9・栞 それはフライングだって!
新釈ピュグマリオン・9
『栞 それはフライングだって!』
神楽坂高校での打ち合わせは簡単に終わった。
偏差値56……まあまあの学校のようである。
校長は教員免許をコピーすると、必要な書類をくれた。学年末・学年始めのタイムスケジュール、校内の案内図、それから、お決まりの健康診断依頼書と学校の創立九十年誌。最後の九十年誌は、正直余計だ。一年契約の非常勤講師が学校の歴史を知っても仕方がないのだが、ありがたく頂いて嬉しそうにページをめくってしまうのが颯太だ。
「ざっと、校内見て回っていですか?」
「どうぞどうぞ。ただ美術室は、改装工事中で見ていただいても、様子はわかりませんが」
「いいんです。学校の雰囲気を感じておきたいだけですから」
颯太は、新しい学校に行くと、必ず一人で校内見学をやる。学校というのは、偏差値や校内案内図で分かるものではない。実際に校内を歩き、生徒や職員室の様子、廊下や教室の様子を見てみなければ分からないものである。
三年生は、卒業していなかったが、一二年生は午前中の授業を受けていた。
学年末考査も終わった法定授業日数をこなすだけの午前中授業、気の入らないのは当然。どこのクラスも半分前後が居眠り状態。ただ、破滅したようなクラスはなかったので、授業をやる分には問題なさそうである。
廊下の隅にホコリが毛玉のようになって溜まっている。生徒も教師もあまり気が入っていない証拠と見えた。
トイレは、まずまずの清潔さ。これは定期的に業者が入って清掃している様子。
職員室……学校の規模の割に狭い。大半の教師は準備室や、分掌の部屋に籠っている様子。事務的な会話以外聞こえない。教師同士の関係は希薄なようだ。教頭と目が合ったので、四月からくる美術の非常勤とだけ自己紹介。さすがに当たり前の挨拶はしてくれるが、他の教師は顔も上げない。
仕事はともかく、人間関係は希薄な教師集団のようだ。これで学校の秩序が維持できているんだから、生徒はまずまずなんだろう。非常勤、授業さえ穏便にできれば言うことはない。
とりあえず見るべきものは見た。
生徒の下校時間と重ならないように、颯太は校門を出た。
すると、一人の女生徒が校門を出てくるのと一緒になった。
一瞬目が合ったが、都心の交差点でたまたま並んだ程度の無関心さで、ほとんど空気のように無視された。こういう時は先に歩いてやった方がいい。後ろを歩いてはプレッシャーになる。
追い越しざま一瞬見えたその子は、顔色のわりに元気がなかった。学校に不適応な子なんだろう、できたら授業で会いたくない種類の生徒だ。微かにラベンダーの香りがした。
「やあ、また会っちゃったわね!」
帰り道、アパートまで半分くらいのところで、きっちりした清楚な女性に声をかけられた。
「あ、営業用の顔だから分かんないんだ。セラよ、お隣のセラ!」
「ああ、ぜんぜん分からなかった! あのジャージ姿と違うんだもん……案外ってか、清楚なんですね」
「ガールズバーじゃないからね。大人相手の静かめのクラブ。全員が、こうじゃないんだけどね、あたしって、こういうのが合ってるみたい。評判いいんだよ、これでも」
「いや、どうみても良家のお嬢さんですよ!」
「あ、お嬢さんてば、あんたとこの彼女挨拶に来てくれた。良さげな子だけど、着るものに、もうちょっとね……安物のアキバの印象」
「お嬢さんて……」
「もう、この期に及んでトボけんじゃないわよ。じゃあね、フウ君」
まるで女子大生然として、セラさんは駅に行ってしまった。
「うちのお嬢さん……まさか!」
颯太は、アパートまで駆け出した。で、ドアを開けると陽気な声が返ってきた。
「お帰りフウ君!」
「ただ今……」
と条件反射で応えて、あとは言葉が続かなかった。人形が、うっすらと開いた口から言葉を吐いた……と思ったら、颯太の着替えを持って近寄ってきた。
「顔描いてくれてありがとう、おかげで喋って動けるようになった。あ、あたし栞て言います。よろしくね」
関西訛のニコニコ顔。颯太は混乱を通り越して腹が立った。
「なんで、隣のセラさんのとこに行ったりするんだよ!」
「だって、お隣さんやもん。それに、あたしが居てるの気いついてはったし」
「それって、フライングだよ。ボクに断りも無く!」
そう言いながら、颯太は不思議だった。人形が動いて喋ることより、人形然とした栞が、セラさんには人間に見えたことが……。