高3の俺は初めて反抗期を迎えた。
すぅ、と俺は深く息を吸い込んだ。
この襖の向こうに待ち構えているであろう大きな大きな壁に立ち向かう、その覚悟を決めるためにだ。
自分の手にじんわりと手汗が滲むのが分かる。
ああくそ、こんなに緊張したのは初めてだ。高校受験の時だってこんなに緊張しなかったのに。
心臓の刻む音が嫌に耳につくし、リビングにいる母が観ているテレビの音が嫌に遠くに聞こえる。
逃げたい、逃げたい凄く逃げたい。
でも、逃げたらもっと恐ろしいことになる。――それに、もう逃げ道なんてない。
パン!と自分の両頬を叩いて襖に手をかける。
なんかよくわからない龍的な何かの描かれたご立派な襖の先には、これまた何が書いてあるかわからないがご立派なことが書いてあることは分かる掛け軸をバックに、異様なまでの威圧感を放って鎮座している人物がいた。
このご時世にも関わらず和服に身を包み、風呂上りにも関わらず白髪の混じった黒髪をきっちりとなでつけオールバックにした神経質そうな初老の男。
名は蔵井輝幸。年齢は53。職業は警視長であり――俺の、実の父親。
「正宗」
地獄の底から響くような低音で名前を呼ばれ、俺は思わず「ひゃい!」と情けない声を上げつついそいそと襖を締め父さんの前に正座する。
18年ほどこの方の息子をやってきたが、まじで怖い。
そのお陰で俺は反抗期と言うものを一度も経験したことがない。中学生の頃に耳に穴をあけようとしたところを発見され、タコ殴りにされたこともある。
「な、なにか御用でしょうか!?」
「なにか、か。――このことに決まっているだろうッ!!!」
怒声と共に畳に父さんは平手を叩きつける。その手の下にあるのは――今日、高校で書いた進路希望調査。
そこには記入欄も何もかもぶち抜いて、二文字の漢字が書き殴られている。
『魔王』
――その二文字を見た時、渦巻いていた恐怖がすっと霧散した。
そうだ。こんなところで怖気づいている暇はない。
「高校のほうから連絡を受けてな……ッ!一体何なんだこのふざけた回答は!?父親として嘆かわしいこの上ない!!!そもそも――」
「父さん」
「なんだ、まだ話の途中だぞ」
「父さん、聞いてくれ。いや、こう言うべきだな」
こんなところで言い争いしている暇はない。
こんなところで躊躇っている時間はない。
なるべく手っ取り早く、目の前の男を説得しなければならない。
「――勇者テリィ。俺の、隻眼竜の王の話を聞いてくれ」
どう考えても痛いとしか言いようのない言葉だ。
普通ならば頭の心配をするなりふざけているのかと怒りを露にする。それなのに、父は、――何も言わなかった。
と言うよりも、何も言えないようだった。
さきほどまで吊り上がり憤怒を灯していた目は見開かれ、怒声を発していた口は中途半端に開かれたままその動きを止めている。
――――ここに来るまで、実に長かった。
ろくに目を見て話すことのなかった父親と、やっと面と向かって話すことになろうとは、少し前の俺ならば想像もできなかっただろう。
いや、これが初めてではない。
ここではない場所で父と俺は相対していた。
はるか遠く、異世界の地で――――。