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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

遠い彼女

作者: 七尾 朗

 彼女と出会ったのは、中学三年三月の、ある月曜日のことだった。

 長雨が続く午後六時半。二年間お世話になった学習塾の、最後の授業を終えた帰り道。

 貨物線のガード下で傘を閉じ、体に付いた水滴を軽くはらい、それから奥に目を向けた時、通路の真ん中くらいの場所に彼女はいた。

 ところどころ蛍光灯が切れかかっていて、薄暗い空間に僕と彼女、二人だけ。

 彼女は落書きだらけの壁に白いブラウスの背中でもたれ、フレアスカートが地面で汚れるのもお構いなしに座っていた。その両手には、深い青色のカバーが掛けられた一冊の文庫本。

 僕はそのまま足を進める。彼女の手前、数歩ほどの場所まで進む。

 普段ならば通過してしまうそこを、その日僕は立ち止まった。

 何もせずにただそのままでいると、先に彼女が口を開いた。

「何見てるの?」

 発音ははっきりしていた。だが耳を澄まさないと聞き逃してしまいそうなほど小さな声だった。

 その目は僕に向けられておらず、本に落とされたまま。

 至極まっとうな質問だった。しかし、僕は首を捻った。明瞭な回答が出てこない。奇妙な話ではあるが、自分自身のことなのに、僕が何を見ているのか分からなかったのだ。

 僕の目は彼女の方に向いている。果たして僕が見ていたのは、本当に彼女だったのだろうか。

 それに一応の答えを出すとしたら、見ていなかったわけではないが、彼女だけを見ていたわけでもない、となるだろう。彼女の手にある本も見ていたし、落書きだらけの壁も、白く汚れた黒いスカートも見ていた。

 だから僕はそれらすべてをまとめて、「風景を見ています」と答えた。

「風景?」

 そう、風景。

 もう冬とは言えないが、依然として少し肌寒い空気、時折頭上を通過する貨物列車のけたたましい音。耳に残る車輪の上げる鳴き声。少し物憂げな表情を映した、うつむいた横顔。

 絵でもなく写真でもなく、また音楽でもない。五感で感じるもの。それは風景だった。

「ふふ。君、面白いね」

 そうだろうか。当の本人に自覚は無いのだけれど。どちらかと言えば、無個性で雑多な周囲に埋没してしまうタイプだと自認している。実際、今まで面白いと言われたことはなかった。

「芸術家にでもなれるかもよ」

 彼女は嘲るように笑い、しかし笑っている間も本に目を落とし続けた。

 もしかすると、彼女はその本など読んでいないのかもしれない。その証拠に、ページを一向にめくろうとしていない。

 本を読んでいないのなら、話しかけても大丈夫なはずだ。

「僕も一つ、質問していいですか?」

 それに応える声はなく、代わりに彼女の右手が僕に差し出された。同意のサインと受け取った僕は続ける。

「どうしてこんなところにいるんですか?」

 先ほどの彼女の質問と同じ、至極まっとうな質問だった。

「こんなところ、とは随分な言い方じゃない?このガード下だって、色々な人が汗水たらして作った場所なのよ?」

 僕の言い方を非難する彼女の言い方はとても嘘くさく、すぐに本心ではないとわかるようなものだった。

「でもそれは、僕に関係のないことですね。僕にとってここは、ただの面白味がない場所です」

 だからこそ僕も、思ってもいないことを返さなければいけなかったのだ。

 ある種の腹芸を交わすと、再び沈黙が訪れる。先にその沈黙を破ったのは、最初と同じように彼女の方だった。今迄よりも輪をかけて小さくなった声に、僕は意識を集中する。

「失恋した女が、思うままに行動しているだけよ。『どうして』なんて聞かないで。意味を求めるものじゃないもの」

 ほう、と間の抜けた相槌を打ちそうになる。どうにか口の中でとどめた。代わりに体裁の整った、文章以上意味のある文章未満の文句を口にする。

「なるほど、そういうことですか。ご愁傷様です」

「露ほども思っていないくせに」

 そう言って彼女はまた笑った。淡い笑み。笑い上戸なのかもしれない。

 そろそろお暇させていただきます。

 僕は彼女にそう言って、再び歩き始めた。ガード下を抜ける寸前、後ろから

 話しかけてくれて、ありがとう。

 と言われた。

 僕はそちらを見ずに軽く右手を上げ、その場を去った。カッコつけたかったわけではないのだが、結果的にはそのように見られても仕方ないだろうと気付くのは、僕が家に帰ってからだ。


 僕が去った後、彼女は文庫本のページをめくった。

 そのことを、僕は知らない。


***


 この出来事のあと、僕は偶然にも、再び彼女を見ることになる。

 一か月ほど経ち、僕が進学した高校の入学式でのことだ。在校生代表・霧島夏美生徒会長と呼ばれた彼女は、堂々とした歩き方でステージに上り、完璧に祝辞の言葉を述べ上げた。

 僕は最初、それがガード下の彼女だとは気づかなかった。チクチクとした違和感が疑念に変わったのは、その日の夜、ベッドに潜ったときだった。聞き覚えがあると思っていた声と、三月の記憶が結びついたのだ。

 その時は思い違いだろうと思っていたのだが、それが決定的な確信へと変わるのは五月の終わりまで待たないといけない。


***


 進学してから初めてとなる中間試験が終わり、校内は試験勉強からの解放感とテスト返しの結果から来る陰鬱とした雰囲気が混ざって、奇怪でサイケデリックなマーブル模様を作り上げていた。

 僕はと言えば、可もなく不可もない点数を取って、まずまずの滑り出しを迎えられたことにひとまず胸をなでおろしていた。

友達もろくに作らず文芸部室にこもる僕に、テストの点数で一喜一憂するような青春はやってこないのだという啓示だったのだろう。

 時代から取り残されたままの木造の旧校舎は、窓を閉め切っていても時折隙間風が通り抜ける。

 何の因果かは自分でも知らないが、中学時代帰宅部を貫いてきた僕は文芸部に入部した。

 特に決まった活動をするわけでもなく、そのとき各々がやりたいことをすればいいというこの部の方針は、部活動として成り立っていない感じは否めない。だが、この方が僕の性に合っていると思っているし、もう一人の女生徒もそれを望んでいるのだ。

 僕から見て部室の対角線上に座っている彼女は、文芸部部長の三年生である。牧村先輩という。

 ただ座っているわけではなく、膝の上には大判の本が置かれていて、校庭から聞こえるバットの甲高い打撃音や細々とした隙間風に混じって、時折ページをめくる音が聞こえる。

 二人のほかに誰もいない空間。

 しかし、文字が想起させるほどの熱っぽさは、そこにはない。

 先輩の手で綺麗に掃除された部室は空気中に漂う埃すらなく、まるで時間が止まっているようだった。


 しかし、不意に牧村先輩が「あっ」と小さな声を上げたことで、再び部室の中は動き出す。

 彼女は窓から外を見ていた。目線は下に向いている。

「どうかしましたか?」

 僕はそう言いつつ立ち上がり、窓際に近づく。

「あ、いえ……」

 僕が窓を閉めたまま下を見た時、彼女はどう説明しようかと迷っているようだった。

「友人が下にいたから」

「ああ、なるほど」

 取るに足らない、と判断した僕は、若干の落胆を覚えつつ元の場所に戻る。さて席に座ろうかと腰を下ろしかけた時、唐突に扉がノックされた。扉につけられたすりガラスの向こうに人影が見える。

 再び牧村先輩を見ると、何か諦めたような顔で「どうぞ」と言った。表情と裏腹に、その声は喜びをはらんでいるように聞こえた。

 扉が開かれる。風が抜けた。

「こんにちは優香、ひさしぶり。少しだけ話がしたくて来ちゃった」

 闖入者は扉の側にいた僕のことなど気にも留めず、牧村先輩の方へ歩いていく。

 ブレザーの襟より長い、ストレートの黒髪が揺れる。透き通るような黒、真っ黒だった。

「椅子、使うね」

 そう言って彼女は、壁際に積み重ねられた椅子を一つ取る。その椅子は脚が少し曲がっていた。だが気にする素振りは全くないようで、そのまま座る。

 牧村先輩はというと、扉を開けた瞬間は感情が表に出たようにぱあっと明るくなったが、すぐに眉間を押さえて渋い顔になった。

 そばに座った闖入者の彼女に、諭すように話しかける。

「私と話がしたいってことは、また何かあったんでしょう」

「その通り。察しが良いね」

 先輩は、大きくため息をついた。

「あのね、話を聞くのはまあいいのだけれど、ここだとマズいでしょう」

「どうして?」

「ほら、彼いるし」

 そこで先輩は僕を手で示した。その動きにつられるように、黒髪が揺れる。

 彼女は僕の顔を見た。

 僕も彼女の顔を見た。

 お互いに、あっと声が漏れる。

 僕はあの時横顔しか見ていなかったが、それでも確信を持つことができた。この人は、二か月半前にガード下で少しばかり言葉を交わした、あの人だ。そして向こうも同じように、僕に気付いたようだった。

 向けられた双眸は、髪と同じく艶やかな黒色だった。以前は全く向けられることのなかった視線を受け、僕は妙な罪悪感と背徳感を覚えた。

「こんなところで再会することになるとはね、ガード下の君。久しぶり」

 『ガード下の君』なんて背中がむずがゆくなるようなことを言われても、あまり鼻につく感じがしないのが不思議だった。

「お久しぶりです、ガード下の貴女。心の傷は癒えましたか?」

「まあぼちぼち、といったところね」

 そう言って彼女は耳に髪をかける。その何気ない仕草はどこか扇情的で、僕は一瞬息を呑んだ。

 だが当の彼女はそんな僕など全く気にも留めず、まるで会話は終わったとでも言うように僕から視線を外した。

「別に聞かれて困る話ではないから、そのままここで話すわ」

「そう、なら良いけど」

 それを聞いた牧村先輩の表情が少し和らいだ気がするのは、多分本当に僕の気のせいだろう。


聞かれても困る話ではないとは言え、さすがに聞き耳を立てるのもどうかと思ったので、できるだけ話の内容を聞かないよう気を付けながら部屋の隅で本を読む。

 しかし、二人が歓談する声は気を付けていても耳に入ってきてしまう。内容があまり聞き取れないせいで、逆に想像力が働いてしまうのが空しい。

 二人は一体どういう関係なんだろうか。

 クラスメイトだろうか。

 ただの友人だろうか。

 昔馴染みの親友だろうか。

 それとも実は、特別な関係なのだろうか。

 ……。

 わからない。僕は彼女の事を、まったく知らないから。

 その事実は、否応なく疎外感を感じさせるに十分だった。

 だから二人の会話が終わったとき、僕は少し心が安らいだ。

 彼女が僕の前を歩いて、そのまま扉を開ける。

「ありがとう優香、また来るね」

「ええ、頑張ってね」

 彼女は牧村先輩へ満足そうに微笑むと、僕にも軽く手を振った。とっさに上手い反応が返せず、軽く頭を下げて会釈する。

 そして頭を上げた時、彼女はすでに退室していた。


 牧村先輩が、再びため息を漏らす。

「ふう、帰ったわね」

 安心と落胆が混ざったような、感情が分かりづらい一言だった。

 しかし、そういう僕もまた同じ気持ちだ。これ以上彼女が部室に居たら、いたたまれなくなって席を外していたかもしれない。

「何か用だったんですか?」

 質問をできたのも、多少の余裕ができたからだ。本人がいないなら、内容を聞くぐらいなら失礼に当たらないだろう。

「それがね」

 本当に聞かれても良い内容だったようで、牧村先輩も躊躇うことなく口を開く。

「あの子、手が足りないって嘆いてたわ。なんでも、執行部がいないせいで忙殺されてるとか」

「執行部?生徒会ですか?」

 僕がそう聞き返すと、牧村先輩は意外そうな顔をした。

「知らないの?」

 まるで一般常識だとでも言わんばかりに尋ねる。何のことだか全くわからなかったので、頷く。

「あの子、霧島夏美。生徒会長よ」

「生徒会長」

 なるほど。

 入学式以来感じていた違和感が、綺麗に解決した。

 僕が一人で納得しているのには構わず、牧村先輩は続ける。

「普通に挨拶してたから、二人とも知り合いだと思っちゃった」

「前に一度、少し話しただけですよ。自己紹介なんてする暇もなかったですし、高校生だとすら思ってませんでした」

「ははは、夏美、大人っぽいもんね」

 全くだ。てっきり大学生、もしくは若い社会人だとすら思っていた。

「ちなみにそれ、いつぐらいのこと?」

「確か、今年の三月くらいですね」

 そう言ったとき、牧村先輩の顔にさっと影がかかった。彼女は少し目を伏せたが、僕が訝しむより早く元通りの表情を取り戻す。

「そう」

 僕が三月に会ったとき、何かまずいことでもあったのだろうか。

 そう考えてから、僕はすぐに結論を導いた。ああ、失恋したんだった。先ほどの仲の良さから考えて、彼女、いや霧島先輩は牧村先輩に相談したのかもしれない。それなら納得がいく。

「まあ君も、暇だったら手伝ってあげて。放課後はいつも生徒会室にいるらしいから」

 そうは言われたが、多分行かないだろう。


***


 その日の部活はそれっきりで、彼女が来た後は何があるわけでもなく、いつも通り終了した。

 黙々と家路につく僕の頭の中に、三月のあの日の光景が蘇る。

 物憂げな表情をしている彼女。

 小さな白い手の中の文庫本。

 所々切れた蛍光灯。薄暗いガード下。

 あの風景を今でも鮮明に覚えている。あの薄灰色の風景に、僕は魅了されたのだ。足を止めたのは、その瞬間に目が釘付けになったから。

 だが、それはあくまで風景に魅了されただけ。単純に彼女に魅了されたわけでは、ないと思う。

 だがしかし、僕は彼女の事が気になるのもまた真実。彼女と話してみたいと思うのは、果たしてただの興味の産物なのだろうか。

 その時、ぽっと湧いた疑問を取り上げるみたいに、一際強く風が吹いた。五月の風は夏の到来を思わせるように少し温かったが、僕の意識を現実に引き戻すには十分すぎた。

「ふっ」

 自然と口元が歪む。目が下を向く。

 随分と彼女のことで考え込んでしまったようだ。僕は別になんともないのだけれど。本当に。なぜなら僕たちは何の関係もなく、それゆえこれからも関係ない。誰の目にも明らかな他人。

 お互いにほとんど知らないのに『ただの興味の産物なのだろうか』なんて、これじゃあまるでストーカーの考えじゃないか。他人についてあれこれと思索を巡らせるのは僕の悪癖だ。

 ふと、視線の先に書店の看板が見えた。気分転換に立ち読みでもしよう。

 そのまま書店に足を向ける。扉の前のセンサーが反応して、自動ドアが開く。

 流れ出してくる本特有の少し乾いた匂いに釣られるように、足を踏み入れる。どこを見ても本があることに少しばかりの満足感を覚えつつ、店内をうろうろする。

 中には何人かの客がいた。明日はどんな楽しいことが待ち受けているのだろうと心を躍らせている小学生から、日々の生活に疲れていそうな四十がらみのサラリーマンまで。そして僕も、そのるつぼに混じる。

 一通り周った後、元からそうプログラミングされていたかのように、ふらふらと小説の棚へと足を運ぶ。

 茶色、黄色、灰色、クリーム色、青色。背表紙の色は多岐にわたる。

 どの本も皆一様に、僕に背を向けていた。

 その背中に指先でついと触れ、そのままなぞる。

 そしてそれを引き抜き、彼の世界を読ませてもらう。

 たまたま引き抜いた本は、村上春樹の数ある小説の中の一つだった。主人公の心情に自分の心を溶け込ませると、たちまち僕の視界は変貌を遂げて、目の前にギリシャの海岸が広がった。

 しばらく、書店の床の感触を忘れていた。

 その間は多分、夏の太陽を受けてきらきらと輝く、地中海のさざなみを眺めていたように思える。


 店内の有線放送が落ち着いたピアノとバイオリンの曲から、最近流行りのポップミュージックへと変わったとき、僕は本を閉じた。妙にしらけた気分になったので、手に持った本を買って店を出た。

 この本を買うのは二度目だった。やれやれ、また本棚がきつくなってしまう。

 嘆息し、歩道橋の階段を上がる。

 たくさんの車が足元を抜けて行った。車の流れを横切るように、歩道橋を渡る。

 そうして反対側に辿り着いたとき、僕は自分の神経の昂りを感じた。

 彼女だ。

 息が詰まる。それを飲み込む。

 最初はやはり、艶やかな黒髪に目が行った

 次に、大きなモスグリーンのヘッドフォン。

 ブレザーの襟から覗くパーカーのフード。

 完璧ともいえるスカートの長さ。

 全てが揃っていた。揃いすぎていて、何も言うことができなかった。

 だから彼女が僕を見て会釈してくれたとき、同じように会釈を返せたのは紛れもない奇跡の産物だろう。

 彼女が横を通り過ぎてから、僕も再び歩き出す。

 先ほどまでの考えなど、簡単に吹き飛んでいた。生徒会に行こうと思った。


***


 生徒会室は校長室の脇にあった。校長室が職員室と隣接しているので、生徒会室前の廊下は必然的に先生の往来も激しい。

 生徒会室と書かれたプレートの前で、僕は立ち尽くしていた。どうにも入る勇気が出ない。いっそ、このまま立ち去ってしまおうかとも考えた。しかしそれは、ここまで足を運んだ僕自身に対して失礼な気がしたのだ。

 扉のノブを握って、いやいやノックが先だろうと手を放す。

 ノックの形に手を作って扉の前に持ってくるが、結局手首は動いてくれない。そうして僕は、何度目かも忘れるほど同じ動作を繰り返したように、手を下ろす。

 何故ノックができないのだろうか。

 憧れの人に自分から会うのが怖いのかもしれない。僕はときどきそういう、ローティーンの少女じみた感情になる時がある。そんな時は決まって、自分の状態を客観視しきっている時だ。自分、女々しいなあって思いながら、そういう感情にひたる。

 多分それは自己満足なんだろう。弱っている自分を見て、自分で自分を慈愛の目で見る。文字通り、究極の自慰だ。

 だがしかし、このままでは何も始まらないし終わらないのも事実。僕はこの右手裏拳を、生徒会室の扉に軽く当てる必要があるのだ。文藝部室に来た彼女がそうしたように。

 一度深呼吸をして、それから再び手を上げる。

 コンコン。

 ほら、やればできるじゃないか。

 そのまま立ち尽くしていると、鍵の回る音がした。扉が開く。

「はいどちら様……ってあれ」

「こんにちは」

 僕が軽く会釈をしてから顔を上げると、ドアを少し開けて出てきた彼女は少し驚いているようだった。

「どうしてここに?」

「先輩が人手不足を嘆いていると聞いて、何かお手伝いできることがあればと思いまして」

「なるほど?」

 彼女は軽く口角を上げる。目は笑っていない。当たり前と言えば当たり前だが、少し警戒されているようだった。

「まあとりあえず中に入ってよ」

「失礼します」

 彼女の手招きに従い、生徒会室に入る。

 あまり片付いているとは言えない場所だった。流石に地面には置かれていないが、机の上には整理されていない資料が山積みになっていた。

「ごめんね、散らかっているけど」

 少し意外だったが、人手不足が本当に深刻化しているのだと感じた。棚を見ても資料の山で、眩暈がしそうだった。

 適当なところに座ってくれと言われたので、近くの机から椅子を引き出して座る。彼女はノートパソコンのキーボードを少し打った後、それを閉じた。

「ご覧の通り人が居なくてね、片付けまで手が回らないんだ」

 困ったように笑う。

「近々何かあるんですか?」

「何もなくてもこれだから深刻なの。……ところで、手伝ってくれるっていうのは本当?」

 少し首を捻った。そこまで疑うほどの事なのだろうか。

「ええ、そのつもりですけど」

「そう……」

 彼女はそう言って、窓の外を眺めた。彼女が寄りかかっている背もたれが、ぎい、と鳴った。日の当たり方が変わり、彼女の顔に影ができる。緊張からか、目線が安定しなかった。

「どうして私を手伝おうと思ったの?」

 僕の方を少しも見ず、呟くように言った。ああ、あの時と同じだ、と僕は思った。僕の考えていることなど一切意識に入れず、ただ疑問をぶつけるだけ。時に冷酷に、残酷にもなり得る態度。研ぎ澄まされたナイフのように、僕を切り開いて中を確認しようとする人。まさにあの時の彼女に他ならなかった。

 だがしかし、質問の答えは見つからなかった。理由を明文化するには、僕の語彙力は低すぎたようだった。だから、適当に思いついたことを言う。

「強いて言うなら、一目惚れですかね」

「はい?一目惚れ?」

「ええ、一目惚れ」

 彼女は目を見開いた。右ストレートを警戒していたところで、左アッパーカットを喰らったような顔。悪くない。

 どうして一目惚れなんて単語が出てきたのかはわからないが、実際それは的確なように思えた。好きかどうかはわからないにしても、惚れているのは事実だ。

 そして、少しばかりの沈黙。

 開けられた窓から風が入って、机の上の資料がかさかさと音を立てた。

 彼女は何と答えようか迷っているようだった。

 僕は、彼女の言葉を待つつもりだった。

 不意に、ため息が聞こえた。僕のものではないから、それは彼女のものだ。

「君、名前は?」

 僕は自分の名前を答える。

「そう。知っていると思うけど、私は霧島夏美よ」

「ええ、知っています」

 彼女はそこでまた、ふっと笑う。僕に向き直り、右手を差し出した。

「とりあえず、これから一緒に生徒会の仕事をこなしてもらうわ。よろしくね」

 諦めたように、でも楽しそうな笑みだった。

 僕も笑う。どんな笑みになっているかは分からないにしても、笑う。

「よろしくお願いします」

 右手を取った。


***


 今まで、部活がない日は学校に残ることなどなかった。授業が終わったら即下校。そのまま直帰するか、寄り道するかはその日の気分次第。そういう不安定な生活を送っていたし、自分自身それを好いているように思えた。

 だが今現在七月七日、その考えは大きく覆っている。僕の放課後の居場所は生徒会室である。

 生徒会には副会長がいる。僕も彼とは顔を合わせることがあったが、それも極めて少ない頻度だ。生徒会の構造的に、会長と副会長は治めている部分が違うため、資料を取りに来るときしか生徒会室を訪れず、会計委員会室にこもっていると聞く。生徒会執行部は、彼女が生徒会長になってから一度も召集されていなかった。

 故に放課後の生徒会室は、一部の例外を除いて、僕と彼女の二人だけが支配する空間となっていた。

 二人とも黙々と仕事をこなし、休憩中に少しばかり話す。彼女の話はいつだって僕の心に深々と突き刺さる。僕はそれを体内でしっかりと消化する。そうしてお互いに満足したら、また仕事の続きを始めるのだ。

 最近はそういう放課後を過ごしていた。

 直帰を基軸に、時たま文芸部で時間を潰す放課後とどちらが良いかと問われると、難しいところだ。どちらにも良さがあるから、どちらとも言えない。

 ただし、今の現状に満足していることは確実である。


 期末試験明けである今日から、短縮授業が始まっている。授業は午前で終わり、その後は自由だった。

 僕はというと、昼食を取った後すぐに生徒会室へ向かう。これがルーティンになっているので、今更他の事をしようという気にもなれない。

 扉を開けると、そこには既に彼女がいた。

「こんにちは先輩」

「ええ、こんにちは。テストはどうだった?」

「まずまずといったところです」

「そうね、私もよ」

 このような会話も、最近はよくあることになっていた。

 実を言うと僕は最初、彼女のことをまともな会話ができる人だとは思っていなかった。数か月前の僕が見たら、かなり驚くに違いない。

 さて。仕事を始めよう。

 僕は席に着く。部屋の真ん中あたり、三つある事務机のうちの一つだ。

 一か月半前から比べるとだいぶ整理が進んだ方ではあるが、未だに資料の一部は机の上に置かれている。これは僕たちがサボっているわけではなく、棚が少なすぎて資料が入りきらないからだ。

 僕は引き出しの中から封筒を取り出した。同系列の高校の生徒会からの定期連絡のようなものだ。

 まずはこれを片付けることから始めよう。


 封筒整理を終え、次いで様々な部活からの申請書類に目を通し終えると、外はもう真っ暗になっていた。

 持っていた書類をトレイに戻し、一つ大きく伸びをしてから椅子から立ち上がる。軽く柔軟運動をすると、体の凝りも少し和らいだ。

 ふと窓際に目をやると、窓を背にして座っている彼女は、軽くうつむいていた。目が閉じられ、小さな寝息を立てている。その寝顔はとても可愛らしかった。いつもは凛とした表情を崩さないだけに、それは僕にとって新鮮なものだった。

 しかし、少しばかり眺めていると急に、自分が何かいけないことをしているような気がしてきた。気持ちよさそうに眠っているので起こすのは気が引けたが、下校時刻はとうに過ぎている。生徒会は例外が認められているとはいえ、そろそろ帰るべきだろう。

「先輩」

 僕はそう言って、彼女の肩を軽く揺する。

 起きない。もう少し強く揺する。

「先輩」

 顔が勢いよく跳ね上がり、強く息を吸い込む音が聞こえた。目が大きく見開かれ、それから元の大きさに戻っていく。僕を見て、それからいつもの凛とした表情を取り戻した。

「ごめん、寝ちゃってたみたいね」

 僕は笑顔を作る。

「ええ。そろそろ下校しましょう」

「そうね」

 僕らはいそいそと帰り支度を始めた。

 スクールバッグを持って昇降口へ行き、靴を履き替える。彼女の方が先に履き替えたようで、扉のところで僕を待っていた。

「すみません、お待たせしました」

「別に待ってないわ。行きましょう」

 そうして僕らは家路につく。家が近いので、帰り道もほぼ同じ。だから、必然的に一緒に帰ることになる。いつも通りの流れだ。

 いくつかの角を曲がり、この角を曲がれば駅というところまで来た。

 僕はいつも通り、右に折れようとした。

 しかしその時、彼女が僕の腕をつかんだ。

「先輩?」

 彼女はうつむいていた。前髪で表情が隠れて読み取れない。

「ねえ」

 一呼吸置く。

「少し、私と寄り道しない?」

 彼女はそう言った。

 勿論、二つ返事で了承した。意図はわからないにしても、魅力的な誘いであることには間違いなかった。

 そうして僕らは再び、夜の街を歩く。

 僕は無言、彼女も無言。口を開く者は誰もおらず、ただ遠くから聞こえる鳥の声だけが、おおよそこの空間で声と呼べるもののすべてだった。

 彼女は僕の腕を掴んだまま歩いている。傍から見ると連行されているようだ。

「先輩、掴まなくても逃げませんから、放してください」

「ああ、ごめん」

 放してくれた。自分から放すよう頼んだのだから仕方ないが、放されると少し寂しい気もした。

「どこへ向かってるんですか?」

「良いところよ」

「良いところ?」

「そう、良いところ」

 そこから、彼女は一言も話さなかった。僕が話を振っても頷くか首を振るか、もしくは無視だった。何か怒らせてしまったのかもしれないと思ったが、あいにく心当たりがない。仕方ないので僕も黙った。

 そうして着いたのは、歩いて十分ほどの所にある公園だった。その公園は高台の上に作られていて、少し急な階段を上ったところにあった。

「ここが『良いところ』ですか?」

「ええ。良いところでしょう?」

 確かに良いところではあるだろう。街よりも高いところにあるため、街全体を上から眺めることができる。それなりに発展している街なだけに、夜景はとても良いものだった。だがしかし、特筆して良いものというわけでもない。

 そうやって僕が転落防止フェンスに寄りかかっていると、今度は後頭部を両手で掴まれた。ぐいと引っ張られ、無理やり頭を上に向けさせられる。

「これならどう?」

「おお……」

 なるほど、確かにこれは良いものだろう。

 星、星、星。

 夏の午後八時過ぎ。僕らの頭上に広がる途方もなく広大な夜空には、本当にたくさんの星が映えていた。

「今日はほら、七夕だから」

 背中から彼女の声が聞こえる。

「星に願いを、ですか」

「ええ。ロマンチックでしょう?」

「悪くはないですね」

「そういう冷めてる言い方、前からちっとも全然変わらないわね」

 頭を掴まれたまま、後ろに引っ張られる。普通に歩くのとあまり変わらない速さだったから、足元を見られない僕は少し怖かった。

 だがしかし、すぐに解放された。後ろを見ると、木製のベンチが一つあった。彼女はすでに座っていて、隣の席を軽く叩いた。座れ、ということらしい。座った。

 そのまま星を見上げる。星を見る二人。夏のじっとりとして気持ち悪い空気も、今は空気を読んでどこかへ行っているようだった。天体観測にはもってこいの夜だ。

僕は見えないものを見ようとしているのか。覗き込む望遠鏡はないけれど。

「ねえ、君」

 彼女が呟く。

 今までの彼女の言葉はいつだってそう、呟きだった。会話と呼べるものなんてほとんどなかった。それがどうしてだろう、最近はなぜか、僕との会話が増えた。

「最初に生徒会に来た時、君がなんて言ったか覚えている?」

「手伝わせてください、でしたっけ」

「私、とぼける男は嫌いよ」

「すみません」

 無論覚えている。強いて言うなら一目惚れ、とこの口で言ったのだ。

「今だから言えるけどね、私あの時、君の手伝いは断ろうとしていたのよ」

「そうなんですか?」

「そう」

「どうして?」

「だって、面倒じゃない」

 少しだけ緩んでいた声に、鋭さが戻った気がした。

「私ね、身近に人を置くのがあまり好きじゃないの

「自分のことを他人に任せるのが嫌いなの。もし失敗した時、その原因が私にあるならそれは百パーセント私が悪い。疑いようもなくね

「でも、誰かに任せたことが失敗したとしたら、私はどうすればいいの?確かに直接的には失敗した人が悪い。でもそれと同時に、仕事を任せた私にも責任はあると思うの」

「そうなったら私は多分、相手を責めつつ自分を責める。でも、私にそんな器用なことはできないから、結局自分を責めることになるの

「そんなのって、面倒じゃない」

 途切れ途切れに語る。その通りだと思った。この世の中、何かと誰かの役に立ちたがる奴がいる。そして往々にして、そういう奴は何か失敗をする。誰かの役に立っていることが快感なのであって、本当に手伝いがしたいわけではないからだ。

 それなら全部自分でやってしまおうと思うのは、何も間違っていない。

「でも、それなら何故僕を追い返さなかったんですか?」

「そうね……」

 彼女は上げていた首を下げ、僕の方へ向き直った。にこりと笑う。意外と笑い上戸な彼女ではあるが見たことがない微笑だった。

「面と向かって『一目惚れ』なんて言ってくるものだから、面白い子だなと思ったのかもね」

 僕は頬をかいた。今更ながら、少し恥ずかしくなった。

「でも実際あれは一目惚れでした。先輩のいる風景、あれは最高だった」

「そう言ってくれると嬉しいよ」

 彼女はまだ僕の方を見ている。「何か?」

「あのね」

「はい」

「さっき言った通り、私は自分のことを他人に任せるのが嫌い

「でもそれと同じくらい、自分の事を他人に話すのも嫌いなの」

 それならどうして、と再び問おうとすると、彼女は僕の肩に頭を載せた。「でもね、」

「君や優香……君の部活の先輩は、私にとって他人とは思えないのよ。生き写しとまではいかなくても、自分とどこか似ているように感じる。そういうのってない?」

「わかりますよ。先輩方にシンパシーを感じるときもあります」

「でしょう。なら、私の言ってることもわかるよね?」

「大体は」

「良かった。世間的に見ると、私達って少数派の人たちだから、こうしてまとまって自衛しないといけないの。他人に救いを求める代わりにね」

 一呼吸。息を吸い込む音が右肩のあたりから聞こえた。

「そして私は、君にもそうであってほしい」

「僕ですか?」

 彼女が僕にこうあってほしいと言ったのは、これが初めてだった。

「ええ。最近、私は君に頼りっぱなしだもの。君も頼ってくれないと割に合わない」

「好きでやってるんですよ」

「それでも、よ」

「考えておきます」

「よろしくね。……少しこのままでいいかしら。最近疲れちゃってて」

「気が済むまで」

 それっきり、彼女は押し黙ってしまった。

 何度目かも分からない沈黙。車の音が、ひどく遠いものに感じる。星々も遠い。暗闇とベンチと多少の遊具だけがあるこの場所で、僕たちは二人きりだった。

 ロマンチックでしょう、という彼女の言葉が頭をよぎる。七夕の夜。誰の気配もない公園で、先輩と二人きり。確かにこの状況はロマンチックだろうと思った。

 そこまで考えてようやく、僕は彼女に対する認識が変わっていることに気付いた。

 凛とした表情や仕事をこなす細やかな手つき、可愛らしい寝顔を見てもなお、僕は今まで、彼女を異性としては見ていなかった。それはあくまで憧れであり、レオナルドダヴィンチの絵画の中に出てくる美しい人のような位置づけだった。それゆえ僕は病的なまでに彼女を盲信し、手足となってきた。

 それがどうだろう、彼女の息遣いをリアルに感じる今になって、僕はようやく彼女を異性として見始めたのだった。

「先輩って、綺麗ですね」

「うん?私、口説かれてる?」

「そうなのかもしれません」

 その言葉に、彼女は伏せていた顔を少し横に傾け、僕の顔を見る。少し冷ややかな目線。この目の時は、戸惑っている時だ。

「君は私が好きなのかな?」

「多分。でも確信が持てないんです」

「そういうことならね、多分それは好きなんだよ」

「そういうものですかね」

「うん、そういうものだよ」

 彼女は再び顔を伏せた。

 そう言われると、先ほどよりもさらにリアルに、彼女のことを異性と認識した。なるほど、これが恋愛感情なんだろう。

 僕は何の気なしに彼女を抱きしめた。腕の中で線の細い体は少し震えて、そのまま重心を傾けてくる。なるほど、とても落ち着く。

「なんかカップルみたいだね」

「そうですね」

「このまま付き合っちゃおうか。私も、君の事結構好きだな」

「嬉しいです」

「よろしく」

「ええ」

 やはり、その場には誰もいなかった。

 時間が止まったような気がした。


***


 夏休みと言えども、生徒会の活動はある。頻度は少なくなるにしても、彼女に会えるというのは嬉しいことだった。

「あ、そこの資料取ってもらえる?」

「これですね、どうぞ」

「ありがとう。助かるわ」

 何気ない会話とは言え、最初から比べると随分親しみがこもっているように感じる。その事実は、僕を満足させるのには十分な代物だった。

 クーラーが効いた生徒会室は、長時間の仕事に向いている。当座の課題は文化祭の書類をまとめること。これはなかなか量が多く、骨が折れる仕事だった。

 突然、彼女が席を立った。

「少し生徒指導部に行ってくるね。留守番よろしく」

「わかりました」

 ぱたり、と扉が閉まる。遠ざかっていく彼女の足音を聞きつつ、室内を見回す。そこはいつもと変わらず無機質な場所で、ただそれだけだった。彼女がいないだけで、この部屋は僕にとって無価値なものへと変貌してしまう。だがしかし、その事実がたまらなく嬉しかった。僕はまだ、当初の彼女を見失っていない。

 とはいえ一人を自覚するのはやはり寂しいので、黙々と仕事を片付けることにする。この仕事が終わったらどこか遊びにでも行こうと約束しているので、やる気を出さざるを得ないというものだろう。


 そうしてひたすら書類を見ながらキーボードを打つこと十数分。廊下から足音が近づいてくるのが分かった。彼女が帰って来たのかと思ったが、扉がノックされた。

「はい」

 若干の落胆を覚えつつ扉に近づく。生徒会長が生徒会室の扉をノックするわけもなく、結果的に別の人がやってきたと考えざるを得ない。生徒会顧問の先生だったら嫌だなあと思いつつドアノブを回すと、そこには意外な人がいた。

「あれ?牧村先輩どうしたんですか?」

 ノックをしたのは生徒会長の友人にして文芸部の部長、牧村優香先輩だった。

「やることもないから、夏美の手伝いでもしにいこうかと思ったんだけれど……留守かしら」

「ええ、少し用事があるそうで生徒指導室へ行きました」

「ああ、そう。とりあえず入ってもいい?外は暑くて」

「もちろんです」

 先輩は扉から一番近い席に座った。

「君、夏美と付き合い始めたんだって?」

 僕が仕事の続きを始めようとしたところ、そう問いかけられた。仕方ないのでパソコンをスリープに入れ、彼女に向き直る。

「ええ、七月から」

「そう、良かったわね」

「ありがとうございます……?」

 いまいち質問の意図が読めなかった。牧村先輩は、少なくとも僕相手にはこんな無駄な会話をする人ではない。

 そう訝しんでいると、彼女は少し目線を泳がせた。指がせわしなく動いている。何か迷っているように、眉を寄せていた。

「あのね、君に一応言っておきたいことがあるの」

 なんだろう。

「夏美と本気で付き合うって言うなら、相当の覚悟が必要だと思う。君にはそれがある?」

「何かあるとでも?」

 彼女は唾を飲んだ。なんとなく、唾と一緒に飲み込まれたものは、途方もなく重要なものに感じられた。

「今のあの子はね、少し傷ついてるの。だから、普通の子と付き合っていたらあり得ないようなことだって起きるかもしれないってこと。それを前にしたとき、君は受け入れられるの?ってこと」

 そう言って、区切りをつけるように一つため息をつく。しかし僕が困っているのをわかってくれたのか、彼女は続けて小さく、ごめんなさい、と言った。

「今言っても混乱させるだけよね。私が悪かったわ。

 とりあえず言いたいことは、夏美を大事にする気持ちを忘れないでってこと。そうは見えないかもしれないけど、あの子は割と脆いところあるから」

「心に留めておきます」

「うん。もしおざなりに扱うようなことがあったら」

 そこで先輩は、膝の上の手をきゅっと握りしめた。

「許さないわ」

 もし視線に質量があったら、間違いなく僕は死んでいたに違いない。それほどまでに真剣な眼差しだった。恐怖を覚える。最早僕は、何も返すことができなかった。藪をつついて蛇を出すようなことがあってはならない。

 それで彼女は満足したのか、膝の上に文庫本を取り出して読みはじめた。仕事を手伝うために来たのではないかとも考えたが、それを言っても仕方あるまい。

 僕は黙々と仕事をこなした。仲の悪い親戚の集まりのような雰囲気で、お世辞にも居心地がいいとは言えない空間だった。


「それじゃあ私はこれで」

「ありがとう優香、助かったわ」

 ぱたり。扉が閉まる。

 ふう。

 僕は安堵した。牧村先輩がいる間、一瞬たりとも気が抜けなかった。少しでも油断したら刺されてしまうような気さえした。だからこそ、帰ったときの解放感と脱力感は果てしないものだった。

 そんな僕の様子を気に掛けたかどうかはわからないが、

「ちょっと疲れたね、休憩しましょうか」

 そう言って彼女は部屋の隅のティーポットへと向かった。しかしその蓋を開けると、彼女は顔に手を当てた。

「ああ、お茶淹れるの忘れてた……」

「自販機で何か買ってきましょうか?」

「いいね。でも折角だし、二人で行きましょ」

 自販機が設置されている場所は、半屋外のようになっている。天井はあるが、壁は四方のうち一方にしかない。

 僕と彼女は二人してジョージアの無糖を買い、その場で開けていた。壁に寄りかかり、缶の中身をあおる。苦味と、少しばかりの酸味を帯びた液体が、長時間の作業とプレッシャーで疲弊した体に染み渡る。

 隣で同じようにコーヒーを飲んでいた彼女が、僕に体を預けてきた。体の左側に微かな重み。彼女はいつだって僕の左側にいた。それが彼女のこだわりらしい。

 背中に当たるコンクリートの壁がひんやりとしていて、彼女の体の暖かさを強調していた。

 こうして体を預けられるのは何度目だろうか。この前の七夕から一か月ほど経つ。最初は少しばかり緊張もしていたが、いつの間にか慣れてしまった。少し哀しいような気もするし、逆に嬉しいような気もする。人間の感情は一枚岩ではないのだ。

 だが逆に、未だ慣れないものもある。以前彼女がいる場所を風景と表現したように、独りでいる彼女は依然として遠い存在だった。そして、ポートレートにしてどこかに飾りたいと思うくらいには魅力を保っていた。

 近い彼女と、遠い彼女。まるで別人のようであったが、どちらとも好きだった。

 ふと左を見ると、彼女は缶を持った腕をだらりと下げ、ぼうっと前を見ていた。

 それを見た僕は、彼女にキスをしようと思った。そして、実際にした。何かの衝動に任せたわけではなく、高度に理性的な状態を保ったまま。

 対する彼女も、阿呆みたいな動揺などせずに、理性的に僕と唇を重ねていた。理性的接吻。お互いに目を瞑らなかったため、互いの目を覗きあう形になる。飲み込まれそうな黒。

 長いようで短い数秒間が過ぎ、僕は体を元の位置に戻す。

「生徒会長が校内で男子生徒とキスするなんて、風紀も乱れたものね」

 ぽつりとつぶやく。

「風紀なんてどこにあるんですか、鳥小屋の餌ですか?」

「もしかすると、私の内臓の中で消化されてるかも」

「鳥小屋の餌は人間用ですよ」

「人だって鳥頭な奴はいる」

「でも貴女は鳥じゃない」

「どうかしら。君の知らないところで鳴いてるかもよ」

 なんとも不毛な問答だった。だがしかし、十代の若者には必要な問答だった。

「そう言えば、牧村先輩が来た時、貴女の事で少し気がかりなことを言っていました」

「ふうん?」

 まるで知らない人の恋愛話を聞いたときのように、興味なさそうな声だった。

「貴女と付き合っているうちに、普通ならあり得ないことに直面するかもしれない、と」

「へえ」

 そう言って、彼女は数メートル先のゴミ箱へ缶を投げた。缶はゴミ箱のふちに当たり、甲高い音が鳴る。

「何か僕に隠していることでもあるんですか?」

「あるよ。でもね」

 落ちた缶を拾う。黒い表面に白い指が走り、そのままゴミ箱の底へと消えた。

「必ずしも全てをさらけ出した方が良いってわけではないでしょう。そんなのはただの露出狂。隠したいことは隠す。教えたいことは教える。それじゃあダメ?」

「いや全然。素晴らしいと思います」

「良い子ね。そういう聞き分けの良いところも好きよ」

 ゴミ箱から帰ってきた彼女は、僕の頭を掴んだ。そのまま再びキス。今度は舌を絡めた。

 コーヒーの残り香がする彼女の舌は少し冷たく、そして苦かった。


***


 その日から数えて三日後。僕は市内で比較的大規模な駅の近くにある喫茶店にいた。やはりというべきか、目の前にはフォークをケーキに落としている彼女。思えば、夏休み中に彼女と牧村先輩以外の学校の人と会っていない気がする。交友関係を少し見直した方がいいかもしれないと思った。

 文化祭関連の事務仕事も一段落ついたことで、約束通り遊ぼうということになった。世間の高校三年生は受験勉強に追われているころだろうが、彼女は早々と付属大学への推薦を獲得しており、すでに進路は安泰らしい。

 僕らは午前九時に最寄り駅で集合した後、この駅までやって来た。彼女から、服を買いに行くから一緒に見て回ってほしいと頼まれたのだ。デートという意味合いももちろんあるが、店員と違って似合うかどうかの率直な判断を下せるだろうという彼女の打算も含まれていたに違いない。

 だが結論から言うと、僕の服のセンスが役に立つことはなかった。

 もともと彼女自身、二つの中から一つを選ぶときにあまり熟考しないタイプである。ときどき迷うときもあるが、最終的に彼女は僕と全く同じ判断を下すのだ。

 だから僕は彼女の荷物持ちに甘んじて、服屋ごとに試着をして楽しむ彼女を眺めることに徹した。そしてそれは、実際面白かった。

「次は大きな店じゃなくて、古着屋をいくつか周ってみたいと思うの。いいかしら?」

 目の前のティラミスにフォークを差し込みながら、彼女は目をきらきらさせて言う。僕は勿論、と返した。

 服の話をするとき、彼女はいつになく子供っぽかった。僕は幼稚な人はあまり好きではないが、時々ギャップを見せるくらいなら、それはそれで悪くないと思う。

 会計は割り勘だった。これに関しては示し合わせることもなく、お互い暗黙の了解となっていた。一度だけ僕が払おうとしたときがあったのだが、『私だってお金くらい持ってる』という一言により一蹴された。

 彼女が行きたい古着屋は、メインストリートから少し離れた小道にあるという。小道という割には人通りもそれなりにあるが、繁華街というほどでもない。ちょうどいいところだ。

 その小道には、いろいろなものがあった。喫茶店、書店、古着屋、花屋。少し遠くにはラブホテルまで見える。様々なものが混ざり合っていて、独特な雰囲気を醸し出していた。彼女はここを歩くのが好きに違いないと思った。

「着いたわ。ここよ」

 これまた感じの良い古着屋だった。店名は『リヴァプール』。店名からして、店内の有線放送はビートルズで決まりだと勝手に思い込んでいたのだが、実際はそのようなことはなく、洋楽から邦楽まで様々な曲が流れていた。

 彼女はここでも自分自身で買いたい服を決め、レジへ持って行った。しかし、僕が今まで通り遠くからそれを眺めていると、彼女は僕に手招きした。

「どうかしましたか?」

 彼女が見ていたのは、コルクボードに掛けられた様々なアクセサリーだった。

「せっかくだし、ペアで何か一つ買わない?」

「良いですよ、どれにするんですか?」

 彼女は首を振った。

「二人で選ぼうと思ってたの」

 そういうことならば、と僕はコルクボードにもう一度目をやった。木や革など、茶色を基調としたものが多かった。僕好みだ。

 最終的に、木と紐でできたペンダントを買うことにした。木の部分は何やら特徴的な形になっている。店主いわく、マオリの伝承から引っ張って来たそうだ。どうも手作りの一品らしく、この世に二つしかないとのことだった。

 店を出た後、自分の首からさがっているペンダントを見る。比べる相手のいない優越感を感じた。


 その後は適当に街を散策して、そのままお開きとなった。一日中デートに費やしたのはそれが初めての事だったが、悪くないと思った。

 だがしかし、それは同時に、彼女との最後のデートになった。


***


 さらに次の日。

 その日は夏だというのに、いつになく涼しかった。

 午後四時半を回ったころ。生徒会も文芸部もなく、宿題も終わって暇を持て余していた。普段ならば本棚から一冊抜き出せば何時間でも潰せるものだが、残念なことに今読みたいと思えるような本はそこにはなかった。

 仕方ないのでどこか本があるところへ行こうと思った。普段ならば図書館か近くの古本屋に行くのが常だったが、僕は気まぐれに駅へと向かった。前日に行った駅へ、もう一度行こうと思ったのだ。

 そうして電車に揺られること数十分。昨日と同じ駅に降り立った。僕の足はふらふらと、例の小道へと向かっていった。

 何か変わっているところはないだろうかと目を凝らして探してみたが、昨日の今日ではやはりなにも変わっていなかった。なんてことはない、ただの暇潰しだ。

 むしろ変わっていたとしたら、僕がここへ来た意味は薄くなってしまうかもしれない。

 昨日の時点で僕は、この小道の書店の多さに目をつけていた。いつか時間のある時にまた来ようと、いくつか良さそうな書店を探していたのだ。流石に、次の日になるとは思っていなかったが。

 何はともあれ本漁りである。夏の昼は長い。良い暇潰しになりそうだと思った。


 そして四件目の古本屋を出た時、腕時計は八時前を指していた。

 流石に家に帰ろうと思い、気持ち早めに小道を歩く。随分と奥の方まで来てしまったようで、駅までは十数分かかるだろうな、と概算した。

 その途中、僕はラブホテルの前を通った。

 覗き見るつもりはなかったのだが、扉が開いていたせいで、中で部屋を選ぶパネルの前に立っている一組の男女が見えた。

 僕は通り過ぎようとしたが、そこで踏みとどまった。女の方に何か見覚えがあるような気がしたのだ。そして、僕が知っている女性の中でラブホテルに行きそうな年齢の人は二人しかいない。

 名状しがたい悪寒が走る。脳裏に、様々な声がフラッシュバックする。

『あり得ないようなことだって起きるかもしれない』

『受け入れられる?』

『どこかで鳴いているかもよ』


 数歩戻って、電信柱の陰から彼らを覗く。今度は確信犯だった。

 女の髪の長さは、確かに『彼女』に近かった。だがしかし、それだけだった。髪の長さだけで彼女を判別できるはずもない。他人の空似だって、もう少しまともな証拠が出てくる。

 僕は自らを笑い、そのまま帰ろうと思い電信柱の陰から出た。

 偶然その時、男女も動いた。中に入って行く。

 そして僕は見た。

 女の首に、特徴的な木製のペンダントがかかっていた。

 そしてそれは、僕の部屋の中にもある。

 店主いわく、手作りで世界に二つしかないと。

 残酷なことに、僕は前日の選択によって、自らの首を絞めてしまったのだ。

 声にならない叫びがこみあげてきて、口元を抑える。

 倒れ込んで服を噛む。

 体中が震えた。声帯もあらん限りの力で震えていた。

 噛み締めた歯の隙間から嗚咽が漏れ出る。

 僕は今、この場所で最も不幸な男だった。


***


 家に帰ってから、僕は自分の頬を何度もつねった。しかし、何度夢であってほしいと願っても、そこには痛みしか残らない。

 彼女の携帯に電話をかけても、『おかけになった電話番号は、電源が切れているか、電波の届かないところにあるため、かかりません』という無機質な女性の声が流れるだけだった。

「クソッ!」

携帯を床に投げつける。

 再び、今度ははっきりと牧村先輩の言葉が脳裏に浮かぶ。

『普通に付き合っていたらあり得ないようなことが起きるだろう』確かにそうだった。付き合い始めて一か月足らずで、恋人が他の男性とホテルに入って行く様子を見てしまうことは、普通に考えてあり得ない。

 僕は騙されていたのだろうか。

 それすら分からなかった。

 ついこの間まで、多少なりとも信頼関係を築けていたと自負していたのに。信頼関係を築けていたからこそ、彼女の隠し事にも目を瞑ったのだ。

 恐るべき裏切りだった。

 それから一時間ほどして、僕の携帯に着信があった。電話を取ることはできなかった。絶対に声が震えてしまうと思ったから。

 留守番メッセージの中で彼女は、まるで何もなかったかのように電話に出られなかったことを詫びた。何か話したいことがあるなら、急では無ければ明日の生徒会で聞く、と。どこまでもいつもの彼女と同じだった。

 どちらにせよ、明日の生徒会は行かねばなるまい。気が進まないが、事の真偽を本人に聞くまでは、決めつけることはしたくないと思った。ここまで来てもなお、僕は彼女を信じたいと思ったのだ。

 僕は、左肩に寄りかかってくる近くの彼女を、信じたいと思ったのだ。


 結局、その夜は一睡もできなかった。

「こんにちは。具合でも悪いの?顔真っ青よ」

 扉を開けた僕に対して、彼女が言ったのはそんなことだったように思える。あまりよく覚えていなかった。

 何も答えない僕を訝しむ視線を向けつつも、彼女はてきぱきと手を動かす。やはり絵になっているな、と僕はこんな時であるのにも関わらず感心してしまった。存外、僕の心はタフなのかもしれない。

 ひとまず荷物を降ろす。椅子に座る。パソコンを立ち上げる。そこまでがルーティンだから、今更どうこう出来ることではない。

 だがそこからはイレギュラーだ。

 僕は立ち上がり、彼女の机の前まで行く。彼女を見下ろす。位置的な優位を保っていないと、聞くこと自体が怖くなってしまいそうだったからだ。

「どうしたの?」

 僕は息を整える。吸って、吐いて。そしてもう一度吸う。

「昨日の夜八時ごろ、どこで、何をしていましたか」

 本当に短いフレーズだが、これを言うのに大変な労力を要した。

「刑事ドラマでも見たの?」

 そんな軽口には付き合わず、黙って彼女の反応をうかがう。彼女は呆れたような表情をしてから、少し思い出すような素振りをして、それからまるで何事もなかったかのように「家で勉強していたわ」と答えた。

「勉強するときは携帯の電源を落としてるの。さっきも謝ったけど、昨日は電話に出られなくてごめんなさい」

 その言葉を聞いたとき、僕は気を緩ませかけた。彼女の言葉に安堵し、昨日の不安に震えていた自分を笑い飛ばし、彼女に非礼をわびて仕事に戻ろうと思ってしまった。

 しかしそれは、楽な道だ。僕は今、茨の道を進む必要がある。

「昨日、僕は例の小道に居ました」

 その時彼女の表情がさっと曇ったのを、僕は見逃さなかった。やめてくれ、と叫びたかった。そこで反応が無ければ、彼女をシロとすることもできたのだ。

 しかし、もう遅い。

「あの小道の奥にあるラブホテル。その前を通ったとき、ちょうど一組の男女が中に入って行きました。そして女の方の首には、僕が貴女とペアで買ったはずのペンダントがかかっていた!」

 まくし立てるように言う。彼女の反駁を封じたかったのもあるし、一度でも息継ぎをしてしまえば、続きが言えなくなることが分かっていたからだ。

 彼女は押し黙って、僕の目を見上げていた。

「もう一度聞きます、正直に答えてください。昨日の夜八時ごろ、貴女はどこで何をしていたんですか」

 それが最後の一押しとなったようだった。

 彼女は目を閉じて、口をもごもごさせた。どんな笑い方をすればいいのか分からなかったに違いない。

 それから、いつになくはっきりした声で返答があった。

「君の見た通り。私は昨日の夜八時ごろ、そのホテルに入ったわ」

 それを聞いたとき、僕の頭の中には何の感情も浮かんでこなかった。ただただ、真っ白だった。

「ここで話すのは嫌。屋上へ行きましょう」


 長らく油を差していなのだろう、扉は大きい耳障りな音を立てて開いた。

「屋上って入れたんですね」

 ここまで移動する間に僕は、どうにか軽口を飛ばせるくらいまで正気を取り戻しつつあった。

 彼女は僕の後ろで扉を閉めた。

「いいえ、ルール上は生徒立ち入り禁止よ。ルール上はね」

「まあ、ルールってのは破るものです」

「その通り。わかってるじゃない」

「でも、破っちゃいけないルールもある」

 生ぬるい風が通り抜けた。彼女は何も言わない。ただ、頭を下げた。

「やめてください、僕は謝罪を求めているわけじゃない」

 そう言うと、彼女は頭を上げた。困ったような顔をしていた。どうしてだろう、困った顔をするのは僕の方なのに。

「あの人は誰ですか」

「私の、友達よ。そういう遠まわしな言い方が嫌いなら、セフレと呼んで構わないわ」

 彼女は悪びれなかった。本当に、悪いことをしていると思っていないのかもしれない。恋人がいる中でセフレと寝るのは、彼女の哲学に反していないのかもしれない。

 だが、僕の哲学には反していた。だから聞いてしまうのだ。

「どうして」

 と。

 彼女は僕を見据えてから、くるりと向きを変えて、僕に背を向けた。

「昔話をしてあげる」

 背中越しにもはっきり聞こえる声だった。


「あるところに、女の子が居ました」

「女の子は、平凡に恋をしました。相手は二つ上の男の人。女の子にとって、その男の人は憧れでした

「だから、女の子が勇気を振り絞ってその人に告白し、それが成功した時。女の子は天にも昇るような心地でした

「女の子は、その人と恋人になれることを嬉しく思いました。どこにデートに行こう、どうやったら好かれるだろう、どんな話をしよう。そんなことを考えていました

「でも

「現実は違いました

「女の子がその人に最初に連れていかれた場所は、その人の部屋でした

「何があったかは、言うに及ばず

「女の子は別れ際、痛みに耐えながらその男の人に聞きます

「『次はいつ会えますか?』

「そうして女の子は、どろどろと深い沼に落ちていきました

「女の子が望んだこと、デートやお話しなどは、数回に一回あるかどうか。他はすべて、男の人の部屋でする事でした

「女の子は疲れてしまいました

「そして、深い傷を負ったまま、その男の人と別れたのです」


 耳がいかれたのかと思った。彼女が一体何を話していたのか、理解に途方もない時間がかかった。そんな僕をちらりと見る彼女。

「この話には続きがあってね」

 驚くほど冷淡な声で、彼女は続ける。

「女の子はそれから、恋愛ってものがわからなくなってしまったのよ。いくら自分が純粋に好きだったとしても、相手は自分と寝たいだけかもしれない。そう考えると、とても人を好きになんてなれなかった。男の人って、そこらへんはどう区別してるのかしらね?」

 知るものか、と言いたかった。僕だって純粋に貴女のことが好きだ、と言いたかった。

 しかし、その言葉は今の彼女には届かない。

「だから女の子は、自分を好きだと言わない人と寝たの。そうすることで、男の人も性欲と恋愛を切り離して考えられるんだって、わかりたかったの。自分にそう刷り込みたかったの」

 彼女は極めて平坦に、彼女の哲学を僕に語った。

「本当に自業自得よ。騙されることを知らない方が愚かだった。それにもちろん、倫理的に許されないことだってのはわかっていたから、できるだけ見つからないようにしてたつもり。でも、見つかっちゃったならしょうがないわよね」

 そう言って彼女はまたくるりと半回転。両手を広げて芝居がかったポーズをする。彼女は笑っていた。今までと同じように笑っていた。

 違うところは、頬を涙が伝っているところだった。

「こんな仕打ちを君にしてしまって、本当に申し訳ないと思ってる。でもそう思うくらいには、私は君のことが好きだったんだと思う。それだけはわかっておいて、ほしい」

 僕の頭は、明らかに容量オーバーだった。こんな話、すぐに飲み込めるはずがない。だからこそ、

 わかりました。

 そう言うのが僕の精一杯だった。彼女は目から涙をこぼして、満足そうに笑いつづける。

「ありがとう、物分かりが良い子は好きだな。でもね、わかってるとは思うけど。これでおしまい。今の事はパートナーと分かち合うものじゃなくて、私の胸の中にしまっておくべきものだから」

「だから、だからね」

 彼女は涙を拭く。

「さよなら。楽しかったよ」

 そう言って、彼女は屋上を後にした。扉が大きく鳴いた。

 一旦回復したと思われた僕の精神は、しばらく再起不能なほど叩きのめされた。


***


 そう言えば、今日は文芸部の活動日でもあったはずだ。牧村先輩に謝らなければいけないと思った。僕は、彼女の訓戒を守ることができなかった。

 部室に入ると、牧村先輩が驚いたようにこちらを見た。

「どうしたの?生徒会は?」

 しかし、僕の様子を見て何かを察したようだった。僕は力なく笑う。

「振られちゃいました。先輩の助言をもらっていたのに、僕は『あり得ないこと』に耐えきれなかったんです」

「そう……座ったら?」

 僕は久しぶりに文芸部の椅子に座った。生徒会室のしっかりした椅子とは違い、教室にある椅子となんら変わりないものだった。

「君も失敗したんだね」

「はい……え?」

 僕の聞き間違いでなければ、牧村先輩は君『も』と言った。

「私も失敗したの。夏美を元に戻そうとしてね」

 先輩の話をまとめると、次の通りだった。

 牧村先輩と彼女は中学一年からの付き合いで、お互いに仲が良かった。親友と言って差し支えないほどに。

 高校一年のとき、彼女が高三の先輩と付き合い始めたと聞いて、牧村先輩は最初は祝福した。

 しかし、日に日に様子が変わっていく彼女の異変を察した牧村先輩は、彼女に話を聞く。

 そして、牧村先輩は彼女とその元彼氏を引き離そうと努力したのだが、予想以上に手ごわく、彼女が自分の意志で抜け出すまで、彼女を救い出すことができなかったのだという。

「自分の無力さを痛感したわ。結果、あれよあれよという間にあの子の闇はあそこまで深くなってしまったの」

 そう語る先輩の目には、諦めの色が浮かんでいた。

「結局ね、誰かのために行動したところで何も変わらないの。利害が一致しないと、何も変わらない。人は、互恵関係でしか変われない」

「だから、ここで彼女の相談に乗る役に徹するようになったと、そういうわけですね」

「ええそう、そうよ」

 彼女は俯く。よく見ると小刻みに震えていた。

「私は、親友がどんなに傷ついていても、それを癒すことができない。君も、好きな人の傷を癒すことが、できない」

 似た者同士だ、と思った。いつか彼女が言っていたように、僕らは少数派で、似た者同士だった。

「多分ね、あの子はまた、失敗する。そうやって一つ一つ学んでいくしか、あの子に道はない。だから、良かったら、君もここで夏美を待ってあげて。相談に乗ってあげて。そうすれば、あの子は笑っていられるから」

 僕はそれを、受け入れることにした。

苦しい。苦い。

舌にコーヒーの苦味が蘇る。酸味は感じられない。

 

***


 夏休み明け。生徒会長が全校生徒の前で挨拶する。その風景は、やはり素晴らしいものだった。

 そして僕は始業式が終わると文芸部室へ行く。いつも通り扉の近くの席に座り、牧村先輩と止まった時間を過ごす。

 そうして、窓際の先輩が「あっ」と声を漏らすのを待つのだ。

 廊下から足音が聞こえてきて、扉がノックされるのを待つ。

 コンコン

「どうぞ」

 そして扉が開く。部屋の中の時間が動き出す。

 彼女が部室に入ってくる。

「あのね優香、少し相談があって。君も一緒に聞いてくれる?」

 そうやって彼女の相談に乗る生活を、僕はしばらく続けることになるだろう。いつか、彼女が自力で闇から這い上がってくるまで、僕たちはここで待ち続ける。

 それが、僕たちのできる全てだった。


 遠い彼女・終


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