃないだろ。つーか男子高校生の頭ん中を勘違いしてるって。だいたい異性のことしか考えてないぞ。趣味が合う女子だろ。部活でいつも一緒にいたんだろうし、そら気にならない方がおかしいって」
「私は友達だと思ってた」
「そん時の男子からすりゃグリム童話みたいに残酷だと思うけどな」
月に手が届かなくてもなんとも思わないだろう。だけど目の前にあるのに手が届かないってなると、それはまた違ってくるよな。
「じゃあ私が悪いっての?」
孝塚さんは俺をねめつけた。たぶん、彼女が今睨んでいるのは俺だけじゃない。過去にあった出来事全部思い返しているんだろう。それだけ嫌な目に遭ったに違いない。
「孝塚さん」
「何」
「俺はその、まだ女の子と付き合ったことがない」
「でしょうね」
少しは否定しろ。
「……免疫がない。だから言えるんだけど、それって男にも非があるんじゃねえのって。ちょっと女の子に優しくされただけで舞い上がって勘違いして浮かれちゃってさ。その子は俺のことなんか単行本についてる帯みたいなもんだとしか思ってなくって」
「私は帯もとっとくわよ」
「茶々入れんなよう。ともかく、女子は何とも思ってないはずなのに男ってのはそうは捉えない。それって免疫がないからで、きっちりしてる男だって世の中にはいるじゃん」
「つまり……?」
孝塚さんだけが悪いってのは腑に落ちないってことだ。
「俺には友達が少ないけど、男女間で友情が成立するかどうかというのは有識者が日夜議論していることで、いまだ決着はついていないはずだ。結論を出すのは早い」
「あ。もしかしてフォローしてくれてんの?」
「そうだよ。悪いかよ」
「わ、悪くない悪くないって。その、ありがとう」
孝塚さんは顔を伏せながら言った。
なるほど。少し話が分かってきた。それで彼女は一つのグループに関わるのを避けていたんだな。自分のせいで、また高校の時と同じようなことが起こるんじゃないかって。
「けど大学の人たちはまた違うんじゃないの?」
「そうなんだけど、どうしても気が進まないんだもん」
「そもそも漫画クラブの時は女子が少ないから孝塚さんにも白羽の矢が立ったわけで、そういう環境じゃないならわざわざ孝塚さんを選ぶって人もいないとまでは言い切れないけど、その数はぐっと減るんじゃないかな」
「中山敦○の漫画みたいな展開で急に人を貶めるんじゃないわよ。慰められて次のページめくったら私顔面ぶん殴られてるじゃない」
「えっ、そんなつもりなかったんだけど」
「島育ち性質悪いなー」
人の故郷をバカにするなよ!
「とにかく、誘われてるうちが花だろ。一回遊びに行けばいいじゃんか。暇なんだろ」
「暇暇言わないでよ。私だって色々忙しいんだから」
「ストーカー行為で?」
「うっさいな。それだけじゃないっつーの」
ストーカーは否定してよ。もうやめてよ。
「忙しいって、何やってんの?」
孝塚さんは答えてくれなかったが、さすがに俺だって気づいていた。それは彼女の夢なのだろう。何せ、嫌な思いをしたにもかかわらずまだ引きずっているくらいなんだ。
漫画。
俺にとっては、俺を楽しませてくれる趣味のひとつでしかないが、孝塚さんにとってはまた違う意味を持つのだろう。
「はあ。めんどくさ」
それは俺の台詞でもある。
「よく分かんないけど、俺は孝塚さんの友達……の、つもりだからさ、話くらいなら聞くし、できる範囲なら協力するよ」
「はーい、男女間の友情は成立するんでしょうか」
「わっかんないけど、少なくとも俺は孝塚さんを友達だと思ってるよ。タイプじゃないし」
「ああ、そうですか」
励ましたつもりなのに、なぜだか睨まれてしまうのだった。
<6>
「女ってわかんねーよなー」
「中学生みたいなことを言うんだね、旦那さまは」
自室のベッドで寝転がっていると、金鞠がくすくすと微笑んだ。
「男はいつだって中学生だ」
「単純だね」
「世界ってのは単純に見てるくらいでちょうどいいんだよ」
俺にはややこし過ぎる。とてもじゃないがついていけねえ。まるで増え過ぎたバーチャルYouTuberみたいだ。富○葵ちゃんいい子だから好き。他者を貶めない笑いは人を幸福にさせる。みんなは誰が好きかな?
そういや金鞠って俺にしか見えないんだよな。俺以外の人が彼女をきちんと認識しているかどうか分からないし、ある意味金鞠だってVチューバーみたいなもんだよな。むしろそうなのかもしれない。芳流閣には俺の知らない未知のARだのVRなんかの技術や設備があって、俺はそれの被験者なんだ。やべえ企業のプロジェクトに、知らない間に巻き込まれている説。
「うーーーーん」
「悩んでいるところ悪いんだけどさ旦那さま。前から気になってたことがあるの」
「なあに」
「耳かきさせてよ」
俺は無言で財布に手を伸ばした。
「いくら?」
「お金なんか取らないよ。あたしがやりたいだけなんだから」
「マジ? どういう風の吹き回しなんだ? タダより高いものはないって言うぞ」
嬉しいが警戒もしている。事が済んだあと法外な代金を請求される恐れも……まあ、ないんだけど。
「痛くしないから平気だよ」
「うーん。でもなあ。耳かきはアレなんだよ」
お手伝いの梓さんに『坊ちゃまの耳を弄ってもいいのは私だけです。それ以外に触らせたら……さ、続きは反対側の耳が終わってからですよ』と言われている。そして俺は耳かきされると眠くなるので梓さんの話の続きを聞けたためしがない。
「えー、耳かきしたーい。採掘したーい。いいじゃない。ね、お兄ちゃん」
俺は力強く頷いた。魔法を使われてしまってはどうしようもない。
「いひひ、そう思ってさ、耳かきもとって……借りてきてたんだ」
「なあ。その耳かきって誰のか分かるか?」
「さあ?」
「それ大丈夫だよな?」
変な汁とかついてないよな?
不安だ。しかし金鞠は大丈夫だって安心しなよと俺をベッドに寝転がらせた。
「さ、どうぞ。あたしの太ももに頭乗せて。ん。ほら、旦那さま?」
「はい」
「よしよし。さーて、耳の中は……おぉ」
「な、なに」
「いや、やりがいがあるなって。旦那さま、自分で耳掃除しないの?」
そういや、こっちに来てからはあんまりやってなかったな。
「それじゃあ、外側からやるよ。痛くしないから大人しくしてて」
「はい」としか言えねえ。
「ん」
耳かき棒が俺の耳穴をかりかりとくすぐる。さりさり。ざりざり。ずりずり。
こそばゆい。でも嫌じゃない。耳かきの音と、金鞠の吐息以外に何も聞こえなくなってくる。……彼女は魔導書の精霊だ。確かそんなことを言っていた。でも、爪切りとか、耳かきとか、なんかそういうことは知ってるし、間違いなく経験があるんだろうな。
「旦那さまも少しは見栄えを気にした方がいいよ」
「俺には内面からあふれ出るかっこよさがあるから」
「結構、耳の中に汚れがたまってますけど」
う。
「あたしは嬉しいけどね。掃除は好きなんだ。汚いものを綺麗にするのって楽しいし」
「ナチュラルに俺を汚いもの扱いするな」
「ごめんごめん」
いひひと笑う金鞠。
「旦那さま」
「お、おお」
耳元で囁かれるとびっくりするな。
「魔導書のことなんだけどね。やっぱり、ちゃんと探したほうがいいと思うんだ。旦那さまは急がなくてもいいって言ってたし、よそ様に迷惑をかけたくないって言ったけどさ。でも、呪いを放っておいたらどうなるか分からないんだよ」
「まあ、そうだけど。でもさ、魔導書を見つけたって俺の呪いってのがなくなる保障だってないだろ」
「そんなことないよ。その魔導書の中身を読めば、呪いの解き方だって載ってるだろうし」
「でも、俺に呪いをかけた魔導書はページだって破いちゃったし、火事で燃えたんだぞ」
「この世に一冊しかないってこともないと思うよ」
「でも……」
金鞠の動きが止まった。耳かきの先端が穴の中に残ったまま。そうして彼女は顔を寄せてくる。じっと俺を見ている。
「奥もやるね」
「え」
「耳の奥。おっきいのが見えた。じっとしててね。下手に動くと鼓膜を傷つけちゃうから」
「分かった……」
耳かきは、さっきまでの乾いた、どこか優しい音ではなく、ぞりぞり、ごりごりと、奥深いところまで押し入ってきて穴の中を抉るような動きをしつつあった。それはそれで気持ちよくてどこか心地いい音なんだけど。
「……金鞠さん?」
「ん。何?」
「怒ってらっしゃる?」
「どうしてそう思うの?」
いや、そりゃ、俺が金鞠の言うことを聞かないからじゃないのか。
「ふーん。じゃあ、怒ってるのかもしれないね。でも、あたしは旦那さまの優しいというか、優柔不断なところも嫌いじゃないよ」
「えっ、俺って優柔不断なの?」
「草食系というか、悪食系というか」
そんなことないと思うんだけどなあ。
「んー、ふふ、いっぱい取れた。それじゃあ梵天使うね」
「ぼんてん? 何? ツボの名前? 秘孔突くの? 俺まだ死にたくない」
「そうじゃなくって、ほら、耳かきの先っぽについてる綿のこと。ふわふわのやつ」
金鞠は梵天とやらを俺の前にかざして見せた。
「へー、それ梵天って言うんだ」
「そう。はーい、ふわふわー」
「おー……」
毛が柔らかくて気持ちがいい。
「本当は、あんまり使わない方がいいらしいんだけどね。梵天で耳垢を奥に押し込んじゃうんだって」
「でも気持ちいいよな」
「ふふ、だよね。よい、しょ。じゃ、仕上げするね」
金鞠は俺の耳に優しく息を吹きかけた。温かなそれが耳からつま先まで伝わるような気がして、ぞわぞわと鳥肌が立ちそうな感覚になる。
「あはは、旦那さま、魚みたいに跳ねてたね」
「や、だってびっくりするだろ」
「反対側もするから、はい、ごろんって転がって」
俺は金鞠の方を向いたが、壁の方へと向きを変えられてしまった。
「あれぐらいの力加減でよかった? もう少し弱くした方がいい?」
「ちょうどよかった。上手いんだな、耳かき」
「ありがと。眠くなってきた?」
少し。
「もうご飯もお風呂も済んだでしょ。そのまま寝ちゃってもいいからね」
「睡魔を具現化したら金鞠になるんだなあ」
金鞠はまた耳の外側から掃除を始めた。こやつ手慣れておる。できておる喃。やべえ超眠くなってきた。お手伝いの梓さんより上手いかもしれない。
「ね、旦那さま。考えておいてね」
「ん……魔導書のことか」
「それもそうだけど。旦那さま自身のこと。本当に、何が起こっても知らないからね」
考えたいけどとにかく眠たくてしようがない。俺は目を瞑った。金鞠は仕方ないなあという風に笑っていた。
<7>
それから何日か経った後、事件……事件と呼べるかどうかは怪しいが、ひと騒動が起きた。
「火事だ!」
草木も寝静まるような時間、誰かが叫んだ(らしい)。マンションの住人がどやどやと起き出すと、また誰かが叫んだ(そうだ)。煙が出ている、と。火災報知器が鳴り響き、そのあたりで俺もようやく目が覚めた。というか金鞠に起こされた。
「旦那さま、起きて」
「んん……?」
「外がうるさい。何かあったのかもしれないよ」
こんな時間だというのにずいぶんと騒がしい。俺は事態を把握すべく部屋の外に出た。八階フロアには誰もいない。犬飼さんの部屋も確認してみたが、彼女は不在のようだった。
階段を下りてみると、七階フロアの住人の皆さんがあわあわとしているのが見えた。事情を聴くと火事だそうで、その時、窓の外からもうもうと煙が立ち上っているのも見えた。これはいけない。俺のトラウマスイッチが『ポチっとな』されそうである。慌てて自分の部屋に戻った。
「脱出だ!」
「何があったの?」
金鞠は窓を開けて外を覗き込んでいた。
「火事だってさ。煙も見えた」
「……言わんこっちゃない」
じっとりとした目つきで俺を見る金鞠。
「もしかして魔導書の呪いとでも言いたいのか」
「二度も火事に遭うなんて何かに呪われてるとしか思えないじゃないか。しかも一年も経ってないうちにだよ」
い、今はその話はよせ。マジで怖くなってくるだろ。
俺は携帯と財布と、鞄の中に適当なものを突っ込んだ。ふと、金鞠はどうするんだろうと気になった。
「お前、マンションの外にも出られるよな?」
「地縛霊じゃないんだし、ある程度なら平気だと思うよ」
「よし、行くぞ」
「うーん」
しかし金鞠はすぐに動こうとしない。
「どうしたんだよ!」
「や、本当に火事なのかなって。だってさ」
「いいから来いって」
俺は金鞠の手をひっつかんで部屋を出た。そうして住人たちでごった返す階段を下りる。エントランスには手荷物を持った人たちがたくさんいた。その中に、非常に取り乱した様子で喚いているやつがいた。ハマーだ。
「倉庫だ! まだ倉庫に俺の宝があるんだ! こうしちゃいられない!」
ハマーはそう叫んで、俺の傍をばたばたと走り抜けていく。
「もーっ! 勝手に動かないでくださいよう!」
点呼を取っていたらしい管理人さんの姿が見えた。俺は彼女に近づき、火事なんですかと尋ねた。
「報知器が鳴ってますし、恐らくは。まだ火元が分からないんですけど……」
「煙は見えましたよ」
「ですよね……はあ。どうしよう。私の管理能力が問われるのでは……」
「それより、みんな避難できたんですか?」
「あっ、それが」
どうやら、まだ何人かの姿が確認できていないらしい。
「孝塚さんもまだ部屋にいるみたいで」
「手分けして様子を見に行った方がいいんじゃ……よかったら俺が行ってきましょうか」
管理人さんは点呼だとかで手が離せないだろうし。
「お願いできますか。二〇一号室が孝塚さんです」
二階って、すぐ上じゃないか。まさかこの騒ぎが聞こえていないってこともないだろうし。……まさか、そこが火元じゃないだろうな。俺は金鞠に『ここで待っているように』と目で合図し、孝塚さんの部屋へ向かった。
階段を上がると、二階フロアには人気がなかった。二〇一号室のドアの前にはすぐに辿り着く。声をかけようとしたが、物音が聞こえてくる。俺は彼女の名を叫んだ。すると、
「ちょ、ちょっと待って!」
という返事が。よかった。とりあえず無事のようだ。
「ドア開けて!」
「え? い、いいの?」
「いいから開けて!」
孝塚さんに急かされて、俺はドアを開いた。彼女は寝間着のままリュックサックを背負い、段ボール箱を抱えている。実に重たそうだ。そんなの持ってたら走れないだろうに。あ、いや、こういう時は走っちゃダメなのか。押さないかけない喋らないだっけ。
俺は孝塚さんが抱えている段ボール箱に手を伸ばした。
「貸して!」
「だっ、ちょっと! やめてっ、返しなさいよ!」
「あとで返すから! 早く下に!」
「でも……」
「でもじゃねえよ!」
命より大切なものなんてそうそうないだろ!
俺は半ば強引に段ボール箱を奪った。つーか重い! 何が入ってんだ!?
「うおおおお火事場のクソ力じゃーい!」
廊下を競歩で進み、階段に差し掛かった。よちよちと段を下り、エントランスでみんなが集まっているのを認めたところで、
「俺のっ、俺の宝がーっ!」
「あぶな……!」
俺の背中にえげつない衝撃が伝わった。ハマーだった。彼が後ろからぶつかってきたのである。こいつもまた倉庫から持ち出してきたであろう段ボールを抱えていたのだ。
「うっ、おおおおおお!?」
足を踏み外しそうになるも前のめりにつんのめって爪先に力を込める。
「里見くん!」
駄目だ。堪えられん。
俺は見事に転んだ。心に愛があっても転ぶ時は転ぶ。「ぎゃああああああ」と一足先にハマーが階段を転がり落ちていくのが見えた。次は俺の番だ。せめて孝塚さんの荷物だけでも守ってやりたかったが、無理。悲鳴が聞こえた。
宙を舞う。
舞う、段ボール箱の中身。ばさばさと羽ばたく。
「……?」
俺はひっくり返りながら、孝塚さんの段ボール箱の中身を見上げていた。
それは本だった。箱の中にぎっしりと詰まっていた本が飛び出して、エントランス一帯にばらばらと散らばった。そして俺はせめてもの復讐とばかりに倒れているハマーの背中を踏んでから受け身を取った。
だが、誰も俺とハマーには気を払っていなかった。何となく。そう、何となくである。この場にいた人たちは、自分の足元に落下した本を何となく拾い上げた。孝塚さんが止めるのも聞かず、表紙を眺めて、ページを開いた。きゅい。イルカの鳴き声のような、とてつもなく高い声の悲鳴がエントランスに響き渡った。それは火災報知機の音を掻き消すほどだったという。
「同人誌だ」
俺に背中を踏まれた状態で、ハマーは本をぺらぺらとめくっていた。こんな状況であっても本が気になるのはオタクのサガか。
「だが、見たことも聞いたこともないサークルだな。作者名も……知らん。しかも一次創作だし、結構ページ数多いなこれ」
同人誌?
それが、孝塚さんの持っていた段ボール箱から出てきた。しかも、よく見ると同じものが何冊も。というか、全部同じだ。箱の中身は全て同一の同人誌。
俺は踊り場で顔を真っ赤にしている彼女の様子を確認する。……これはアレか。ここの同人サークルが死ぬほど好きで同じの何十冊も買ったんすよねってリアクションじゃないよな。これアレだな。うん。
エントランスにいた人たちが、ほぼ一斉に孝塚さんを見上げた。彼女はその視線に晒されていたが、耐えきれなくなったのか、何事かを叫んで階段を上がる。逃げた。逃げたのだ。
「ちょっと!? 何やってるんですか!」
「孝塚さん!」
俺は後を追いかけた。すぐに追いつく。というか、孝塚さんは二階の廊下の窓を開けて、そこから身を乗り出そうとしていた。
「何やってんの……?」
「来ないで! 来たら死ぬ! こっから飛び降りる!」
えー。
「死ぬって、なんで」
「みっ、見られた! 見られたの! 全部! 私のっ、私のが!」
「やっぱり。あの同人誌、孝塚さんが描いたやつだったのか」
「も、もう無理。むりぃぃい」
だから、あんな大事そうにしていたんだな。
騒ぎを聞きつけて管理人さんたちも様子を見にやってきた。
「どうなってるんですか、これは」
「ちょっ、なんでそんな大勢で……来るなっ、来るなあ!」
孝塚さんは腕をぶんぶんと振り回す。まあ、二階だし。落ちても死なないとは思うけど。危ないのは危ない。
「ちょっと信乃ちゃん、危ないから下りてきなよ」
「そうだぞ。信乃はヒーローじゃないんだから」
義川さんと忠山さんが説得を試みるが、孝塚さんは取り合わなかった。
「おい、どうなってるんだ」
「どうもこうも」
ハマーは背中をさすりながらやってきた。彼は孝塚さんの同人誌を持っていて、俺は彼から何となくそれを受け取った。
「要はアレだよ。同人誌描いてるのがバレて恥ずかしくて死にたいとか言ってるんだよ」
「ちょっとォ!」
孝塚さんが俺を指差す。
「人の葛藤とか、なんか、そういうごちゃごちゃしたのを『要は』って一言で言うな!」
「あ。なんか聞き覚えあるな。蒼天航路で誰かそんなん言ってなかった?」
「知らない! つーか読むな!」
「なんで」
俺はページをめくった。
「うわあああああ死んでやるうううううっううう!」
「おっ、落ち着いて! 落ち着いてください!」
管理人さんがあたふたしている。
「落ち着けるか!」
「とにかくほら、そこから降りてきなって。そんなとこから飛び降りたって死ねるわけないし、痛い思いするだけだと思うよ」
「あんた何冷静に言ってんの!? 元はと言えばあんたのせいじゃない!」
「え? 俺?」
「……分かってないんならもう黙ってた方がいいと思う」
義川さんどころか梯さんにも白い目を向けられる始末。
「死ぬもん! 絶対死ぬもん!」
「ちょ、ちょっと信乃。『もん』とか言うの痛いぞ」
「痛いって何なのー!?」
「まあ、確かに、痛い思いはもうしてるよな。だってさ、まさか大学ではあんな風にしてるのに、実は」
「うわあああああああああんん!」
「だからそれを言うのをやめろって言ってんの!」
「顔はやめて!?」
平手打ちされてその場に崩れ落ちる俺。
「とにかく落ち着かせるしかないよ」
軍師・梯が立案するも、どうやってバーサク状態の孝塚さんを落ち着かせろと言うのだろう。どうしようもない。しかし、何故か他のみんなはじっと俺を見ている。ええい。
「なあ、孝塚さん」
「……!」
孝塚さんは凄まじい目で俺を見る。
「なんで死のうとしてるんだ」
「なんでって……」
「そりゃ恥ずかしいからでしょ」と義川さんが言う。
本当にそうだろうか。
「孝塚さんは恥ずかしいことをしてるの?」
「えぁ……?」
孝塚さんの動きが止まった。
「こういうの……漫画を描くのって、誰かに見られて恥ずかしいって感じるようなことなのか?」
違うはずだ。
恥とかじゃない。
「これ、コミケに出したんだろ。こんないっぱい刷ってさ。段ボールに詰めてて。……恥ずかしいならわざわざ人様の目に触れるようなとこに持ってかないよ」
「だったら」
俺には、なんとなくだが分かる。孝塚さんは『諦めたい』と言っていた。彼女はきっと待っている。ずっと待っていたんだろう。
俺はその場に座り込んで、同人誌を読む。孝塚さんの描いたものをじっと見る。
「さ、里見さん。あの、座ってる場合では……早く逃げないとやばいんですよう。火事かもなんですよう。死人が出たら責任問題どころか」
「ちょっと大屋ちゃんは黙ってて」
「そんなあ!?」
孝塚さんの視線をばしばしと感じる。俺は漫画を読む。読む。読む。……結構長いな、これ。
「ふう」
読み終わった。
俺は立ち上がり、孝塚さんを見る。彼女は窓の外を見て、叫ぶようにして言った。
「悪い!? 漫画描いてて悪いですか! どうせ……! 馬鹿にしてるんでしょ。こんなの描いてる私をっ。つまんないし、下手くそだって!」
「ちょ、おい」
背中を突かれた。義川さんは俺をねめつけながら小声で言う。
「分かってるよね。余計なこと言わないで、大人しくさせちゃいなさいよ」
俺は小さく頷いた。
「別に悪くないよ」
「はぁ!?」
「絵が描けるのってすげーって思う。しかもほら、漫画にしちゃうのってさらにすげーって思うよ」
後ろにいる管理人さんたちがうんうんと頷いているのが分かった。
「嘘じゃない。すげーよ。俺はこういうのやったことないし、やりたくても絵が得意じゃないから、羨ましいなって」
孝塚さんはじっと俺を見て、俺の言葉を待っていた。
「つーか……本にしてるじゃん。しかもイベント参加してんじゃん。俺だってそういうのやりたいけど、やっぱ心のどっかで俺には無理だなって諦めもあんだよ。まあ、やったことねーから何とも言えないけど。だから、その時点ですごいんだって。完成させて、本にさせた時点ですごいんだ。悪い? なんて聞くなよ。そんなん言われたらちょっと羨ましくてムカつくぐらいだし」
「ご、ごめん……?」
「謝んなよ。孝塚さんは何も悪いことしてないし、変なこともしてない。自分の好きなことやってて何が悪いんだよ。それで文句を言ったり、笑ったりするやつがいたら俺が、その、まあ、なんつーか……暴力に訴えかけるのはどうかと思うけど、その、出るとこ出るってなったら協力はするっていうか……」
「頼りない」
「ごめん」
「あ……あ、はは、そっか、そっか。ありがとうね里見くん。なんかまた私、頭かーってなっちゃって」
「いや、気にすんなって」
「うん。あ、そろそろ降りよっかな。ていうか火事だったっけ? やばくない?」
孝塚さんは正気に返ったのか、騒いでいた自分が恥ずかしくなったのか、まだ顔を赤くしたままだった。
「まあ孝塚さんの漫画、やばいくらいつまらなかったけどな」
俺は言った。